三船栞子のための4つのスケルツォ   作:瀬戸川れんげ

2 / 2
学校の怪談。カスケード広場。女の子。ダンス。


No.2 ダンシング・ゴースト

 死んだ人間のことを考えてみましょう。死んでしまった人間。本当は「亡くなった」という方が丁寧なのだろうけれど、ここではあえて「死んだ」と言いたい。一つの生命体として、ゼロになった存在。完全なる生命活動の停止。完全なる沈黙、そして忘却。この二十一世紀に至るまで、一体何人の人間が死んでしまったのでしょうか? 無数の死。それは宇宙の星の数を考えるように果てしない感覚です。望むにしろ望まないにしろ、遅かれ早かれ、人間は死んでしまう。確実に、例外は一人もなく。

 

 それを感じた時の話をしましょう。

 私の実家は東京の外れにあって、月に二度ほど帰る時があります。以前久しぶりに帰った時、私の家から三件隣にあった古い一軒家が取り壊されていました。その家はおおよそバブル期ぐらいに建てられたであろう、和洋折衷の二階建てでした。しかし恐らくもう誰も住んでいなかったのかもしれません、食器を動かす物音一つないような、ひっそりとした家でした。玄関には古く壊れた自転車や、植木鉢が倒れていて、くすんだ白い外壁には蔦が這っているくらいでした。

 その家の周りを囲っていたコンクリートのブロック塀がくるぶし程度の高さでわずかに残り、家そのものは鉄筋の飛び出た基礎部分だけを残して跡形もありませんでした。かつてはその上で普通の生活をしていたであろう空間には、業者の残していった取り壊し用の資材や道具がきちんとまとめて置かれているだけでした。

 私はそれを眺めてる時、ふと落ち着いた気持ちになりました。何というかその空間は、「結局こうなります」と言っているような気がしたからです。人間色々な生き方があっても、結局はこのように跡形もなくなってしまうのだと思ったのです。

 しかしそれは決して投げやりな、冷笑的なものではなく、それよりも、「だからくよくよしたって仕様がないじゃないですか」、というような意味合いだと思いました。

 人間は生きている間、家を建てるように生き、そして解体されるように死んでいく。そして平らになった土地には、新しい人間が住む。誰しもが立派な家を建てられるわけではないし、誰しもが綺麗に解体されていくわけではない。ある人間はプールがあって大型犬が走り回れる広々とした手入れの行き届いた芝生の庭付きの二階建ての豪邸(ガレージには高級車が二台とバイクが三台もある。そしてあちこちを監視カメラで見張っている)を建てて、たくさんの親族や友達に見送られながらまるで古代の王族のような墓に埋葬される。しかしある人間は雨漏りがひどくて天井裏をネズミが走り回っていて、床も傾いている、風が吹けば飛んで行ってしまいそうな粗末な家に住んで、そして絨毯爆撃にでもあったかのようにあっけなく消えていく。

 確かに平等ではありません。しかしいずれ崩壊するという点だけは──平等です。だから私はあのボロボロになったコンクリートの基礎を見て安心を覚えたのです。どんな豪邸だろうと、どんな粗末な家だろうと、時間の長短はあれど、最終的には平らな土地になる。私は古墳や遺跡を見ても同じ気持ちになることに気がつきました。そこにあった生と死に思いを馳せると、私はどこか星の数を数えるような途方もない感覚を覚え、そして同時にどこか安心します。人はゼロから生まれ、そしてゼロとして死ぬ。

 

 と、最近まではそう思っていました。しかし時には──何の因果か縁か──残ってしまう場合もある。本当に、ごく例外的に。当然私もそのことについては半信半疑、いえ半分とは言わず九割くらいは信じていなかったわけですが、やはり何というか、そういう時もあるのです。例外的な場合。

 もしかしたら生物は死んだらゼロにはならず、もっと別の数字になるのかもしれません。でも結局はそれも、いずれ風のように去っていくのでしょう。

 その土地は今はケーキ屋さんになっていて、若い夫婦が美味しいチーズ・ケーキを作ります。

 

 

