別班、秀尽学園へ潜入する。   作:ホイップる

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別班、秀尽学園へ潜入する。前編

 

 上官から「一度、受けてみろ」と言われたのが、すべての始まりだった。

 

 心理戦防護課程。

 

 名称だけを聞けば、自衛官としての精神耐性や、尋問、情報操作、心理的圧力への対処能力を測る教育課程なのだろうと、おおよその想像はつく。しかし、神代零司に与えられた説明は、それ以上でもそれ以下でもなかった。実施主体も、選抜基準も、修了後に何へ繋がるのかも知らされず、ただ日時と場所だけを記した紙片が一枚、訓練終了後に上官から手渡された。

 

 その紙に書かれていた場所は、霞が関だった。

 

 官庁街の一角にありながら、周囲の無機質な庁舎とは明らかに趣を異にする建物で、灰白色の石壁と縦長の窓、装飾を抑えた柱廊、重厚な木製扉を備えた外観は、明治か大正の頃に建てられた洋風会館を思わせた。歴史的建造物を改修した施設なのか、それとも意図的にそう見せているのかは分からない。門扉の脇に施設名を示す銘板はなく、警備員も制服ではなく濃紺のスーツ姿で、神代が招待状代わりの紙片を見せると、それを一瞥しただけで無言のまま中へ通した。

 

 玄関ホールには市松模様に磨き込まれた大理石が敷かれ、その上を歩く靴音が、高い天井へ乾いた響きを返していた。壁には風景画と古い時計が掛かり、廊下の端には背の高い観葉植物まで置かれている。ここが何かの試験会場だと知らなければ、外国の大使館か、古い財団法人の迎賓施設と勘違いしても不思議ではない。

 

 ただ、その穏やかな雰囲気の中で、神代は建物に入った直後から、自分が見られていることを感じていた。

 

 受付を担当した男は、必要以上にこちらへ視線を向けなかった。階段を上がる途中ですれ違った清掃員は、帽子を深く被りながらも、神代が踊り場へ差しかかった瞬間だけ僅かに顔を上げた。二階の廊下では、工具箱を持った作業員が壁際に立っていたが、何かを修理している様子はなく、その視線は神代が通過するまで一度も工具へ落ちなかった。

 

 そうした一つ一つを、神代は意識して記憶した。

 

 何か意味があるかもしれない、と考えたからではない。意味があるかどうかを判断するためには、まず情報そのものを残しておく必要があるからだ。

 

 案内されたのは、二階の最奥にある応接室だった。

 

 扉を開けると、まず目に入ったのは大きな窓だった。壁一面の半分近くを占める縦長の窓から午後の光が差し込み、薄いレースカーテンを透かして室内を淡く照らしている。窓の向こうには街路樹の梢が見え、そのさらに奥には霞が関の庁舎群が並んでいた。

 

 室内には、濃い色の木製机と革張りの椅子が置かれ、壁際には本棚と飾り棚がある。古びてはいるが手入れは行き届いており、空気には木材と革、それからごく薄い紅茶の香りが残っていた。

 

 試験会場らしさはほとんどない。それだけに、かえって不気味であった。

 

「そちらへ」

 

 先に室内にいた男が、椅子を示した。

 五十代半ばほど。白髪の混じった短髪に、濃紺のスーツ。細身だが姿勢が良く、立っているだけで軍人特有の緊張感を纏っている。その隣には、三十代ほどの男が座り、膝の上に薄いファイルを置いていた。

 

 神代は一礼して着席した。

 

 名乗れとも、楽にしろとも言われない。

 

 しばらく誰も何も話さなかった。

 

 窓の外では、風に揺れた木の葉が陽光を反射している。遠くで車のクラクションが鳴り、廊下の向こうから誰かの足音が近づいてきたかと思うと、そのまま通り過ぎていった。

 

 数十秒ほど経ったところで、白髪の男が口を開いた。

 

「ここへ来るまでに、階段ですれ違った作業員の特徴を述べろ」

 

 神代は一瞬だけ目を伏せ、記憶を引き出した。

 

「身長は百八十センチ前後、四十代、中肉中背。紺色の作業着を着用し、右手に工具箱を持っていました」

「顔の特徴は」

「面長。左眉の上に小さな傷があります」

「靴は」

「黒色の安全靴です」

「腕時計は」

「右腕に着用していました。黒い樹脂製のベルトです」

 

