「閲覧禁止の本が読みたい、ですか?」
栞子はそう言って、ブラック・コーヒーの入ったカップを置いた。
「はい、そうなんです」
真剣な眼差しでそう言ったのは、Y.G.国際学園のラクシャータだった。彼女は虹ヶ咲学園附属の図書館の蔵書に関して相談があると、友人であるエマ・ウェルデを通して栞子のもとを訪れていた。栞子は土曜日の午前、学校の近くの小さな喫茶店で話を聞くことにした。商業ビルの三階の、奥まった所にある穴場的な喫茶店で、大きな窓ガラスから有明の景色がよく見える。空はどんよりと重たい雲に覆われていて、その中を無機質にビルが伸びていた。店内に客はまばらで、ジム・ホールの「ジャズ・ギター」が品良く流れている。
「それは『禁帯出』、いわゆる貸し出しは禁止されていますが館内での閲覧は出来るとか、そういう訳ではなく──」
「そうです、読むこと自体が許されていません。『禁書』だと思っています」
「『禁書』ですか」
「はい」
栞子は口元に手を添えて考えた。ものを考える時はそうするのが栞子の癖だった。
「ふむ。まあ確かに日本でも、戦前戦中に出版法によって『検閲』がなされて発禁処分になった本は多々ありますが、それも昔の話。今の日本では『憲法』によって検閲行為自体禁止されていますし、国立国会図書館なら過去に検閲された本にもアクセスできます。よっぽどのことがない限り閲覧禁止になどなりません。ましてやこの虹ヶ咲学園で、わざわざそんな禁書など置いてはいないと思いますが」と栞子は言った。
「それがあるんです。仰ったような公的な国や自治体から禁止されているという訳ではありません。ただ虹ヶ咲学園でのみ、所蔵され、禁書扱いにされているのです」とラクシャータは少し前のめりになって言った。彼女は真剣だった。このPKを外したらゲーム・セットというサッカー選手と同じくらい真剣だった。
「ご存知ないでしょうか」とラクシャータは言った。
「……そうですね、私も結構な図書館のヘビー・ユーザーだと自負しています。この学校で全十巻ある死ぬほど長い『宮沢賢治全集』を読破しているのなんて私ぐらいなものです。図書館の机の裏の落書きまで知っています。しかし『禁書』があるなど、そんな話は聞いたことがありません」
「やはりそうですか、残念です」とラクシャータは肩を落とした。
「ラクシャータさん、そもそもなぜそれが『ある』とご存知なのでしょうか。本の内容も分かっているのなら、差し支えなければ教えていただけませんか」と栞子は尋ねた。栞子はラクシャータの真剣さに真実味がある気がしていた。
「私はずっと『カレー作り』が趣味なんです。日々色んなカレーを試作しています。それで神保町によく行くのですが──ええ、そうです、カレーの町ですから。自分のカレー作りの参考になるかと思い、色んなお店を開拓しています。勿論純粋に食べたいからというのもあるんですが。私はそのついでに、よく書店に立ち寄るんです。神保町は本の町でもありますから。そこで私はカレーや、インド全体についての本を探します。レシピ集、旅行記、歴史、小説、哲学、地理、風俗、様々な本です。カレーを食べ、カレーやインドについての本を探すということが、神保町へ行くときの私のセットなんです。喫茶店に入ったらコーヒーを頼む。私にとったらそれと同じくらい自然なものなんです」
ラクシャータはそう言ってから思い出したかのようにコーヒーを一口飲んだ。
「ある時、私はふと入った路地裏に古本屋を見つけました。薄暗く、狭くて、入口にも中にも所狭しと本が並べられていました。古い紙やインクの匂いが私の鼻に漂ってくるようで、私はそこでしばらく掘り出し物がないか探すことにしました。私はしばらくして一冊の個人的なインド旅行記を見つけて、それを買うことにしました。一番奥のカウンターには店主の女の人がいました。眼鏡をかけた、長い髪を後ろでまとめた胸の大きい人が座っていて、パソコンで帳簿か何かを作っていました。私が本を手渡すと、暇だったのか、私の様子を見て話しかけてきました。ハスキーな声で、知性的な見た目よりも話し方はひょうきんな印象を受けました。まず私がインド人であること、カレーやインドについて調べていることなどを話し、それから私が高校生でスクール・アイドルをやっていることを話しました。するとその女店主は、『自分は二十年くらいの前の虹ヶ咲学園の卒業生だ』と言ったのです」
