旋風のパトリシア 転生先の乙女ゲーム世界は戦争中です。 作:冬野晴(旧雪野春)
「痛い!」
演説中の居眠りの罰として連帯責任で宿舎の外周を走っている途中で「私」の胸は急に痛みだした。「私」は足を止めて地面に座ってうずくまる。
「おい、大丈夫か!?」
アルベルトが真っ先に「私」のそばに駈け寄って跪いて声をかける。
遅れて遅れて後ろから走ってきたケーニッヒとドミニクも心配そうにしている。
「今日は...いつもより痛い。」
「私」は弱弱しい声を出す。
「パトリシア、今から俺がお前を保健室に連れていく。」
「でも、ちゃんと走らないと...。しばらくしたら痛みは治まるから。」
「もっと自分の体を労われよ。ケーニッヒ、ドミニク。走り込みはしばらくお前らだけでやってくれ。」
アルベルトは「私」の腕を掴んで立たせ強引に足早に保健室へと引っ張っていく。
「私」はよろけながらも歩いて行った。
「パトリシア、賊から負わされた傷はまだ治っていないのか?」
パトリシアの胸には皇太子護衛の任務で負った傷跡が刻まれている。
多数の騎士たちが刺客の仲間である山賊の相手をしている間に皇太子のそばにつく者が手薄になり、その隙を突いた刺客が皇太子をナイフで暗殺しようとした。しかし皇太子の一番近くにいたパトリシアが割って入った事でその凶器はパトリシアの心臓付近を貫いた。パトリシアはあまりの痛みに悲鳴を上げる。狙いを外した刺客は驚愕して一瞬動きを止め、愛娘の悲鳴を聞いて駆け付けたオーギュストの手により剣で斬首された。
正直言うとあまり実感がない。夢の中で「私」の頭に流れ込んでくる記憶はまるで騎士物語の登場人物のようにドラマチックなもの。もし「私」ではなくパトリシアが目覚めていたとしたら、彼女はどんな人生を歩む事になるのだろうと時々考える時がある。
「お医者様からは最近は良くなってきていると言われたわ。でも完全には治っていないのかしら。」
「そうだな。お前を1年以上も昏睡させた傷だ。そうやすやすとは治らないものなんだろうな。」
アルベルトの声がいつもより弱弱しい感じがする。珍しい。彼は正面を向いて歩いているから「私」が彼の顔を見る事はできない。
同い年のパトリシアとアルベルトが始めて出会ったのは2人が8歳の時だった。アルベルトの父は平民である。妻を産褥により亡くし、男手一つで大切な一人息子を育ててきた。そしてベアティチュード帝国内のサルマン領に盗賊となった傭兵が攻めてきた際に火をつけられ命を落としたのだ。オーギュストは彼を丁重に弔い、アルベルトを養子として引き取った。
オーギュストはセルマン城の門の前で妻と娘と義理の息子を集め挨拶を行う。
「パトリシア、今日から君に弟ができる。名前はアルベルトだ。良い名前だろう?2人とも仲良くするんだぞ?」
「はじめましてアルベルト!私はパトリシア!今日から私がお姉さんよ!これからよろしくね!」
パトリシアは満面の笑みで溌溂とした挨拶をして手を差し出した。アルベルトは緊張した面持ちでしばらく黙った後に手を握り返して言った。
「僕は、僕は───僕のお父さんは、オーギュスト様の部下でした。なので、僕もセルマン家の方々のお役に立つように生きていきます。」
「アルベルト!あなたは私の弟なんだからそんなにかしこまらなくていいわよ!」
「でも、僕のお父さんはオーギュスト様の部下ですし───」
「そんなの気にしない気にしない!」
パトリシアはアルベルトの体を抱きしめて髪を撫でまわした。
パトリシアとアルベルトは頻繁に剣を用いた模擬決闘試合をしていた。負けた者は勝った者のためにお菓子を振る舞うのが2人の間に結ばれたルールである。勝敗は拮抗しており、模擬決闘試合をする毎に試合開始から勝敗が決まるまでの時間は長くなっていった。そうして過ごしているうちにアルベルトはセルマン家の一員として馴染んでいった。そして一人称は僕から俺に代わり、パトリシアに対してはお姉さまからお前と呼ぶようになった。
ある日、セルマン城の門の前に手紙が置かれた。それは貴族の幼い男子がパトリシアに贈った手紙。それを偶然拾ったアルベルトは中身を開け、拙い文字で綴られた愛の言葉を読み終わった後、暖炉に投げ入れた。アルベルトは燃え残った灰を見つめながら言う。
「やっぱりお姉様に平民の僕は相応しくないのかな...。」
セルマン家はベアティチュード皇室に仕える由緒正しき騎士の家系。その家柄は上級貴族相当である。アルベルトは義姉に対して恋心を抱いていると自覚しているが、元平民の自分は彼女に見合う血筋の男ではない。いずれ彼女は騎士か貴族の家に嫁に出され家庭を築いていく。これはこの世界ならごく当たり前の貴族令嬢の人生の道のりである。
アルベルトは唇を噛み締めた。
アルベルトと「私」は宿舎の保健室に来て胸の傷を診てもらう事にした。傷を見せる為に服を脱ぐと、アルベルトは赤面しながら部屋を出て行った。夢で見たパトリシアの記憶では共に裸で体を洗う事もあったけれど、思春期を迎えて義姉の体を見る事に対して恥じらいが出てきたようだった。
「特に異常はありませんね。傷は前より小さくなっております。また痛みが出た時のために薬を出しておきますね。」
「私」は痛み止めの薬をもらい再び宿舎の外周走りに参加した。