 男は表情を変えない。

 

「なぜ右腕だと分かる」

「工具箱を右手で持っていましたが、袖口から時計の一部が見えました。文字盤が内側へ向いていたので、装着位置から判断しました」

「作業員が右利きか左利きか」

「断定できません」

「推測しろ」

「左利きの可能性がやや高いと考えます。工具箱を右手に持ちながら、左手で胸ポケットのペンを扱っておりました」

 

 少し間が空く。そこで男は一度だけ視線を横へ流した。隣の男が何かを書き込んでいる。

 

 神代はそれを見ても、何も感じなかった。正解しているのか、間違えているのか、それさえ伝わらない。

 

「次だ」

 

 机の上へ、一枚の世界地図が広げられた。

 

「グアム島の位置を示せ」

 

 神代は地図へ視線を落とし、即座に答える。

 

「この地図にはございません」

 

 白髪の男の目が僅かに細くなった。

 

「——次」

 

 試験が終わったことを告げられたのは、開始からどれほど経った後だったか、神代には正確には分からなかった。時計は視界に入る場所へ置かれていなかったし、途中からは時間そのものを意識することをやめていた。

 

「以上だ」 

 

 二人は退出した。扉が閉じる。室内には、神代一人が残された。体感で3時間ほど経過すれども一向に人の気配は無い。

 

 最初のうちは、先ほどの質問を頭の中で整理していた。だが、一つ一つの意図を推測し始めても際限がない。観察力、記憶力、判断力、警戒心、命令への服従性、あるいは服従しすぎないこと、それらを複合的に見ているのだろうとは思ったが、何をもって合格とするのかまでは分からなかった。

 

 窓の外では、午後だった空が少しずつ夕方へ変わっていった。

 

 陽光は斜めになり、洋館の向かい側にある建物の壁を橙色に染め始めている。街路樹の影も長く伸び、窓辺に置かれた小さな花瓶の輪郭が、床の上へ細長く落ちていた。

 

 静かな部屋で呼吸を整えた頃、背後で扉が開いた。音は小さいが、神代はすぐに気がつく。足音が一つ、二つ。

 咄嗟に立ち上がり振り返ろうとする。

 

「そのままでいい」

 

 低い声。先ほどの面接官とは違う。背後の気配からも伝わってくる無駄のなさ。手練である。

 神代は振り返らず、姿勢だけを正した。

 

「神代零司」

「はい」

 

 そこで、もう一つ音がした。

 布地の擦れる音——窓際に誰かが立っている。

 

 続いて、左右からほぼ同時に、重いカーテンが引かれ始めた。

 

 昼間は開かれていた厚手の暗幕が、窓を端から端まで覆っていく。外の夕光が少しずつ削られ、霞が関の街並みも、揺れていた街路樹も、遠くを走る車の姿も、一本ずつ閉ざされていった。

 

 最後の隙間から細い光が差し込んだかと思うと、部屋は一瞬で薄暗くなった。密室となりつつある空間を横目に捉えながら、神代は僅かに呼吸を浅くした。

 

「これより先に聞く内容は、すべて特定秘密として扱う」

 

 背後の男が言った。

 

「ここで知った事実を、家族、友人、同僚、上官へ話すことは認められない。命令系統外の者から質問を受けた場合、知らないと答えろ。記憶にないでも構わない。だが、存在を肯定するな」

「承知しました」

「本日一八〇〇をもって、神代零司に関する自衛隊内部の人事記録は通常系統から抹消される。所属、教育履歴、訓練内容、評価記録についても同様だ」

 

 神代の目が僅かに動く。

 

「今後、自衛隊内部において君を照会しても、通常の権限では経歴へ到達できない。表向きは……そうだな、バイトに勤しむしがない高校生と言ったところか」

「はい」

「本日付をもって、別班への配属を命ずる」

 

 その言葉だけが、妙に明瞭に聞こえた。

 

 別班——それが何かなど疑問に思う必要はない。神代は一度だけ息を吸い、背筋を伸ばした。

 

「拝命いたします」

「今後、別班に関する名称、組織、構成員、任務について第三者へ口外することを禁ずる」

「承知しました」

 

 そこで初めて、男が神代の正面へ回った。

 五十代後半ほど。灰色のスーツを着た、痩身の男だった。表情は乏しい。

 

