BLEACHの世界に転生したけど何故かステータス画面があるんだが   作:最強主人公2

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拒絶を許さぬ天上への道

人影が、ゆっくりと柱の外へ歩み出てくる。

 

 朔は目を凝らした。

 

 遠くにいるせいで、顔まではよく見えない。それでも、あの巨大な柱には見覚えがあった。前世の記憶に残っている、あまりにも特徴的な姿。

 

 朔は、生まれてからまだ間もない。

 

 この世界に転生して以来、前世の記憶があることだけを頼りに、少しずつ状況を理解しようとしてきた。けれど、身体は幼く、知っている言葉を思うように口にすることさえ難しい。頭の中ではいくつもの考えが浮かんでも、それを誰かに伝えられるとは限らなかった。

 

 それでも、前世で読んだ『BLEACH』の記憶だけは、はっきりと残っている。

 

 朔は死ぬ前に、原作の最終話まで読んでいた。

 

 尸魂界、護廷十三隊、虚、破面。そして、物語の終盤に登場した零番隊。

 

 その記憶が、目の前の光景と結びついた。

 

 空から降りてきた巨大な柱。複雑な紋様が刻まれた外観。内部から人影が現れるという光景。

 

 朔の目が大きく見開かれた。

 

 あれは、天柱輦だ。

 

 原作で零番隊が瀞霊廷へ降りてきた際に使っていたものと、よく似ている。

 

 いや、似ているどころではない。記憶にある天柱輦そのものだった。

 

 なぜ、こんなところにあるのか。

 

 朔には分からなかった。

 

 今が何年なのか、原作の物語が始まるまであとどれほどの時間があるのか、それすら知らない。ただ、自分が知っている物語の本編には、まだ突入していない。それだけは確かだった。

 

 だからこそ、目の前の出来事が理解できなかった。

 

 原作では見たことのない場所に、原作で見たことのあるものが現れている。

 

 そして、そこから誰かが出てこようとしていた。

 

 朔は柱を見つめたまま、思わず一歩後ずさった。

 

 そのとき、柱の内部から人影が姿を現した。

 

天から降り立った巨大な柱。その根元に、一人の僧侶が立っていた。

 

 黒い衣をまとい、丸々とした巨体を揺らしながら、男は辺りを見回す。やがて、その視線が診療所の前に座り込んでいた神代朔へと向けられた。

 

「ほう。こんなところに子供がおったか」

 

 男はゆっくりと近づいてきた。足音は重い。それなのに、妙なことに地面はほとんど揺れなかった。

 

 朔は身構えた。

 

 この男を知っている。

 

 忘れるはずがなかった。『BLEACH』の物語において、長い年月を経てもなお、尸魂界の根幹に関わり続ける存在。零番隊の一員にして、あらゆるものに名を与える男。

 

 兵主部一兵衛。

 

 まさか、こんなところで出会うことになるとは思わなかった。

 

「わしの顔が、そんなに珍しいかの?」

 

「……お、おおきい」

 

 口から出たのは、そんな言葉だった。

 

 朔自身、もっとまともな返答をしたかった。しかし、まだ幼い身体では、頭に浮かんだ言葉を上手く口にできない。

 

「ハッハッハ! そりゃそうじゃ。わしは大きいからのう!」

 

 一兵衛は愉快そうに笑い、朔の前で膝を折った。巨体が近づいたことで、朔は思わず上体を引く。

 

「ところで、小僧。妙なものを見たり、聞いたりした覚えはないか?」

 

「……みょうな、もの?」

 

「そうじゃ。おぬしにしか見えぬもの。ほかの者には分からぬものじゃな」

 

 朔の胸が、わずかに跳ねた。

 

 脳裏に浮かぶのは、あの画面だ。

 

 自分の状態を数値で示す、ゲームのようなステータス画面。あれは間違いなく、この世界の理から外れたものだった。

 

 しかし、それを目の前の男に話していいものか。

 

 兵主部一兵衛。彼は、ただの死神ではない。尸魂界の歴史そのものに深く関わり、名という概念さえ自在に扱う存在だ。

 

 不用意に明かせば、何をされるか分からない。

 

「……ない」

 

 朔は短く答えた。

 

 一兵衛はしばらく朔の顔を眺めていたが、やがて太い顎を撫でた。

 

「そうか。ならば、よい」

 