「ほう」と栞子は思わず言った。
「それは凄いですね。昔はそこまで生徒数もいなかったはずですから」
「ええ、こんなところにと私も驚きました。すると彼女はこんなことを口走ったのです。『ああ、そういえば虹ヶ咲にヤバいカレーの本があったなあ』と」
「……『ヤバいカレー』?」
「そうです。私もそれが気になって、聞いてみました。しかしどうやらそれは失言だったようで、忘れてくれと彼女は言いました。しかし私は何とも興味をそそられてしまい、問いただしました。すると彼女は、『あれは禁書だ』と言いました。そしてそれきり、女店主は何も答えてはくれなくなりました。私はそれ以降すっかりそのことばかり考えてしまい、虹ヶ咲の図書館に行ってそのことを聞いてみたりしたのですが、図書委員の方々は知らない風でした。本当は知っていて隠しているのか、そもそも存在しないのか、それが分かりません。学校にメールを送ってもみましたが、答えはNoでした。それでもし生徒会長たる方に聞けば、もしかしたら何か知ってはいないかと思ったので、今日お時間を頂いたのです」
ラクシャータは勢いよく話し終え、またコーヒーを口に運んだ。案外ラクシャータは、温和に見えて中々に情熱のある人間だと栞子は思った。そもそも大陸の彼方からやって来て、その上スクール・アイドをやっているというだけでも、ある程度のガッツがなければ出来るものではない。栞子もまた、その話を頭の中で咀嚼しながら、コーヒーを飲んだ。香りの良い深煎りのコーヒーだった。店内の音楽はいつの間にかスタン・ゲッツのサックスになっていた。
「残念ながら」と言いながら栞子はコーヒーカップをカチリと置いた。
「やはり知りません。先程も言いましたが、虹ヶ咲にそのようなものがあるとは噂でも聞いたことがありません」
そうですよねと言ってラクシャータは視線を落とし、ため息を一つついた。
「しかし、手は打ってみましょう。私自身、その『禁書』については些か興味が湧いてきました。それと今、話を聞いていてあることを思い出したのです。『宮沢賢治全集』を読破しているのは私と、もう一人確実にいることを。彼女以上に図書館に詳しい人間はいないでしょう」
「どなたですか?」
「『図書委員長』ですよ。会われましたか?」
「いえ、私も図書委員の方に聞いてみたのですが、普段連絡があまりつかないと言われてしまいました」
「そうですか。まずそこにコンタクトしてみましょう。私から言えば何とかなるはずです」
「その図書委員長さんなら知っている可能性が?」
「ゼロではないでしょう。いえ、『ゼロ』か『一〇〇』です。彼女が知らなければ本当に存在しないでしょう。彼女が隠しさえしなければ、ですが。しかし正直言って、私は気乗りしません。本についてではなく、その人物についてです」
「どうしてですか」
「率直に申し上げて『変人』だからです。まあ、虹ヶ咲では珍しいことではありません。ところでこの『抹茶と小倉のワッフル』なんて、美味しそうじゃないですか?」
★
翌週に入って、栞子は図書委員長──つまり三年C組「夏目杏子」にチャットを送った(イベントや会議用のグループチャットで、要職についている人間なら大抵は連絡がつけられる)。図書館の運営について聞きたいことがあるので日時と場所が合えば直接話を聞きたいと言った。「禁書」については警戒されるかと思い、あえて言わなかった。少し気が引けたがあながち噓は言っていまいと栞子は思った。
返事は思いのほか、その日のうちに返ってきた。時間は明日の夕方五時で、場所は図書館内のミーティング・ルームと指定してきた。そしてその返信の最後にはこう書いてあった。
