私、神谷凜は、どこにでもいる普通の男だった。
歳は三十で、特別頭が良いわけでもない。
運動が得意だったわけでもない。
容姿だって、街を歩いていて振り返られるようなものではない。
普通の学校に通い、普通に勉強し、普通に就職活動をして。
そして、死ぬほど苦労して、なんとか会社に就職した。
社会人になってからは、それなりに真面目に働いたと思う。
遅刻はしない。仕事も期限までには終わらせる。頼まれたことは基本的に断らない。
我ながら、そこそこ優秀な社会人だったと思う。
ただし。
そんな私にも、一つだけ特技があった。
――媚びを売るのが、非常に上手かった。
学生時代の先輩。大学の教授。職場の上司。取引先のお相手。
私は、相手の表情をじっくりと観察する癖があった。
眉が少し動いた。口元が緩んだ。声のトーンが変わった。目線がこちらから外れた。
そういった些細な変化を一つひとつ拾い上げて、その場に応じた態度を取る。
褒めたほうがいい人には褒める。
話を聞いてほしい人には、とにかく相槌を打つ。
自慢話が好きな人には、興味津々な顔をする。
逆に、余計なことを言われるのが嫌いな人には、こちらからは何も言わない。
相手が何を求めているのか。
今、自分にどういう反応をしてほしいのか。
それを考えながら、私は人と接していた。
もちろん、こんなことを特技として誇る気にはなれない。
自分の名前が「凜」なんて、どちらかといえば凛々しい響きをしているというのに。
実際の私は、権力のある人間を見つければ尻尾を振る、姑息なコウモリ野郎だった。
「いやぁ、さすが先輩ですね!」
「勉強になります!」
「○○さんに任せておけば間違いないですよ!」
そんな言葉を何度口にした。
時には自分でも、
(……私、今ものすごく媚びてるな)
と思うことがあった。
それでも、やめられなかった。
なぜなら。
生き残るためには、仕方がないからだ。
世の中には、正論だけではどうにもならないことがある。
プライドを守って損をするくらいなら、頭を下げて得をしたほうがいい。
どれだけ屈辱的な気分になろうとも、相手に気に入ってもらえれば仕事がやりやすくなる。
少し評価が上がる。面倒な仕事を押し付けられにくくなる。困ったときに助けてもらえることもある。
もちろん、生き残るために他の努力もやったけど。
そうして私は、必要とあればいくらでも媚びを売った。
それが私なりの処世術だった。
……まさか。
その特技が、異世界で命を救うことになるとは。
このときの私は、知る由もなかった。
気がついたとき。
「うーん」
私は、空を見上げていた。
最初に思ったことは、
知らない天井だ……
――ではなかった。
というか、天井なんてなかった。
視界いっぱいに広がっているのは、満点の星空だった。
黒に近い夜空。そこに、無数の星が散らばっている。
都会ではまず見ることのできない、圧倒的な数だった。
あまりに綺麗で。
あまりに現実味がなくて。
私はしばらく、ぼんやりとその光景を眺めていた。
「…………?」
しかし。やがて、違和感に気づく。
寒い。地面が硬い。
そして身体がおかしい。
私はゆっくりと身体を起こした。
その瞬間。
「……ん?」
頭の左右に、妙な感覚が走った。
何かが動いた。
反射的に顔を上げる。
……何だ、今の。
もう一度身体を動かしてみる。
すると、また頭の上で何かがぴくりと動いた。
「…………」
恐る恐る、自分の頭へ手を伸ばす。
触れると、ふわりとした毛。そして、丸みを帯びた感触。
「…………?」
意味が分からない。
とりあえず周囲に意識を向ける。
聞こえてくるのは、風に揺らされた草木の音。
遠くから聞こえる、水のせせらぎ。
夜の森特有の、どこか湿った匂い。
そして。
鼻を動かす。
自分でも妙な行動だと思った。普段の私なら、こんな行動絶対にしない。
だが、妙に匂いが分かる。
新緑の匂い。土の匂い。水の匂い。
それから――。
幼い頃に動物園でしか嗅いだことのない、獣のような匂い。
「……何だ、これ」
自分でも不思議なくらい、感覚が鋭くなっている。
聞こえる音も匂いも。
以前とはまるで違う。
そして、頭と――ケツ。
この二箇所に、特に強い違和感があった。
私はゆっくりと立ち上がり、周囲を見渡した。
そこには人っ子一人いない森が広がっていた。
うっとうしい程の木々、草花、岩山。見たこともない植物。
そして、遠くには月明かりを反射する湖。
……何だここ。
泥酔して、変なところに来たのか?
