令和五年のあの日、日本は燃えていた。
空を覆い尽くすのは、陽光を遮るどす黒い噴煙と、全てを焼き尽くす焦熱の赤。
「急げ! 瓦礫から離れて地下シェルターへ向かえ!」
鼓膜を切り裂く空襲警報と、地を震わせる対空砲火の轟音。
阿鼻叫喚の巷と化した街の中で、
かつて、竜宮は海を駆ける軍人であった。
未曾有の戦乱の中、硬直化した正規軍の失策により多くの将兵が失われる中、半ば強制的に徴用された「民間民間人提督」たち。
竜宮はその一人でありながら、卓越した戦術眼と現場判断で部下を統制し、いつしか「民大将」と尊称されるまでの指揮官となった。
しかし、その存在を疎んだのは皮肉にも身内である軍上層部だった。
彼らは保身と特権意識ゆえに、実力で頭角を現した竜宮たちを疎外。
度重なる人事再編という名の「粛清」により、竜宮は軍を追われた。
それが、「日本軍」にとって致命的な転換点となった。
自らの目と耳であった「半民半軍」の提督たちを切り捨てた正規軍は、瞬く間に情報収集能力を喪失。
暗闇の中を盲目的に進む巨大な鉄塊と化した軍隊に、勝利の女神が微笑むはずもなかった。
硫黄島が陥落し、沖縄、九州、四国、さらには北海道沖の制海権までもが蹂躙された。
だが、国民はその真実を知らぬままだった。
蘇った「検閲」と「大本営発表」により、SNSは特高警察の監視下におかれ、敗北を口にすることすら許されない。
真実に触れられるのは、ネットの深淵に潜む一部の者か、竜宮のように軍内部に独自の糸を持つ者だけだった。
絶望を知りながらも、目の前の命を救うために奔走する。
――その時だった。 空気を引き裂く不気味な風切り音が、竜宮の頭上から降り注いだ。
咄嗟に周囲の人間を突き飛ばした刹那、視界が白銀の閃光に染まる。
爆音すら置き去りにする衝撃。竜宮の意識は、そこで永遠の闇に沈んだ。
『竜宮一士(33) 元海軍民大将』
後日、情報の断片を繋ぎ合わせた地下の掲示板に、その名は無機質に刻まれていた。
◇◇◇
次に目を開けた時、世界はあまりにも静かだった。
硝煙の臭いも、絶望を孕んだ叫び声もない。
鼻腔をくすぐるのは、古い畳の香りと、どこか懐かしい線香の匂い。
竜宮は困惑しながらも身を起こした。
痛覚はない。
四肢も揃っている。
爆風で肉体が霧散したはずの記憶とは裏腹に、彼は柔らかな布団の中にいた。
呆然と周囲を見渡し、壁に掛けられた古い日めくりカレンダーに目を留める。
記された数字に、竜宮の思考は凍りついた。
西暦1930年。
自身の生きた時代から遡ること九十余年。だが、彼を戦慄させたのはその歳月ではない。
「……『照和』、五年?」
カレンダーに力強く墨書きされた元号。それは、彼が教科書で知る「昭和」ではない。
『照和』。
その二文字が、ここが己の知る歴史とは似て非なる「世界」であることを突きつけていた。
「声が……」
漏れ出た独白に、竜宮は再び息を呑んだ。
戦場で枯らした三十代のしわがれ声ではない。
それは、まだ変声期を迎えようとする少年の、瑞々しくも細い声だった。
竜宮は慌てて己の両手を顔の前に掲げた。
煤と血に汚れ、無数のタコができていたはずの指。
それが今、透き通るような白さと若々しさを湛えた、少年の手へと変わっていた。
ぐるりと周囲を見渡す。
そこは簡素な四畳半の和室。
障子越しに差し込む春の陽光が、あまりにも穏やかで、かえって恐ろしい。
卓上の手鏡を手に取る。
そこに映っていたのは、かつての面影を残しながらも、過酷な運命に翻弄される前の、十二、三歳ばかりの自分の姿だった。
