5話:暑さのせいである
『我が愛しのオリハルコン・ヒップ』第二十七篇、執筆記録。
まず事実から書く。
第二十七篇は、本日も一行も進まなかった。
そして私は今、公園のベンチに一人で座っていて、心拍数が速い。
この二つの間に因果関係はない。ないが、記録として並べておく。芸術家には、自分に起きたことを正確に記録する義務がある。解釈はあとでいい。
◇
順を追う。
まず、家が暑い。
電気が止まっているからである。
止めた覚えはない。ただ、先月ガチャの天井を叩いた記憶と、今月ポストに入っていた紙の色との間に、私は因果関係を認めない。認めないが、エアコンは動かない。
つまり私は今、避難民である。
灼熱の我が家を捨て、涼を求めてこの公園にたどり着いた哀れな亡命者。誰か助けて。ユニセフとか。
そして、このベンチが最高なのだ。
木が三本、絶妙な角度で日陰を作っている。風が抜ける。しかも背もたれの角度が、寝転がったときの腰にちょうどいい。
腰。
……いや、腰の話はいい。あとで書く。書かないかもしれない。
とにかく、ここは私の領海である。日の出とともに接収し、日没まで占有する。文句のあるやつは掛かってこい。
以上が、私が毎日ここにいる理由である。
ここまでは、何も問題がない。
◇
小学生の件を書く。
四日前だったか。五日前かもしれない。時間の感覚は電気とともに失われた。
私がベンチで死んでいたところ、こいつが通りかかった。
そして私は、こいつの持っていたアクエリアスに、正直、心を奪われた。
冷えていた。
外側に水滴がついていた。
あの水滴を見た瞬間、私の中の何かが決壊した。恥も外聞もなく、私は服の裾を掴んだ。生存本能である。誰にも責められない。
こいつは「嫌だよ!」と言った。
言ったくせに、結局くれた。
そこが問題なのだ。
くれてしまったから、こいつは翌日も来た。翌々日も来た。今日も来た。一度エサをやった野良に居着かれるのと同じ理屈である。私は野良ではない。エサをやられた側である。理不尽だ。
しかもこいつ、こちらが渾身の「あ〜〜〜腰が痛ぇわ〜〜〜」を披露しても、一切心配しない。
「昼間から公園で酒飲んでるからじゃん」
正論を言うな。正論は、私が世界で一番嫌いなものだ。
◇
こいつの何が困るかというと、声がデカい。
ツッコミの音量が、この公園の生態系に対して過剰なのだ。セミが黙る。犬が吠える。遠くでボール遊びをしていた子供たちが振り返る。
私は今、目立ちたくない。
いや、正確に言えば――目立ちたくない時期がある、という話であって、普段の私は目立ってなんぼの女である。むしろ目立たなければ死ぬ。マグロと同じだ。
ただ今は、いい。
今は、こう、静かに、木陰で、ワンカップを飲みながら、自分のおケツを讃える散文を書いていたいだけなのだ。
そのために、ノートを顔に乗せていた。
日差し避けであり、かつ、寝ているように見せかければ、こいつはそのうち飽きて帰る。完璧な隠蔽である。
完璧なはずだった。
◇
ノートが、顔から、消えた。
「あ」
以下は、書かない。
何が書いてあるかも、書かない。書いてあることは私が書いたのだから、私が一番よく知っている。ここに再現する必要はない。芸術家は同じものを二度書かない。
読まれた。
それだけ書けば足りる。
◇
ひとつだけ、記録しておくべきことがある。
こいつは、無言で、ノートを閉じた。
無言で。
閉じた。
いや、なんで無言で閉じるの。
そこは何か言いなさいよ。
罵倒でもいいのよ。「キモ」でも「ヤバ」でも「通報」でもいい。無言で閉じるのが一番きついのよ。それ、人間に対する処刑よ。
そのあとのことは、覚えている。
恥ずかしいなら書くなと言われた。脳みそが沸いてるのかと言われた。
沸いてない。
沸いてないのよ。
これは芸術(アート)なの。そう説明した。自分を愛することから全ては始まる、と。そして黄金比率の美しさを証明するために、私はその場でおケツを叩いた。ポンポンと。オリハルコンの共鳴音である。
「公園で自分のケツ叩き始めるなァァァァァァァ!!!!!」
こいつのツッコミで、セミが黙った。
近くでセミを捕まえていた小学生たちが、ものすごく怯えた顔で逃げていった。
ノートは返してもらった。胸に抱きしめながら「これだから子供は……」と文句を言っておいた。それ以上言うことがなかったからだ。
こいつは呆れた顔で帰っていった。
◇
さて、冒頭の話に戻る。
心拍数である。
速い。
明らかに速い。もう一時間は経っているのに、まだ戻らない。
おかしいのだ。
私は、ステージで何万人の前に立っても、こんなに焦らない。むしろ人が多いほど落ち着く。裸みたいな衣装で歌ったこともある。もっとひどいことも言ってきた。何を見られても平気な女として、私はここまで来たのだ。
なのに、小学生一人にノートを読まれただけで、私は跳ね起きて、みっともなく叫んで、腰を痛めた。
なぜか。
◇
見当は、ついている。
第二十七篇は、一行も進んでいない。
第二十六篇も、正直に書けば、大したものではなかった。第二十五篇に至っては、内容を覚えていない。
それでも私が毎日ここでノートを開くのは、おケツについてだけは、今でも確信を持って書けるからである。
確信を持って書けるものが、それしかない。
たとえば、右のターンだ。
甘い。前から甘い。三年前から甘い。
そして誰も、それを指摘しない。
事務所も、現場のスタッフも、客席の誰も、何も言わない。三年間、一度もである。
指摘されないというのは、つまり、
……。
◇
やめだ。
暑いからだわ、これ。
うん。暑さのせいね。
心拍数も、腰も、筆が進まないのも、全部この気温のせいである。証明終わり。
明日はアクエリアスを持ってくるよう、言っておこう。
◇
【本日の総括】
第二十七篇、未着手。理由:治安の悪化。
残金、ワンカップ二本ぶん。
我が愛しのオリハルコン・ヒップ、本日も健在。汗をかいてもなお美しい。共鳴音も良好。
小学生、本日も来襲。撃退どころか、機密を奪取された。
次からノートは顔に乗せない。学習した。
しかし冷静に考えると、顔に乗せなければ日差しで死ぬ。詰んでいる。
心拍数、未だ戻らず。原因は気温である。以上。