不死に効く薬   作:花ゆりか

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第1話

 土砂降りの雨が降っている。あの日と同じような雨だ。

 夜の暗さも相まって、ランタンの光も三歩先すら照らせない。

 

 遠雷が落ちたのが見えた。

 轟音が叩きつける雨音を吹き飛ばす。

 吹き荒れる風はボロ屋の戸や窓を容赦なくノックし、雨粒は家人の返事を待たずに隙間という隙間から侵入している。

 一部腐れ落ちた部分など大人気で、雨水がなだれ込むように内部へ入り込んでいっている。

 

 かつては人々の拠り所となっていた修道院も、人が去り、古びてしまっては見る影もない。古い、ぼろい、薄汚いとダメなところを上げればキリがない。しかし、それでも雨風は防げよう。

 こんな豪雨の真っただ中よりかは、当然。

 来客も同じことを考えていたのだろう。一つ、幽霊でも出そうな雰囲気だが、そのようなことは気にすることもない。

 もたれかかる様にして入口の扉を開け、一つの人影が建物の中へと倒れこむように入っていった。

 

 地下室の入り口が開かれた。淀んだ空気は入ろうとする者を拒み、異常な臭気はまともな動物であれば即座に恐怖させただろう。

 ――死にかけの人間という、異常性を持った生物以外ならば。

 

「ここなら。ここなら、きっとまだ物資が残っているはず……」

 

 若い女性だ。少女と呼んでもさほど差し支えない、年にして十代後半ぐらいだろうか。

 必死に苦痛を堪えているようで、自らを奮い立たせるための独り言を呟いているようだ。右の肩から血を垂らしながら、地下室の階段を下りていく。

 あと五歩。四歩、三歩、二歩、一歩――。

 

「ふぎゃ」

 

 階段を降り切って間もないうちに、間の抜けた可愛らしい悲鳴が響いた。

 

 暗がりの地下室では、人が周囲の光景をはっきりと視認することは難しい。石で出来た床に誰かが転がっているなどと、予測できる人間は少ないはずだ。

 だから、思いっきり()()を踏みつけてしまったことは強く責められるべきではない。一般的な観念から言えば、そんなところに寝っ転がっているんじゃないと窘められるべきだ。

 

 少女が転んだ拍子に、手に持っていたランタンがカランコロンと音を鳴らして転がっていく。

 埃がまい、汚い臭いが部屋中に蔓延した。

 

「いたたた……、一体何が。って、ひぃ! 死体!?」

 

 彼女は自身が何に躓いたのかに気づき、今度は緊迫した悲鳴を上げる。

 ()()は一見すると薄汚れた塊だ。

 

 闇に慣れた目で見れば、確かに人型をしているとはわかる。それが纏っている衣服はもはやその役割を果たしておらず、布を一枚被せた方がまだまともな見た目となるだろう。

 

 地面に垂れ下がった長い銀色の髪の毛も、すっかり埃をかぶって薄汚れてしまっている。体も塵が積もりたい放題。ネズミの足跡がついている程だ。

 

 さて、ここは地下室。陽光が差し込むことのない、常闇の場所だ。仮に、そのような場所にポツンとみすぼらしい少女の死体が転がっていたとすれば、恐怖と混乱のあまり、悲鳴を上げてすぐにそこから逃げ出そうとしてしまうだろう。

 ましてや――

 

「……騒々しいな。私の休息を妨げるなんて、いったい、誰」

 

 ――死体が静かな動きで起き上がったとでもしたのなら――。

 

「い、い――」

「い?」

「いやあああああああああああああ!」

 

 けが人とは思えない俊敏さで少女は壁へと跳びはねた。

 背中には壁があるというのに、そこからさらに後ろへ下がろうと必死に背中を壁にこすりつけている。

 

「お、おい。何もそこまで驚くことないだろう」

「いや、来ないで! 化け物! ゾンビ!」

 

