別班、秀尽学園へ潜入する。   作:ホイップる

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別班、秀尽学園へ潜入する。後編

 

 神代が任務を拝命してから数日が過ぎた頃には、精神暴走事件と心の怪盗団を巡る情報も、少しずつ輪郭を持ち始めていた。

 

 消息を絶った三人の別班員が残した報告、警察や医療機関から集められた精神暴走事件の記録、鴨志田卓と斑目一流斎が突如として自らの罪を告白した二件の「改心」、それに怪盗団が世間へ知られるようになってから急速に増えたネット上の情報。

 

 目を通す資料は日を追うごとに増えていたが、調査の方向そのものが際限なく広がっていたわけではない。三人の別班員も、最初から怪盗団を追っていたのではなく、彼らが調査していたのはあくまで精神暴走事件だった。

 

 その途中で、人格そのものが変わったようにも見える異常な自白が相次ぎ、それを自分たちの仕業だと主張する集団が現れたからこそ、調査記録の中に「心の怪盗団」という名前が増えていったにすぎない。

 

 精神暴走と改心が同じ現象なのか、同じ何かを別の人間が利用しているのか、それとも全く関係のない事象が偶然近い時期に発生しているだけなのか。

 核心に至る結論こそ出ていなかったが、怪盗団の正体を確認しないまま精神暴走だけを追い続けるには、両者の距離が近くなりすぎていた。

 

「――そう。やはり精神暴走事件と心の怪盗団の間には、何かしらの関係性がありそうね」

「ええ。しかし、まだ明確な方向性までは出てきていません。心の怪盗団が解決したと思われる案件も大きく二つ……データ数がもう少しあれば見解も変わるかもしれませんが」

 

 二人がいたのは、窓のない解析室だった。

 

 室内には黒い筐体の端末が幾列にも並び、空調と冷却装置の低い駆動音が絶えず響いている。壁面のほぼ全てが大型ディスプレイになっており、都内の地図、事件の発生時刻、人物情報、鉄道路線や医療機関の記録が複数の領域に分かれて表示されていた。紙の資料は一枚もない。神代と櫻井の手元にある薄型端末も壁面表示と同期しており、指先で項目を送れば、正面に映る情報もそれに合わせて切り替わる。

 

 櫻井は精神暴走事件の発生地点が浮かぶ都内地図を暫く眺めたあと、検索条件の一覧へ視線を移した。

 

「もっと捜索範囲は広げた方が良さそうね。SNSや他の精神暴走事件まで広げるのであれば、ハヤトを使いなさい」

「別班のスーパーコンピューター、ですか」

「そう。事件記録の照合や、大量の資料を扱う時には役立つと思うわ」

 

 その言葉に呼応するように、神代の正面へ新しい表示が開いた。

 

『神代零司。今回の任務に必要な解析権限を確認しました』

 

 落ち着いた声が室内に響き、同時にアクセス可能な情報領域が画面上へ並ぶ。機械的というほど平板ではないが、言葉の選び方にも無駄がなく、必要な情報を正確に返すことへ徹しているように聞こえた。

 

「分かりました」

 

 神代が頷くと、櫻井は今度は手元の端末から別の接続先を開いた。壁面の一角が切り替わり、それまで数字や地図ばかりだった画面に、赤い髪と大きな瞳を持った少女の姿が現れる。

 

「それから、もう一つ。ソフィア」

『呼んだか?』

 

 場違いなくらい明るい声が、機械音ばかりだった室内へ響いた。

 

「……これもAIですか」

『これとは失礼だぞ。ワタシはソフィアだ』

「別件で回収された自律型AIです。元の開発元は現時点では不明。情報検索と対話能力が高く、利用価値があると判断されて、こちらで暗号通信や任務用端末への接続機能を追加しています」

『それから、ワタシは人の良き友人になるのが目的だぞ』

 

 神代は一度ソフィアの映る画面を見て、それから櫻井へ視線を移した。

 

「任務支援とは随分方向が異なる気が……。この設定は司令が?」

「違うわよ。少なくとも、こちらで回収した時からそういう目的を持っていた。そこは私たちが追加したものじゃないわ」

「……そうですか」

『零司は納得してないな?』

 

 初対面でいきなり下の名前を呼ばれ、神代の眉が僅かに動いた。

 

