Oh!クソ人生   作:村上しんご

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第六話 天国と地獄

 帰宅途中の電車で、クソを漏らした。

 

 理由は単純だ。

 ただ、どうしても我慢ができなかっただけである。

 

 用心して、何度もトイレで用を済ませたはずだった。

 

 だが、私は過敏性腸症候群だ。

 

「トイレに行けない」と意識すればするほど、便意はどんどん強くなり、私を追い詰めていく。

 

 そして、その日も──。

 私は電車の中で、限界を迎えたのだ。

 

 周囲にはすでに、汲み取り式便所のような強烈な臭いが漂っていた。

 

 そのせいで、ぎゅうぎゅう詰めの車内だというのに、私の周囲だけ、ぽっかりと空間ができている。

 少し離れた場所では、訝しげな顔をした乗客たちが鼻をつまんでいた。

 

 いったい私は、どうすればよかったのだろうか。

 

「クソが漏れるぅー!」

 

 そう叫びながら発狂し、電車の非常停止ボタンを押せばよかったとでもいうのだろうか。

 

 いや、それではもっと大きな問題になる。

 

 電車を止め、大勢の乗客の前で「今、クソを漏らしました!」などと宣言したところで、私の尊厳が守られるわけではない。

 

 そう考えれば、私はここでクソを漏らす以外、選択肢などなかったのだ。

 

 だが、罪悪感がないわけではない。

 

 大勢の乗客が、この強烈な臭いのせいで気分を悪くしているのだ。

 

 だからといって、今の私に何ができるというのだろう。

 

「すみませんでした! ……今、クソを漏らしたのは私なんです!」

 

 そう告白して土下座したところで、さらなる混乱を招くだけだ。

 何も知らない乗客たちまで真実を知り、車内はたちまちパニックに陥ってしまうだろう。

 

 知らないふりをしていた方がいい──。

 

 私は遠い目をしながら、電車の窓に映った自分の姿をぼんやりと眺めていた。

 

 剥げた頭に、中肉中背の体。

 くたびれたスーツ姿。

 

 はたから見れば、どこにでもいる冴えないオッサンにしか見えないだろう。

 

 しかし──。

 

 私は、会社では重要なポストを任されている管理職だ。

 部下だって何人もいる。

 

 それに、若い頃はイケメンとして、ブイブイ言わせていた。

 

 そんな私が、今では人前でクソを漏らすようになってしまったのだ。

 

 便意があまりにも切迫するため、紙オムツを着けようと考えたこともある。

 

 しかし、オムツをしたところで、この強烈な臭いを封じ込められるだろうか。

 

 なにより、人のいるところで漏らすことに変わりはないのだ。

 

 今は必死に気を張っているからこそ、これだけの量で済んでいる。

 だが、オムツをしてしまえば、安心してしまう。

 

 そうなれば、歯止めが利かなくなり、これだけのお漏らしでは済まない。

 きっと大量のクソを、一気に漏らしてしまうだろう。

 

 私はお尻に生暖かさを感じながら、そんなことを考え、ただひたすら時間が早く過ぎるのを願っていた。

 

 次の駅で降りようにも、到着はまだまだ先だ。

 私に向けられる周囲の視線は、時間が経つにつれて、どんどん厳しくなっている。

 

 だからといって、逃げ出すことさえできない。

 別の車両へ移動しようとすれば、その途中で被害をさらに広げてしまうからだ。

 

 まさに針の筵だった。

 

 あと十五分。

 

 私は、この地獄のような時間を耐え抜かなければならない。

 

 時計をチラチラと確認するが、針は一向に進まない。

 

 私は、あまりにも長く感じられるその十五分に、気が遠くなりそうだった。

 

 そんな時だった。

 

 一人の勇気ある若者が、私に話しかけてきたのだ。

 

「あのぉ~、臭いんですけどぉ~」

 

 気分が悪そうに眉間に皺を寄せ、鼻をつまむ若い男。

 

 必死に耐えてはいたものの、もう我慢の限界だったのだろう。

 額からは大量の汗が流れ落ちている。

 

 息をするのもままならないのか、顔はすっかり青ざめていた。

 

 悪いことをしたとは思っている。

 

 だが、この場でそんなことを言われても、私はどうすればいいのだろうか。

 

 クソを漏らしたという事実は、もう起こってしまったことなのだ。

 

 今さら「臭くて困っています」などと言われても、ここは走行中の電車の中だ。

 

 退散しようにも、窓から飛び降りるわけにはいかない。

 かといって、その場に立ち尽くす以外に、私にできることもなかった。

 

 私は困り果てた末に、若者へ尋ねた。

 