"酔い給え。酒に、詩に、また徳によって。汝の好むままに、汝を酔わしめるがいい"
やれやれ、と栞子はパソコンを開いたまま、生徒会室の椅子の上で、一人ため息をついた。そしてこんな素晴らしい詩を書いてしまったボードレールを恨んだ。
翌日、栞子はラクシャータとともに図書館のミーティング・ルームのドアをノックした。「どうぞ」と中から声がした。しかし栞子がドアを開けても、テーブルには誰もいなかった。一瞬栞子とラクシャータが呆気に取られていると、耳元で突然囁く声がした。
「お元気?」
「わ!」と言って栞子とラクシャータは飛び退いた。
「そんなに驚くことないじゃない」と彼女はくすくす笑いながら言った。それは確かに図書委員長だった。垂れた藤の花のような紫色の長い髪が胸元まで伸び、色白で顔の口元には特徴的なほくろが一つある。手には分厚い本が一冊あった。彼女は本と手が接着剤でくっついていると言われるほど、常に本を携帯することで有名だった(トイレにだって持ち運んでいるのだ)。
「びっくりさせないでください」と栞子はため息をついて言った。
「ふふ、可愛いわね。ねえ、最近『罪と罰』の人物早見表作ったんだけど、いる? ドストエフスキーって何であんなに登場人物をややこしくするのかしらね? ただでさえ暗くて長い小説なのに」
「知りませんし、要りません」と栞子は言った。栞子はこの夏目杏子と喋っている時、ふと朝香果林を連想させることに気付いた。タイプが一緒なのだ。
「あの、初めまして」とラクシャータが栞子の後ろから出てきて言った。
「あら、どちら様かしら」
「夏目さん、紹介します。Y.G.国際学園のラクシャータさんです。今日お会いしたいと言ったのは、彼女が聞きたいことがあるからなんです。詳しい話は後程いたしましょう。そしてラクシャータさん、こちらが現図書委員長の『夏目杏子』さんです。入庫する本は全て目を通しているほどの本狂いです」
初めまして、と言って二人は握手をした。ラクシャータは突拍子もない彼女をやや警戒しているようだった。テーブルに着くと、栞子は早速話しを始めた。
「夏目さん、本日はお時間いただきありがとうございます。いきなりですが、本題に入らせていただきます。先程も言いましたが、今日お伺いしたのは、このラクシャータさんが虹ヶ咲の図書館について聞きたいことがあるということなのです」
「何かしら」と夏目は本をパラパラとめくりながら、優しく言った。ラクシャータは自分で話しを始めた。
「──それで、その人が虹ヶ咲には『ヤバいカレー』の本があり、そしてそれは『禁書』だと」
ラクシャータがそこまで言った時、夏目杏子は本をぱたんと突然閉じた。そして紫色の癖のある髪をくるくるといじり始めた。
「『禁書』、確かにそう言ったのね?」と彼女は言った。
「あ、はい」とラクシャータは少し戸惑いつつ答えた。
「栞子さん、あなたに予定を聞かれた時、あなたにしては質問の詳細がなさすぎると思っていたけど、こういうことだったのね」
「それについては申し訳ありません。騙すような真似をしてしまいました。しかし私にも教えていただけませんでしょうか。生徒会長として、この学校のことは隅々まで知っておきたいのです。その『禁書』、本当に虹ヶ咲にあるのでしょうか」と栞子は言った。夏目杏子はため息をついた。それはすでに存在を肯定していた。
「あるんですね」と栞子は言った。
「これ以上騒がれても困るから、あえて教えてあげる。答えは『イエス』よ」と夏目杏子は言った。
「あまり多くはないのよね。虹ヶ咲の『禁書』について知っている人間は。代々の図書委員長だけがそれを知ることが出来るの。先生や学校の司書の大人たちですら知らない絶対不可侵領域。門外不出。最高機密。絶対に口外してはいけない存在なの。全く誰かしら、その口の軽い人間は」と夏目杏子は本の表紙をさすりながら言った。
「あの」とラクシャータが身を乗り出した。
「見させていただくことは可能なんでしょうか」とラクシャータは言った。栞子も気になった。