 少女の身なりは上等な物だ。

 とはいっても、それは聖職者の服飾だからであって、煌びやかな装飾品があるとかではない。

 人々に安心と安寧を与える、いわゆる聖女がここまで怯えるとは、何とも因果なものだ。

 

「え、いや……」

 

 一方、激しすぎる拒絶反応を目前にし、化け物と呼ばれた部屋の主は戸惑っていた。

 

 

「――はい。取り乱してしまい、まことに申し訳ございません」

「いや、何を謝ってるのさ。情緒不安定か」

 

 少し――聖女が状況を理解できるぐらいの間――たった後、引き続き部屋の主は困惑していた。

 来訪者が突然悲鳴を上げ、無様な姿をさらしたと思えば、今度は謝罪ときた。

 何もかもが突然過ぎて、寝起きではとても対処しきれまい。

 聖女は手持ちのランタンの灯りすらつけていない。気が急いているのか、暗闇の中でよくわからない何者かに頭を下げていた。

 

「それで、そんな怪我までして、一体聖女様がこんな廃修道院の地下室に何の用? ……教会様が欲しがるようなものは、何一つ残ってはいないよ?」

 

 銀髪のぼろきれをまとった少女は、毅然とした態度で応対する。

 少女、それも十代前半に見える彼女は、聖女様よりもよほど大人めいている。

 

「いえ、この修道院には雨風を防ぐために寄りました」

 

 聖女はこれまでのいきさつを銀髪の少女へと話す。

 

 道中で吸血鬼の集団に襲われて、供とはぐれてしまったこと。

 しかし、吸血鬼は雨の中で活動できないのを幸いに、少しでも体力を回復させて怪我の手当てもできればとこの建物に入り込んだこと。

 

 銀髪の少女は鼻を鳴らす。

 

「なるほど。混じりあった血の臭いがするのは、交戦の結果か」

「……ええ、まあ」

 

 服に染み込むほどの出血量。本人はあまり痛がっている様子はないが、きちんと手当しなければ命にかかわってくる。

 特に雨に打たれたのが痛い。聖女なれば神の加護で疫病などの心配はないだろうが、失血ばかりはどうしようもない。体温を奪われ、体力を奪われ、気力まですり減る状況であったならば、どれだけ体に負担がかかっているか。

 

 体力を回復するならば安全な場所で一時体を休ませればいい。気力も時間で解決できる。

 だが出血は取り戻せない。

 

「なるほど。聖女様を直接襲う吸血鬼がいるとは、最近は物騒極まる」

 

 聖女は吸血鬼を殺せる唯一の存在だ。

 人類側の救世主、人類の天敵への唯一の対抗手段。

 だからこそ、下手な吸血鬼は聖女へは手を出さない。

 

「どういうわけか、最近は吸血鬼たちも騒めき立っているのです。普段は大人しい吸血鬼まで、最近は活発になっていますし……」

「なるほどねぇ。まあ、よくここまで来たよ。ほら、怪我の手当をしてあげる。神様の加護でも血は増やせないだろう?」

 

 闇の中で何かが蠢いた。棚から幾つかの小瓶が取り出され、床に綺麗に並べられてゆく。部屋の隅に置かれていた箱も動いた。中からは布のようなものが取り出されたらしい。

 人の目では伸ばした手の先が見えない程の暗闇の中、粛々と準備が進められている。カチャカチャと金属音が響く。廃修道院に相応しくないような物まで取り出されている気配がする。

 

「ほら、準備できたから。傷を出して。こっちは服の上から怪我を治すような奇跡は使えないんだからさ」

「は、はい。ありがとうございます。えーと、ランタンの灯りを――」

 

 暗いままでは、手当も出来ないだろう。何の違和感を感じることなく、彼女は手探りでランタンの灯りを灯す。暖かな色合いの光が瞬く間に部屋を満たした。

 

「――ひっ!」

 

 聖女は払われた暗闇の向こうに浮かび上がった、それを間近で見つめてしまった。

 深紅に濁る、地獄の底を映したかのようなその瞳を、見てしまった。

 舞い上がる灰よりも白く、握れば折れてしまいそうな程美しくも細い四肢。白銀の髪は地面まで垂れ下がり、地べたで蛇のように蠢いていた。

 少し口角を上げれば、鋭すぎる犬歯が光に照らされる。

 