 名前も階級も名乗らない。ただ、机の上へ一枚の封筒を置いた。

 

「そして早速だが、任務に就いてもらう」

「はい」

「詳細は別の場所で説明する」

「了解しました」

「一つだけ覚えておけ」

「何でしょう」

「ここから先は、訓練ではない」

 

 神代は男を見る。

 

「判断を誤れば、君一人ではなく、全国民が危機に晒されると思え」

「承知しています。これまでも、これからも」

 

 元より自衛隊に勤務していた神代はそう答える。男はそれ以上何も言わなかった。2人は扉の外へ歩みを進めていく。

 

 部屋のカーテンは、最後まで開けられることはなかった。

 

——————

 

 次に神代が連れていかれたのは、官庁街から車でしばらく離れた場所にある、古びた雑居ビルだった。霞が関に並ぶ無機質な庁舎群はとうに背後へ消え、窓の外には飲食店や小規模な事務所が入り交じる、ごくありふれた都内の街並みが続いている。車が停まった建物も、その風景の一部として見れば注意を向ける理由すら見当たらなかった。

 

 一階の案内板には法律事務所と輸入会社、不動産管理会社の名が並び、三階には税理士事務所、五階には小さな広告代理店の看板が掛かっていた。入口脇には宅配便の不在票まで挟まれている。自衛隊とも、防衛省とも、まして情報機関とも結びつかない外観だったが、神代はむしろそのことに納得した。秘密を守るために必要なのは、必ずしも堅牢な門や武装した警備員ではない。誰の記憶にも残らず、そこに何かがあるとさえ思わせないことの方が、場合によっては遥かに優れた防壁になる。

 

 黒い車を降りると、ここまで同行してきた男は振り返ることなく建物へ入った。神代もその背を追う。一階のロビーには管理人らしき老人がいたが、二人へ目を向けることはなく、案内役の男も声を掛けなかった。そのまま奥のエレベーターへ進み、二人だけで狭い箱の中へ入る。扉が閉じると街の雑音が途絶え、小さなモーター音だけが残った。

 

 男は正面を向いたまま何も言わない。神代も口を開かなかった。別班へ入るための教育課程で、すでに何度も叩き込まれている。知らされていないことは尋ねず、必要のないことは知ろうとしない。誰が味方で、誰が上官で、誰が同じ任務に関与しているのかさえ、与えられなければ知らないままでいる。別班において情報は共有するものではなく、任務遂行に必要な範囲だけを切り分けて渡されるものだった。それ以上を知ることは能力ではなく、捕縛された際に漏洩し得る情報を増やすという意味で、むしろ脆弱性に近い。

 

 電子音が鳴り、七階で扉が開いた。正面には照明の落とされた長い廊下が伸びている。神代は一歩踏み出しかけ、外から見た建物の形状と内部の距離感が僅かに一致していないことに気づいたが、足を止めることはしなかった。廊下には会社名を記したプレートも避難経路図もなく、突き当たり近くに取っ手以外には何も付いていない灰色の扉が一つあるだけだった。

 

 案内役の男はその前で足を止めた。

 

「ここから先は一人で入れ」

「はい」

「携帯端末は」

「車内に置いてあります」

 

 男は神代の顔を一度だけ確認すると、それ以上は何も告げずに踵を返した。任務の成功を祈る言葉も、注意事項もない。神代はその背中がエレベーターの向こうへ消えるまで見届け、それから扉へ向き直った。

 

 この先に何があるのか説明は受けていない。今日、自分がどこへ連れてこられたのかさえ正式には知らされておらず、この部屋の管理主体を確認する権限も自分にはないのだろう。それでも恐怖はなかった。研修施設で教官から告げられた言葉を思い出す。別班員に任務の全容が与えられることはない。自分が知っている範囲を、世界のすべてだと思うな。その原則に従うなら、今やるべきことは扉の向こうを推測することではなく、入れという命令に従うことだけだった。

 

 神代は扉を開いた。

 

 内部には光がなかった。一歩足を踏み入れると、靴底から伝わる床材の感触が廊下とは異なる。背後で扉が閉まった途端、建物の空調音さえ聞こえなくなり、自分の呼吸と衣擦れだけが不自然なほど耳についた。数秒の沈黙のあと、正面で低い起動音が響き、壁一面を占めていた複数のディスプレイが一斉に点灯した。暗闇に慣れていた瞳へ白い光が突き刺さり、神代は反射的に目を細める。