いや、そんな感じでもない。
そもそも、私は酒を飲んでいた記憶すらない。
それに。
「なんだ、あれ」
少し離れたところに生えている植物を見て、私は眉をひそめた。
紫色の葉。しかも、葉脈が妙に赤い。
その隣を、トカゲのような生き物が歩いている。
ただし。
私が知っているトカゲより、明らかにデカい。
そして目が三つある。なんか火を吐いている。
「……こわ」
見なかったことにしよう。
うん、きっと疲れているんだ。
私は頬を叩いた。
ぺちん。
「いたっ!」
夢ではない。
いや、待て。
もしかしたら、ものすごくリアルな夢なのかもしれない。
そんなことを考えながら、私はポケットを探った。
スマホとか財布とか鍵とか。
何かないか。
「…………ない」
そもそも。
ポケットがない。
「あれ?」
そこでようやく気づいた。
私は――。
自分の身体を見下ろす。
「えっ、私、全裸なんですけど」
夜の森に一人で、全裸。そして。
「うわっ、腕細!」
思わず声が出た。
その声が、夜の森に響く。
「……え?」
再び違和感を覚える。
今の声。誰の声だ?
私は慌てて自分の喉に手を当てた。
「え、えーと」
「声もかわいくなってる!なんで!!」
完全に女の子の声だった。しかも、かなり幼い。どういうことだ。
私は三十歳の男だったはずだ。
腕だって、もっと太かった。腕毛も普通に生えていた。
仕事で疲れた身体には、それなりに大人の男らしい筋肉も。いや、そこまで筋肉質ではなかったが、とにかくこんな腕ではなかった。
今の腕は。細く白く小さい。
そして、恐ろしく非力そうだ。すぐに折れそうな見た目である。
「うぅ、なんでぇ。夢なら早く覚めろよぉ・・・」
私は頭を抱えた。
その拍子に、また頭の上にある何かへ触れる。
ふわっ。
なんか、毛がある。
明らかに耳だ。
私はゆっくりと頭の左右を触った。
そこには、毛に覆われた大きな耳があった。
恐る恐る指で押してみる。
ぴくっ。
耳が動いた。
「ひっ」
思わず手を離す。
しかし、耳はその後も私の意思に合わせてぴくぴくと動いている。
今度は、自分の元々の耳がある場所に触れてみる。
髪の毛がある。その下を探る。
…どうやら、何もない。
どういうことだ。
頭の横についていたはずの耳がない。
代わりに、頭の上に獣の耳がある。
そして。
さっきからケツに感じていた違和感。
私は恐る恐る、背中側へ手を伸ばした。
ふわっ。
柔らかな毛。
触った瞬間、それが意思に反応するように揺れた。
「もしかして尻尾?」
もう一度触る。
ふさふさしている。たぶん間違いない。
「なんだこれは」
私は呆然と呟いた。現実感がない。
何かのドッキリなのか。
新手のVRゲームなのか。
それとも――。
「…悪い夢なら、早く覚めてくれよぉ」
しかし、何度頬をつねっても。
何度目を閉じても。目の前の森は消えてくれなかった。
と、とにかく、自分の姿を確認しよう。
近くにきれいな湖がある。
月明かりもあるし、水面に映せば姿くらいは確認できるだろう。
私は小走りでそちらへ向かった。
「うわっ」
身体がものすごく軽い。アラサーとは思えない軽さだ。
だが。
「なんだか歩きにくい」
一歩が小さい。足の長さが違う。身体の重心も違う。
おまけに、尻尾が勝手に揺れるせいで微妙にバランスが取りづらい。
転ばないよう慎重に歩いていると、ほんの少ししか離れていないはずの水辺まで、やたらと時間がかかった。
そして。
ようやく湖面へ顔を近づける。
そこに映っていたのは――。