「怖い話?」と私は書類のチェックを終え、ホッチキスでパチン、とひとまとめにしてから言いました。

「そう、『心霊ステージ』っていうんだけどね。最近学校で話題になってるんですよ。知りませんか?」と生徒会副会長はパソコンを打ちながらそう言いました。

「つまり学校の怪談というやつですか」

「まあそんなところです」

「面白そうですね。聞かせてください」と私は書類をファイリングしてしまうと、副会長の前のオフィス・ソファに腰掛けてそう言いました。この手の話は大好きとは言いませんがあればついつい聞きたくなってしまうものです。

「勿論です。といっても私も人づてで聞いたものなんですが……ええ、ごほん、いいですか。夜トイレに行けなくなっても知りませんよ」

「じゃあ聞きません」

「いえ、すいません、そんなに大した話しではありませんから」

 そう言うと副会長は眼鏡をくいと持ち上げて話し始めました。

「学校の近くの、『カスケード広場』って分かりますか? 『水の広場公園』を少し行った先の、『夢の大橋』とか『ゆりかもめ』が見える場所です。海側の遊歩道沿いにある、本当に小さな広場です。何ていうか、『古代ギリシアの円形劇場』みたいな所です。そこに三人グループぐらいがようやく踊れるような、屋根もない小さなコンクリートの、シンプルな円状のステージがあるの分かりますか?」

「ええ、ありますね」

「私も以前そこを通ったことがあるんですが、結構良いステージだなあと思ったんですね。バックには海がきらきらしていて。でも普段は誰も気に止めないって言うんですかね、何もやっていないステージなんて料理の乗っていないお皿みたいなもので、ただそこにあるだけなんですねえ。

 ある時、近くに住む虹ヶ咲学園の女の子がですね、仮にAさんとでもしときましょうか。夜の二十四時くらい、眠れなかったんでしょうかねえ、その辺りを散歩してたんですよ。あー眠れないなあ、でも明日学校だしなあなんてAさんは思いながらね。その日は満月でした。電灯も要らないくらい煌々とお月さんが青白く輝いている。潮風がふわっと漂うと何とも、良い心地なんですねえ」

「何か喋り方が変わりましたね」

「するとさっき言った小さなステージのところに来た。あーこんなステージあったなあなんてAさんは階段状になった観客席の上からステージを見て何となく思った訳ですね。でもまあ丁度いいくらいに眠くもなってきたものだから、そろそろ寮に帰ろうかななんて思ったんですよ。そして踵を返そうとしたところでふと、気づいた。何か音がする。たん、たん、たん。その子は何だろうと思った。もう一度耳をすましてみる。やはり、たん、たん、たん、と乾いた足音のような音がする。誰かランニングでもしてるのかと思って辺りを見回してみても誰もいない。ただ遊歩道が続いている。自分以外誰もいない。たん、たたん、たたん、たん、とその音はリズムを踏んでいるように聞こえる。何だろうなあ、変だなあ、怖いなあとAさんは思った。するとよくよく聞いてみると、その足音はどうやらあの小さいステージからしているような気がする。満月が雲に隠れてしまって、闇が濃くなった。

 Aさんはそっとステージの方に近づいてみた。そこでAさんはぞっとした。確かにあの、たん、たんという足音はあのステージからしている。でもそのステージの上には……誰もいない。でもコンクリートにステップを踏む音だけがしている。この世のものじゃない。Aさんはそう思った。体の内側からぞーっと悪寒が襲ってきた。Aさんは逃げようとした。するとさっきまでしていたダンスの足音がぴたっと止まったんですね。それでもうAさんは動けなくなってしまった。何かがこちらを見ている。ステージの虚空と目が合っている。Aさんは人喰い熊とばったり会ってしまったかのように指一本動かせない。呼吸も出来ない。考えることもできない。ただその脅威が過ぎ去るのを、じっとを待つしかない。

 そして月が雲からゆっくりと出てきた。段々とステージが照らされる。Aさんはその様子をじっと見てる。するといつの間にか、さっきまで誰もいなかったはずのステージに、誰かがいる。顔はよく見えない。多分十歳くらいの背の低い女の子。その子はどうやらくすくすと笑っているようなんです! そしてその子は言ったんですよ!! 『ねえ、私と一緒に踊らない?』って!!!」