 

 最初に映し出されたのは事故現場だった。中央分離帯へ突っ込んだ乗用車、交差点で横転した大型車、線路上で停止した車両、高層建築物の屋上、駅前の防犯カメラ映像。個々に見れば何の関連もない事故や事件だったが、画面が増えるにつれて、その横へ新聞記事、警察資料、病院記録、司法解剖所見の一部、人物相関図、通信履歴、位置情報、時系列表が重ねられていく。資料にはいずれも管理番号が付されていたものの、神代の知る警察庁や防衛省の文書様式とは一致しなかった。

 

 画面の一角へ表示された資料区分を見て、神代は僅かに息を飲み込む。通常の行政文書では目にすることのない識別だった。所属そのものを記録に残さない部署でなければ扱えない資料だと、それだけで理解できる。

 

「神代零司」

 

 暗がりから声がした。

 

 ディスプレイの白光の外側から、一人の女が歩み出る。四十代半ばほどだろうか。黒いスーツに身を包み、装飾品らしいものは一切身につけていない。表情にも余分なものがなく、その目だけが鋭かった。ただし相手を威圧するために意図して作られた視線ではない。目の前の人間が何を知り、何を考え、どこまで隠しているのかを短時間で見極めることに慣れた人間の目だった。

 

「はい」

 

「櫻井美里。今回の任務における指揮担当だ」

 

 所属も階級も告げない。神代はその意味を一瞬だけ考え、すぐに思考を止めた。聞く必要がないということだ。

 

「神代零司、着任いたしました」

「うむ、結構――早速ですが、任務概要を説明する」

 

 櫻井が操作卓へ触れると、画面が切り替わった。日本地図が表示され、首都圏を中心として無数の赤い点が浮かび上がる。

 

「過去二年間、国内において通常の医学的、犯罪学的説明が困難な事案が断続的に発生している」

 

 赤い点のいくつかが拡大され、事故、自殺、突発的な暴力事件、社会的地位のある人物による常軌を逸した行動が映し出された。発生場所も被害者の属性もばらばらで、表面的には規則性がないように見える。

 

「警察内部では俗に精神暴走事件と呼ばれている」

 

 一つの監視映像が再生された。駅前を歩く会社員らしい男が、携帯端末を確認しながら横断歩道の前で立ち止まっている。歩調にも表情にも異常はなく、周囲を警戒している様子もない。どこにでもある夕刻の風景だった。

 

 変化は突然だった。

 

 男の肩が大きく震え、携帯端末が手から落ちる。両手で頭を押さえ、何かから逃れるようにその場へうずくまる。周囲の通行人が声を掛けても反応せず、数秒後に顔を上げたとき、その目には先ほどまでの平静さが残っていなかった。男は制止しようとした通行人を振り切り、そのまま車道へ飛び出していった。

 

 映像が停止すると、室内へ再び静寂が戻った。

 

「薬物反応なし。外傷なし。脳器質疾患なし。重篤な精神疾患の既往も確認されていない。発症の数分前まで、会話能力、判断力、運動機能のすべてが正常だった」

 

 神代は画面から目を離さなかった。資料だけを見れば、急性の精神症状として処理できなくもない。しかし、同じ種類の異常が一定期間に繰り返され、しかも別班へ案件が上がってきている。それだけで、単なる医学上の異常として扱われていないことは明らかだった。

 

「通常の犯罪捜査では説明できない要素があるということですね」

「それだけなら我々が出る必要はない。警察、公安、防衛、内閣情報部門がそれぞれ独自に調査を行っているが、情報を統合しても原因へ到達できていない」

「別班へ回された理由は」

「事件そのものではない」

 

 櫻井が画面を切り替えると、赤い点のいくつかから線が伸び、複数の人物や組織へ繋がった。

 

「事案の一部に、政府関係者、官僚、企業経営者、防衛関連企業の関係者が含まれている」

 

 神代の表情が僅かに変わった。もし精神異常が意図的に引き起こされているのであれば、標的を選択できる可能性がある。それが事実なら、もはや一般犯罪の枠内では収まらない。

 

「人為的なものだと考えているのですか」

「証拠はない。だが、可能性を排除する証拠もない」

 

