大事な会議の最中だというのに、私はひたすら便意を堪えていた。
この会議の結果次第で、今後の情勢は大きく変わる。
劣勢に立たされているこの国に、希望の光が差すかどうか。そのすべてが、この会議に懸かっている。
だが、私の頭の中は、とうにそれどころではなかった。
こんなところでクソを漏らしてしまえば、これまで培ってきた威厳も、築き上げてきた地位も、すべて台無しになってしまう。
かといって、今さらトイレに行くと言って席を立てるような雰囲気でもない。
「それではダメだ! ……人間たちとの共存など、できるはずがない!」
「だが、先代の魔王様から託された夢なのだぞ!」
会議の席では、激しい口論が繰り広げられていた。
ここに席を連ねているのは、錚々たる顔ぶればかりだ。
声を荒らげているのは、このような場には滅多に顔を出さない四天王の一人、魔人アルカディス。そして、魔獣たちを率いる獣王カイドウだった。
だが、今の私には、二人の話など頭どころか、耳にすら入ってこない。
私は今、ケツから飛び出そうとするものを、必死に食い止めているところなのだ。
頭の中を駆け巡るのは、トイレ、トイレ、トイレ……そのことばかり。
それでも私は、なんとか平静を装い、静かに口を開いた。
「まあ、待て。……少し冷静になろうではないか。……一時、休憩を挟むのはどうだろう?」
我ながら見事な落ち着きようだった。
これなら、誰にも悟られてはいないだろう。
しかし──
「魔王様! そんな悠長なことを言ってはおられません!」
あっけなく却下された。
それどころか──
「そうですぞ! 人間たちは勇者を従え、明日にも攻め入ってくるかもしれないのです!」
さらに追い打ちをかけるように、私のトイレを阻む者まで現れた。
(悠長なことを言っているのは貴様らの方だ! これが漏れてしまったら、取り返しのつかない事態になるのは目に見えている!)
私は、呑気に会議などを続けている者たちに苛立ちを募らせていた。
確かに、会議を開こうと言い出したのは私だ。
だが、今は悠長に口論などしている場合ではない!
怒りにまかせて怒鳴りつけたい。だが、それすらできない。
下手に腹に力を込めれば、それこそおしまいなのだ。
私は込み上げる怒りを必死に押し殺し、努めて静かな声で言った。
「このままでは、大変なことになるぞ……」
その一言で、場の空気が一瞬にして凍りついた。
大人の対応を見せたつもりだったが、どうやら怒りを隠しきれていなかったらしい。
その場に居合わせた者たちは、たった一言で青ざめ、狼狽していた。
「そ、そうですな……少し休憩を挟んだ方がいいかもしれませんな」
「……おお、私もそう思っていたところだ」
そんな声が、あちこちから上がり始めた。
(やっと、トイレに行ける……)
私はホッと胸を撫で下ろした。
しかし──
「何を言っている! 魔王様は、すぐに動かなければ大変なことになるとおっしゃっているのだ!」
いつも空気の読めない魔界公爵、デュノンが口を挟んだ。
(そうだ! すぐに動かなければ、私のおケツが大変なことになる!)
