「だ、だから。どうか殺さないで」
私の決死の訴えもむなしく、男はゆっくりと剣を構え直した。
その動作は、とても静かだった。
怒鳴りもしない。睨みつけもしない。
ただ、淡々と剣を握り直している。
それが逆に怖い。
(あっ、私、死ぬんだ……)
妙に冷静な思考が頭をよぎった。
いやでも、ちょっと待ってほしい。
私はまだ異世界に来て数日だぞ。
右も左も分からないまま、必死に木の実やら小動物やらを食べて生き延びてきたんだぞ。
せめてもう少し異世界生活を満喫させてくれてもいいじゃないか。
魔法だって、ろくに使えていない。なんやねんあの光る球は。
ステータス画面すら出てこない。まぁこれは今後もでないとおもうけど。
それなのに、初めて会った、助けようとした人間に殺される。
異世界転生って、こんなにハードモードだったっけ?もっと、お気楽ハーレム!って感じだろ!
理不尽を感じなくはない。
だが、これ以上喚いてもどうにもならないだろう。
私は観念して、ぎゅっと目をつむった。
せめて痛くありませんように。できれば一瞬で終わりますように。
そして、来世ではやっぱり普通の人間に――。
いや、もう来世はいい。こんな思いをするのなら転生なんて一回で十分だ。
そんなことを考えていると。
ヒュッ、と空気を切り裂く音がした。
剣が振られた気配。
(……あれ?)
しかし、いつまで経っても私の首は落ちない。
恐る恐る目を開ける。
「……?」
頸は、ちゃんと繋がっていた。
それどころか、目の前にいた男の姿すらない。
「え?」
慌てて周囲を見回す。
すると、男は私のすぐ後ろに立っていた。
その手には、先ほどまで腰に下げていた剣。
そして――。
いつのまにか私の背後にいた魔物が、地面に倒れていた。
数秒、何が起きたのか理解できなかった。
どうやら男は、私を斬ったのではない。
私の後ろに忍び寄っていた魔物を斬り伏せたらしい。
「…………え?」
いや、ちょっと待って。
じゃあ今の私。
勝手に殺されると思って目をつむってた?泣きながら命乞いをして?
めちゃくちゃ恥ずかしいんだけど。穴があったら入りたい。
というか、今すぐ入りたい。できればそのまま二度と出てきたくない。
そんな私の羞恥心をよそに、突然、周囲の空気が震えたような感覚があった。
ビリッ、と身体の奥を何かが撫でるような、不思議な感覚。警戒して耳もピンと立つ。
(……これ)
以前、自分が魔法(推定)を使ったときと同じ気配だった。
この世界には、やっぱり魔法が存在しているらしい。
そんなことを考えていると、男が口を開いた。
「お前、翻訳魔法使えないのか。今どき、子供でも使えるぞ」
「え?」
「そんなに怯えなくても、殺すつもりはない」
「あっ」
その一言で、全身から力が抜けた。
(そ、そうなんだ)
よかった。本当によかった。
危うく異世界生活数日目で人生二度目の死亡を迎えるところだった。
…いや、殺されると勝手に勘違いしていただけなのだが。
私は無い胸を撫で下ろす。私は今やつるぺたロリなのだ。
しかし、安心するのも束の間。男は再び私に視線を向けた。
「もう一度聞くぞ」
その声は低い。
「お前は、何者だ?」
「……」
「人狼族の子供か? だが、一人でいるのは見たことがない。まさか、魔物か?」
どうやら、まだ疑われているらしい。
そりゃそうか。森の中で、五歳くらいの子供が一人。
しかも耳と尻尾が生えている。普通に考えれば怪しい。私だって怪しいと思う。
「い、いえ。私は、気づいたら一人だったんです。誓って魔物ではございません。おそらく、人狼族だと思います」
「……人狼族はプライドが高く、弱者を見下す」
「そ、そうなんですね」
「多種族を助けようとはしないはずだ」
「……」
ぐさっ。
なぜだか妙に心に刺さる。私はそんな種族なのだろうか。
いや、私は人狼族について何も知らないのだが。そもそも自分が本当に人狼族なのかすら分かっていない。
ただ、耳と尻尾がそれっぽいからそう思っているだけだ。
「あ、あー! そうですね!」
私は慌てて頷いた。
「そ、そんな気もします!」
「……」
少しでも魔族とか魔物だとか思われたら、再び剣を向けられるだろう。なにがなんでも、疑いを晴らすべきだ。
「そ、それに、貴方なんて、助けるつもりはなかったんですから!」
言ってから気づいた。
これはまずい。
完全にさっきの行動と矛盾している。
男が無言でこちらを見る。
(まずい)
無言の圧に、再び耳がぺたりと無意識で伏せる。
(まずいまずいまずい)
そうだ。
私はこういう時のために、前世で培った能力がある。
媚び。
社会人生活三十年で磨き上げた、私の唯一と言ってもいい特殊技能。
相手の表情、声色、立場、そして機嫌。
それらを瞬時に読み取り、最も好まれそうな態度を選択する。
これが私、神谷凜の生存戦略だ。
そして今、目の前にいるのは、私より遥かに強い男。
逆らうという選択肢はない。
「…嘘だ」
「ですよねぇ!」
即答だった。もう駄目だ。
この人、私のことを完全に見抜いている。
「本当はそれだけではなく、義理人情に厚く、力を持つ者には従うらしい」
「そ、それは……」
なるほど。人狼族って、そういう種族なのか。