「……零司?」

『ハヤトが言うに名前は神代零司なのだろう? だから零司だ。人は名前で呼ぶものと聞いたが、ダメなのか?』

「別にいいけど」

『ならよかった!』

 

 ソフィアは本当に安心したような声を出した。神代が何とも言えない顔で画面を見ていると、隣で櫻井が小さく息を吐く。

 

「仲良く出来そうね」

「この妙に人間味のあるAIが任務の支障にならなければいいのですが」

 

 その時は、ただ少し変わったAIを一つ使うことになった、その程度にしか考えていなかった。

 

 実際に調査へ組み込んでみると、ハヤトとソフィアの違いはすぐに分かった。

 

 神代が端末から検索条件を送れば、壁面いっぱいに情報が展開される。事件発生日、人物、行動範囲、学校の日程、鉄道路線。大量の記録が一度に呼び出され、条件から外れた情報が暗転し、残った項目だけが新たな関連線とともに並び直されていく。

 

『神代、その条件だと広すぎる。日時か行動圏、どちらかもう少し絞った方がいい』

「了解。じゃあ事件発生から四十八時間以内、半径三キロ」

 

 神代が条件を修正すると、画面上の候補が一気に減った。

 

『それならまだ見られる。……ただし、三キロに根拠はないだろ』

「仮置き。結果を見て動かす」

『そうか。ならいい』

 

 端的ではあるが、完全に無機質というわけでもない。神代が雑な条件を投げれば容赦なく指摘するし、筋の通った理由があればそれ以上は口を挟まない。必要な結果だけを返すことも出来るのだろうが、神代の条件設定そのものへ意見を挟む程度には融通が利いた。

 

 一方のソフィアも検索や情報整理は出来るものの、同じ情報を前にしても、神代やハヤトとは少し違うところで立ち止まった。

 

 たとえば、怪盗お願いチャンネルを整理させた時だった。投票数や投稿時間を一覧化させるつもりで任せたはずが、暫くすると壁面の一部に個々の投稿が大きく表示され始めていた。

 

 ――逆らったら試合に出られなくなる。

 

 ――先生に言っても何も変わらない。

 

 ――もう学校に行きたくない。

 

 ――誰かどうにかして。

 

 鴨志田事件が表沙汰になる以前の日付にも、似たような書き込みが残っている。学校名も人物名も直接書かれていないものが多く、投稿者が秀尽学園の生徒だと断定出来るものではない。それでも、部活動の内容や教師についての記述を照らし合わせれば、鴨志田周辺の事情と近いものはいくつかあった。

 

「零司」

「何?」

『この人は、助けてほしいのか?』

 

 別の事件記録を追っていた神代は、端末を操作する手を止めた。

 

「どれ?」

『ここだ。「先生に言っても何も変わらない」って書いてある。でも、「助けてくれ」とは書いてない』

 

 ソフィアが指定した投稿が壁面上で強調される。

 

 神代はその前後まで表示を広げた。短い一文だけなら単なる愚痴とも読める。その前には部活動への不満があり、その後には誰かへ相談したらしい記述が続いていた。

 

「文脈からそう読み取ることは出来る。ただ、人間は思っていることを全部そのまま言葉にするわけじゃないから、真意までは分からないな」

『文脈……』

 

 少し間を置いて、ハヤトが口を挟んだ。

 

『全部そのまま言葉にする人間の方が少ない。投稿単体じゃ感情までは断定出来ないけど、前後の発言や行動と合わせれば、ある程度は推測出来る』

『ハヤトは人の心が分かるのか?』

『いや。そこまでは分からない。分かるのは、残ってるデータから推測出来る範囲だけだ』

『そうなのか……難しいな』

 

 ソフィアは暫く考えていたが、やがて声を上げた。

 

『でも、分からないなら知ればいいんだな』

 

 その立ち直りの早さに、神代は思わず口元を緩めた。壁面では、止まっていた解析結果が再び動き始めている。

 

 使っているうちに、役割は自然と分かれていった。事件記録や行動データの大規模な照合はハヤトに任せ、ソフィアには公開情報やネット上の書き込みを整理させる。ハヤトが大量の情報同士の関係を見るなら、ソフィアはそこに実際に書かれている言葉を読むことが多い。ただし、どちらかの答えをそのまま採用することはなかった。何を調べ、どの一致に意味があり、どこから先は偶然として切るのかを決めるのは、あくまで神代だった。

 

