帰宅途中の電車で、クソを漏らした。
理由は単純だ。
ただ、どうしても我慢ができなかっただけである。
用心して、何度もトイレで用を済ませたはずだった。
だが、私は過敏性腸症候群だ。
「トイレに行けない」と意識すればするほど、便意はどんどん強くなり、私を追い詰めていく。
そして、その日も──。
私は電車の中で、限界を迎えたのだ。
周囲にはすでに、汲み取り式便所のような強烈な臭いが漂っていた。
そのせいで、ぎゅうぎゅう詰めの車内だというのに、私の周囲だけ、ぽっかりと空間ができている。
少し離れた場所では、訝しげな顔をした乗客たちが鼻をつまんでいた。
いったい私は、どうすればよかったのだろうか。
「クソが漏れるぅー!」
そう叫びながら発狂し、電車の非常停止ボタンを押せばよかったとでもいうのだろうか。
いや、それではもっと大きな問題になる。
電車を止め、大勢の乗客の前で「今、クソを漏らしました!」などと宣言したところで、私の尊厳が守られるわけではない。
そう考えれば、私はここでクソを漏らす以外、選択肢などなかったのだ。
だが、罪悪感がないわけではない。
大勢の乗客が、この強烈な臭いのせいで気分を悪くしているのだ。
だからといって、今の私に何ができるというのだろう。
「すみませんでした! ……今、クソを漏らしたのは私なんです!」
そう告白して土下座したところで、さらなる混乱を招くだけだ。
何も知らない乗客たちまで真実を知り、車内はたちまちパニックに陥ってしまうだろう。
知らないふりをしていた方がいい──。
私は遠い目をしながら、電車の窓に映った自分の姿をぼんやりと眺めていた。
剥げた頭に、中肉中背の体。
くたびれたスーツ姿。
はたから見れば、どこにでもいる冴えないオッサンにしか見えないだろう。
しかし──。
私は、会社では重要なポストを任されている管理職だ。
部下だって何人もいる。
それに、若い頃はイケメンとして、ブイブイ言わせていた。
そんな私が、今では人前でクソを漏らすようになってしまったのだ。
便意があまりにも切迫するため、紙オムツを着けようと考えたこともある。
しかし、オムツをしたところで、この強烈な臭いを封じ込められるだろうか。
なにより、人のいるところで漏らすことに変わりはないのだ。
今は必死に気を張っているからこそ、これだけの量で済んでいる。
だが、オムツをしてしまえば、安心してしまう。
そうなれば、歯止めが利かなくなり、これだけのお漏らしでは済まない。
きっと大量のクソを、一気に漏らしてしまうだろう。
私はお尻に生暖かさを感じながら、そんなことを考え、ただひたすら時間が早く過ぎるのを願っていた。
次の駅で降りようにも、到着はまだまだ先だ。
私に向けられる周囲の視線は、時間が経つにつれて、どんどん厳しくなっている。
だからといって、逃げ出すことさえできない。
別の車両へ移動しようとすれば、その途中で被害をさらに広げてしまうからだ。
まさに針の筵だった。
あと十五分。
私は、この地獄のような時間を耐え抜かなければならない。
時計をチラチラと確認するが、針は一向に進まない。
私は、あまりにも長く感じられるその十五分に、気が遠くなりそうだった。
そんな時だった。
一人の勇気ある若者が、私に話しかけてきたのだ。
「あのぉ~、臭いんですけどぉ~」
気分が悪そうに眉間に皺を寄せ、鼻をつまむ若い男。
必死に耐えてはいたものの、もう我慢の限界だったのだろう。
額からは大量の汗が流れ落ちている。
息をするのもままならないのか、顔はすっかり青ざめていた。
悪いことをしたとは思っている。
だが、この場でそんなことを言われても、私はどうすればいいのだろうか。
クソを漏らしたという事実は、もう起こってしまったことなのだ。
今さら「臭くて困っています」などと言われても、ここは走行中の電車の中だ。
退散しようにも、窓から飛び降りるわけにはいかない。
かといって、その場に立ち尽くす以外に、私にできることもなかった。
私は困り果てた末に、若者へ尋ねた。
「……す、すみません……でも、私はどうしたらいいのでしょうか?」
若者は、私の低姿勢な態度を見ると、口をつぐんだ。