「声が大きいですね」と私はのめり込んでくる副会長に引き気味に言いました。

「いかがでしたか? これが今話題の『心霊ステージ』の全容です」と副会長はなぜか自慢げに言いました。

「まあいくつか気になる点はありますが……」

「なになに!?」

「下手なモノマネ……いえ、やはり一番の問題は高校生がそんな夜遅くに一人でふらついていることですね」と私は言いました。 

 副会長は何ともベタな感じでずっこけた後に、また眼鏡をくいと直しました。

「それはそうですけど」

「でも面白かったですよ。ありがとうございます。ないとは思いますが、噂が過度に広まったりして深夜にうろつく人が増えたらいけないので、その時は注意喚起でもいたしましょう」と私は立ち上がりながら言いました。同好会に行く時間なのです。

「さすがです会長!」と副会長は笑って敬礼をしました。

 さて、とは言ったものの何か引っ掛かるものがあります。火のない所に煙は立たず。何もないところからそんな話は生まれてはきません。作り話にしろ、見間違いだったにしろ、「万が一」本当だった場合にしろ、何かしら理由というのは存在するはずです。念のため現況調査をしておくというのは悪くはないはずだと私は思いました。勿論、興味本位で見に行くなど言語道断です。生徒会長ともあろう人間がそんなマネをするなど有り得ない話です。私は一貫して調査として赴くのです。本当に。

 

 

 私は次の満月を狙いました。シチュエーションを一致させておきたかったのです。時間はもちろん副会長の言った二十四時。しかしその時間は寮の門限を超えていました。

 私はスウェット・パンツとパーカーを着て、ランニング・シューズを履きスマートフォンだけを持って部屋をこっそりと出ると、以前ミアさんから教えてもらったやり方──一階の倉庫の窓から出るという方法で寮から抜け出しました。ミアさんは深夜にコンビニに行くために何度か使ったらしく、それを聞いた時に私は注意しました。もし誰かに見つかったりすれば、それなりのお咎めを寮と学校(と最悪警察)から食らうことはまず間違いないからです。ミアさんは「自分の責任で出歩いているんだ」と言っていましたが、残念ながら高校生が二十四時に出歩くというのは日本では正当性が成立しないものなのです。

 やれやれ人のことを言えないな、と思いながら、私は寮を抜け出すことに成功しました。獣道のようになった植込みをくぐり抜けて、私は深夜のお台場へと飛び出しました。

 私は少し、胸がどきどきとしました。

 私は普段はこういったことをする「タイプ」ではないのですが、ある時ふっと、少しだけ道を逸れてみたいという感覚に襲われる時があります。それはあっても何年かに一度というものなのですが、私の中にある小さなアナーキズムであり、反骨精神であり、開拓心なのです。社会性動物としてルールは大事ですが、ルールばかりを守っていても「肩がこる」ような気がするのです(このくらいであれば、可愛いものかもしれません)。そして繰り返しになりますが、私のこの行いは一応清き学園生活を守るため、と改めて言っておきましょう。

 

 十月の抜けるように澄んだ夜空から、満月の白く冷たい明かりが降り注いでいます。少しだけ肌寒さを感じつつ、私は海の向こうの巨大な物流倉庫を眺めながら、「水の広場公園」の遊歩道を足早に歩いて行きました。街灯の光を溶かした真っ黒な海がちゃぷちゃぷと揺れていました。それ以外はたまに遠くを走るトラックの音のだけでした。私はランニング・シューズの歩く音を無意識のうちに抑え、静かに、丁寧に、優しい夜を傷つけないように歩きました。

 私はいつか立ち読みした本の冒頭に、こんなことが書いてあったのを思い出しました。「夜更かしするものの最大の罪は、夜を存続させることである」。確かインド人が書いた本でした。私はその意味が何となく分かるような気がしました。夜というのは本来、世界が休む時間なのです。

 私は小さな声でQU4RTZの「ビューティフル・ムーンライト」を口ずさみました。

「夢で会いたいな……」

 私の小さな「ビューティフル・ムーンライト」は唇から二センチほど出たところで虚空に吸い込まれていきました。それくらい夜はどこまでも広く、どこまでも深く、どこまでも透き通っていて、優しく静かでした。

 