 次に表示されたのは、それまでとは性質の異なる事案だった。長期間にわたって自身の不正行為を否認していた人物が、ある日を境に態度を一変させ、公衆の面前で罪を認めた記録。教育機関で起きた事案、著名な文化人に関する事案、そのほか報道されていない複数のケースが並ぶ。

 

 神代は資料を追った。いずれも、それまでの本人の言動や利害関係から考えれば不自然なほど急激な精神状態の変化を示している。精神暴走とは表面上の結果が正反対だった。一方では理性が崩壊し、もう一方では、それまで頑なに否定していた罪を自ら認める方向へ人格が変化している。しかし現象の結果ではなく、本人の意思決定が短時間のうちに大きく変質したという一点に目を向ければ、両者を完全に別物と断定する根拠もなかった。

 

「本人の意思決定そのものが、外部から変えられている可能性がある」

「我々もその可能性を捨てていない。重要なのは方法だ。薬物なのか、装置なのか、心理的誘導なのか、それとも現在の科学体系では説明できない別の機序なのか。今のところ、どれも証明されていない」

 

 画面が一度暗転し、黒と赤を基調とした奇妙な意匠が浮かび上がった。仮面を連想させるロゴの下に、一つの名称が表示される。

 

『心の怪盗団』

 

 神代は僅かに眉を寄せた。名前だけなら知っている。インターネット上で若者を中心に広がりつつある都市伝説。悪人の心を盗み、その人物を改心させる正体不明の集団。荒唐無稽な噂話として片づけるなら、それで終わる存在だった。

 

「この集団が、今回の主要調査対象の一つだ」

「実在するのですか」

「不明だ。ただし、名称だけが独り歩きしている単純な都市伝説ではない。複数の事案において、対象者の変化以前から怪盗団への言及が確認されている。また、改心と呼ばれる現象が発生し始めた時期と、怪盗団がネット上で認知され始めた時期にも一定の一致がある」

「精神暴走事件との関係は」

「確認されていない」

 

 櫻井はそこで初めて、資料ではなく神代を正面から見た。

 

「ここを間違えるな。怪盗団が精神暴走を引き起こしているという証拠はない。反対に、奴らが精神暴走を止めているという証拠もない。両者が無関係である可能性も、同一の原理を異なる勢力が使用している可能性も残っている」

 

 ディスプレイには複数の仮説が表示されたが、そのどれにも確定を示す印は付いていなかった。情報の空白を推測で埋め、一度立てた仮説へ後から得た証拠を無理に適合させることは、情報分析において最も避けるべき誤りの一つだった。

 

「先入観を持つな、ということですね」

「そうだ。正義感も嫌悪感も持ち込むな。我々が知りたいのは、怪盗団が善人か悪人かではない。何者で、何ができ、その能力がどこまで及ぶのか。そして、その力が国家へ向けられた場合に何が起きるのか。それだけだ」

 

 画面が切り替わった。

 

 三人の男の顔写真が表示された。年齢も容貌も異なり、一人は四十代、一人は三十代、最後の一人は神代とそう歳が離れていないように見える。写真の下に氏名はなく、識別番号だけが付されていた。

 

「この三名は」

「別班員だ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、神代は無意識に背筋を伸ばした。櫻井も数秒間、何も言わなかった。

 

「三名とも、本件の先行調査へ投入された」

「現在は」

「所在不明だ」

 

 神代は写真を見たまま、返答をしなかった。

 

 別班員が任務中に消息を絶つ。その意味は、一般の捜査員が行方不明になることとはまったく違う。身元を隠し、監視を察知し、尾行を見抜き、接触先を限定し、危険が迫れば痕跡を残さず離脱する。そのための訓練を受けた人間たちだ。そうした要員が、同一案件へ投入された後に三人続けて消息を絶っている。偶然と考えるには出来すぎていた。

 

「一人目は三か月前、二人目は四十六日前、三人目は十一日前に連絡を絶った」

「遺体は」

「発見されていない」

「最後の確認地点は」

「全員東京都内だ。ただし場所は異なる」

「三名の間に私的な接点は」

「確認されていない」

 

 神代は画面を見ながら思考を巡らせた。三人が同じ人物へ接触したわけでもなければ、同じ場所へ向かったわけでもない。活動期間も一致していない。それでも三人とも消えた。

 