「きゅ、吸血鬼――っ!」

 

 短い悲鳴が上がる。

 紅い眼、異常に鋭い犬歯は吸血鬼全てに共通する特徴だ。肌の色や髪の色には違いがみられるが、この二つだけはどんな吸血鬼でも持ち合わせている。

 

 なんと滑稽な話だろう。吸血鬼から逃げてきた先で、吸血鬼の居所に迷い込んだのだから。

 神に見放されたか。

 聖女は思わず自らの行いを即座に思い返し、思い当たる節から悔い改めんと祈りの姿勢を取った。

 

「遊んでるんじゃない。ほら、さっさと傷を見せた見せた」

 

 すぐにその姿勢をひっくり返され、衣服をはぎ取られた。

 

「吸われる、血を吸われる!」

 

 吸血鬼を目の前にして当然の反応をした。なにせ、彼らは人間の血を糧に活動する者共。であれば、柔肌を晒されるというのは、吸血の下準備と思うのは必然だろう。

 

「やかましい。喚くな、騒ぐな、暴れるな」

 

 その報いは、予想外の反応。聖女の脳天に、拳が振り下ろされる。

 鈍い音が響いたような気がした。聖女の視界が一瞬だけ上下に激しく揺れた。

 

「あだぁ!」

 

 脳天に振り下ろされた一撃が中々堪えたようで、聖女様が地面に倒れ悶絶する。

 

「……傷自体は大して深くはないね。雨の影響で血が余計に溢れてしまっただけかな。これなら適切に処置すれば、まあ切断とかはしなくても大丈夫でしょ」

 

 一方で、傷の手当てをするために新たな傷を増やしたことを全く気にしていない様子の吸血鬼は、淡々と肩の傷の手当てを始める。

 

「この傷は――なるほど、下等な連中にやられたわけか。聖女様を襲うなんて無茶をするとは、とんだ馬鹿がいたもんだ」

 

 血で汚れているものの、傷は深刻なほど大きくないのがわかる。

 腕を切り落とさなければならなくなることはなさそうだ。

 それでも、放っておけば生々しい傷痕が残るし、出血も冗談では済まない。

 

 どんな処置をするにしても、このまま傷口の周りが不潔なままなのは良くないと思った吸血鬼は、布切れを一枚拾い、茶色の瓶の中の液体を軽く塗布し、聖女の傷口へと押し当てた。

 

「いたっ、痛い痛い痛い!」

 

 傷口に押し当てられた布には消毒液が塗布されており、一応の感染症対策が施されている。いくら痛みがあろうが、肩から先を切り落とす可能性と天秤にかける馬鹿はいないだろう。

 もっとも、神の加護を受けている聖女が、そのような低俗な病に罹るかはわからない。罹らなさそうではあるが、分からないのならやっておいた方が得というものだ。

 吸血鬼はそう判断する。

 

「消毒ぐらいで泣き言言わないこと。情けない。どこぞの村娘なんて、全身から血を吹き出す直前になっても我慢してたのに」

 

 痛みにのたうち回る聖女の体を無理やりに押さえつけ、綺麗になった傷口の周りを改めてじっくりと見る吸血鬼。

 口の中で幾つかの言葉を呟こうとしては飲み込み、もごもごと三秒ほど思案を推し進める。

 

「そうだね。傷口を縫うから、暴れないでよ? 変に動かれると、歪な傷跡が残るんだから」

 

 動けないようにしっかりと、聖女の体を傷口が地面に触れないように固定したまま、片手を先程準備しておいた器具の数々に伸ばした。

 

 幾つかある瓶の中で、一番口が大きなものから、縫い針を取り出す。瓶の中には無色透明の液体が注がれており、この汚い部屋の中でも清潔に保たれるようになっている。

 糸も似たような状態で保存されていて、清潔さにはかなり気を使われていた。

 