 その時、街路樹の影から何かが飛び出してきました。

「わっ」と私は驚いて声を上げてしまいました。それは青い瞳をしたゴシック風の、精巧な女の子の西洋人形だったのです。

「うらめしや~」と次に声がしました。私は一瞬戸惑いましたが、聞き覚えのある声で、その後すぐに分かりました。

「そのタイプの人形で『うらめしや』と言うんでしょうか」と私は冷静になって言いました。

「あら」と言って物陰から出てきたのはそれまた人形のような──どちらかと言えば日本人形の方が似合いそうな真っ黒なワンピースを着た長い黒髪の女の子でした。

「あなたは紫苑女学院のドールが大好きなゴシック風のスクールアイドルで、同じく中二病系スクールアイドルの黒羽咲夜さんの妹さんでもある黒羽咲良さんじゃないですか」

「丁寧な解説どうも」

「どうしてこんなところに?」

「いやね、風の噂で怪談話を聞いていたから。ほら、例の『カスケード広場』の。興味があって見に来たの。そしたらあなたが歩いてたからちょっと驚かせようと思って。こんな時間に出歩くなんてあなたも結構不良的ね」

「私は生徒会長として、学園の平和のためですよ」

「ふうん。でも悪いことは言わない、今日は止めといた方がいい。凄く強いパワーを感じるもの」

「パワーを感じる?」

「まあ分かる人間には分かるの。本当に行くのはおすすめしない。私も行かない。この子も怖がってしまっているから」と黒羽咲良はドールをくいくいと動かしました。

「しかし私には義務があるんです」

「うーん、大丈夫かな。じゃあどうしてもというのなら、このお札を持って行くのが良いわ」

 黒羽咲良さんはそういってぶら下げていたポシェットから、白い紙切れのようなものを出しました。それは人の形に切ってあって、いわゆるヒトガタと呼ばれるものでした。

「結構日本的な魔除けですね。あまりキャラクターと合ってないような気がするんですが」

「まあ一応ジャパニーズだから。日本の幽霊に十字架切っても仕方がないでしょ」

「そうですね、では一応貰っておきましょうか」

「それが良いわ。じゃあ、一枚百円」

「……」

「五枚セットで今ならレインボーブリッジ名物、ブリッジくんのキーホルダーがついてくる。スマホ決済でもいいわ」

「一枚でいいです」と私はポケットにたまたまあったコインを渡して言いました。

【私はその時、ふと嫌な予感がしてヒトガタを五枚買うことに決めました。】

「毎度。それじゃあ私は帰って寝るから、本当に気を付けて」

「そういえば咲夜さんは一緒ではないのですか? こういうのは好きそうな感じですが」と私は去り際に聞きました。

「寝るのが早いのよ、彼女」

 

 

 五分ほどで私はあの「カスケード広場」のところまで来ました。私は一つあくびをして、適当に見て帰ろうと思いました。正直言って幽霊など本当にいるわけがないと思っていましたので、不良のような生徒がいるぐらいであるならば明日にでも先生に報告しておこうと思いました(勿論、自分で見に行ったとは言いませんが)。私のアナーキズム精神も、歩いているうちにすっかり睡眠欲の陰に隠れてしまったのです。

 橋の下をくぐってすぐに、私はあのステージを見つけました。大巨人の下半身のような会員制高級ホテル(一体誰が泊まっているんだろうか?)の足元に、それはありました。

 それは確かに簡素でしたが、ロケーションは悪くありませんでした。輪切りにした大根の片方の端を、少しだけ包丁で切り落としたような形の薄くて平たいコンクリート・タイルのステージを、階段状の観客席が取り囲んでいます。海を目の前に小さく開けたそのステージの上に月の光が当たると、まるでスポットライトに照らされているようにも見え、また何かの神聖な儀式の場のようにも見えました。

 私はそこに立ってしばらくの間ぼうっと突っ立っていました。やはりステージの上には誰もいません。階段を登って、上からステージを眺めてもみましたが、相変わらず対岸の高層ビルが夜景を演出しているだけでした。怪談の噂はやはり何かの勘違いだろうと思いました。私はある程度非日常的行為に満足し、帰ろうとしました。

 

 たん、たん、たん

 

 その時、乾いた音がしました。私ははっとしました。その音は確かにステージの上から発せられたような気がしたからです。たん、たたん、た、たん、たん、と細かく、不規則で、ぎこちないリズムを刻み、スニーカーがコンクリートをタップする音に似ていました。しかし発生源であるはずのあのステージの上には、やはり誰もいません。