 もっとも、ソフィアはそうした役割分担の外側にも、平然と踏み込んできた。

 

「零司。もう少し寝た方がいいぞ」

 

 ある夜、神代が三人目の別班員の失踪記録を読み返している最中、何の前触れもなくそんな声が飛んできた。時計の表示は既に深夜を回っている。

 端末の脇には飲みかけのコーヒーと、空になったゼリー飲料のパウチが二つ、その横には半分ほど齧られた固形の栄養食が包装紙の上へ置かれたままになっていた。少し離れたゴミ箱には、昼に食べたカップ麺の容器まで覗いている。

 

 神代はこうした作業を、ほとんど決まってソフィアを起動したまま行っていた。壁面に情報を展開しながらゼリー飲料を流し込み、解析結果を待つ間に固形栄養食を齧り、昼を跨げば端末の前でカップ麺を啜る。食事のために作業を止めるという発想そのものが薄いため、ソフィアがその様子を覚えていても不思議ではなかった。

 

 神代は壁面から目を離し、ソフィアのアバターが表示された領域を見る。

 

「急に何の話?」

『昨夜は三時間四十二分しか寝ていない。それから、もう二十時間近く起きてるぞ』

「そんな時間、いつ測ってたんだよ」

『記録があるから分かる。それと、食べ物も同じようなのばっかりだ』

 

 そこからソフィアは、昨日の夜はゼリー飲料と栄養食、その前はカップ麺、その前はゼリー飲料だけだったと、妙に正確な記録を並べ始めた。

 

「見てたのかよ」

『零司がワタシの前で食べるからだぞ』

 

 言われてみれば反論出来ない。

 

「食べてるならいいだろ」

『あれが食事なのか?』

「食事だろ。カロリーあるし、少なくとも死にはしない」

『……それはいささか基準が低すぎないか?』

『低いな。倒れないことを健康管理の基準にするのはやめた方がいい』

 

 ハヤトまで自然に割り込んできた。

 

 神代は軽く天井を仰いだ。

 

「……お前ら、こういう時だけ仲いいな」

『別に連携してるわけじゃない。同じ結論になっただけだ』

『でも、ワタシは心配してるぞ』

 

 その言葉に、神代の指が止まった。

 

「心配?」

『たぶんそうだ。零司が疲れてると、なんか嫌だ』

 

 ソフィア自身も、口にした言葉が正しいのか分からないらしい。少し間を置いてから、先ほどより慎重な声で続ける。

 

『これが心配……だよな?』

「俺に聞かれてもな」

『なんで分からないんだ? 零司は人間なのだろ?』

「人間なら全部分かるわけじゃないよ」

『そうなのか』

『人間だって、自分の感情を全部説明出来るわけじゃないだろ』

 

 ハヤトが補足する。

 

 短いやり取りのあと、ソフィアの表示領域には再び検索結果が並び始めた。それでも神代はすぐには失踪記録へ視線を戻せなかった。今のソフィアは感情を理解したいと言いながら、自分の中に生じたものについても、一つずつ名前を確かめようとしている。その姿は、高性能な情報支援AIというより、知らない言葉を覚えていく子供に近かった。

 

「まったく……今日はこれ終わったら寝るとするよ」

『本当か?』

「本当、本当」

『そうか、なら安心した!』

『一応言っとくけど、「これ終わったら」で二時間やるのはなしだからな』

 

 ハヤトの声が続き、神代の手が僅かに止まる。

 

「……そんなわけないだろ。一時間くらいはやるかもしれないが」

『長い。三十分にしとけ』

「急に厳しいな」

『今の状態なら、その方が効率いいだろ』

 

 神代は小さく笑い、端末へ触れた。失踪記録が再び壁面中央へ戻る。

 

 その日の帰り、コンビニでいつものようにゼリー飲料と固形栄養食を手に取ったあと、しばらく迷ってサラダを一つ追加したことについては、ソフィアにもハヤトにも何も言わなかった。

 

 それから一週間ほど調査を続けるうちに、次に見るべき場所はそう難しくなく絞られていった。

 

 怪盗団の周囲には、学生、それも高校生に近い生活周期が見える。平日の昼間より夕方以降に動きが増え、休日にはその偏りが変化する。何より鴨志田卓との直接的な接点がある以上、秀尽学園が候補に挙がること自体は当たり前だった。神代が確認したかったのは、そこから鴨志田という強すぎる要素を外しても、同じ学校が残るかどうかだった。