「共通点は、この任務だけですか」

「現時点ではな。そして三名とも、消息を絶つ直前には本件の核心に近い情報へ接触していた可能性が高い」

 

 画面中央へ、精神暴走事案、心の怪盗団、別班員失踪の三項目が表示され、その間を細い線が結んだ。しかし、どの線にも確定を示す表示はない。

 

「怪盗団が三名を消したと見ているのですか」

「違う。それを決めるのがお前の任務だ」

 

 櫻井は間を置かずに否定した。

 

「実行主体が怪盗団とは限らない。精神暴走を引き起こしている別勢力が存在する可能性もある。第三国の情報機関、国内組織、研究機関、民間企業、あるいは既存の分類に当てはまらない何かかもしれない。ただし、一つだけ確かなことがある」

 

 櫻井の視線が、三人の顔写真へ戻る。

 

「この三人は素人ではない。それでも消えた」

 

 神代は何も答えなかった。

 

 その一言だけで、目の前の資料が持つ意味は十分に伝わっていた。もし三人の失踪が同一の存在によって引き起こされたのだとすれば、相手は警察が通常想定する犯罪者の範疇には収まらない。少なくとも、別班員の監視や回避行動を突破し、痕跡を残さず排除あるいは拘束できる程度の能力を持っている。

 

「相手を過小評価するな。別班と同等と考えろ。状況次第では、それ以上だ」

 

 神代は三人の写真を見ながら、初めて胸の奥に重いものを感じた。自分が別班へ配属されてから、まだ日が浅い。その最初の実任務で追うことになるのが、すでに三人の先任者を飲み込んだ何かだという。

 

 恐怖がないわけではなかった。しかし、それ以上に強かったのは、訓練期間中に存在だけを仄めかされてきた「表には出ない戦場」が、初めて目の前に具体的な形を取ったという実感だった。新聞にも載らず、国会でも語られず、事件として記録されることすらない。それでも放置すれば国家そのものへ到達しかねない異常を、誰にも知られないまま調べる。それが、自分の選んだ場所なのだ。

 

「神代零司」

「はい」

「任務を伝える」

 

 神代は静かに姿勢を正した。櫻井が操作すると、ディスプレイ上に任務内容が表示される。

 

——第一:本邦内で発生している精神暴走事案について、原因、発生機序および実行主体の有無を特定する。

 

——第二:心の怪盗団と称される存在について、構成員、指揮系統、目的、能力、活動方法を特定する。

 

——第三:先行投入された別班員三名の消息を確認し、生存している場合は状況を把握した上で回収を試みる。

 

「承知しました」

「本任務は省内の通常記録には残らない。警察庁にも正式な捜査協力は要請しない。公安調査庁、自衛隊情報部門、内閣情報部門にも、お前が投入された事実は通知されない」

 

 神代は僅かに眉を動かした。

 

「完全な非公然任務ということですか」

「非公然任務であっても、実施主体は内部記録に残る」

 

 櫻井の言葉には、わずかな間があった。

 

「今回は、お前がこの任務へ投入されたという記録そのものを残さない」

 

 その意味を理解するまでに時間は掛からなかった。非公然活動でさえ、後から国家内部で責任の所在を確認できるよう最低限の記録は存在する。今回はその外側に置かれるということだった。

 

「拘束された場合、政府は関与を認めない。警察に身柄を確保された場合も身分を明かすな。現場判断で離脱しろ」

「支援は」

「必要と判断された場合のみ与える」

「連絡経路は」

「後ほど指定する。定時連絡は行わない。原則として、こちらから接触する」

 

 神代はそこで、三人の失踪と今回の運用方針が無関係ではないことを理解した。定期的な連絡そのものが、何者かに追跡される手掛かりになり得ると見ているのだ。誰が敵なのか分からない以上、味方との接点さえ弱点になる。最初から孤立を前提とした任務だった。

 

 櫻井が最後の画面を表示した。

 

 黒い背景に、短い文字列だけが浮かび上がる。

 

 国家安全保障上の敵性存在認定。

 

「そして最後の規定だ。調査の結果、心の怪盗団、もしくは精神暴走事案の実行主体が、国家安全保障上の重大な脅威であると認定された場合、対象の活動を停止させる」

「拘束を優先しますか」

「状況による」

「対象が抵抗した場合は」

 

 櫻井は数秒間、神代を見た。

 