「まさか……『本当』だと」

 私はあ然としてしまいました。心霊現象というのを全く信じていないわけではなかったのですが、実際に身に迫ってみると頭がぐらっとするような緊張に襲われました。それは刃物を持った男が目の前に立っているとか、熊が襲ってくるとか、車にぶつかりそうになるとか、そういうはっきりとした恐怖ではないのです。もっと「違う次元」の恐怖感。本来共有しているはずの空間、時間、物質、何かが根本的にズレている。

 私は動かないでステージを見つめたまま、そのダンスのステップの音を聞いていました。その音は大体がセロニアス・モンクのピアノ・タッチのように危なげであり、しかし時にはアイドルのポップな歌のようなノリの良い場面もありました。

 踊ってるんだ、と私は思いました。

 私はしばらくじっとしていました。そしてそのステップ音を聞いているうちに、段々と怖い気持ちが小さくなっていくのを感じました。というのも、ダンスのステップの音というのはいつも私が同好会の練習で聞いているものに他ならないものだったからです。ステップの音というのは不思議で、その人を知らなくとも、なぜかステップを聞くだけでその人となりがイメージ出来てしまうものなのです。一生懸命なステップ、可愛く振舞おうとするステップ、余裕のあるステップ、物語的なステップ、堂々としたステップ、音楽的なステップ、電子的なステップ……エトセトラ、エトセトラ。

 私がこの幽霊のステップを聞いて思ったのは、若いなということでした。私も十分若いつもりですが、それ以上に。どことなく不確かなステップは思春期の不安を感じさせました。

 

 フフンフンフンフフ

 

 次に聞こえたのは、鼻歌でした。女の子の声でした。誰もいないステージから、ステップと鼻歌。そして私はそれが聞いたことのある曲なような気がしました。

「この『曲』、なんでしたっけ」

 私はしばらくそれを頭の中で探りました。あれでもないこれでもないと、不確かな音のヒントを頼りにして、ぎっちりしまわれたレコード棚を一枚一枚素早く見ていくように探しました。そしてやっとのことでその曲を見つけることが出来ました。それは既に埃を被って、もう少しでビニールが焼けてしまいそうなくらい長い間聴かれていないものでした。

 あるアイドル・グループの歌です(確か五人組でした)。私が五歳の時くらいに、ナンバーワンと言わずとも、その年のトップテンくらいにはヒットした曲です。そのアイドル・グループは、世間一般で商業的に売れたのがその曲だけでした。私はその曲をどこかで知り、期待を込めて他のアルバムもいくつか聴いてみたものの、どこかで聞いたようなフレーズを切り貼りしただけのまるでつまらない曲ばかりでした。メンバーにもそれほど突出した魅力があるわけでもなく、その辺の駅前で一時間もあれば同じような人間を揃えることが出来るでしょう。結局そのアイドル・グループは十年も経たずに解散し、ネット・ニュースで一日か二日だけ記事になりました。

 でも「その曲」だけは確かに良い。良い曲なのです。その曲だけは唯一奇跡的に、リズミカルで、キャッチーで、リリカルで、キュートで、音楽的でした。その曲のタイトルは、

「歌と笑顔」と、私は思わず大きな声で言ってしまいました。その時ダンスのタップ音はピタリと止みました。気付かれたのだ、と私は思いました。ステージの上の虚空が、私のことを見つめているのが分かりました。ステージの上は虚無ではなく、何かが密となって存在している気配が感じられました。

「また来た……」と声がしました。やはり若い、女の子の声でした。しかしその声の中には恨み節が込められているのも分かりました。そしてそれは良い兆候ではないことも、私には分かりました。

「最近よく来るんだ。最初にダンスに誘ったのが悪かった、あれからウザイ人ばっかりだ。もううんざり」と声がしました。

 その時、どうっと風が吹き付けました。巨大な何かが、息をふうっと吹きかけたような、塊のある風でした。木がざわざわと一斉に揺れ、囃し立てました。満月がぎらぎらと照りつけ、海はざわめきだちました。街灯の一つがパリンと音を立てて割れました。

 私の髪が一瞬視界を奪ったかと思うと、いつの間にかステージの上に女の子が立っていました。白いシャツに真っ黒なミニスカートで、スニーカーを履いた背の低い女の子でした。