家系は前世と同じ「竜宮家」に転生したようだった。
だが、時代が違えば親も違う。
そして何より、この家もまた軍とは無縁の一般市民に過ぎない。
(……詰んでいる)
竜宮は鏡を見つめたまま、冷徹な計算を始めていた。
もしこの「照和」の世界にも、十年後にあの大戦が控えているのだとすれば、自分に何ができる。
十数年後、たとえ軍に入ったとしても、開戦時の年齢は二十代半ば。
どれほど前世の知識があろうと、一介の下士官か若造の将校に過ぎない。
組織の頂点に立たなければ、この国を変えることはできない。
一介の庶民から十年足らずで軍を動かす地位に上り詰めるなど、不可能な空論だ。
「照和」という見知らぬ空の下。 竜宮一士の第二の人生は、希望の光を見る前に、あまりにも高すぎる「現実」という名の壁に阻まれていた。
◇◇◇
16歳になるまで、猶予はあと4年。
子供として守られるモラトリアムは、たったそれだけしかなかった。
16歳になれば、否が応でも己の進路を決定し、人生の舵を切らねばならない。
中学を終えて軍の門を叩くのか、あるいは別の道を模索するのか。
だが、頭の中で近現代史の年表をめくるたび、竜宮は眩暈を覚えた。
直近に控える歴史の濁流を思い浮かべるだけで、頭の毛が抜け落ちそうなほどの絶望感がこみ上げてくる。
来年――一九三一年には満州事変が勃発する。
それに続く国際連盟の脱退。
日中戦争への泥沼の突入。
日独伊三国同盟の調印による枢軸国への傾斜。
そして、待ち受ける経済封鎖とハル・ノートの突きつけ。
どれほど贔屓目に見ても、これほど綺麗に「詰み」へと邁進した国家が他にあるだろうか。
世間や後世の歴史家は、陸軍の独走や軍部の暴走を責める。
それは事実の一面ではある。
だが、前世で国家の末路をこの目で見てきた竜宮には、それだけで片付けられない構造的欠陥が痛いほど理解できた。
資源に乏しい極東の島国が、ハル・ノートに記された「満州および中国大陸からの無条件撤兵」を呑めるはずがないのだ。
大陸から得られる鉱物や物資をすべて手放せということは、経済的窒息を受け入れ、干からびて死ねと宣告されたに等しい。
(食糧だけなら、まだやりようはある……)
竜宮は畳に指を這わせながら、思考を巡らせた。
広大な北海道を国家規模で徹底的に開拓・開発すれば、日本列島の人口を養うだけの農畜産物を産出することは理論上可能だ。
だが、問題はそこではない。
石油、鉄をはじめとする各種鉱物資源。
令和の時代にはハイテク産業の血液となったレアアースに至っては、日本の領海深く――南鳥島沖などの深海数千メートルに眠っていることが突き止められ、ようやく試験掘削が始まったばかりだった。
一九三〇年代の土木・海洋技術で、海底資源に手を出せるはずもない。
結局のところ、近代工業を維持し、国民の生活を成り立たせるための資源は、大陸や南方へ依存せざるを得ない構造になっている。
資源の生命線を手放すことは死を意味し、大陸に固執すれば国際的な孤立を深める。
しかも日中戦争の裏では、英国が蒋介石政権を公然と支援し、物資を送り込み続けていた。
泥沼の戦場で兵を失い続ける国民感情からすれば、「鬼畜米英を討つべし」と世論が沸騰するのも無理からぬ帰結だった。
◇◇◇
十二歳の子供が、平伏して畳に額を擦りつける――。
その異常な光景に、絵に描いたような頑固一徹の父親でもひどく狼狽した。