 

「ハヤト。鴨志田関連の情報の比重を下げて、活動時間、生活圏、学校日程を優先して照合」

『了解。鴨志田の影響を落として回す』

 

 壁面に表示されていた情報が一度整理され、怪盗団関連の日時、渋谷を中心とした行動圏、学校ごとの日程、鉄道路線が複数の層として重ねられる。条件から外れた候補が次々と消え、数秒後、中央に残った学校名の一つが拡大された。

 

『出た。やっぱり残る。秀尽学園だ。渋谷周辺の行動圏、平日と休日の活動周期、怪盗団関連情報が動いた日時。この辺りが複数噛み合ってる』

「鴨志田を抜いても?」

『完全に切り離すのは無理だけど、重みをかなり落としても候補からは消えない。見る価値はあると思う』

『零司。ワタシも秀尽学園だと思う』

 

 ソフィアの言葉に、神代は別の表示を呼び出しながら問い返した。

 

「理由は?」

『事件になる前から鴨志田のことを書いてる人がいる。それに、怪盗団のことを話してる人の時間も合ってる。ハヤトが調べたのと同じだ』

『同じではないな。俺は時間と行動圏。ソフィアは投稿内容だ』

『でも、答えは同じだぞ』

『結論はな』

『なら同じだ』

『……まあ、いいけど』

 

 ソフィアは自信満々に言い切り、一方のハヤトは僅かに納得し切れていないような返事をする。辿った過程を重視するハヤトと、最後に同じ場所へ着いたことを重視するソフィア。その反応の違いがおかしくて、神代は僅かに笑った。

 

「この件は明日、櫻井に報告する」

『了解。今の解析結果、報告用にまとめておく』

『ワタシも手伝うぞ』

「ああ、頼んだ」

 

 ――――――

 

 翌日、神代は再び櫻井と向かい合っていた。

 

 前日まで調査に使われていた壁面は、既に報告用の表示へ切り替えられている。精神暴走事件、改心事件、怪盗団関連の投稿、行動時間帯、候補地域。それぞれの情報が項目ごとに整理され、櫻井と神代の手元にある端末と同期していた。

 

「秀尽学園へ潜入したいと考えています」

 

 櫻井は壁面へ視線を向けたまま、次の項目を開く。

 

「理由は」

 

「怪盗団は学生を中心としている可能性が高い。鴨志田との接点を差し引いても、活動時間と生活圏から秀尽学園が残ります。事件以前から、校内事情に近い内容の投稿も複数確認出来ました」

 

 表示が切り替わり、都内で確認された精神暴走事件の発生時期と、怪盗団による犯行予告や改心が確認された日時が同じ時間軸へ重ねられる。

 

 怪盗団が世間に認知される以前、精神暴走事件の発生数には目立った変化がない。しかし、鴨志田卓の改心を境に怪盗団の存在が表面化し、その後いくつかの標的が続いた時期から、精神暴走事件の発生件数は僅かながら減少へ転じていた。

 

 劇的な変化と呼べるほどではなく、観測期間もまだ短い。それでも、無関係として切り離すには変化の時期が近い。

 

「ハヤト」

 

 櫻井が呼び掛ける。

 

『はい』

 

 グラフの一部が拡大された。

 

『精神暴走事件の発生件数は、都内を中心に僅かな減少傾向を示しています。変化が確認される時期は、心の怪盗団が活動を開始したと推定される時期と概ね一致しています』

 

 説明に合わせ、怪盗団の活動時期と精神暴走事件の推移が強調表示される。

 

『現時点の資料だけでは、怪盗団の活動が精神暴走事件の減少を直接引き起こしたとは断定出来ません。ただ、両者を完全に独立した事象として扱うより、何らかの関連性を前提に調査を継続する方が合理的です。当初の見解通り、精神暴走事件と怪盗団の間には密接な関わりが存在する可能性があります』

 

 ハヤトの声が途切れたあとも、壁面には二つの推移が重なったまま表示されていた。

 

 精神暴走と改心。その結果だけを見れば、片方は人間を壊し、もう片方は罪を認めさせるという正反対の現象に見える。それでも、短期間に人間の精神そのものへ異常な変化を与える事象が二種類も現れ、それらの増減する時期まで重なり始めている。少なくとも、完全な無関係と決めて調査する段階は過ぎていた。