「……す、すみません……でも、私はどうしたらいいのでしょうか?」

 

 若者は、私の低姿勢な態度を見ると、口をつぐんだ。

 

 必死に頭を働かせているようだったが、どう考えても打開策など見つからないらしい。

 

 そんな時、近くにいた女性の一人が、思わず声を上げた。

 

「……他の車両に行くことはできないんですか?」

 

 女性も、若者と同じように苦しそうな顔をしていた。

 

 会社帰りなのだろう。

 身なりはきっちりとしていて、いかにも仕事のできそうな女性だった。

 

 しかし──。

 

 私からすれば、自分本位で、他の人のことなど何も考えていない提案だった。

 

 確かに、私がここから離れれば、この場の状況だけは打開できるだろう。

 

 だが、この混雑だ。

 

 汚物をケツに収納したまま移動すれば、どんなことになるかは目に見えている。

 

 下着の中にあるものは、もはや完全な固形物ではない。

 水分もかなり含んでおり、ズボンにだってじんわりと滲み出している。

 

 そんな状態で移動している途中、もしも──。

 

 いや、考えるだけでも恐ろしい。

 

 その瞬間、車内のあちこちに新たな惨劇が生まれてしまうだろう。

 

 私は思わず、その危険性を口にしようとした。

 

 その時──。

 

「他の車両に移ってもらえば、私たちには都合がいいかもしれない。……だが、余計に被害を拡大することになるんじゃないか?」

 

 少し離れたところにいた中年の男が、静かに口を開いた。

 

 女性と同じように、気分が悪そうな顔をしている。

 鼻をつまみ、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべているが、言っていることはもっともだ。

 

 普段から仕事のできる男なのだろう。

 

 私は彼の言葉に思わず納得し、「うんうん」と頷いていた。

 

「じゃあ、僕たちだけが我慢しなきゃいけないんですか?」

 

 その時、最初に声をかけてきた若者が口を挟んだ。

 

 彼は本当に気分が悪そうだった。

 この状態があと何分も続くなど御免だ──そんな思いが、その表情からひしひしと伝わってくる。

 

 気まずい空気の中、彼は私に直接抗議してきたほど追い込まれているのだ。

 もう、我慢などできるような状態ではないのだろう。

 

 私は彼の心情を理解しながらも、どうすることもできない自分に苛立ちを感じていた。

 

「あのぉ~……」

 

 その時、大学生くらいの若い女性が、躊躇いながらも口を挟んできた。

 

 鼻をつまんでしかめっ面を浮かべるその姿は、他の乗客たちと同じように切迫しているようだった。

 

 大きな瞳が印象的な、可愛らしい女性だ。

 普段なら、道行く人が思わず振り返るほど、人目を惹く存在なのだろう。

 

 しかし、今は見る影もない。

 

 そんな彼女が何を言い出すのか──。

 私たちは息を呑み、その言葉を待った。

 

「私、大人用の紙オムツ持ってます」

 

 彼女の言葉に、その場の空気が凍りついた。

 

 そんなものを、なぜ持っているのか。

 疑問は尽きない。

 

 しかし、今はそんなことを気にしている場合ではない。

 

 問題は、その紙オムツをどうやって使うかだ。

 

 普通に装着するとなれば、ここで着替えなければならない。

 

 なにより、ここで着替えるとなれば、私は人前で下半身を露出しなければならないのだ。

 

 それに、今はかろうじて下着の中にとどまっているものが、着替えの途中で落ちてしまう可能性だってある。

 

 そうなれば──。

 

 臭いだって、今の比ではないだろう。

 電車内に強烈な臭いが充満し、車両全体が地獄と化すのは目に見えていた。

 

 その光景を想像したのだろう。

 この場にいる全員が、血の気の引いた顔で俯いていた。

 

 それだけは、絶対に避けなければならない。

 

「ここで着替えてもらうのは、ちょっと……」

 

 先ほど意見を述べた会社員風の女性が、躊躇いながら口を開いた。

 

 解決策を出した大学生風の女性には申し訳ないが、誰もがその意見に賛同しているようだった。

 

 しかし──。

 

「いいえ。……ここで着替えてもらうわけじゃないんです」

 

 大学生風の女性が、さらに言葉を重ねる。

 

「このオムツを、ズボンの上から履いてもらうのはどうでしょうか?」

 

 一瞬、その場が静まり返った。

 

 そこにいる誰もが、彼女の提案の意味を考えているようだった。

 

 そして──。

 

「そうか!? ……それなら、少しはこの臭いを封じ込めることができる!」

 

 中年の男がそう言った途端、その場の空気が一変した。

 

「それに、移動したって問題はない!」

 