「駄目よ」と夏目杏子はすぐさまはっきりと言った。
「『禁書』というのは人に見せるべきではないから『禁書』なの。確かに現代には誰にだって本を読む権利はあるわ。そこらへんの野良猫にすらある。でも『読ませる』ことがすなわち『幸福につながる』とは限らない。親は自分の子供に官能小説を読ませないでしょ? 私たちはそれと一緒なの。確かに『ある』、だけど『読ませない』。コペルニクスの『天球の回転について』、ヒトラーの『我が闘争』、『ハリー・ポッター』でさえアメリカのカトリック系の学校で悪魔的だと言って禁止にされたこともあったわ。善悪に関係なく、先鋭した影響力を持った本というのは『危険物』になりうるのよ。だから読ませない」
「しかしこういっては何ですが、たかがカレーの本じゃないですか。仮にもし危険な食材なんかを使っていたとしても、ラクシャータさんなら判断できるでしょう。カレーのレシピに危険な思想が含まれているとでも言うのですか?」と栞子は言った。夏目杏子は少し大袈裟だと栞子は思っていた。
「たかがカレー、されどカレー。栞子さん、インドは奥が深い。本当のカオスなの。底なんかどこにもない。治療、延命、武術、性愛、政治、建築、呪詛、死、哲学、占星術、窃盗術に至るまで何でもあり。そして食。私もあの本には少し目を通したけど……あれは純粋なインド魔術そのものよ。もっとも、古いサンスクリット語で書かれていたから私には一部しか分からなかったけど、何が起こるか保障できない」
「それでも私は読みたいんです! 私はカレーに関しては人一倍好きなんです。何もそのレシピを作るとは言っていません。どんなスパイスを使っているのか、どんな具材を使っているのか、ただ知りたいだけなんです。そうじゃないと気になって夜も眠れません、どうか見せていただけませんか」とラクシャータは必死に言った。
「夏目杏子さん、私からもお願いします。彼女に『悪意』がないことは私が保障します。他言も絶対いたしません」と栞子はフォローするように言った。夏目杏子はしばらく目を瞑り、何か考えているようだった。
「知りたい?」
「はい」
「どうしても?」
「はい」とラクシャータははっきりと言った。夏目杏子は再びため息をついた。事あるごとにため息をつくのは彼女の癖になっているようだった。
「ठीक हैティケ(分かった)」
「え?」
「いいでしょう。そこまで知りたいのであれば仕方ない。『知りたい』という欲求は悪いことではないわ。私も同じ穴の狢だものね。生徒会長さんの顔に免じて、今回は超特例的に『禁書庫』へ案内してあげるわ。栞子さん、あなたもいらっしゃい」
「ありがとうございます!」と立ち上がってラクシャータは喜んだ。
「良かったですね」
「でも貸すことは出来ないわ。その場で『見るだけ』よ。他言なんてもってのほか。そしてたとえその内容が分かったとしても、絶対に『再現』しようとすることもいけない。それだけは守ってほしい。もし仮にそれを破ったら、そこから先は保障しないわ。全てにおいてね」と夏目杏子はいつになく真剣な眼差しで言った。
★
夜七時になって、夏目杏子が閉館の表示看板を出入口に立てると、図書館には誰もいなくなった。生徒は当然いないし、司書にも少しだけ仕事をしたいと言って先に帰ってもらった。それを見計らって栞子とラクシャータは図書館に入った。
それから夏目杏子は二人を地下一階の「普通の」書庫に案内した。書庫に降りるのは栞子も初めてだった。ぱっと電気がつくと、均等に並んだ白く無機質な棚に、大量の本たちがきっちりと背表紙を向けて出迎えた。それは開架にある本たちとは明らかに雰囲気が異っていた。その質量の圧力とは対象的に、書庫は全くの静寂で、全てが沈黙し、冷蔵庫の奥で忘れられたにんじんのように眠っていた。
「『禁書庫』には『正しい入り方』が必要なの。でもそれを教えることはできないから、少し目を瞑っていてくれる?」と夏目杏子は言った。栞子とラクシャータは言われた通りにした。夏目杏子は歩いて行って、本を何かを動かしているような音をさせた。
