『我が愛しのオリハルコン・ヒップ』第二十八篇。
報告がある。
電気が、戻った。
事務所から前借りをした。土下座に近い姿勢でお願いした。マネージャーは何も言わずに手続きをしてくれた。何も言わないのが一番こたえるということを、あの人はよく知っている。
というわけで、我が家のエアコンは復活した。
冷えている。
寒いくらいだ。
私は今、人類が数千年かけて到達した文明の恩恵の中にいる。もう灼熱の亡命者ではない。堂々たる納税者(予定)である。
で。
私は今、公園のベンチにいる。
◇
誤解のないように書いておくが、これには合理的な理由がある。
このベンチの、背もたれの角度だ。
寝転がったときの腰への負担が、我が家のソファより明確に少ない。医学的にどうかは知らないが、体感で言っている。体感がすべてだ。
あと風が抜ける。エアコンの風は人工物だが、ここの風は天然物である。天然物のほうが偉い。寿司と同じ理屈だ。
以上、証明終わり。
私が今日ここにいることに、それ以外の理由は一切ない。
◇
さて、本題。
第二十八篇のテーマは「老い」である。
いや、違う。訂正する。
我がおケツに老いはない。テーマは「時間との闘争」だ。もっと言えば「時間の敗北」である。主語を間違えると全部間違える。
ああ、おケツ。
世間の奴らは言う。
「マリンさん、もう何年やってるんですか」と。
黙れ。
年月とは、劣化ではない。熟成である。
ワインを見よ。チーズを見よ。ぬか床を見よ。
時が経てば経つほど、価値が上がるものが、この世には確かに存在する。
そして我が半球は、
我が半球は、
我が半球は、その最たる――
……。
やめだ。
書いていて思ったが、ぬか床を引き合いに出した時点で負けている。
破棄。第二十八篇は破棄する。
◇
夕立が来た。
ものすごい雨だった。ベンチの上で三十分ほど耐えたが、無理だと判断して公衆トイレの軒下に避難した。衣装が濡れた。最悪である。
で、雨が上がった。
公園には誰もいなくなっていた。
地面が濡れていて、空気が冷えていて、夕日が出ていた。
……いい床だ、と思った。
濡れたアスファルトは、滑るからよくない。よくないのだが、滑るということは、足の裏の感覚が誤魔化せないということでもある。ステップが甘ければ、即座に転ぶ。
私は、少し、踊った。
少し、のつもりだった。
◇
一時間半、踊った。
途中から自分でも何をやっているのかわからなくなった。右のターンが甘い。前から甘い。誰も指摘しない。誰も指摘しないから、私が指摘するしかない。
「鈍いわよ、私の右半球(ヒップ)……ッ!」
声に出していた。
誰もいないので問題はない。
泥が跳ねた。衣装が汚れた。ローファーの中に水が入った。息が上がって、途中で膝に手をついて、それからまた最初のステップに戻った。
四十回くらいやり直した。
四十一回目で、通った。
最後のポーズを決めた瞬間、雲が割れて、夕日が背中に当たった。
出来すぎている。
私の人生でこういうことが起きるとき、たいてい直後に何かが台無しになる。
◇
茂みに、こいつがいた。
いつからいたのかは聞いていない。聞かなかった。聞いてしまったら、答えを聞かなければならなくなるからだ。
「あら、スバルちゃん。見られてたかしら。……ちょっと、ダサかった?」
そう言った。
我ながら、ひどい聞き方をしたと思う。
ダサいと言われたら傷つくし、ダサくないと言われたらもっと困る。どっちに転んでも私が損をする質問を、なぜ私はしたのか。
こいつは、何も答えなかった。
真っ赤な顔で、口をパクパクさせて、それから走って帰っていった。
……何それ。
何それ。
いや、何それ。
◇
【当日 朝】
眠れなかった。
理由は、腰である。
一時間半も踊れば当然だ。三十……ではない、十七歳の腰にも限界というものがある。
湿布を貼った。二枚貼った。
四時に起きた。というか四時まで起きていた。この二つは、書類上は同じことである。
会場入りは十時。
六時間ある。
六時間、何をすればいいのかわからなかったので、私は部屋の真ん中に立って、天井を見ていた。エアコンが効いている。快適だ。快適なので、余計に、時間が減らない。
来週、じゃない。今日だ。
今日、私は――
◇
散歩に出た。
散歩である。
足が勝手に動いたわけではない。健康のための散歩であって、行き先などない。
そして、行き先がないので、なんとなく公園に着いた。
誰もいなかった。当たり前だ。朝の六時である。
ベンチが濡れていた。昨日の夕立の名残だ。私はハンカチで拭いてから座った。座って、しばらく、セミが鳴き始めるのを聞いていた。
それから、思い出した。
そういえばこいつ、今日で夏休みが終わるとか言っていなかったか。
宿題が終わっていないとも言っていた。ひまわりの観察がどうとか。あれだけ毎日ここに来ておいて、ひまわりを一度も見ていないのだから、当然そうなる。
私は、鞄の中を探した。
関係者用の券が一枚、余っていた。
置いた。
飛ばないように、石を乗せた。
ついでに、メモを書いた。
「スバルちゃんへ。宿題、ちゃんと出しなさいよ」
理由は、
理由は、まあ、
……別に、いいわ。
◇
【本日の総括】
電気、復旧。文明、万歳。
第二十八篇、破棄。ぬか床の件は忘れること。
右のターン、四十一回目で通った。三年ぶりに通った。
腰、限界。湿布二枚。
我が愛しのオリハルコン・ヒップ、本日も健在。泥がついても美しい。むしろ映える。天才か?
券、一枚減った。理由は書かない。書くことでもない。
さて。
行くか。