「帰れ!」と、その子から凛とした声が走りました。

「待って! 私は──」と私が言おうとした瞬間、「カスケード広場」の長方形のコンクリートのタイルが衝撃と共に剥がれ、ふわりと何枚かが宙に浮かび上がりました。私が直感的に不味いと感じたのと同時に、それはプロサッカー選手の弾丸シュートように真っ直ぐ飛んできました。私は横にダイブするようにそれを避けました。タイルは木にぶつかり、葉を蹴散らしながら太い枝をバッキリと折ってしまいました。

「どうやら……穏やかではないようですね」

「失せろ! 私を一人にしろ!」

「待ってください! 何もするつもりは!」

「黙れ!」と女の子はそう言うとまたコンクリートのタイルを飛ばしてきました。

 最初の一撃で姿勢を崩していた私は、うまく立ち上がれませんでした。当たる、と私は衝撃を覚悟して目を瞑りました。しかし衝撃は来ませんでした。同時に、聞いたこともないつんざくような音と激しく青白いスパークを散らして何かが盾のように私を守っていました。

「何!?」

「黒羽咲良さんのヒトガタ!?」

 なんと本当にこのヒトガタには効果があったのです。それは咲良さんですら知らないことでしょう。ヒトガタは私をタイルの矢から守り、チリチリと焼けるようにして破れて散っていきました。

「そんなもの!」と言って女の子はまた飛ばして来ましたが、私は何とか体勢を立て直し辛うじてそれを避けました。

 私は後悔しました。あの時、黒羽咲良さんから買っておくべきだったのはヒトガタ五枚全てだったのです。一枚では足りない。

「『ダーティ・ワーク』! この物語を本にしろ!」と私は走りながら叫びました。すると、目の前に美しい黄金の装丁の一冊の本が開かれました。この一連の「出来事」を物語にした本です。

「栞に書き込む!」

【私はその時、ふと嫌な予感がしてヒトガタを五枚買うことに決めました。】の一文を私は特殊な栞に書き込み、その本に差し込みました。栞を飲み込んだ本は閉じられ、また光とともに消えていきました。

「どうやら筋は通ったようですね」と私は言うと、ポケットの中を確認しました。するとあと四枚のヒトガタが入っていました。確かに私はあの時、咲良さんから合計五枚のヒトガタを買ったのです。

 私は木の裏へと逃げ込み、さてどうしたものかと考えました。ふとポケットの中に、まだ何か入っているのに気が付きました。レインボーブリッジ名物の「ブリッジくん」のキーホルダー。手と足の生えたレインボーブリッジが苦悶の表情でブリッジをしている。

「これは要りませんね」

「フフン、隠れたって無駄だよ。そのお札、強烈な『パワー』が宿ってるようだけど、そのおかげで位置がはっきりと分かるよ。なぜかさっきは分からなかったけどね」

「気配が分かる!?」と私はそれを聞いてとっさに思いついた作戦をすぐさま行動に移しました。

「そこだ! 食らえッ!」

 すると今度はステージの背後の海が生き物のように盛り上がったかと思うと、ムチのようにしなり、地面に叩きつけられました。辺りは強烈な水しぶきに覆われ、一面がバケツをひっくり返したかのように水浸しになりました。

「……やりすぎたかな」と女の子がそれを見て言いうと、

「全くですよ。バトル漫画じゃあないんですから」と、私は女の子の背後から言いました。

「あっ! どうして!?」

「ヒトガタですよ」と私は残った一枚をぴっと見せて言いました。

「囮にしたんですよ。あなたがこのお札の気配が分かると言ったので、残っていた四枚のうち三枚を木の裏に私は置いて、私は回り込んだんです。それよりも全く、公園を駄目にしてしまって。これは高くつきますよ」

「くっ」と女の子は悔しそうな顔をしました。

「駄目ですよ、逆転はありません。今回は私に『適性』があったようですから。それとも、この残った一枚で悪い子にはお仕置きした方がよいでしょうか」

「好きにしろ、どうせ死んでるんだ」と女の子は言いました。

「何てまあ、言いませんよ。私はお祓いに来たのでも戦いに来たのでもありませんから。対話は必要です、どんな時でも。例え順番が狂ってしまっても。良ければ話を聞かせてください。さっきのダンスの曲、『歌と笑顔』じゃないですか?」と私は言いました。

 

 