「——排除を許可する」

 

 神代の表情は変わらなかったが、その瞳だけが僅かに細くなった。

 

「排除の定義を確認します」

「殺害を含む」

 

 迷いのない返答だった。

 

 神代はすぐには応じず、画面に浮かぶ文字を見つめた。心を盗む。人を改心させる。インターネット上では英雄譚のように語られている存在だ。しかし、仮にその実態が人間の人格や意思決定そのものへ外部から干渉する能力なのだとすれば、問題の性質は完全に変わる。一人の犯罪者を改心させるという範囲に留まる保証など、どこにもない。

 

「仮定の話をする」

 

 櫻井が静かに続ける。

 

「人間の精神へ外部から干渉し、意思決定を任意の方向へ変化させる手段が存在するとしよう。それが一個人へ使われるだけなら、犯罪として処理することもできる。だが、対象が総理大臣ならどうなる。閣僚なら、自衛隊の指揮官なら、警察庁長官なら、裁判官なら。中央銀行の政策決定者や、重要インフラを管理する技術者なら」

 

 神代は黙って聞いていた。

 

「一発の銃弾も撃たず、一人の兵士も国境を越えずに、国家の意思決定だけを書き換えられるとしたら?」

「国家機能そのものを、内部から掌握できます」

「そうだ」

 

 櫻井は神代から目を逸らさなかった。

 

「だから我々が動く」

 

 その言葉で、今回の任務が持つ意味がようやく一つに繋がった。

 

 怪盗団を逮捕するためではない。都市伝説の正体を暴くためでも、精神暴走事件の犯人を警察へ引き渡すためでもない。国家がまだ原理すら理解していない力が、この国の内部ですでに使用されている可能性がある。その力が本当に存在するのか。誰が保有しているのか。どこまで作用するのか。再現性があるのか。そして敵対勢力へ渡った場合、国家はそれに抵抗できるのか。

 

 表の機関が脅威として認識し、制度として対処を始めるより前に、その輪郭を掴む。

 

 そのために別班が投入されたのだ。

 

「意味は理解したな」

「はい」

「復唱しろ」

 

 神代は一度だけ静かに息を吸った。

 

「精神暴走事案の原因、発生機序および実行主体を特定します。心の怪盗団について、構成員、目的、能力、活動方法を特定します。消息不明となった別班員三名の行方を確認し、生存している場合は回収を試みます。その過程で国家安全保障上の重大な脅威となる存在を確認した場合、必要な措置を講じます。状況によっては対象を排除します」

「よろしい」

 

 櫻井が操作卓へ触れると、画面が一枚ずつ暗くなっていった。精神暴走事件の資料が消え、怪盗団のロゴが消え、最後まで残っていた三人の別班員の顔写真もやがて闇へ沈んでいく。

 

 室内が再び暗闇に包まれた。

 

 神代はそこに立ったまま、しばらく動かなかった。入室する前と同じ闇であるはずなのに、もう同じ場所には思えない。ここへ来るまで、自分はまだ国家という巨大な組織の内側にいるのだと、どこかで考えていた。しかし実際には、そのさらに裏側へ足を踏み入れていた。

 

 命令書はない。正式な辞令もなく、任務の存在を証明する文書も残らない。成功しても名は記録されず、失敗しても理由は公表されない。先に投入された三人と同じように、ある日突然この国から消えたとしても、神代零司が何を追い、何のために消えたのかを知る者はほとんどいないだろう。

 

 それでも任務は存在する。

 

 国家が表向きには認めることのできない脅威があるのなら、それを追う人間もまた、表から姿を消さなければならない。

 

「神代零司」

 

 自分の名前を口にしてから、神代は櫻井の立っている暗がりへ向き直った。

 

「任務を拝命します」

 

 櫻井から返事はなかった。

 

 数秒後、背後で扉のロックが解除される音が響いた。振り返ると、僅かに開いた扉の隙間から廊下の白い光が細く差し込んでいる。

 

 その先には、ここへ来たときと何も変わらない虎ノ門ヒルズ周辺の日常がある。エレベーターを降りれば法律事務所があり、宅配業者が荷物を運び、外へ出れば道行く人々が昼食の店を探しているだろう。この七階で何が話されていたのかを知る者は、その中に一人もいない。

 

 それでいい。

 

 神代は一度も振り返らず、部屋を出た。

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