プライドが高くて、弱者を見下す。でも義理人情には厚く、強者には従う。
……なんだその体育会系みたいな種族。
自分はあまり、そんなノリは好きじゃない。
いや、今はそんなことを考えている場合ではない。
「嘘ですよぉ!」
私は即座に手のひらを返した。
「本当は助けるつもりでした!」
「…………」
「いやぁ、旦那ぁ。さっきの一撃、すごかったですねぇ!」
我ながら見事な切り替えだった。
「魔物の首なんて、こう……スパァーンって!」
両手を使って剣を振る真似をする。
「もう、ほれぼれしちゃいましたよぉ!」
ついでに尻尾を左右に振る。
フリフリ。
フリフリ。
我ながら露骨すぎる。なんと無様なんだろう。
だが、生き残るためなら仕方がない。
「いやぁ、旦那は本当にお強い!」
声まで甘くする。
「私みたいなか弱い子供じゃ、あんな魔物、とてもじゃないですが敵いませんよぉ!へ、へへ…」
媚びる。
とにかく媚びる。
前世で上司にゴマをすっていた頃の経験が、まさか異世界で役に立つとは思わなかった。
人生、何が役に立つか分からないなぁ!(やけくそ)
「……はぁ」
男は深いため息をついた。
「疑うのが馬鹿らしくなってきた」
「そ、そうでしょうそうでしょう!私は嘘など言っておりません!」
「少なくとも魔族なら、今までのやりとりで不意打ちぐらいはするだろう。こんな馬鹿なやりとりはしない」
「………」
そこまで言われると、ちょっと傷つく。
私、そんなに姑息なことする魔物だと思われてたの?
いや、前世では割とそんな感じだったかもしれない。
「じゃあな」
男はそう言うと、踵を返した。
「あっ」
どうやら本当に行ってしまうらしい。
疑いが晴れ、命の危機が去ったことにホッとする一方で、私は男の背中をぼんやり眺めた。
そこで、少しだけ違和感を覚える。
さっきまで気づかなかった、男の歩き方。
その足取りには、わずかな疲労が見えた気がする。
動きそのものはしっかりしている。ふらついているわけでもない。
だが、ほんの少しだけ。
肩が重いように見えた。
(……疲れてる?)
よく見ると、服にも汚れがついている。
あの魔物と戦う前にも、何か別の戦闘をしていたのだろうか。
だが、あの剣の腕前。
あれだけ強い人なら、私なんかが心配する必要はないのかもしれない。
むしろ、私が心配される側だろう。
だから、このまま見送ってもいい。関わらないほうがいい。
あの人怖いし。私より超強いし。
何より、私はこの世界のことを何も知らない。もしかしたらEXP稼ぎ的な感じであっさり殺されるかも知れない。
それなのに――。
(……でも)
私は、少しだけ迷った。
そして、
「……あ、あの!」
男が足を止め、振り返った。
私は思わず一歩後ずさる。
怖い。やっぱりめっちゃ怖い。
でも、さっき助けてもらった。
それに、疲れている人をそのまま放っておくのも、なんとなく気が引けた。
「こ、このすぐ近くに、私の住処の洞穴があるんです」
私はおずおずと告げる。
「よ、よかったら……少し、休まれませんか?」
言ってから、自分でも思う。なぜ私はこんなことを言っているんだ。
相手は、ついさっきまで私を怪しんでいた男だぞ。
しかも、とんでもなく強い。
本来なら、一刻も早く離れるべきだ。
それなのに。
どうしても、放っておけなかった。
……まあ。
もしかしたら、恩を売っておけば、あとで何か助けてもらえるかもしれないし。
あわよくば、人間の町に連れて行ってもらえるかもしれないし。
う、うん。これは打算的な交渉。この男の強さをしっかりと利用しよう。
「…………」
男は黙ったまま、私を見る。
(や、やっぱり駄目だったかな。余計なお世話だったかも)
私は尻尾を小さく揺らしながら、返事を待った。男はしばらく何も言わなかった。
ただ、私をじっと見ている。
(…………)
(…………長い!)
なんだ、この沈黙。
まさか、私の洞穴に入ることで何か罠があると疑っているのだろうか。
当然だ。
私だって、知らない人間から「近くの洞穴で休みませんか?」なんて言われたら警戒する。
…いやでも、そもそも私はケモミミロリだ。
ロリにそんな警戒を向けるなよ。
ちょっとくらい信用してくれてもいいじゃないか。
そんなことを考えていると、男が小さく息を吐いた。
「……少し、休ませてもらう」
「!」
予想していたよりも、ずっとぶっきらぼうな返事だった。
まるで「仕方ないから借りてやる」とでも言いたげな声音だ。
けれど――。
(よ、よかったぁ……!)
内心では、思いっきりガッツポーズをしていた。
「は、はい! もちろんです!」
思わず声が上ずる。
「では、こちらへどうぞ!」
私は男に背を向け、洞穴の方向を指差した。
……よし。
これで、この人に恩を売れる。
いや、違う。
助けてもらった人を休ませてあげるだけだ。
私は善良なオオカミ少女なのである。決して打算ではない。
決して。
……たぶん。
ちらりと後ろを見る。
男は相変わらず無愛想な顔をしていた。
だが、先ほどよりもほんの少しだけ、その表情から警戒が抜けているように見えた。
私はそれに気づかないふりをして、尻尾を振りながら洞穴へ向かって歩き始めた。