必死に頭を働かせているようだったが、どう考えても打開策など見つからないらしい。
そんな時、近くにいた女性の一人が、思わず声を上げた。
「……他の車両に行くことはできないんですか?」
女性も、若者と同じように苦しそうな顔をしていた。
会社帰りなのだろう。
身なりはきっちりとしていて、いかにも仕事のできそうな女性だった。
しかし──。
私からすれば、自分本位で、他の人のことなど何も考えていない提案だった。
確かに、私がここから離れれば、この場の状況だけは打開できるだろう。
だが、この混雑だ。
汚物をケツに収納したまま移動すれば、どんなことになるかは目に見えている。
下着の中にあるものは、もはや完全な固形物ではない。
水分もかなり含んでおり、ズボンにだってじんわりと滲み出している。
そんな状態で移動している途中、もしも──。
いや、考えるだけでも恐ろしい。
その瞬間、車内のあちこちに新たな惨劇が生まれてしまうだろう。
私は思わず、その危険性を口にしようとした。
その時──。
「他の車両に移ってもらえば、私たちには都合がいいかもしれない。……だが、余計に被害を拡大することになるんじゃないか?」
少し離れたところにいた中年の男が、静かに口を開いた。
女性と同じように、気分が悪そうな顔をしている。
鼻をつまみ、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべているが、言っていることはもっともだ。
普段から仕事のできる男なのだろう。
私は彼の言葉に思わず納得し、「うんうん」と頷いていた。
「じゃあ、僕たちだけが我慢しなきゃいけないんですか?」
その時、最初に声をかけてきた若者が口を挟んだ。
彼は本当に気分が悪そうだった。
この状態があと何分も続くなど御免だ──そんな思いが、その表情からひしひしと伝わってくる。
気まずい空気の中、彼は私に直接抗議してきたほど追い込まれているのだ。
もう、我慢などできるような状態ではないのだろう。
私は彼の心情を理解しながらも、どうすることもできない自分に苛立ちを感じていた。
「あのぉ~……」
その時、大学生くらいの若い女性が、躊躇いながらも口を挟んできた。
鼻をつまんでしかめっ面を浮かべるその姿は、他の乗客たちと同じように切迫しているようだった。
大きな瞳が印象的な、可愛らしい女性だ。
普段なら、道行く人が思わず振り返るほど、人目を惹く存在なのだろう。
しかし、今は見る影もない。
そんな彼女が何を言い出すのか──。
私たちは息を呑み、その言葉を待った。
「私、大人用の紙オムツ持ってます」
彼女の言葉に、その場の空気が凍りついた。
そんなものを、なぜ持っているのか。
疑問は尽きない。
しかし、今はそんなことを気にしている場合ではない。
問題は、その紙オムツをどうやって使うかだ。
普通に装着するとなれば、ここで着替えなければならない。
なにより、ここで着替えるとなれば、私は人前で下半身を露出しなければならないのだ。
それに、今はかろうじて下着の中にとどまっているものが、着替えの途中で落ちてしまう可能性だってある。
そうなれば──。
臭いだって、今の比ではないだろう。
電車内に強烈な臭いが充満し、車両全体が地獄と化すのは目に見えていた。
その光景を想像したのだろう。
この場にいる全員が、血の気の引いた顔で俯いていた。
それだけは、絶対に避けなければならない。
「ここで着替えてもらうのは、ちょっと……」
先ほど意見を述べた会社員風の女性が、躊躇いながら口を開いた。
解決策を出した大学生風の女性には申し訳ないが、誰もがその意見に賛同しているようだった。
しかし──。
「いいえ。……ここで着替えてもらうわけじゃないんです」
大学生風の女性が、さらに言葉を重ねる。
「このオムツを、ズボンの上から履いてもらうのはどうでしょうか?」
一瞬、その場が静まり返った。
そこにいる誰もが、彼女の提案の意味を考えているようだった。
そして──。
「そうか!? ……それなら、少しはこの臭いを封じ込めることができる!」
中年の男がそう言った途端、その場の空気が一変した。