 あっさりと引き下がった男は、ふいに顔を上げた。

 

 空気が変わった。

 

 それまで静かだった周囲の霊子がざわめき、遠くから複数の霊圧が近づいてくる。どれも尋常な大きさではない。ひとつひとつが、周囲の空気を押し潰すような圧を伴っていた。

 

 朔の身体が強張る。

 

 一兵衛は空を見上げたまま、面白そうに口元を緩めた。

 

「おやおや。思ったより早かったのう」

 

 次の瞬間、風が吹き抜けた。

 

 診療所の前に、黒い影がひとつ降り立つ。

 

 続いて、またひとつ。

 

 さらに、ひとつ。

 

 瞬く間に人数が増えていく。誰もが死覇装をまとい、腰には斬魄刀を携えていた。その立ち姿には、並の死神とは明らかに異なる威圧感がある。

 

 先頭に立つ老人の白い眉と長い髭。鋭く細められた眼差し。その姿を見ただけで、背筋に冷たいものが走った。

 

診療所の前に、十三人の死神が立っていた。

 

 誰もが腰に斬魄刀を携え、誰もが尋常ではない霊圧を放っている。彼らが集まっているだけで、周囲の空気は重く沈み、遠くで鳴いていた虫の声さえ聞こえなくなっていた。

 

 神代朔は、息をすることすら忘れかけていた。

 

 知っている。

 

 あの老人も、浅黒い肌の女も、眼鏡を掛けた男も、紫色の双尾を揺らす少女も。そして、血の匂いを思わせる笑みを浮かべた女も。

 

 全員、知っている。

 

 漫画の中で見た姿と、目の前の彼らの姿が重なる。だが、紙の上で眺めていたときとは、何もかもが違っていた。

 

 彼らは絵ではない。物語の登場人物でもない。

 

 自分と同じ世界に生き、実際に呼吸し、意思を持ち、そして必要とあらば躊躇なく人を斬る存在なのだ。

 

 その事実が、幼い朔の胸に重くのしかかっていた。

 

「……おい」

 

 不意に声がした。

 

 顔を上げると、白い眉と長い髭を蓄えた老人が、こちらを見下ろしていた。

 

 山本元柳斎重國。

 

 初代護廷十三隊総隊長にして、尸魂界において最も危険な死神の一人。

 

「小童。貴様、先ほどから何を見ておる」

 

「……っ」

 

 朔は言葉に詰まった。

 

 目の前にいるのは、知識として知っていた山本元柳斎重國その人だ。しかし、今の彼がどのような性格で、どこまで話が通じる相手なのか、朔には分からない。

 

 原作で描かれた山本と、目の前にいる山本が同じとは限らない。そもそも、これほど昔の彼について、知っていること自体が少なすぎた。

 

「答えぬか」

 

 山本の声が低くなる。

 

 その瞬間、朔の身体が硬直した。

 

 霊圧。

 

 目に見えない圧力が全身にまとわりつき、肩を押さえつける。膝が震え、喉が締めつけられたように息が詰まった。

 

 逃げなければ。

 

 そう思っても、足が動かない。

 

「おいおい、爺さん。こんなガキ相手に、いきなり凄んでどうするんだい?」

 

 軽い調子の声が割って入った。

 

 浅黒い肌の女が、愉快そうに口元を吊り上げていた。四楓院千日。彼女は山本の霊圧など意に介した様子もなく、朔の前まで歩いてくる。

 

「へえ。まだこんなに小さいのか。お前、名前は?」

 

「……か、みしろ……さく」

 

「カミシロサク、ね。覚えたよ」

 

 千日は屈み込み、朔の顔を覗き込んだ。

 

「で、朔。あんた、あたしたちを見て、ずいぶん驚いてるじゃないか。どこかで会ったことでもあるのかい?」

 

「……ない」

 

「へえ?」

 

 千日の目が細くなる。

 

 朔は慌てて視線を逸らした。

 

 しまった。

 

 彼女はただの好奇心で尋ねているのかもしれない。しかし、ここで不用意なことを口にすれば、余計な疑いを招きかねなかった。

 

 自分はこの世界の人間だ。少なくとも、今はそう振る舞うしかない。

 

 漫画の内容を知っているなどと説明できるはずもないし、説明したところで信じてもらえるとは思えない。

 

「……こわい」

 