 

 櫻井は暫く表示された数字を見つめたあと、手元の端末を操作してグラフを縮小した。

 

「秀尽学園に怪盗団がいると断定出来る材料ではないわね」

「はい」

「でも、内部へ入る理由としては十分」

 

 神代は小さく頷いた。

 

 表示が切り替わり、今度は秀尽学園の校舎情報と周辺地図が壁面に現れる。

 

「なら、そこから先は神代の判断に委ねます。潜入手段は?」

「秀尽学園高等学校への、生徒身分での編入を要望します」

 

 神代は間を置かず答えた。

 

「校舎へ入るだけなら、外部業者や学校関係者を装う方法もあります。ただ、今回確認したいのは生徒同士の日常的な人間関係です。誰と昼を過ごすのか、放課後に誰と行動するのか、怪盗団が動く前後で誰の行動が変わるのか。短時間、外部から見るだけでは拾えません」

「だから、生徒として入る……と」

「はい。編入生なら既存の交友関係がない。複数の生徒へ接触しても、それ自体は不自然になりません」

 

 櫻井は秀尽学園の校舎図を暫く見たあと、短く頷いた。

 

「分かりました。編入手続きを進めます」

「ありがとうございます」

「定期報告はこれまで通り。学校へ入った後は、事前の推測に引っ張られすぎないように。また、本件の協力者については追って連絡する。確認後コンタクトを取るように」

「承知しています」

「それと――」

 

 神代が端末を閉じようとしたところで、櫻井の声が続いた。

 

「ソフィアから、内部回線を通じてあなたの睡眠時間と食生活について改善要請が来ています」

 

 神代の指が止まった。

 

「……何してるんですか、あいつ」

「私に聞かないで」

「無視してください」

「内容自体は妥当です。寝なさい。それから、ゼリー飲料を夕食に数えるのはやめなさい」

「カップ麺よりは軽いですよ」

「比較対象がおかしいのよ」

「……善処します」

 

 櫻井が僅かに視線を上げる。

 

「ハヤトも同じ意見でしょう?」

『はい。健康状態の悪化は任務遂行能力の低下に直結します。改善を推奨します』

 

 その直後、壁面の端にソフィアの姿が現れた。

 

『男子高校生に必要な栄養素と食事例は、まとめて零司のスマホに送っておいたぞ』

「何勝手に人のスマホにデータ送り込んでんだ」

『必要だと思ったからだ』

 

 神代は画面を睨んだものの、それ以上は何も言わなかった。

 

     *

 

 編入の準備は、方針が決まってしまえば早かった。

 

 秀尽学園へ提出される書類に、別班も怪盗団も精神暴走も登場しない。家庭の事情による転居と前籍校からの転校。保護者は仕事の都合で国外へ滞在することが多く、当面は都内に住む親族宅から通学する。

 

 成績や出席日数に問題はなく、素行についても特記事項なし。神代零司という人間そのものを架空にするのではなく、実際の経歴のうち学校側へ見せる必要のない部分だけを覆い、その空白へ矛盾のない事情を置く。前籍校へ問い合わせれば用意された担当者が応答し、保護者欄に記載された連絡先へ電話を掛けても、不自然な間を置かず同じ事情が返されるよう整えられていた。

 

 神代自身が頭へ入れたのは、学校生活を送るために必要な情報と、在籍者に関する最低限の基礎情報だけだった。校舎の配置、教職員、生徒数、年間行事、部活動、通学経路。学年や転入時期といった目につく事項には一通り目を通している。準備に抜かりはない。

 

 編入前日の夜、届けられた制服をベッドの上へ広げた。黒いブレザー、新しいシャツ、ネクタイ、校章。包装を解いたばかりの布には僅かに新品特有の匂いが残っており、袖へ腕を通すと、まだ馴染んでいない生地が肩の動きについてこない。

 

 鏡の前でネクタイを整えると、そこに映っているのは驚くほど普通の高校生だった。普段より若くなったというより、年齢相応の外見へ戻ったと言った方が近いのかもしれなかった。

 

「似合ってるぞ、零司」

 

 不意に声がした。

 神代は鏡越しに机を見た。任務用端末は閉じたままで、画面にも何も映っていない。

 

「……ソフィア?」

 

『ここだぞ』

 

 今度はブレザーのポケットの中から声が響いた。

 