「いいわ。こっちに来て」と夏目杏子が言った。
二人が行ってみると、棚と棚の間の壁がスライド・ドアのように開いていた。そしてその奥には恐ろしく深い井戸の底を覗いているような、先の見えない石の階段が続いていた。そこだけすっぱりと時代から置き去りにされたような古い空間だった。
「行きましょう。足元に気を付けて、離れずついて来て」
夏目杏子はどこからか古いオイル・ランタンを持って来て、ぼんやりと真っ暗な階段を照らした。伝統なのよ、と夏目杏子は言った。隠しドアが音もなく自動的に閉じられると、かろうじて夏目杏子の一、二段先しか見えなくなった。
夏目杏子を先頭にして、栞子とラクシャータが続いた。三人は荒く急な石の階段を降りて行った。ローファーの足音は一瞬にして階段の底へと吸い込まれていった。ラクシャータは栞子の肩にそっと手を置いていた。暗闇の先から、女性の指先のようにひんやりとした空気が栞子の頬を撫でるように通り抜けていった。
「こんな地下が虹ヶ咲にあったなんて……」
「奥が深いのよ、虹ヶ咲は」と夏目杏子は言った。
階段はしばらくして終わり、次に凝ったヨーロッパ風の装飾をした大きな鉄の扉が現れた。夏目杏子は古い大きめの鍵を取り出し、その扉の閂にある錠前に差し込んだ。かちゃりと音がして、閂を外し夏目杏子は扉をゆっくりと重たく開けた。
「気付かなかったでしょうけど、今の錠前を開けるのにも手順があるのよ。普通に鍵を回しただけでは開かないわ。そしてここが『禁書庫』。今明かりを点けるわ」
そう言って夏目杏子は壁の窪みにあった燭台の蠟燭にマッチで火を点けた。雰囲気なのよ、と夏目杏子は言った。
何か所かの燭台に火を灯すと、ぼんやりと書庫の全体が浮かび上がった。それはまさに洞窟と言って良かった。世界史の資料集で見た、イタリアのカタコンベ(地下墓地)を思わせた。岩壁を掘り出したコンビニほどの広さの空間に、さらに十個程度の窪みが彫られていた。そしてそこにはそれぞれ鉄格子の扉がはめられ、その中に一冊ずつ本らしきものが置かれていた。
「ここが『禁書庫』ですか……何か異様ですね」
「あのう夏目さん」とラクシャータが泣きそうな声で言った。
「さっきから何か……視線のようなものを感じるんです。気配みたいなのが、全部の方向から感じるんです。何でしょうか」
確かに栞子もそれを感じていた。ラクシャータが言わなければ自分が言おうとしていたことだった。地下に降りていくにつれて、それは段々と強くなっていた。それがこの部屋に入ってからさらに強力になり、毛穴の一つ一つを虫眼鏡で覗かれているような陰湿で質の悪いプレッシャーのようなものを感じていた。
「それは『番人』よ。詳しいことは私も知らない。私たちは今『正しい入り方』をしているからそれくらいで済んでるのよ。不躾な入り方をすればそれ相応になるわ。そういう『伝統』なの」
「もし無理矢理入ったりしたら……どうなるんですか?」
「知らないわ。そうやって入ったことないもの」
さあ、こっちよと言って、夏目杏子はその窪みの内の一つの扉の鍵を開けた。その中には分厚い革のブックカバーに、岩壁に括り付けられるように鎖で巻かれた本があった。その鎖は錠前でさらに留められている。
「さながら『磔にされたプロメテウス』ってところかしらね」と夏目杏子は言った。確かにそれは重犯罪人の様相だった。ここは思想の牢獄なのだと栞子は思った。
「いい? 見るだけよ。『禁書庫の番人』は正しい入り方だったとしても『長居』を嫌うわ。十分! それ以上は危険よ」
「分かりました」とラクシャータは言った。
「開けるわよ」と夏目杏子は言って、小さな鍵を差し込み、鎖を解いて本をラクシャータに渡した。
ラクシャータはずっしりとした分厚い本を手にし、すぐさま中を開くと、物凄い勢いで読み始めた。
「夏目杏子さん、これは一体どういう本なのでしょう」と栞子はラクシャータが一言も発さず本に食らいついている間、夏目杏子に尋ねた。