 朔は、ようやくそれだけ口にした。

 

 千日は一瞬だけ目を丸くすると、腹を抱えて笑った。

 

「はははっ! そりゃそうだ! こんな連中が揃ってたら、普通は怖がるよな!」

 

「千日。遊ぶのは後にしろ」

 

 眼鏡の奥から冷たい視線を向けたのは、厳原金勒だった。

 

「和尚殿。説明を願いたい。貴殿がこのような場所へ降り立った理由も、我々が呼び集められた理由も、まだ何一つ明らかになっていない」

 

「そうじゃのう」

 

 一兵衛は顎を撫で、周囲を見回した。

 

「まずは場所を変えるとするか。ここでは、少々話しにくいこともある」

 

「ならば、さっさと案内しろ」

 

 山本が短く言い放つ。

 

 一兵衛は豪快に笑った。

 

「相変わらずじゃな、重國よ。もう少し愛想というものを覚えたらどうじゃ?」

 

「貴様に言われる筋合いはない」

 

 両者の視線が交差した。

 

 ほんの一瞬。

 

 それだけで、周囲の霊子がざわりと波打った。

 

 朔は思わず息を呑む。

 

 この二人が本気でぶつかったら、いったい何が起こるのか。原作の知識があるからこそ、その想像が恐ろしかった。

 

 しかし、一兵衛はすぐに視線を外した。

 

「さて。おぬしらには、少しばかり付き合ってもらうぞ」

 

「断った場合は?」

 

 老獪な笑みを浮かべた七番隊隊長、執行乃武綱が尋ねる。

 

「そのときは、そのときじゃ」

 

 一兵衛は悪びれもせずに答えた。

 

 乃武綱は一瞬黙り、それから喉の奥で笑った。

 

「くく……なるほど。そういうことか」

 

 何が分かったのか、彼はそれ以上語らなかった。

 

 隊長たちがそれぞれ動き始める中、朔はその場に取り残されていた。

 

 行くべきなのか。

 

 それとも、ここに残るべきなのか。

 

 一兵衛は待っていろと言った。しかし、十三人もの隊長が集まるような話に、自分が関係しているとは思えなかった。

 

 自分はただの子供だ。

 

 両親を失い、行く当てもなく、診療所の前に座り込んでいただけの子供。

 

 そう考えようとしたときだった。

 

「お前、ひとりか?」

 

 頭上から声が降ってきた。

 

 見上げると、そこには白い肌の小柄な女が立っていた。紫色の双尾が揺れ、片目を覆う眼帯の奥から、愉快そうな視線が向けられている。

 

 六番隊隊長、齋藤不老不死。

 

 彼女は腰を落とし、朔と目線を合わせた。

 

「親は?」

 

 朔の胸が、きゅっと縮んだ。

 

「……いない」

 

「いない?」

 

「……しんだ」

 

 言葉にした途端、胸の奥に沈めていたものが浮かび上がってきた。

 

 父の背中。

 

 母の声。

 

 あの日、目の前で二人が自分を守ろうとした姿。

 

 もう、帰ってこない。

 

 分かっている。何度考えても、変わらない。

 

 それでも、誰かに尋ねられるたび、失った事実を突きつけられる。

 

 齋藤は朔の顔をじっと見つめた。

 

「ふうん」

 

 彼女はしばらく黙っていたが、やがて口元を歪めた。

 

「じゃあ、誰も守ってくれないんだ」

 

「……っ」

 

「弱いってのは大変だねえ」

 

 その言葉には、慰めも同情もなかった。

 

 ただ、目の前の事実を面白がっているだけだった。

 

 朔は唇を噛んだ。

 

 言い返したかった。けれど、何も言えなかった。

 

 弱い。

 

 その通りだった。

 

 今の自分には、誰かを守る力も、自分の身を守る力もない。両親が命を懸けて守ってくれたのに、その自分は何もできなかった。

 

 悔しかった。

 

 何もできない自分が、たまらなく嫌だった。

 

「……齋藤」

 

 静かな声が響いた。

 

 いつの間にか、卯ノ花八千流が近くに立っていた。

 

 柔らかな笑みを浮かべている。だが、その瞳の奥には、底知れないものが沈んでいた。

 

「その子をからかうのは、それくらいにしておきなさいな」

 

「なんだよ。お前も気になるのか?」

 

「ええ。少しだけ」

 