 神代は眉を寄せながらスマートフォンを取り出した。画面には見慣れた赤い髪の少女が映っており、本人は何の問題もないという顔をしている。

 

「何してるんだ、お前」

『零司のスマホに入った』

「それは見れば分かる――なんで?」

『ワタシも一緒に潜入するためだ』

「それは上官の指示か?」

『違うぞ。ワタシからサクライに提案して、許可をもらったんだ』

 

 迷いのない返事だった。

 

 神代は数秒、スマートフォンの画面を見つめた。櫻井からは学校内で必要になる通信環境を整えておくとは聞いていたが、その中にソフィア本人の同行まで含まれているとは聞かされていなかった。

 

「先に俺にも言ってくれよ」

『……?今言ったぞ』

「そういう意味じゃない」

『そうなのか?』

 

 話が進まない。

 

「第一、俺のスマホに入る必要ないだろ。調べたいことがあればこっちから繋ぐ」

『それだと、零司が学校でどうしてるか分からない』

「その情報は任務に必要ないだろ」

『でも、ワタシは知りたい。人の良き友人になるのだからな』

 

 神代はスマートフォンを持ったまま黙った。冗談を言っている様子ではない。

 

「なんで?」

 

 今度はソフィアの方が少し黙った。

 

『零司と一緒にいると、人の心が分かる気がする。なんて言ったって、零司は変だからな!』

「任務に関係ないし、司令に強制送還させようかな」

『わー、やめてくれ! 悪い意味じゃないんだ!』

 

 慌てた声がスマートフォンから響き、神代は片眉を上げた。

 

 彼女に人間の感情を直接読み取る機能があるわけではない。表情や言葉、それまでの行動を比べ、分からないなりに意味を探している。それはここ数日のやり取りでもよく分かっていた。

 

『零司は、言ってることと、してることが違う時がある。人の心を理解するのは、そう単純じゃないんだろ? 零司と一緒にいたら、少し分かるようになる気がする』

「……そういうもの?」

『ワタシにも分からない。だから知りたい』

「俺を使って?」

『うん!』

 

 選ばれたことを喜ぶべきなのかは分からなかった。

 

 神代は小さく息を吐き、スマートフォンを机へ置こうとする。

 

『それに、零司はもう少し寝た方がいいぞ。明日学校なんだろ?』

「またそれ?」

『今日は四時間しか寝てない』

「四時間寝てれば十分だろ」

『睡眠時間は七時間から八時間が標準らしいぞ』

「そういう時だけ検索能力使うな」

『それと、朝ごはんもちゃんと食べるんだぞ』

「お前は親か。言われなくてもちゃんと食べるよ」

『ゼリー飲料だけはダメだぞ』

「……うるせぇ」

 

 神代はそう呟くと、スマートフォンをポケットへ戻した。直後から短い通知音が立て続けに鳴ったが、中身を確認する気にはならなかった。

 

 もっとも、本気で追い出すほどの理由もなかった。別班側で通信系には制限が掛けられ、アクセス出来る範囲も任務に必要なものへ限られている。学校で情報を確認する必要が出た時、ソフィアが手元にいること自体はむしろ便利だった。

 

「学校では勝手に喋るなよ。基本は文字」

『わかった!』

「勝手に外部へ接続しない。ハヤトに繋ぐ時も一度俺に確認」

『わかったぞ!』

 

 返事だけは妙に良かった。

 

 神代はそれ以上付き合わず、制服を脱いでハンガーへ掛けた。

 

 ――――――――

 

 翌朝、神代は通勤客に混じって電車へ乗り、蒼山一丁目へ向かった。

 

 初めて着て外へ出た制服は、昨夜鏡の前で試した時以上に身体へ馴染んでいなかった。座席へ腰掛けても肩の辺りに僅かな張りを感じ、腕を動かせば新品のブレザーが少し遅れてついてくる。車窓の向こうでは朝の街が流れ、駅へ停車するたびに乗客が入れ替わっていった。途中からは秀尽学園の制服を着た生徒も一人、また一人と増え、気づけば車内のあちこちに同じ校章が見えている。

 

 ポケットの中で、スマートフォンが短く震える。嫌々ながら取り出して画面を開くと、ソフィアから文字が届いていた。

 

『みんな学校に行くんだな』

『そうだな』

『友人と一緒の人も多い』

『朝から調査?』

『これは調査じゃないぞ。見てるだけだ』

 

