指の間にあった粒子が、夜風にさらわれていく。
この闇のどこかに、灯る炎があるのか。今のところ、乾いた原野にあるのは、砂と土と虚しさだけだった。
頭上には月が出ていた。わずかな明かりだけを頼りに、女がひとり馬を駆けさせる。叫びそうになった声は、どうにか胸の内に留め置いた。自暴自棄になっている場合ではない。戦の足音は、きっとすぐそこまで迫っているはずだ。
馬蹄が聴こえる。篝火が女を追って動いているようだった。手綱を搾り、馬を止める。追ってきた相手が、敵でないことはわかっていた。
「華琳様。ようやく、見つけました。単身出歩かれるのは、おやめくださいと申し上げたはず。これでは、私も姉者も寿命がいくつあっても足りません」
「手間をかけさせたわね、秋蘭。勝手をしたこと、許してちょうだい」
「今は、耐えましょう。乱世は、いずれ御身を必要とするはず。それが、覇王の宿命なのです」
「買いかぶりよ。だけど、曹孟徳がこのまま終わっていいはずもない、か」
「帰って、食事にしましょう。あたたかいものを腹に入れれば、気持ちも前向きになります」
「そうね、秋蘭」
秋蘭の声を聴いていると、自然と心が落ち着く。
たとえ辺境に飛ばされても、夏侯姉妹が側仕えしてくれていることは救いだった。西涼の風は、ひとりで受けるには冷たすぎる。
朝日が昇っても、空気は冷えたままだった。隣で寝ている女の身体を、華琳が抱き寄せる。
激しく求めるようなことはしなかった。今は、近くで息遣いを感じられればそれでいい。肌を合わせていた春蘭が、ちょっと身じろぐ。この数日、かき集めた兵の調練があったから、まともに休んでいる暇はなかったはずである。その間、賊徒との小競り合いがあったから、当然出撃を繰り返してもいるのだ。
跳ねた黒髪に華琳が指で触れる。枕元の台にあった櫛に手を伸ばし、乱れた流れを整えていく。せめて、秋蘭が起こしに来るまでは、ゆっくりさせてやりたい。
そのくらいのことでしか、今は報いてやれないからだった。
「おはようございます、華琳様。姉者も、……っと」
「んぁ……? んむぅ……。なんだ、もう朝かぁ」
起床時間を知らせにきた秋蘭に反応した春蘭が、まぶたを擦りながら身体を起こした。感じていた体温が離れていく。くすりと笑ってから、華琳は寝台から立ち上がった。白磁のような肌に、衣を重ねていく。
金城郡の一角に、華琳たちは拠点を構えていた。左遷がなければ、中原にいて黄巾党との闘いに突入していたはずである。
乱世の予兆は、可視化されてあたりに転がっている。中央では黄巾党が。西涼では、異民族に加えて、漢王朝に反感を抱く豪族どもが動きを活発にしているのだ。
そんな状況だからこそ、洛陽に流れる淀んだ空気を、華琳は引き締めようとした。
「秋蘭。朝食のついでに、報告を済ませてちょうだい」
「承知いたしました、華琳様」
三人だけの食卓だった。従妹たちを金城郡まで連れてくることはできず、同行を許された手勢も五百だけである。
洛陽警備の役職についていた華琳が、法を犯した宦官の一族を容赦なく罰した。それが、事件のはじまりなのである。窮地に追い込まれると見れば、溝鼠だろうと結束力を発揮することもあるのか。感想を述べるとすれば、それだけだった。
最低限の具材で作った粥を口に運びながら、華琳が卓上の地図に視線を落とす。
北宮伯玉と呼ばれる男に率いられた羌族が、金城各地を荒らし回っていた。その鎮圧のため、中央で名の知られた曹操を派遣する。宦官たちによる、体のいい放逐だった。
「叛乱軍は、徐々に力を増している様子。援軍は期待するだけ無駄ですし、どこかで奴らの主軍を叩けるとよいのですが」
「やはり、馬騰が動く気配はないか。そうなると、董卓も簡単に持ち場を離れるわけにはいかなくなる。ここまでは、溝鼠どもの思惑通りね。……っと、食事中に似つかわしくない言葉だったわね。ごめんなさい、二人とも」
「華琳様のお怒り、ごもっともです。いずれ、日和見を決め込んでいる馬騰にも思い知らせてやりましょう。それで、最後には」
粥をかき込みながら、春蘭が気炎を上げている。
隴西郡にいる馬騰らに援兵を求めたが、今のところ成果はなかった。
「そのくらいになさい、春蘭。馬騰にも、事情があるのでしょうよ。どう見ても洛陽を厄介払いされた女が、いきなり援軍を寄越せと言ってきているのですもの。私でも、すぐに動いたりはしないわよ」
「むう……。ですが、私だったらすべてを投げ捨ててでも駆けつけます。なにしろ、相手が華琳様なのですから」
「あははっ。相変わらず、あなたはかわいいことを言ってくれるわね、春蘭」
「か、華琳さまぁ……」
情勢が悪くなり続ければ、馬騰の軍勢とも一戦交えることになりかねない。そうなれば、土地との繋がりのない自分たちの不利は明白だった。
調略をしようにも、僻地にいては手駒が足りなかった。