「それに、移動したって問題はない!」
「そうよ! ……ズボンから染み出たって、オムツなら吸収してくれるわ!」
まるで、重大な会議の山場を乗り越えたかのような歓喜に包まれた。
今まで険しかった乗客たちの顔にも、笑みが浮かんでいる。
それもそのはずだ。
地獄のようなこの現場に、ようやく眩い光が差し込んだのだ。
これで、この悪夢から解放される。
誰もが、そう信じているのだろう。
しかし、私は──。
その紙オムツを装着し、電車の中をうろうろする自分の姿を想像していた。
確かに、私の粗相を解決するために、ここまで頭を働かせてくれたことには感謝してもしきれない。
しかも、部下や顔見知りなどではない。
ほんの数分前まで、まったくの赤の他人だったのだ。
それなのに、彼らは私のために必死になってくれている。
本当にありがたいと思う。
だが──。
大の大人が、ズボンの上から紙オムツを履いた姿で電車内をうろつけば、どう考えても変態にしか見えないだろう。
まして、そんな格好で他の車両へ移動するのだ。
私はいったい、どんな目で見られることになるのか。
それを考えるだけで、背筋が寒くなった。
だからといって、ここまでしてくれた彼らの努力を無下にすることもできない。
大学生風の女性が、ニッコリと笑って紙オムツを差し出している。
私は震える手でそれを受け取った。
そして、周囲の視線を気にしながら、躊躇いに躊躇いを重ねた末──。
ズボンの上から、紙オムツを装着した。
スーツの上から紙オムツを履くという、なんとも情けない格好。
白い提灯ブルマでも履いているかのような姿は、決まった時間になると公園などに出没する、妙に痛々しいおじさんにしか見えない。
いや……むしろ、これはこれで完成されているのではないか。
奇妙なダンスでも踊り始めれば、きっと見事な変質者として成立するに違いない。
そんな私の内心とは裏腹に、乗客たちから次々と喜びの声が上がった。
「わぁ~。……やっぱり、臭いが和らいだわ」
「本当だ。……さっきみたいにキツくはない」
「い……生き返るぅ~」
私の心情など知る由もない乗客たちは、まるで地獄から救い出されたかのように喜んでいた。
「これなら、なんとか耐えられそう!」
「本当に助かったわ!」
「よかった……!」
車内は、何もかも解決したかのような穏やかなムードに包まれていた。
その一方で私は──。
ズボンの上から紙オムツを履いたまま、ただ黙って立ち尽くしていた。
ここで文句を言って、この場の雰囲気を台無しにするわけにもいかない。
「……ありがとうございました。……これで、他の車両に移動することができます」
そう言って深々とお辞儀をすると、私はその場を立ち去ろうとした。
しかし──。
「その必要はないと思います」
最初に声をかけてきた若者が、笑顔を見せながらそう言った。
その言葉とほぼ同時に、電車はスピードを落とし、次の駅のホームへと滑り込んでいった。
私たちが悩んでいる間に、時間はあっという間に過ぎていたのだ。
あれほど長く感じていた十五分が、まるで嘘のようだった。
「早くトイレに行ってください!」
ドアが開くと、大学生風の女性がガッツポーズをしながら、私にエールを送った。
「もう、漏らしちゃダメですよ!」
会社員風の女性も、冗談めかして声をかけてくる。
「頑張って!」
そして、中年の男が、私に気合を入れるかのように軽く肩を叩いた。
その姿は、まるで長年苦楽を共にしてきたチームメイトのようだった。
私は確かに、脱糞という人生最大の失態を、公の場で犯してしまった。
だが、そのことによって、人という生き物の温かさを垣間見たような気がしていた。
こんな温かな気持ちになるのは、いったい何年ぶりだろう。
やがてドアが閉まり、電車は再び走り出した。
乗客たちは、窓越しに笑顔を見せながら、いつまでも私に手を振ってくれている。
私は走り去る電車に向かって、感謝の気持ちを込め、何度も深々と頭を下げていた。
スーツ姿にオムツを装着した、なんとも奇妙な格好で──。
この時の私は、まだ気づいていなかった。
何も知らない道行く人たちが、そんな私を白い目で見ていたことなど。
END