知らない少女だった。年齢はおそらく五歳くらい。
小さな身体、白い肌。顎ぐらいの高さまで伸びた、ちょっとボサボサな黒髪。
そして。
頭から生えた、オオカミのような大きな耳。
私は右手を頬へ当てた。
水面の少女も、同じように頬へ手を当てる。
試しに口角を持ち上げてみる。
少女も笑った。
鋭い犬歯が覗く。
間違いない。この少女が私だ。
「…………」
しばらく無言で水面を見つめる。
そして。
「どうせなら、ハーレム系の男主人公にしてくれよぉ!!」
夜の森に、少女の悲痛な叫びが響き渡った。あと、いつのまにか息子と今生の別れをしていた。
そこから数日はまさに苦難の連続だった。
まず第一に、私はサバイバルなんてしたことがない。
現代日本で三十年生きてきた男に、森の中で生き抜く知識なんてあるわけがない。
水がなければ死ぬ。これだけは分かる。
だから、とりあえず水の確保だ。と言っても、目覚めた場所の近くに湖があったのだが。
水質に関しては何一つ分からなかったが、背に腹は代えられない。
恐る恐る口をつける。
「あっ、これは普通に水だわ」
普通に飲めた。多分腹痛も起きない。まぁすぐにはお腹壊すことはないか。
とりあえず、この世界の水は人間にも飲めるらしい。
そして、その日のうちに、先客のいなさそうな洞穴を見つけることができた。
屋根がある。雨風をしのげる。何より、外から丸見えではない。
「よし。ここを拠点にしよう」
だが夜になって、問題が発生した。
「め、めっちゃ寒い」
火が欲しい。非常に欲しい。
私は洞穴の入り口の近くから、湿っていない落ち枝をかき集めた。
そして、火をつけようとする。
「あれ?火ってどうやってつけんの?」
無理だった。
当然だ、ライターなんて持っていない。
マッチもない。火打ち石なんて、あるはずもない。
そこで私は、ふと思った。ここが異世界だと仮定するなら。
魔法、あるのでは?
「ファイヤ!」
何も起きない。
「メラ!」
ミス!何も起きない。
「エクスプロージョン!」
洞穴の中に、幼い女の子の声だけが響く。
むなしい。
ならばこっちだ。
異世界系なら多分定番のやつ。
「ステータスオープン!」
また、何も起きない。
むなしい。非常にむなしい。
そんなことを繰り返しているうちに、私は自分の内側へ意識を向けてみた。
すると。
「……ん?」
身体の奥に、何かがある。
上手く説明できない。
魔力、とでも言うのだろうか。
意識を集中させると
ぽうっ。
小さな光の球が、私の手のひらに浮かんだ。
できた、魔法だ。
本当に魔法があった!
「おお……!」
感動する。異世界に来て、初めて異世界らしい現象を見た。
だが。
「え?これなに?」
あまりにも小さい。
手のひらに浮かんだ光は、せいぜい豆電球程度。
「魔法的なやつ、これだけ?」
光源としては役に立つだろう。
でも。
「……しょぼ」
思わず呟いた。
しかもこの魔法を使うと、自分の中から何かが抜けていくような感覚がある。
それと同時に
「なんか、だる」
全身に倦怠感が押し寄せた。
どうやら無限に使えるわけでもないらしい。
「もう、いいや……」
結局その日は、火を起こすことすらできなかった。
私は諦めて、洞穴の地面に身体を丸める。
石は硬い。土は冷たい。枕も布団もない。
三十年間、文明の恩恵を受けて暮らしてきた私には、あまりにも過酷だった。
「家、帰りたい」
誰も答えてくれない。
風の音だけが、洞穴の外から聞こえてくる。
少し冷たくなった尻尾を股の間に通し、抱き寄せるようにして、眠りについた。