『大空スバルのマリン観察絵日記』   作:佐藤二時

6 / 7
6話:ベンチの角度について

 

『我が愛しのオリハルコン・ヒップ』第二十八篇。

 

報告がある。

 

電気が、戻った。

 

事務所から前借りをした。土下座に近い姿勢でお願いした。マネージャーは何も言わずに手続きをしてくれた。何も言わないのが一番こたえるということを、あの人はよく知っている。

 

というわけで、我が家のエアコンは復活した。

 

冷えている。

 

寒いくらいだ。

 

私は今、人類が数千年かけて到達した文明の恩恵の中にいる。もう灼熱の亡命者ではない。堂々たる納税者(予定)である。

 

で。

 

私は今、公園のベンチにいる。

 

◇

 

誤解のないように書いておくが、これには合理的な理由がある。

 

このベンチの、背もたれの角度だ。

 

寝転がったときの腰への負担が、我が家のソファより明確に少ない。医学的にどうかは知らないが、体感で言っている。体感がすべてだ。

 

あと風が抜ける。エアコンの風は人工物だが、ここの風は天然物である。天然物のほうが偉い。寿司と同じ理屈だ。

 

以上、証明終わり。

 

私が今日ここにいることに、それ以外の理由は一切ない。

 

◇

 

さて、本題。

 

第二十八篇のテーマは「老い」である。

 

いや、違う。訂正する。

 

我がおケツに老いはない。テーマは「時間との闘争」だ。もっと言えば「時間の敗北」である。主語を間違えると全部間違える。

 

ああ、おケツ。

 

世間の奴らは言う。

「マリンさん、もう何年やってるんですか」と。

 

黙れ。

 

年月とは、劣化ではない。熟成である。

ワインを見よ。チーズを見よ。ぬか床を見よ。

時が経てば経つほど、価値が上がるものが、この世には確かに存在する。

 

そして我が半球は、

 

我が半球は、

 

我が半球は、その最たる――

 

……。

 

やめだ。

 

書いていて思ったが、ぬか床を引き合いに出した時点で負けている。

 

破棄。第二十八篇は破棄する。

 

◇

 

夕立が来た。

 

ものすごい雨だった。ベンチの上で三十分ほど耐えたが、無理だと判断して公衆トイレの軒下に避難した。衣装が濡れた。最悪である。

 

で、雨が上がった。

 

公園には誰もいなくなっていた。

 

地面が濡れていて、空気が冷えていて、夕日が出ていた。

 

……いい床だ、と思った。

 

濡れたアスファルトは、滑るからよくない。よくないのだが、滑るということは、足の裏の感覚が誤魔化せないということでもある。ステップが甘ければ、即座に転ぶ。

 

私は、少し、踊った。

 

少し、のつもりだった。

 

◇

 

一時間半、踊った。

 

途中から自分でも何をやっているのかわからなくなった。右のターンが甘い。前から甘い。誰も指摘しない。誰も指摘しないから、私が指摘するしかない。

 

「鈍いわよ、私の右半球(ヒップ)……ッ!」

 

声に出していた。

 

誰もいないので問題はない。

 

泥が跳ねた。衣装が汚れた。ローファーの中に水が入った。息が上がって、途中で膝に手をついて、それからまた最初のステップに戻った。

 

四十回くらいやり直した。

 

四十一回目で、通った。

 

最後のポーズを決めた瞬間、雲が割れて、夕日が背中に当たった。

 

出来すぎている。

 

私の人生でこういうことが起きるとき、たいてい直後に何かが台無しになる。

 

◇

 

茂みに、こいつがいた。

 

いつからいたのかは聞いていない。聞かなかった。聞いてしまったら、答えを聞かなければならなくなるからだ。

 

「あら、スバルちゃん。見られてたかしら。……ちょっと、ダサかった?」

 

そう言った。

 

我ながら、ひどい聞き方をしたと思う。

 

ダサいと言われたら傷つくし、ダサくないと言われたらもっと困る。どっちに転んでも私が損をする質問を、なぜ私はしたのか。

 

こいつは、何も答えなかった。

 

真っ赤な顔で、口をパクパクさせて、それから走って帰っていった。

 

……何それ。

 

何それ。

 

いや、何それ。

 

◇

 

【当日 朝】

 

眠れなかった。

 

理由は、腰である。

 

一時間半も踊れば当然だ。三十……ではない、十七歳の腰にも限界というものがある。

 

湿布を貼った。二枚貼った。

 

四時に起きた。というか四時まで起きていた。この二つは、書類上は同じことである。

 

会場入りは十時。

 

六時間ある。

 

六時間、何をすればいいのかわからなかったので、私は部屋の真ん中に立って、天井を見ていた。エアコンが効いている。快適だ。快適なので、余計に、時間が減らない。

 

来週、じゃない。今日だ。

 

今日、私は――

 

◇

 

散歩に出た。

 

散歩である。

 

足が勝手に動いたわけではない。健康のための散歩であって、行き先などない。

 

そして、行き先がないので、なんとなく公園に着いた。

 

誰もいなかった。当たり前だ。朝の六時である。

 

ベンチが濡れていた。昨日の夕立の名残だ。私はハンカチで拭いてから座った。座って、しばらく、セミが鳴き始めるのを聞いていた。

 

それから、思い出した。

 

そういえばこいつ、今日で夏休みが終わるとか言っていなかったか。

 

宿題が終わっていないとも言っていた。ひまわりの観察がどうとか。あれだけ毎日ここに来ておいて、ひまわりを一度も見ていないのだから、当然そうなる。

 

私は、鞄の中を探した。

 

関係者用の券が一枚、余っていた。

 

置いた。

 

飛ばないように、石を乗せた。

 

ついでに、メモを書いた。

 

「スバルちゃんへ。宿題、ちゃんと出しなさいよ」

 

理由は、

 

理由は、まあ、

 

……別に、いいわ。

 

◇

 

【本日の総括】

 

電気、復旧。文明、万歳。

第二十八篇、破棄。ぬか床の件は忘れること。

右のターン、四十一回目で通った。三年ぶりに通った。

腰、限界。湿布二枚。

我が愛しのオリハルコン・ヒップ、本日も健在。泥がついても美しい。むしろ映える。天才か?

券、一枚減った。理由は書かない。書くことでもない。

 

さて。

 

行くか。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。