 八千流は朔を見つめた。

 

 まるで、刃物の切れ味を確かめるような目だった。

 

 朔の背筋に冷たいものが走る。

 

 この女は危険だ。

 

 山本とは違う。千日とも違う。

 

 笑っているのに、何を考えているのか分からない。穏やかな表情の奥に、底なしの殺意が隠れているように感じられた。

 

「あなた、お名前は?」

 

「……かみしろ、さく」

 

「神代朔くん。そう」

 

 八千流は小さく頷いた。

 

「覚えておきますね」

 

 その言葉に、朔は何も返せなかった。

 

 八千流が立ち去ろうとした、そのとき。

 

 朔の視界の端で、何かが揺らいだ。

 

 空気でも、光でもない。

 

 世界そのものに、ほんのわずかな綻びが生じたような感覚だった。

 

 朔は瞬きをした。

 

 何もない。

 

 見間違いだったのだろうか。

 

 だが、胸の奥に残った奇妙な感覚だけは消えなかった。

 

 遠くで、一兵衛が隊長たちに向かって手を振っている。

 

「おーい! いつまで話しておる! 行くぞ!」

 

「急かすな、坊主頭」

 

 千日が笑いながら返す。

 

「誰が坊主頭じゃ!」

 

 いつもの調子で言い返す一兵衛を見て、隊長たちの間にかすかな笑いが起きた。

 

 だが、山本だけは笑わなかった。

 

 彼は一兵衛を見据えたまま、低く告げる。

 

「和尚殿。ひとつだけ聞いておく」

 

「なんじゃ?」

 

「この小童も連れていくつもりか」

 

 一兵衛は答えなかった。

 

 ただ、ゆっくりと振り返り、朔を見た。

 

 その眼差しに、先ほどまでの愉快そうな色はなかった。

 

 朔は思わず背筋を伸ばす。

 

 やがて、一兵衛は口を開いた。

 

「さてのう……この子の行く末は、まだ誰にも分からん」

 

 その声は、妙に静かだった。

 

「何を企んでいる、和尚殿」

 

 山本の声に、わずかな険が混じる。

 

「企むとは人聞きが悪いのう。わしはただ、この小僧に少々用があるだけじゃ」

 

「ならば、その用件をここで話せ」

 

「それはできん」

 

 一兵衛は即座に言い切った。

 

 その場の空気が、ぴたりと止まった。

 

 千日が面白そうに眉を上げ、金勒は眼鏡の位置を直す。弾児郎は腕を組んだまま、一兵衛の顔を眺めていた。

 

 山本の目が細くなる。

 

「……零番隊の権限を振りかざすつもりか」

 

「必要ならばのう」

 

 一兵衛は笑った。

 

 その笑顔には、いつもの陽気さがあった。だが、言葉には一切の冗談が含まれていなかった。

 

 山本はしばらく一兵衛を睨みつけていたが、やがて鼻を鳴らした。

 

「好きにしろ。だが、その小童に何かあれば、貴様とて無関係では済まさん」

 

「心得ておるよ」

 

 一兵衛は軽く手を振った。

 

「では、そういうわけじゃ。おぬしらは持ち場へ戻るがよい。報告すべきことがあれば、後ほど伝える」

 

「おいおい。あたしたちはわざわざ集められたんだよ? それで終わりってわけじゃないだろうね?」

 

 千日が不満そうに声を上げた。

 

「今日はここまでじゃ。詳しい話は追って伝える」

 

「ちっ、つまらないねえ」

 

 千日は肩をすくめた。

 

 隊長たちはそれぞれ不満や疑念を残しながらも、次々とその場を離れていく。

 

 山本は最後まで一兵衛を見据えていたが、やがて踵を返した。

 

「和尚殿。貴殿の行動は、いずれ必ず問われることになる」

 

「そのときは、そのときじゃ」

 

 山本は返事をせず、黒い死覇装を翻して去っていった。

 

 十三人の霊圧が、ひとつ、またひとつと遠ざかっていく。

 

 やがて、診療所の前には一兵衛と朔だけが残された。

 

 朔は呆然としていた。

 

 あの初代護廷十三隊の隊長たちが、全員いなくなった。

 

 彼らが何のために集められたのか、結局分からなかった。だが、それ以上に気になることがあった。

 

 自分に用がある。

 

 一兵衛は、そう言った。

 