「ヴェーダ文献、つまりインドの聖典の写しの一つと聞いているわ。主に食を通して神秘体験を得ようとした無名の一派の奥義書よ。成立自体は恐らく千年から二千年以上前。なぜこの虹ヶ咲に流れ着いたのかは分からない。この本の危険性はその現実的な再現性にあると言われているわ。身近な食材と調理方法で呪文を用いて作られた料理は、簡単に人智を凌駕することが出来る。その気になればこの本の料理で明日にでもこの日本を支配することができるらしいわ」
「まさか」
「やってみる?」
「いえ、遠慮しておきます」
「あと五分」
「どうですか、ラクシャータさん。何か分かりそうですか」
「凄く難しい跳躍した詩的表現と語彙で書いてあります。でもカレー的なレシピなのは間違いありません。案外分かるかもしれません」
「大したものね。これが分かれば大学教授以上だわ。ほとんど常人には理解不能な文章で書かれているから」
「ラクシャータさんは優等生ですから」
それからしばらくして、
「そこまで!」と夏目杏子は言った。ラクシャータは本を閉じて返した。とてつもない集中力を使ったようで、しばらくラクシャータはふらふらとしていた。
「大丈夫ですか?」
「はい、すいません。何と言うか、とても不思議な文章で、吸い込まれるような感じと、普段の脳と全く別の認識を突かれているような、そんな気がしました」
それから三人は、来た時のまるで逆再生のような手順を踏んで帰った。地下一階の書庫に戻り、扉が閉まってしまうと、再び何事もなかったかのような清潔な沈黙が訪れた。
「さて、満足していただけたかしら」
「はい、ありがとうございます」
「ありがとうございました、夏目さん。私も大変勉強になりました」
「それなら良かったわ。二人とも当然このことは他言厳禁。ラクシャータさん、あの短時間で大したことは分からなかっただろうけど、もし仮に何か分かったとしても、カレーのレシピは『再現』しちゃ駄目よ。繰り返しになるけど、保障は出来ないわ。ここから先はあなたを守れない。絶対に止めておきなさい」と夏目杏子は言った。ラクシャータは静かに頷いた。
三人で外に出ると、六月の星空が広がっていた。
「ラクシャータさん、はいこれ」と言って、夏目杏子はラクシャータに三冊の本を渡した。
「あなたのカレー作りに参考になりそうな本をピックアップしておいたわ。読むならこっちにしておきなさい」
「あっどうも、ありがとうございます」
「栞子さん、あなたにはこっち」
そう言って栞子が受け取ったのはドストエフスキーの「罪と罰」の上下巻だった。
「『登場人物早見表』付きよ」
「……ありがとうございます」
「栞子さん、一つ言っておくわ。私はあなたを『信頼』してラクシャータさんに本を見せたの。もちろんラクシャータさんの情熱は分かってる。だけどそれだけなら私はあの本を見せない。あなたがいるからなの。私はあなたの仕事ぶりと性格を『信頼』している。だから見せたの。そのことをよく分かっていてちょうだい」
夏目杏子はそう言って藤色の髪を翻し、夜に消えていった。
★
その週の日曜日、再びラクシャータから栞子に連絡があった。チャットには「ぜひ見せたいものがあるから寮に来てほしい」と書いてあった。栞子は嫌な予感、というよりは確信に近いものを感じ、急いでラクシャータのもとへ向かった。
栞子がラクシャータの寮に行ってみると、ラクシャータはキッチンのコンロの上に鍋を一つ火にかけていた。挨拶もせずに栞子は言った。
「まさか、ラクシャータさん。『作った』んですか」
「はい」とラクシャータは言った。栞子は戦慄を感じた。
「ラクシャータさん、あなたのそのカレーに対する情熱には『敬意』を表します。しかしこれは行き過ぎではないでしょうか。勿論私もあの話を真っ向から信じているわけではありません、疑っています。しかしッ! 実際に『再現』するのは危険すぎる! いいではないですか、噓か本当かは分かりませんが、そういう文献を見れただけでも御の字です! これ以上は行くべきではないのです! 『どんな登山家でも雷が近づいていたら山頂には行かない』、そこで引き返すべきなのです! あそこが『限界』だったんです!」
