Oh!クソ人生   作:村上しんご

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第九話 そして……誰もいなくなった

 大事な会議の最中だというのに、私はひたすら便意を堪えていた。

 

 この会議の結果次第で、今後の情勢は大きく変わる。

 

 劣勢に立たされているこの国に、希望の光が差すかどうか。そのすべてが、この会議に懸かっている。

 

 だが、私の頭の中は、とうにそれどころではなかった。

 

 こんなところでクソを漏らしてしまえば、これまで培ってきた威厳も、築き上げてきた地位も、すべて台無しになってしまう。

 かといって、今さらトイレに行くと言って席を立てるような雰囲気でもない。

 

「それではダメだ! ……人間たちとの共存など、できるはずがない!」

 

「だが、先代の魔王様から託された夢なのだぞ!」

 

 会議の席では、激しい口論が繰り広げられていた。

 

 ここに席を連ねているのは、錚々たる顔ぶればかりだ。

 

 声を荒らげているのは、このような場には滅多に顔を出さない四天王の一人、魔人アルカディス。そして、魔獣たちを率いる獣王カイドウだった。

 

 だが、今の私には、二人の話など頭どころか、耳にすら入ってこない。

 

 私は今、ケツから飛び出そうとするものを、必死に食い止めているところなのだ。

 

 頭の中を駆け巡るのは、トイレ、トイレ、トイレ……そのことばかり。

 

 それでも私は、なんとか平静を装い、静かに口を開いた。

 

「まあ、待て。……少し冷静になろうではないか。……一時、休憩を挟むのはどうだろう?」

 

 我ながら見事な落ち着きようだった。

 これなら、誰にも悟られてはいないだろう。

 

 しかし──

 

「魔王様! そんな悠長なことを言ってはおられません!」

 

 あっけなく却下された。

 

 それどころか──

 

「そうですぞ! 人間たちは勇者を従え、明日にも攻め入ってくるかもしれないのです!」

 

 さらに追い打ちをかけるように、私のトイレを阻む者まで現れた。

 

(悠長なことを言っているのは貴様らの方だ! これが漏れてしまったら、取り返しのつかない事態になるのは目に見えている!)

 

 私は、呑気に会議などを続けている者たちに苛立ちを募らせていた。

 

 確かに、会議を開こうと言い出したのは私だ。

 だが、今は悠長に口論などしている場合ではない!

 

 怒りにまかせて怒鳴りつけたい。だが、それすらできない。

 下手に腹に力を込めれば、それこそおしまいなのだ。

 

 私は込み上げる怒りを必死に押し殺し、努めて静かな声で言った。

 

「このままでは、大変なことになるぞ……」

 

 その一言で、場の空気が一瞬にして凍りついた。

 

 大人の対応を見せたつもりだったが、どうやら怒りを隠しきれていなかったらしい。

 その場に居合わせた者たちは、たった一言で青ざめ、狼狽していた。

 

「そ、そうですな……少し休憩を挟んだ方がいいかもしれませんな」

 

「……おお、私もそう思っていたところだ」

 

 そんな声が、あちこちから上がり始めた。

 

(やっと、トイレに行ける……)

 

 私はホッと胸を撫で下ろした。

 

 しかし──

 

「何を言っている! 魔王様は、すぐに動かなければ大変なことになるとおっしゃっているのだ!」

 

 いつも空気の読めない魔界公爵、デュノンが口を挟んだ。

 

(そうだ! すぐに動かなければ、私のおケツが大変なことになる!)

 

「こんなところで話し合いなどしても無意味! すぐに人間界へ攻め込むべきだと、そうおっしゃっておられるのだ!」

 

(いや、いや、いや、いや……)

 

 私は、ただトイレに行きたいだけなのだ。

 人間界への侵攻など、まだ考えてもいない。

 

 そういえば、こいつはいつもこうだ。

 

 私の言葉を勝手に解釈しては、場を混乱させている。

 

「そうか! そういうことだったのか!」

 

「魔王様は、すでに人間界へ攻め込むことを考えておられたのか!」

 

 挙げ句の果てには、そんな解釈に追従し、賛同する者まで現れる始末。

 

 私は下腹部に強烈な痛みを感じながら、次々と上がる声を聞き、気が遠くなりそうだった。

 

 もう時間がない。

 

 必死に食い止めてはいる。だが、腸の中のものが次から次へと出口に向かっているのが、手に取るようにわかる。

 

 怒涛のように襲いかかる便意。難攻不落のダムも、もはや決壊寸前なのだ。

 

 頭がぼうっとして、もう何も考えられない。

 

 私はゆっくりと立ち上がり、そろりそろりと歩き始めた。

 