「こんなところで話し合いなどしても無意味! すぐに人間界へ攻め込むべきだと、そうおっしゃっておられるのだ!」
(いや、いや、いや、いや……)
私は、ただトイレに行きたいだけなのだ。
人間界への侵攻など、まだ考えてもいない。
そういえば、こいつはいつもこうだ。
私の言葉を勝手に解釈しては、場を混乱させている。
「そうか! そういうことだったのか!」
「魔王様は、すでに人間界へ攻め込むことを考えておられたのか!」
挙げ句の果てには、そんな解釈に追従し、賛同する者まで現れる始末。
私は下腹部に強烈な痛みを感じながら、次々と上がる声を聞き、気が遠くなりそうだった。
もう時間がない。
必死に食い止めてはいる。だが、腸の中のものが次から次へと出口に向かっているのが、手に取るようにわかる。
怒涛のように襲いかかる便意。難攻不落のダムも、もはや決壊寸前なのだ。
頭がぼうっとして、もう何も考えられない。
私はゆっくりと立ち上がり、そろりそろりと歩き始めた。
なぜなら、もう尻の力を抜くことすらできないからだ。
細心の注意を払いながら、一歩、また一歩と前に進むしかない。
「魔王様! ……さっそく、出陣の準備ですか!?」
しかし、またこいつだ。
魔界公爵、デュノン──こいつは、何かにつけて私を苛立たせる。
呑気なその姿に、私は怒りを通り越し、殺意さえ覚えていた。
「……う、うむ……」
「では、このわたくしめが、お支度のお手伝いをさせていただきたく存じます! 魔王様の晴れ姿を整える栄誉をお許しいただければ、きっとご満足いただけることでしょう。……思えば、先代の魔王様が出陣された際にも……」
しかも、長い。
「うるさい! 静かにしろ!」
私は怒りのあまり、思わず声を張り上げていた。
その瞬間、ついに中身が漏れてしまった。
だが、量はほんのわずか。音も出ていない。
お尻に顔を近づけて、クンクンと臭いを嗅がれでもしない限り、気づかれることはないだろう。
「お前はついて来るな! ……ここで待っているのだ」
私はそれだけ言い残すと、再びそろりそろりとトイレを目指した。
トイレは会議室から、それほど離れた場所にあるわけではない。
しかし、今の私には、そのわずかな距離が途方もなく長く感じられた。
少し漏らしたことで、多少は楽になるかと思っていたが、そうではない。
それを皮切りに、便意はこれ見よがしに、絶え間なく押し寄せてくるのだ。
視界が歪み、眩暈すら覚える。
こうして歩いていられること自体、奇跡に近いだろう。
自分で自分を褒めてやりたい。
もうすぐだ。もうすぐ、トイレに到着する。
「魔王さまぁ~!」
しかし……また、こいつだ。
魔界公爵、デュノン──。
「トイレにお寄りになるんですね? 言ってくださればよかったのにぃ~」
そう言って、何かを察したかのようにニヤニヤと笑うデュノン。
私の怒りは、ついに頂点に達した。
(……消してしまおう)
「ダークウェーブ!」
「魔王様! ……な、なにをなさるのです! お、おやめくださ……」
暗黒の闇がデュノンの体を包み込む。
魔界公爵、デュノンは時空の狭間へと消えていった。
命を奪ったわけではない。だが、もう二度とこの世界に戻ってくることはできないだろう。
少しやり過ぎてしまった気もするが、命さえあれば、いくらでもやり直しはきく。
私は目の前の扉に手を掛け、ようやくトイレへ足を踏み入れようとした。
「魔王様、どうしました!? 何があったのです!」
だが、デュノンの断末魔のような叫び声を聞きつけ、会議卓にいた幹部連中が慌てて駆けつけてきた。
しかも、それだけではない。
「どうしました!? 敵襲ですか!?」
ただごとではないと感じたのか、城の警備兵や使用人までもが、怒涛の勢いでなだれ込んでくる。
あと少し──あと少しで、すべてを放出してすっきりできる。その一歩手前で、この騒動だ。
だが、私はこの混乱の中で、悟りでも開いたかのような穏やかな気持ちになっていた。
全身全霊の力を込めて、最終奥義を解き放つ。
「ダークウェーブ!!」
そして──
「ぶりっ! ぶりぶり!」
(やっぱり、トイレが一番落ち着くなぁ……)
用を済ませ、すべてを出し切った私は、心身ともにすっきりしていた。
手を洗い、清々しい気持ちでトイレの扉を開く。
だが、城の中には、もう誰もいなかった。
私は、ゆっくりと用を済ませたいと思うばかりに、この城にいた者たちをすべて消し去ってしまったのだ。
やっとのことで排便を済ませ、目的は果たせた。
お腹もすっきりし、足取りも軽い。
だが、なぜか心にぽっかりと穴が開いたような虚しさだけが残っていた。
私は知らなかったのだ。
仲間という存在が、どれほど大きく、大切なものなのかを──。
便意に追われ、怒りに任せて取り返しのつかないことをしてしまったのだと、落ち着きを取り戻した今になって、ようやく気づいた。
しかし、もう遅い──
数日後、魔界は呆気なく人間たちに侵略された。
END