「分かっています、栞子さん。あそこにあったレシピは確かにいくつかは信じられないような内容でした。でも唯一、極めてシンプルで一般的なものがあったんです。『水と熱のための清浄な料理』と書かれていました。恐らく精進料理の一種だと思います。危険とはとても思えません! 見てください!」
ラクシャータはそう言って鍋の中のカレーを見せた。ふつふつと煮えたカレーからは確かにスパイシーな食欲をそそる匂いが漂ってきた。それが悪魔的呪物などとはとても考えることが出来なかった。
「……具材は何を?」
「食材はどれも基本的にインドでは『浄性が高い』とされる純質なものたちでした。『ギー』と呼ばれる精製バターに、レンズマメ、ナス、ヨーグルト、カリーリーフ、クミン、マスターシード、ターメリック、乾燥ココナッツなどです。それからとにかく辛味のあるものと書かれていました。なので赤唐辛子や青唐辛子などをふんだんに使っていますが、その分マンゴーなどのフルーツの甘味などを加えています」
「肉類やタマネギはないのですね」
「はい。神聖である牛はそもそも例外ですし、豚や鳥類は不浄なものに捉えられることが多く、今回も使っていませんでした。私はそこまで厳格なベジタリアンではありませんが、タマネギやニンニクなんかもインドの一部ではその刺激性が単純に嫌がられたり、地下茎のものは地中の虫を殺したりするという理由で不殺生の観点から避けられます」
「なるほど。特に変わった点はないということですか」
「はい。レシピの最後に書かれていた『呪文』のようなもの以外は……」とラクシャータは言った。
「呪文?」
「はい、時間がなく意味はあまり理解出来ませんでした。しかし恐らく神に感謝する内容か、あるいは『効果を高めるもの』だと思っています」
栞子は少し安直過ぎると思いもしたが、もうここまで来てしまったのだから仕方がないかとも思った。食材は確かに変なものは入っていなかった。案外、ただの健康料理なのかもしれないと栞子は心のどこかで思い始めていた。
「分かりました。やってみましょう」と栞子は言った。
「はい、ではいきます」とラクシャータは言って、念仏のように唱え始めた。文にしては三、四行程度のものだった。言い終わって見ても、鍋の中のカレーは相変わらず煮込まれていた。栞子は少し肩の力を落とした。
「食べてみましょう、ラクシャータさん。私が少し警戒し過ぎていたのかもしれません。これは至極全うなカレーではありませんか」と栞子は言った。
「はい、そうですね。ご飯はインディカ米を用意しました。今盛り付けますね」とラクシャータは言って、テーブルの上に二皿分とコップに水を用意した。
「では、いただきます」と言って、二人はほぼ同時にスプーンを口に運んだ。そしてお互いの顔を見合わせた。
「美味しい!」とラクシャータは言った。
「はい、美味しいですね。肉らしい臭みなんかがなく口当たりがいいように感じます。辛味もほどよく美味しいです。いけますね」と栞子は言った。
二人は話しながらどんどんそのカレーを食べた。するとしばらくして、辛味が段々と強くなってくるのを栞子は感じた。
「結構後から来るタイプですね」と栞子は言った。
「ええ、そうですね。でもそれもいいですね」
「辛いせいか、体が暑くなってきました」と栞子は言って、薄い上着を一枚脱いだ。
「確かにそうですね、エアコンの温度でも下げましょうか」
しかしそれでも体が暑かった。辛味自体は我慢できる。しかし何故か体が熱かった。カレーそのものの温度でもなかった。もっと内臓から発せられる熱だった。栞子は額ににじみ出てきた汗を拭った。
「香辛料のせいでしょうか、本場仕様のカレーとはこういうものなのですね。何かこう『内側』から来るような……」
「はい……そうですね……」と言ってラクシャータはエアコンのリモコンををぽちぽちと押した。