とにかく、眼の前の敵を自力で撃破していくしかない。自分たちの闘志が本物であることが伝われば、西涼の軍閥もどこかで態度を変化させるだろう。
穏やかだった食卓に、鐘の音が響き渡る。見張り台からのものだった。賊軍は、朝餉も満足に摂らせてくれないようである。
匙を置き、華琳が立ち上がった。中原から連れてきた直属の兵には、いつでも動ける態勢を取らせている。
城郭とは呼べない貧弱な拠点である。幕舎からでた三人が、曳かれてきた馬に飛び乗る。常に周辺を探らせている斥候が、敵軍の規模が五千ほどであることを知らせてきた。
「いよいよ、本気になって私たちを潰しにきたというわけね。ふふっ。面白いじゃない」
「私が、曹操様の道を切り開きましょう。いつでも、御命令を」
「ええ、もちろん。夏侯淵は、横腹を突くように弓兵での援護を。見せかけの土塁に、敵は気を取られているでしょう。その隙に、私と夏侯惇の兵で敵将を討つ」
少数精鋭を活かすための作戦だった。
敵を撹乱するだけの兵力は、どうにか集めてある。伏兵を偽装するための旗も、土塁の裏に仕掛けてある。
ぶつかり合いを好む相手に小細工だと謗られようと、使える手はなんだろうと使う。それが、原野で生き残るための策だった。
鬨の声が聴こえる。騎兵。拠点を目指して駆けてくる。防壁として設置してある柵は、すぐに打ち破られるのだろう。盾を並べた兵の後ろから、矢を射掛けさせる。こちらには、調練途中の兵を配してあるだけだった。
要するに、ただの陽動である。
「夏侯惇」
華琳の声に、春蘭が素早く応じる。
柵と土塁に殺到する敵兵を横目に、精鋭を率いて二人が密かに飛び出した。攻勢をかけきれず、伸びた部隊に秋蘭の号令で矢が放たれる。相手が混乱すればするだけ、華琳と春蘭に敵将を討ち取る時間が生まれる。半身とも呼べる側近だけに、呼吸は抜群に合っていた。
前を行く春蘭の大剣が、敵兵を豪快に斬り伏せる。これならば、勝てる。姿勢を低くしながら、華琳は馬を駆けさせることだけに集中していた。
「うおっ……!? なんだ、こいつは」
いきなり、春蘭の刃の勢いが堰き止められる。兵力で圧倒されていようと、個人の武力で押されるようなことは初めてだった。声から、焦燥が伝わってくる。
たまらず、華琳が手綱を引き搾った。後続の兵たちも足を止める。
春蘭が、赤い髪の女と対峙している。手にしているのは、長柄の槍に三日月状の刃のついた得物だった。確か、方天戟と呼ばれる類のものである。
「われらの攻めに、素早く気づくとは。貴様、何者だ」
「んっ……。別に、難しいことじゃなかった。砦の方には、殺気がちっともなかったから。おまえたちは、気配がつんってするからわかりやすい」
茫洋とした口調をしているくせに、放つ闘気はどこまでも鋭い女だった。麾下であろう騎兵が、華琳たちを囲むように動いている。
叛乱軍に、これほどまでの武人が参加しているとは。あえて、切り札として隠し持っていたのか。それとも、単に最近になって拾ったのか。そんなことは、どうだってよかった。
どうすれば、この窮地を打開できる。秋蘭の手勢は、騎兵を押し留めるので精一杯のはずだ。
噛んだ唇の端から、血が流れ出ていた。
「おしゃべりは、もうおしまい?」
「お下がりください、曹操様。この者の相手は、私が」
「曹操? そのちっこいのを斬ったら、恋たちの勝ちになる?」
女が言い終わる前に、春蘭が仕掛けていた。凄まじい剣圧が襲いかかる。普通の人間であれば、数十回は死んでいるような連撃だった。
「次は、恋の番」
呟くような声だった。長柄の武器を軽々と振り回し、恋と自称した女が春蘭を追い詰める。
「夏侯惇」
飲み込みきれなかった声が、叫びとして流れていく。恋の攻撃をどうにか受けながら、春蘭が首を横に振っていた。
どうすればいい。どうすれば、春蘭を助けられる。武器を握りしめる手が、熱くなった。金属同士がぶつかり、火花が散る。ともすれば、美しい光景といえるのか。
「もういい、死ね」
なんの感情もなく、恋が言い放つ。
春蘭の首が刎ね飛ばされる。そんな残像が見えてしまうほど、華琳は精神的に追い込まれていた。
西涼でも辺境といえる場所まで流されて、私は膝をつくしかないのか。
どうせ朽ち果てるのなら、最後まで一緒に。飛び出しかけた華琳の視界に、新たな影が映り込む。
突如として現れた馬群。急速に接近してくる。跳躍した影が、全身をぶつけるように恋に斬りかかっていた。あとの数十騎。いや、全部で百は超えているのか。その騎馬が、しなる鞭のように何度も恋の麾下に攻撃を加える。
「おまえ、だれ?」
「誰でもいい。俺は、おまえたちの雇い主に借りがあるだけだ」
男の声だった。髭に覆われているせいで、顔はよく見えない。
乾いた風が吹き抜ける。理由もわからないまま、華琳は笑っていた。