 吸血鬼は手慣れた様子で、聖女の傷を丁寧に縫う。痛みが激しいのか、聖女の口からは祈りの言葉と、苦痛から生じるうめき声が幾つも漏れている。

 

 ともあれ、無事に傷の処置が終わり、包帯も巻き終え、腕は動かせないように固定された。

 

「はい、終わり。しばらくは絶対に激しく動かさないこと。……痛みでそんなことはできないとは思うけど。

 

 あとは、包帯はきちんと取り替えて、清潔さを保ち続けておくこと。と、吸血鬼は適切な処置をして、興味が無さそうによそを向いてしまった。

 

 聖女は驚きの表情を隠せなかった。

 何が起きたのかと目を丸くして、処置の跡を見つめていた。

 処置が終わって、肩の痛みが嘘のように軽くなったのだ。処置の最中はあれほどまでに痛かったのに、今は、無理に動かそうとしなければそこまで酷い痛みはない。

 ――聖女の肩に巻いてある包帯は、鎮静作用がある特別な薬品が染み込んでいる。その影響で、怪我の痛みが一時的に大きく軽減されているのだ。

 

「え、と。あの」

「ん? どうかした? 他に大きな怪我はなかったはずだけど?」

 

 傷口の処置を終えた吸血鬼は、聖女にはもう用がないと言わんばかりに、取り出した器具の片付けを始めている。

 

 半裸の女など、吸血鬼からすれば恰好の餌、どうとでも調理できるだろうに。更に聖女となれば、食事云々を抜きにしても殺しておきたい対象なはず。

 聖女からすれば、彼女の行動はあまりにも不可解だった。

 一般的なそれから、あまりにも乖離しすぎている。そもそも、吸血鬼が人の怪我を手当するなんて話を聞いたことが無い。

 

「――そんなにじっと見つめられると、流石に気になるんだけど。何?」

 

 よほど真剣な眼差しで見つめてしまっていたらしく、吸血鬼の苦笑が敵意を感じさせないのもあって、気まずさから一度大きく顔を反らしてしまう。

 まあ、別にいいけど。と、幸いにも彼女は大して気にしている様子はない。

 

 聖女であるが故に、言わねばならない言葉が中々出てこないでいる。

 喉の奥まで出てきているものの、理性がそれを押しとどめてしまっている。

 仮に、彼女が吸血鬼でなく、人間だったのなら、聖女の苦悩はなかっただろう。

 

「別に、お礼なんて言わなくていいよ。私が勝手にやったことだから、そっちが無駄なことを考える必要性は全く無い」

 

 反らした顔が、再び吸血鬼の少女へと向けられる。

 

 少女の背中だけが聖女の瞳に映り、少女の長く美しい銀色の髪が、少女が棚に瓶を戻すたびに、舞い踊っている。

 

 吸血鬼の少女が言った言葉は、聖女の立場を考えて発した言葉である。

 それは、人類の天敵であり、聖女が退治すべき対象――吸血鬼に礼を言うなど、聖女という立場が許してくれないからだ。

 

 聖人、聖女は、神の加護をもって、吸血鬼を討ち滅ぼせる数少ない人間だ。それがどうして、数多の同胞を殺してきた仇敵に礼を言えようか。

 だからこそ、吸血鬼の少女がこの言葉を発しなければ、きっとそのまま黙り続けてしまっていたことだろう。なにせ、それが正しい選択なのだから。

 

「――いえ。手当していただき、本当にありがとうございました。名も知らぬ吸血鬼よ。更には、感謝を少しでも躊躇った無礼を、お詫びします」

 

 ――今度は、吸血鬼の少女が勢い良く振り返る。その目は、まるで幽霊でも見たかのように見開かれ、紅玉の瞳が美しく揺れていた。

 

「私の名は、ミア。ミア・フォン・リュールング。ここから西に行ったところにある、タークという町の教会にて、神の加護を授けている聖女です」

 