 神代は一度、車内へ目を向けた。

 向かいの座席では二人の女子生徒が、片方のイヤホンを分け合いながら小さな画面を覗き込んでいる。

 

『同じようなもんだろ』

『違う気がする』

 

 その違いを説明する言葉は、まだ持っていないらしい。

 

 神代が返信を打とうとしたところで、車内アナウンスが蒼山一丁目への到着を告げた。

 

 駅前には通勤客と学生が入り混じっていたが、秀尽学園の制服を着た生徒たちは、誰かに指示されるでもなく自然と同じ方向へ流れていった。神代もその中へ混ざり、周囲と変わらない歩幅で進む。

 

 やがて、建物の隙間から秀尽学園の校舎が見え、校門まで向かうと、神代はほんの僅かに歩調を緩めた。

 

「その新品の制服……あなたが編入生の神代零司君かしら?」

 

 不意に横から名前を呼ばれ、神代は足を止めた。

 

 声のした方へ視線を向けると、数歩離れたところに一人の女子生徒が立っていた。肩口で整えられた黒髪、皺一つ目立たない制服、真っ直ぐに伸びた背筋。周囲には同じ制服を着た生徒が何人もいるはずなのに、立ち姿に余計な崩れがない分だけ、彼女は妙に目についた。

 

 最初に気になったのは容姿ではなく、自分が名乗るより先に名前を呼ばれたことだった。編入生が来ること自体は教師間で共有されているとしても、生徒が校門で顔まで把握しているとは聞いていない。ただ、それだけで何かを疑うほどのことでもない。神代はほんの一瞬だけ考えてから、初めて来た学校で突然名前を呼ばれた生徒らしく、僅かに戸惑った表情を作った。

 

「あ……はい。そうですけど」

 

 改めて相手へ視線を向ける。

 

「あなたは?」

 

 女子生徒はそこで、自分の方が先に名を呼んでおきながら自己紹介をしていなかったことに気づいたらしい。僅かに目元を緩めた。

 

「ごめんなさい。先に名乗るべきだったわね。私は三年の新島真。この学園の生徒会長をしているの」

 

 生徒会長。

 

 その肩書きを聞けば、少なくとも自分の名前を知っていたことには説明がつく。教師から編入生の案内を任されているなら、今日来る人間の名前や学年くらいは知らされていて当然だった。

 

「今日から二年に編入する神代零司です。よろしくお願いします」

 

 神代は軽く頭を下げた。

 

 そのまますぐに返事が返ってくると思ったが、新島は一瞬だけ黙った。

 

「……よろしく」

 

 ほんの僅かな間だった。大きく表情を変えたわけでもなければ、何かを警戒したようにも見えない。ただ、神代が頭を上げた時、新島の目には僅かな戸惑いが残っていた。事前に想像していた編入生と、目の前に現れた人間が少しだけ違っていた――その程度のものに見える。

 

 神代は気づいたものの、理由までは考えなかった。

 

「どうかされましたか?」

「いえ、ごめんなさい」

 

 新島は一度視線を外した。自分でも妙な間を作ったと思ったのか、少しばつが悪そうな表情になる。

 

「この時期の編入でしょう? 何か事情がある人なのかもしれないって、勝手に少し身構えていたの。でも……思っていたより、ずっと普通というか」

「普通ですか」

「あっ、悪い意味じゃないの」

 

 今度は返事が早かった。口に出してから失礼な言い方だったと気づいたらしく、僅かに眉が下がる。

 

「礼儀正しい人だったから、少し驚いただけ」

 

 その慌てた訂正がおかしくて、神代は僅かに笑った。

 

「そんなに警戒されるような編入生を想像されていたんですか?」

「あなた個人をどうこう思っていたわけじゃないわ。ただ……この学園も最近、色々あったから」

 

 最後だけ、声音が少し落ちた。

 

 それまで神代へ向いていた視線が、ほんの一瞬だけ校舎の方へ移る。朝の光を受けた建物は、生徒たちを次々と呑み込むようにいつも通りそこに立っている。それでも、新島の表情には僅かな陰りが残った。

 

 鴨志田卓。

 

 何を思い浮かべたのか、わざわざ問いただす必要はなかった。外から集めた記録の中では既に整理された一件の事件でしかないが、この学校にいる人間にとっては、まだそれほど昔のことではない。