「それにしても暑いですね」と栞子が言ってエアコンの温度を見てみると、既に十八度だった。十八度でここまで冷気を感じないことはあるだろうかと栞子は思った。そう思っている間にも次々と汗が吹き出して、テーブルにぽたぽたと零れた。服全体がびっしょりと濡れていた。
「何か……おかしい」
栞子はついに口で息をするようになった。コップに入った水を一息に飲んだが、それすらもすぐに出て行ってしまうような気がした。
「うっ」と言ってラクシャータがスプーンを落とした。そしてテーブルにうつ伏せになった。
「ラクシャータさん!」
額を触ってみると、熱されたフライパンかと思うほど熱かった。
「これはッ! この『熱』! あの『禁書』、やはり本物でしたか!! 」
栞子の体からもどんどん汗が流れ出ていった。真夏にフルマラソンを走らされた後に超高温のサウナに放り込まれたかのような気分だった。もはや汗は出たそばから蒸発をし始め、湯気となっていた。栞子は湿ったシャツを脱いでインナーだけになった。
「くっ……『清浄』を求める料理……。『熱』でもって体の『浄性』を高める……はあっ、体内の不浄なものを水と共に出し切ろうとでもいうのでしょうか……それにしても水分を失い過ぎている、人間の体は確か十パーセント以上水分を失うと危険でしたね……何とかしなくては」
栞子は何とか気力を振り絞っていた。ラクシャータよりもスプーンを口に運んだ回数が少なかったおかげで、かろうじて意識を保っていた。
解決策として、「ダーティ・ワーク」でラクシャータを図書館に行かせないことが根本的には最適ではあったが、それはもはや不可能だった。「ダーティ・ワーク」は現在から概ね三時間以内の過去の事象にしか干渉出来ない。そして例え栞子が「ダーティ・ワーク」によって過去を変え、カレーを作ろうとするラクシャータを止めたとしても、必ずラクシャータはいつかこの禁じられたカレーを作る未来に辿り着いてしまうだろうと栞子は思った。
「何かあるはずです……。『熱』だけを高めるのでは死んでしまう、ならばそれを意図的に抑える『冷やす』方法があるはずです……。すでに体温は四十度を超え始めている」
目もくらむようなその時、床に三冊の本が落ちていることに栞子は気づいた。夏目杏子が去り際にラクシャータに与えた本だった。栞子は朦朧とした意識の中で何気なしにその本を床に置いたまま開くと、中に一枚の「栞」が差し込まれていた。その「栞」には手書きで文字が書かれていた。
「『冷たいミルクと、冷たい言葉。オーム・シータリー・サラスヴァティ』……。なるほど……。やれやれ、回りくどいやり方ですが、ここまで予測していたとはさすがですね。しかし助かりました。さっき冷蔵庫に牛乳が入っていたのは確認済みです」
栞子は何とか這いずって行き冷蔵庫のドアを開け、パックの牛乳を取り出すと、栞に書かれてあった呪文とともに牛乳をラクシャータに飲ませ、自分も同じように飲んだ。すると体に突然、高原にいるかのような爽やかな風が吹き抜けていった。
う……と言ってラクシャータも目を覚ました。栞子と同じように、熱はすっかり取り除かれているようだった。
「なるほど……インド魔術では、『マントラ』と呼ばれる呪文が重要視されると何かで読んだことはありましたが、こういうことだったのですね。しかしこれは確かに『簡単』で『危険』過ぎると言えます」
「栞子さん……私、やり過ぎちゃったんでしょうか」とラクシャータは起き上がって言った。
「そうですね。確かにやり過ぎだったかもしれません。しかし何も死ぬようなことではありません。きっと夏目杏子さんもそう思ったに違いないと、私は思います」
★
それからしばらくして、栞子のもとに十冊程度の古本の入った包みが届けられた。差出人はラクシャータが禁書のことを聞いた古本屋の名前だった。メモが一枚その中に入っていて、「この度はご迷惑をおかけしまして大変申し訳ございません」と書かれていた。
「ふふ。やれやれ、ですね。まだ『罪と罰』も読み終わっていないというのに」
きっとラクシャータのもとにも、同じように本が届いているだろうと、栞子は思った。