 聖女――ミアの言葉には、一欠片も迷いは残っていなかった。真摯な思いだけを言葉に乗せて、目の前の存在に出来る限りの感謝を述べている。

 

「……ちょ、ちょっと? 何を言ってるの? 自分が何を言ったのか、わかってないわけじゃないでしょ?」

「はい。全部わかってます」

 

 目の前の吸血鬼が狼狽えるのも当然だ。たった今、ミアが行った行為は、町を一つ丸々と吸血鬼に譲り渡す愚行に他ならないのだ。

 仮に、この吸血鬼の少女が、ここでミアを殺したとする。そうすれば、もうタークという町には、吸血鬼から身を守る手段が存在しない。頼みの綱だった神の加護が失われ、瞬く間に吸血鬼たちの蹂躙されることだろう。

 

 町の住人は家畜として、吸血鬼に飼われ血を吸われるだけの存在になり下がり、飽きられれば、無残に遊ばれ殺される。地獄と化すに違いない。

 タークという町がどれほどの大きさかはどうでも良い。聖女が、守るべき人々を吸血鬼に売り渡したというのが、ここでは問題なのだ。

 

「それがわかってても、私は、道を違えるような真似はしたくありません。助けてくれたものを、恩人を、無下に扱うことは出来ません。名を隠したまま、礼だけ伝える無礼も……働けません」

 

 恐々と、可能な限り差し支えない言葉を選びながら、自身の意思をぶつける。

 視線が交差する。紅い瞳が、ミアの瞳を一直線に貫く。宝石のような美しくも怪しげな輝きが、ミアの愚行を責め立てる。

 思わず目をそらしたくなるが、ぐっと堪えて見つめ続ける。ここで目を反らしてしまえば、ミア自身が行った行為を間違いだと認めてしまうことになる。それはできなかった。

 

 生まれながらの聖女として、人々の模範となるべくして生まれた人として、間違ったことはしていないのだと、信じなければならない。

 長くも短い、数年とも永遠とも思えるような一時が過ぎ去り、先に折れたのは吸血鬼の方だった。

 

「……なるほど、これは重症だ。手の施しようがない」

 

 ため息混じりの呟きが聞こえた。

 

「自分がやってしまったことを、正しいと信じて疑わない。……どこかのお姫様みたいに、純粋で、独善的で……相手を疑えない大馬鹿者だ。そっくりだよ」

 

 それは、出来の悪い子供を叱る母親のように厳しくも慈しみがある言葉だった。

 どこから生まれたのかもわからない罪悪感に苛まれ、ミアは顔を伏せてしまう。

 

「馬鹿に効く薬はない。さっさとここから出て行きなさい。

 

 そっと、吸血鬼はミアへ背中を向ける

 失望されたと、ミアは受け取った。

 静かに肩を落とす。

 その様子を見てかどうかは分からないが、吸血鬼が一つため息を吐く。

 

「……上の修道院には、まだ完全には崩れてない客間や寝室があったはずだよ。雨が降っている間は、追手は来ないだろうから、少し体を休ませておきなさい」

 

 ただそれだけを言い捨てると、吸血鬼は片付け作業へと戻った。

 これ以上話すことは無いと、無言で拒絶の意思を示している。

 

 ミアは少しの間、待ってみたものの、吸血鬼は作業の手を止めることはない。

 仮に、話しかけたとしても無視されるだろう。

 仕方がなく、言われたとおりこの地下室から出て行こうと、入ってきた方向へ足を動かす。ランタンの明かりを頼りに、今度は転ばぬように慎重に。

 

「……イデアール」

「え?」

 

 出ていこうとする足音に反応したのか、吸血鬼が背中越しに声をかけてきた。

 ミアが反応し、振り返る。

 

「私の名前だよ。イデアール、これが私の名」

 

 ミアの表情が、ぱぁっと花が咲き誇るような笑顔になる。

 

「はい! ありがとうございました、イデアールさん」

 

 改めてお礼を言った。

 今度は、地下室から出ていっても、声をかけられることはなかった。

 それでも、少しだけミアの歩調はご機嫌だった。

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