「……そうだよ。よく分かったね」と女の子は観念したように、そのステージの縁に座って言いました。私もその横に座って、海の方を眺めました。副会長の言ったように、「夢の大橋」と「ゆりかもめ」が確かによく見えました。

 女の子は胸元に「IT IS NICE TO BE WITH YOU」と書かれた白いシャツと、秋には季節外れのハーフ・パンツを履いていて、茶髪のショートカットでした。年は十三、四歳くらいでしょうか、器量の良い顔をしていました。しかしそこには、本来十代にあるはずの初々しく瑞々しい肌の照りや生命力というものが決定的に欠如していました。冷たい空洞。巨大な喪失。彼女は透明でした。彼女の顔に手で触れようとしても、きっと向こう側へとすり抜けていってしまうだろうという確信がありました。この子は死んでいるんだ、と私は思いました。

「私は三船栞子と言います。あなたは?」

「聞いたって仕方がないよ。どうせ死んでるんだ」

「いいから」

 渚、と女の子は言いました。

「渚さんは死んでしまったんですか」と私は聞きました。

「はっきり言うんだね」と渚は言いました。

「だってどうせ死んでるんでしょう?」

「まあそうだね」と渚は少し鼻で笑いました。

「たった三ヶ月前だよ。中学に上がったばっか。病気だったんだ。気づいた頃にはもう遅かった。何もかも手遅れだった。どんどん瘦せてって、髪が抜けて、終わり。それで気が付いたらここに居たんだ。このステージの上に立っていた。どうしてかよくわかんないけど」

 渚の言葉はとても遠い所から放たれているような気がしました。私は何も言いませんでした。

「慰める台詞を探さなくたっていいよ。別に気を使わなくなったって。もう死んでいる人間に気を付かう必要なんてどこにもない。これから死んでいく人間にだってね。私が病気になってから、初めは何人かの仲の良かった友達がお見舞いに来てくれたけど、そのうち誰も来なくなった。薄情なんかじゃないんだ、本当に私が死んじゃうなんて誰も思っちゃいなかったし、自分の十代を生きることの方が──明日の宿題の方が大事だったんだ。死んでから何となく分かったし、それはそれで何も間違っちゃいない」

「でもきっとみんなは覚えてくれていますよ」

「そうだといいけどね」

「ダンスが好きなんですか?」と私は聞きました。

「うん、ダンス・クラブに通ってた。元気な頃はアイドルになりたかったくらい好きだったから、色んな曲やステップをマネしてさ。でも病気になってからは何ていうか自分が、ええと、荒むっていうの? そういうお気楽な曲が聴けなくなっちゃったんだ。バカみたいに思えてさ。でもあの曲だけは良かった」

「『歌と笑顔』?」

「そう。失恋の歌なんだけど、メロディーは凄く明るくて、色んな音を使って、面白くて、楽しくて、悲しい歌だった。ねえ、あれのミュージック・ビデオ、見たことある?」

「もちろんです」

 それは一言で言えば変なミュージック・ビデオでした。ビデオの中で彼女たち五人は、北海道かどこかの広い草原の中に制服姿で立っている。曲が流れ始めると彼女たちは踊り始める。それから終わりまで、一切のカットがない。四分間、一つの手持ちカメラでただ彼女たちが踊っている様を撮り続ける。しかも振り付けが決まっていない。ただ思いついたように踊るだけなのです。時折スタッフが映り込んでも気にしない。彼女たちはまるでねずみ花火のように、髪の毛と制服を乱しながら狂気のまま歌い、不規則性の中で踊り続ける。曲とダンスが終わると彼女たちの汗をかいた実に気持ちの良さそうな笑顔のクローズ・アップで終わる。

「あの人たちはあれできっと満足してしまったんだよ。もうあれ以上のダンスは出来ないって分かっちゃったんだ。だから彼女たちがどんなに曲が売れなくっても、解散してしまっても、きっとあの記憶が彼女たちを支えていくんだと思う」と渚は言いました。