だが、竜宮の目に宿る並々ならぬ気迫と、決して譲らぬ頑なさに気圧され、最後には渋々ながら小銭入れの紐を解いたのだった。
手渡されたのは、わずかな硬貨。
だが、この時代の一般家庭において、それは決して軽い出費ではない。
一通の国際郵便葉書を海原の向こうへ送り出すのに、二十銭。
現代――竜宮が生きていた令和の物価に換算すれば、およそ二千円にも相当する大金だ。
遠く離れた異国の身内へ、冠婚葬祭の凶報や慶事を告げる時でもなければ、庶民が気安く投函できるものでは到底なかった。
(すまない、父さん。だが、これだけは譲れない賭けなんだ)
心の中で父親に頭を下げつつ、竜宮は卓上の葉書を前に筆を執った。
宛先は、ドイツ東部――東プロイセンの古都ケーニヒスベルク。
かつてのプロイセン王国、そして旧ドイツ帝国の名門貴族、ヴィッテンフェルト家の本邸である。
もし、己のように前世の記憶を持ったままこの『照和』の世に転生した者がいるとすれば、それは自分一人だけではないはずだ。
その仮説のもと、記憶の糸を手繰り寄せた竜宮の頭に浮かんだのは、令和の終末期まで何代にもわたって「決して住所が変わらなかった」二人の知己だった。
片方は、日本のやんごとなき御方。
一介の町人の子供が唐突に手紙など送りつければ、憲兵や特高警察に踏み込まれて一族もろとも破滅しかねない。
絶対に手を出せぬ領域だった。
ゆえに、残る希望はただ一つ。
旧帝国貴族の血脈を継ぐ、ヴィッテンフェルト家のみであった。
もっとも、貴族の館に極東の見知らぬ少年から怪文書が届くのだ。
宛てが外れれば、ただの無礼極まりないゴミとして暖炉に放り込まれるのが関の山だろう。
だが、僅かでも天佑の光が差し込む可能性があるならば、賭けてみる価値は十分にあった。
表面の差出人欄。
竜宮は毛筆を走らせ、己の名を敢えて「キリル文字」――ロシア語で認めた。
そして、裏面。
純白の余白の中央に、竜宮は力強い墨文字で、ただ一言だけを刻んだ。
『我ハ此処ニ在リ』
余計な言葉は一切いらない。
その代わりに、竜宮は持ち前のデッサン力を総動員し、言葉以上の「確たる証拠」を緻密に描き込んだ。
――細く鋭角に切り裂くような機首。
外翼部に大きな上反角を持ち、水平尾翼が下方に折れ曲がった独特のアスペクト比。
二基の巨大なジェットエンジンを抱き込んだ、重厚かつ凶暴な機影。
F4ファントム――航空自衛隊がかつて運用し、絶望的な防空戦の中で退役機までもが引っ張り出され、竜宮たち民間召集のパイロットへ供与された名機『F4EJ』。
複葉機がまだ空の主役であり、全金属製の単葉機すら黎明期にある一九三〇年の世界において、その姿は異次元の未来兵器以外の何物でもない。
竜宮自身、海の「大将」と呼ばれながら、あの老兵のようなファントムの操縦桿を握り、焦熱の空を駆けた戦闘機乗りでもあった。
そして――宛先の主である「彼女」もまた、かつてあの空で同じ機体の風を感じ、背中を預け合った無二の戦友だった。
もし彼女が、ヴィッテンフェルトの血を引いてこの世界に目覚めているならば。
このキリル文字の署名と、時代を半世紀以上も先取りした悪魔のようなジェット戦闘機のスケッチを見誤るはずがない。
「……届けよ」
墨が完全に乾いたのを見届け、竜宮は葉書を丁寧に懐へと収めた。
春の柔らかな風が吹き抜ける街へ歩み出し、道端の赤い円筒形ポストに、一枚の紙片を滑り込ませる。
コトン、と小さな音が乾いた底に響いた。
それは、九十年の時を遡った一人の元軍人が、世界に向けて放った最初の一石だった。