 なぜなら、もう尻の力を抜くことすらできないからだ。

 

 細心の注意を払いながら、一歩、また一歩と前に進むしかない。

 

「魔王様! ……さっそく、出陣の準備ですか!?」

 

 しかし、またこいつだ。

 

 魔界公爵、デュノン──こいつは、何かにつけて私を苛立たせる。

 

 呑気なその姿に、私は怒りを通り越し、殺意さえ覚えていた。

 

「……う、うむ……」

 

「では、このわたくしめが、お支度のお手伝いをさせていただきたく存じます! 魔王様の晴れ姿を整える栄誉をお許しいただければ、きっとご満足いただけることでしょう。……思えば、先代の魔王様が出陣された際にも……」

 

 しかも、長い。

 

「うるさい! 静かにしろ!」

 

 私は怒りのあまり、思わず声を張り上げていた。

 

 その瞬間、ついに中身が漏れてしまった。

 

 だが、量はほんのわずか。音も出ていない。

 

 お尻に顔を近づけて、クンクンと臭いを嗅がれでもしない限り、気づかれることはないだろう。

 

「お前はついて来るな! ……ここで待っているのだ」

 

 私はそれだけ言い残すと、再びそろりそろりとトイレを目指した。

 

 トイレは会議室から、それほど離れた場所にあるわけではない。

 しかし、今の私には、そのわずかな距離が途方もなく長く感じられた。

 

 少し漏らしたことで、多少は楽になるかと思っていたが、そうではない。

 それを皮切りに、便意はこれ見よがしに、絶え間なく押し寄せてくるのだ。

 

 視界が歪み、眩暈すら覚える。

 

 こうして歩いていられること自体、奇跡に近いだろう。

 

 自分で自分を褒めてやりたい。

 

 もうすぐだ。もうすぐ、トイレに到着する。

 

「魔王さまぁ~!」

 

 しかし……また、こいつだ。

 

 魔界公爵、デュノン──。

 

「トイレにお寄りになるんですね? 言ってくださればよかったのにぃ~」

 

 そう言って、何かを察したかのようにニヤニヤと笑うデュノン。

 

 私の怒りは、ついに頂点に達した。

 

(……消してしまおう)

 

「ダークウェーブ!」

 

「魔王様! ……な、なにをなさるのです! お、おやめくださ……」

 

 暗黒の闇がデュノンの体を包み込む。

 

 魔界公爵、デュノンは時空の狭間へと消えていった。

 

 命を奪ったわけではない。だが、もう二度とこの世界に戻ってくることはできないだろう。

 

 少しやり過ぎてしまった気もするが、命さえあれば、いくらでもやり直しはきく。

 

 私は目の前の扉に手を掛け、ようやくトイレへ足を踏み入れようとした。

 

「魔王様、どうしました!? 何があったのです!」

 

 だが、デュノンの断末魔のような叫び声を聞きつけ、会議卓にいた幹部連中が慌てて駆けつけてきた。

 

 しかも、それだけではない。

 

「どうしました!? 敵襲ですか!?」

 

 ただごとではないと感じたのか、城の警備兵や使用人までもが、怒涛の勢いでなだれ込んでくる。

 

 あと少し──あと少しで、すべてを放出してすっきりできる。その一歩手前で、この騒動だ。

 

 だが、私はこの混乱の中で、悟りでも開いたかのような穏やかな気持ちになっていた。

 全身全霊の力を込めて、最終奥義を解き放つ。

 

「ダークウェーブ!!」

 

 

 そして──

 

「ぶりっ! ぶりぶり!」

 

(やっぱり、トイレが一番落ち着くなぁ……)

 

 用を済ませ、すべてを出し切った私は、心身ともにすっきりしていた。

 

 手を洗い、清々しい気持ちでトイレの扉を開く。

 

 だが、城の中には、もう誰もいなかった。

 

 私は、ゆっくりと用を済ませたいと思うばかりに、この城にいた者たちをすべて消し去ってしまったのだ。

 

 やっとのことで排便を済ませ、目的は果たせた。

 お腹もすっきりし、足取りも軽い。

 

 だが、なぜか心にぽっかりと穴が開いたような虚しさだけが残っていた。

 

 私は知らなかったのだ。

 仲間という存在が、どれほど大きく、大切なものなのかを──。

 

 便意に追われ、怒りに任せて取り返しのつかないことをしてしまったのだと、落ち着きを取り戻した今になって、ようやく気づいた。

 

 しかし、もう遅い──

 数日後、魔界は呆気なく人間たちに侵略された。

 

 

 

 

 

 

 

               END

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