「同感です」

「そういう生きた実感みたいなのを感じずに、私は死んじゃったんだ」と渚は膝を抱えて言いました。鈴虫か何かが、植え込みの方でリンと鳴いた気がしました。

「だったら今踊ればいいじゃないですか」

「もう散々踊ったよ、でも無理だった。あのMVみたいには踊れなかった」

「一人で駄目なら二人、ですよ。私も最近気づいたんですが、人間ってそういうものみたいなんです」と私は立ち上がって言いました。

「でもあなた、踊れるの?」と渚が聞きました。私はそれを聞いて少し笑ってしまいました。

「ええ、もちろん。まだまだ未熟ですが」と私は言いました。

「一回だけだよ」と渚は私が妙に自慢気なのが可笑しかったのか、笑って立ち上がりました。

 月はこんこんとステージを照らしています。それは確かにスポットライトの白い光と同じでした。海面で揺らめく明かりは形のないペンライトです。

 曲はもちろん「歌と笑顔」です。私はスマートフォンでそれを流し始めました。そして私たちは踊り始めました。あのMVのように。振り付けもなく、プランもなく。ただ手を動かし、足を動かし、腰を動かし、頭を動かし、体の全て、筋肉や内蔵や脳みそや髪の毛や骨や神経や血液やささくれやおでこのニキビまで余すところなく全てを使って踊りました。スニーカーのステップはコンクリートのステージを通して大地に響き、息が上がり少し苦しくなっても止めません。シャツの下で汗をかき、頭がぼうっとするくらいでした。体は太陽の焼くハワイ島にいるように熱くなりました。渚もまた、さっきまでの希薄さはなく、まるでそこに本当に生きているかのようなエネルギーを感じさせて踊りました。若々しく、情熱的な踊りでした。曲は最後の盛り上がりをみせ、まるでベートーベン交響曲・第九番の合唱のような気迫でした。私は渚と目を合わせて笑いました。これだ、これが生命なんだと私は思いました。これは誰にも邪魔されないものなんだ、私は今生きているんだと思いました。そして渚もまた、生きていたんだと思いました。

 

 正直に言うと、私は渚に何を言えばいいのか分からなったのです。生よりも死のそばに立っている人間、ましてや死そのものである人間に語りかけられる言葉は十代の私には見つかりませんでした。ひょっとするとそんなものは初めからないのかもしれません。

「満足したよ」

 渚は曲が終わってから、幽霊なのに肩を上げて息を切らして言いました。そしてそれは私も同じでした。

「踊ってよ、私の分まで。あれだけ踊って、それであなたの踊りも見てたら、もういいような気がしたよ。私は確かに一瞬だけ、ちゃんとした形じゃないけれど、この世界に爪痕を残せたんだ。満足した。だから後は私の分まで、いや死んでいった私たちの分まで、あなたたちが気持ちよく踊ってほしい」と渚は言いました。

「私だっていつまで踊ってられるか分かりませんよ」と私はひんやりとしたステージに手をついて座り込んで言いました。

「ダンスを踊らなくたって踊れるよ。ねえ、宇宙って凄く広いけど、私は負けていなかった」

 渚は月を見て言いました。その光に負けじと、他の星々も光っていました。抵抗なんだ、と私は思いました。あらゆる人間たちのために、私たちは踊るのだ。あらゆるものに負けないように、私たちは踊るのだ。人は死んでも、完全なゼロにはなりません。

「そう思いますよ」と私は言いました。

「最初にびっくりさせてごめんね」

「いいですとも」

「私のこと忘れないでね」

「もちろん」

 私は一瞬、自分のスニーカーの靴紐が解けているのに目をやりました。それから渚の方を振り向くと、もう誰もいませんでした。

 

 

 一九三一年にモスクワで計画された「ソビエト宮殿」は超巨大なウェディング・ケーキのような見た目で、てっぺんには社会主義の象徴として、高さ百メートルのレーニンの像が載せられる予定でした。しかし第二次世界大戦が始まって、すでに組まれていた鉄骨はバラバラにされ、戦争に使われました。その跡地にはプールが出来ました。そしてそれも閉鎖されて、最終的には建築計画のせいで爆破解体されたロシア正教会の大聖堂が再び建てられました。もう「ソビエト宮殿」が建つことは決してありません。しかし、今でもロシア人の何人かは、あの大聖堂を見るたびに永遠に建つことのない「ソビエト宮殿」のことを考えているかもしれません。

 私はあの「カスケード広場」の前を通る時、そんな気持ちになります。もう幽霊の話をする人は誰もいません。あの時のことを知っているのは、秋の月夜ばかりです。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。