 なぜ自分なのか。

 

 何を知っているのか。

 

 聞きたいことは山ほどあった。しかし、うまく言葉にできない。

 

「……おじさん」

 

「なんじゃ?」

 

「ぼく……どこ、いくの?」

 

 一兵衛は朔の前にしゃがみ込んだ。

 

 その巨体が視界を覆う。朔は反射的に身を引きかけたが、一兵衛は構わず、丸い顔を近づけた。

 

「よいところじゃよ。おぬしの知らぬものが、山ほどある場所じゃ」

 

「……かえれる?」

 

「さあのう」

 

 あまりにもあっさりとした返事だった。

 

 朔の顔が強張る。

 

「……やだ」

 

 小さな声だった。

 

「ぼく、ここにいる」

 

「そうか」

 

 一兵衛は頷いた。

 

 そして、次の瞬間。

 

 朔の身体がふわりと浮いた。

 

「……え?」

 

 何が起きたのか理解する間もなかった。

 

 一兵衛の大きな手が、朔の胴を抱え上げていたのだ。

 

「ちょっ……! や、やだ! おろして!」

 

 朔は手足をばたつかせた。

 

 しかし、一兵衛の腕はびくともしない。幼い身体では、巨体の僧侶を振りほどくことなどできるはずもなかった。

 

「暴れるでない。落ちたら危ないぞ」

 

「いや! おろして! ここにいる!」

 

「そうは言うてもなあ」

 

 一兵衛は困ったように眉を下げた。

 

 その表情が本当に困っているように見えたからこそ、朔は余計に腹が立った。

 

「やだっ! おとうさんと、おかあさんの……!」

 

 言葉が途切れた。

 

 両親の名を口にしようとして、喉の奥が詰まった。

 

 もう、ここにはいない。

 

 帰りを待ってくれる人も、迎えに来てくれる人もいない。

 

 それでも、ここを離れたくなかった。

 

 両親と過ごした記憶が残る場所から、また何かを奪われるような気がしたからだ。

 

 一兵衛は、しばらく黙っていた。

 

 やがて、朔の背中を大きな手で支え直す。

 

「……すまんのう」

 

 その声は、先ほどまでとは違っていた。

 

 だが、腕を緩めることはなかった。

 

「じゃが、今回はおぬしの言う通りにはできん」

 

「おとなしく来てもらうぞ、神代朔」

 

 その言葉と同時に、一兵衛の足元から霊子が立ち上った。

 

 天柱輦の巨大な柱が、再び淡い光を帯びる。

 

 朔は必死に身をよじった。

 

「やだ! やだぁっ!」

 

 小さな叫びが、誰もいなくなった診療所の前に響く。

 

 しかし、一兵衛は歩みを止めなかった。

 

 天柱輦の根元までたどり着くと、彼は片手で朔を抱えたまま、もう一方の手を軽く掲げた。

 

 空間が軋む。

 

 見上げた先で、巨大な柱が淡い光に包まれていく。

 

 朔は、遠ざかり始めた地面を見た。

 

 診療所が小さくなる。

 

 見慣れた道が遠ざかる。

 

 両親と暮らしていた場所が、手の届かないところへ離れていく。

 

「……おとう、さん……」

 

 声は震え、ほとんど音にならなかった。

 

「……おかあ、さん……」

 

 返事はない。

 

 当然だった。

 

 それでも朔は、二人の姿を探すように、必死に地上を見つめ続けた。

 

 やがて、天柱輦の光が周囲を覆い尽くす。

 

 地上の景色が消えた。

 

 代わりに広がったのは、どこまでも続く白い空間だった。

 

 朔は、一兵衛の腕の中で小さく震えていた。

 

 その視界の隅で、透明な枠が音もなく現れた。

 

 いつものステータス画面とは違う。

 

 数値も、能力一覧も、そこにはなかった。

 

 ただ、見慣れない文字が一行だけ浮かび上がっていた。

 

――観測対象、移送開始。

 

 朔は目を見開いた。

 

「……なに、これ」

 

 だが、その文字は瞬きする間に消えてしまった。

 

「どうした、小僧?」

 

 一兵衛が顔を覗き込んでくる。

 

 朔は答えなかった。

 

 答えられなかった。

 

 今、自分が見たものが何だったのか。それすら、分からなかったのだから。

 

 

 

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