「そうよ! ……ズボンから染み出たって、オムツなら吸収してくれるわ!」

 

 まるで、重大な会議の山場を乗り越えたかのような歓喜に包まれた。

 

 今まで険しかった乗客たちの顔にも、笑みが浮かんでいる。

 

 それもそのはずだ。

 地獄のようなこの現場に、ようやく眩い光が差し込んだのだ。

 

 これで、この悪夢から解放される。

 

 誰もが、そう信じているのだろう。

 

 しかし、私は──。

 

 その紙オムツを装着し、電車の中をうろうろする自分の姿を想像していた。

 

 確かに、私の粗相を解決するために、ここまで頭を働かせてくれたことには感謝してもしきれない。

 

 しかも、部下や顔見知りなどではない。

 ほんの数分前まで、まったくの赤の他人だったのだ。

 

 それなのに、彼らは私のために必死になってくれている。

 

 本当にありがたいと思う。

 

 だが──。

 

 大の大人が、ズボンの上から紙オムツを履いた姿で電車内をうろつけば、どう考えても変態にしか見えないだろう。

 

 まして、そんな格好で他の車両へ移動するのだ。

 

 私はいったい、どんな目で見られることになるのか。

 

 それを考えるだけで、背筋が寒くなった。

 

 だからといって、ここまでしてくれた彼らの努力を無下にすることもできない。

 

 大学生風の女性が、ニッコリと笑って紙オムツを差し出している。

 

 私は震える手でそれを受け取った。

 

 そして、周囲の視線を気にしながら、躊躇いに躊躇いを重ねた末──。

 

 ズボンの上から、紙オムツを装着した。

 

 スーツの上から紙オムツを履くという、なんとも情けない格好。

 

 白い提灯ブルマでも履いているかのような姿は、決まった時間になると公園などに出没する、妙に痛々しいおじさんにしか見えない。

 

 いや……むしろ、これはこれで完成されているのではないか。

 

 奇妙なダンスでも踊り始めれば、きっと見事な変質者として成立するに違いない。

 

 そんな私の内心とは裏腹に、乗客たちから次々と喜びの声が上がった。

 

「わぁ~。……やっぱり、臭いが和らいだわ」

 

「本当だ。……さっきみたいにキツくはない」

 

「い……生き返るぅ~」

 

 私の心情など知る由もない乗客たちは、まるで地獄から救い出されたかのように喜んでいた。

 

「これなら、なんとか耐えられそう!」

 

「本当に助かったわ!」

 

「よかった……!」

 

 車内は、何もかも解決したかのような穏やかなムードに包まれていた。

 

 その一方で私は──。

 

 ズボンの上から紙オムツを履いたまま、ただ黙って立ち尽くしていた。

 

 ここで文句を言って、この場の雰囲気を台無しにするわけにもいかない。

 

「……ありがとうございました。……これで、他の車両に移動することができます」

 

 そう言って深々とお辞儀をすると、私はその場を立ち去ろうとした。

 

 しかし──。

 

「その必要はないと思います」

 

 最初に声をかけてきた若者が、笑顔を見せながらそう言った。

 

 その言葉とほぼ同時に、電車はスピードを落とし、次の駅のホームへと滑り込んでいった。

 

 私たちが悩んでいる間に、時間はあっという間に過ぎていたのだ。

 

 あれほど長く感じていた十五分が、まるで嘘のようだった。

 

「早くトイレに行ってください!」

 

 ドアが開くと、大学生風の女性がガッツポーズをしながら、私にエールを送った。

 

「もう、漏らしちゃダメですよ!」

 

 会社員風の女性も、冗談めかして声をかけてくる。

 

「頑張って!」

 

 そして、中年の男が、私に気合を入れるかのように軽く肩を叩いた。

 

 その姿は、まるで長年苦楽を共にしてきたチームメイトのようだった。

 

 私は確かに、脱糞という人生最大の失態を、公の場で犯してしまった。

 

 だが、そのことによって、人という生き物の温かさを垣間見たような気がしていた。

 

 こんな温かな気持ちになるのは、いったい何年ぶりだろう。

 

 やがてドアが閉まり、電車は再び走り出した。

 

 乗客たちは、窓越しに笑顔を見せながら、いつまでも私に手を振ってくれている。

 

 私は走り去る電車に向かって、感謝の気持ちを込め、何度も深々と頭を下げていた。

 

 スーツ姿にオムツを装着した、なんとも奇妙な格好で──。

 

 この時の私は、まだ気づいていなかった。

 

 何も知らない道行く人たちが、そんな私を白い目で見ていたことなど。

 

 

 

 

 

 

 

  END

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