 被害を受けた者も、近くにいながら気づけなかった者も、事件が明るみに出た後も同じ校舎へ通い続けている。画面に並んだ文字や数字だけでは掴めなかった重さが、新島が作った短い沈黙の中にはあった。

 

 神代はあえて何も訊かなかった。

 

「職員室まで案内するように先生から頼まれているの。まだ校内の場所も分からないでしょう?」

 

 新島の方から話題を切り替えた。

 

「ありがとうございます。助かります」

「じゃあ、こっちよ」

 

 二人は並んで昇降口へ向かった。

 

 校舎へ入ると、外にあった騒がしさが壁と天井に囲まれ、さらに密度を増した。

 下駄箱の扉が開閉する乾いた音、上履きで床を踏む足音、廊下の向こうから聞こえる笑い声。掲示板には学校行事の予定や部活動の案内、進路関係の紙が隙間なく貼られているが、見慣れている生徒たちは誰も足を止めない。階段の踊り場では数人が輪になって話し込み、その横を急いで教室へ向かう生徒が縫うように通り過ぎていく。

 

 神代は新島の隣を歩きながら、それらを視界の端へ入れていった。校舎配置なら事前に覚えている。職員室の位置も、二年生の教室がどこにあるのかも既に知っていた。だからこそ、初めて来た人間として不自然にならない程度には周囲へ視線を向けるようにしていた。

 

「二年生の教室は主に上の階。体育館は向こう側の棟よ。移動教室の時に最初は少し迷うかもしれないけど、何日かすれば覚えると思う」

「結構広いんですね」

「そう? 慣れるとそうでもないわ」

「初日は全部広く見えるのかもしれません」

 

 新島が僅かに笑った。

 

「それはあるかもしれないわね」

 

 校門で話しかけられた時より、その表情は少し柔らかかった。

 

 神代はそこで初めて、生徒会長という肩書きとは別に、新島真という人間そのものへ簡単な印象を持った。真面目で、几帳面で、自分に任されたことは手を抜かない。

 その一方で、自分が少し失礼な言い方をしたと思えばすぐ表情に出るし、初対面の人間に警戒していたことも完全には隠し切れない。

 

 歩きながら、新島は校内で必要になりそうな場所を順番に教えていった。購買、図書室、体育館、保健室。言葉は簡潔で、必要以上に世話を焼くわけでもないが、編入初日に困りそうなことは一通り先に伝えようとしているのが分かる。

 

「それにしても、生徒会長が編入生をわざわざ迎えに来るんですね」

「わざわざってほどじゃないわ。先生から頼まれただけだし」

「それでも、校門を入ったところで少し迷っていたので助かりました」

「なら良かった。初日は色々分からないでしょうし、困ったことがあれば先生か、近くの生徒に聞けば大丈夫よ」

「新島先輩に聞いても?」

 

 神代がそう尋ねると、新島は一瞬だけ意外そうにしたあと、素直に頷いた。

 

「もちろん。生徒会室にいることも多いから」

「じゃあ、その時はお願いします」

「ええ」

 

 新島は職員室の札が見えたところで足を止めた。

 

「ここが職員室。担任の川上先生が中にいると思うから、ここからは先生の指示に従って」

「分かりました。ここまでありがとうございました」

「……同じ編入生でも、こうも違うのね」

「……?」

 

 新島の小さな声に、神代が顔を上げて反応する。

 

 新島は自分でも口に出したつもりがなかったらしく、一瞬だけ目を見開いた。

 

「ごめんなさい。こっちの話。気にしないで」

「そうですか」

 

 同じ編入生。

 

 事前に確認した在籍者の基礎情報の中で、その条件に該当する生徒は一人だけいた。

 

 雨宮蓮。二年生。春に秀尽学園へ転校してきた生徒。確か、暴力行為によって保護観察処分を受けて、秀尽学園へやってきた背景があったはず。

 

 気になる点はいくつかあるが、この時点では特段話題にあげることはなかった。

 

「それじゃあ、今日からよろしくね。何か分からないことがあったら、生徒会室に来てもらっても構わないから」

「ありがとうございます。その時はお願いします」

 

 新島は小さく頷き、そのまま来た道とは別の廊下へ歩いていった。朝の生徒たちの間へ入れば、その後ろ姿もすぐに制服の群れへ紛れていく。

 

 神代は数秒だけその背中を見送り、やがて職員室の扉へ視線を戻した。

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