「鴻上宮殿下ッ! どうか、どうか我らの誠の心をお聞き届けください!」
降りしきる牡丹雪を蹴立て、宮内省前庭の白銀の広場へと雪崩れ込んできた叛乱部隊の先頭で、外套を羽織った青年将校が抜刀し、絶叫した。
その背後には、銃剣を着剣した三八式歩兵銃を構える数百名の兵士たちが、異様な殺気を帯びて整列している。
「我らは私利私欲のために立ったのではない!貧民を顧みず私腹を肥やす財閥、統帥権を干犯する軍閥、そして国体を蝕む君側の奸を討ち滅ぼし、皇国本来の姿を取り戻すべく決起したものであります!殿下自ら『護国の鎧にして剣』と仰せられたその鉄の武神を以て、我ら昭和維新の先頭にお立ち願いたい!」
青年将校の目に宿るのは、狂信的なまでの純粋さと熱狂であった。
彼らにとって、目の前に聳え立つ紫の巨躯は、自分たちの正義を承認し、共に腐敗した国家を焼き払ってくれる救世主の姿に見えていたのだ。
だが――その熱叫を断ち切るように、紫の雷震の頭部スピーカから響いたのは、凛として、だが氷のように冷ややかな声であった。
『――貴様たちの、国を憂う心そのものは理解しよう』
鴻上昴の澄んだ声が、雪の広場に静まり返る兵士たちの耳朶を打つ。
『だが、私はそのような凶行を微塵も望んではおらん。銃剣を以て同胞を脅かし、政治の要人を暗殺して国を正すなど、断じて皇国の道ではない!……これ以上の無用な流血は望まぬ。武器を捨て、直ちに投降せよ。原隊へ復帰するならば、軍法会議における寛大な処置を私が御上に直訴しよう』
必死の投降勧告。
前世の記憶を持つ昴だからこそ、この青年将校たちの純粋さが利用され、やがて国を破滅の戦争へと駆り立てる軍閥の踏み台にされる悲劇を痛いほど知っていた。
しかし――その慈悲の言葉は、熱狂の檻に囚われた男たちには届かなかった。
「……そ、そんな……! 殿下まで、奸臣どもに誑かされておられるというのか……!?」
青年将校の顔が絶望と怒朽で激しく歪む。
「ええい、不忠の徒め!殿下の目を眩ませている取り巻きどもを引きずり出せ! 殿下をお救いし、力ずくでもあの巨人を奪い取るのだ! 突撃ィッ!!」
「「「ウオオオォォッ!!」」」
地鳴りのような喊声とともに、百を超える兵士たちが着剣小銃を水平に構え、白と暗灰、そして紫の鉄人たちへ向けて突進を開始した。
前世の史実において、天皇陛下の直々の命令すら容易に受け入れなかった皇道派である。
ましてや、昴の発表によって勢いと自信を前世以上に肥大化させていた彼らが、言葉一つで引き下がるはずもなかった。
彼らは本気で、自らの命を捨ててでもこの鋼鉄の壁を乗り越える覚悟を完了していたのだ。
雷震の腕部にマウントされた二十ミリ連装機関砲。あるいは肩部に据えられた八十八ミリ高初速砲。
その引き金を一度でも引けば、突進してくる生身の人間など一瞬で挽き肉と化し、木っ端微塵の肉片となって雪原を赤く染め上げるだろう。
静岡地震で見せつけたその圧倒的な破壊力は、見掛け倒しなどではない。
だが――白の雷震の操縦席で、竜宮が下した号令は、殺戮の引き金ではなかった。
「……全機、暴徒鎮圧兵装および放水管圧、全開! ――撃てッ!」
ガガガガガッ! と、前庭の空気を震わせて放たれたのは、実弾の轟音ではなかった。
雷震の腕部ガンポッドから撃ち出されたのは、前世の現代警察が暴動鎮圧に用いていた、硬質ゴム弾の濃密な弾幕であった。
ズドッ、ズダダンッ! と鈍い衝撃音が連続して響く。
プロボクサーの渾身のストレートに匹敵する運動エネルギーを叩き込まれ、先頭の兵士たちが次々とくの字に折れ曲がって雪の中へと転倒していく。
だが、大日本帝国陸軍の苛烈な訓練で鍛え抜かれた兵士たちの肉体と、狂信的な精神力は凄まじかった。
肋骨にヒビが入り、激痛に顔を歪めながらも、彼らは「七生報国!」「天皇陛下万歳!」と叫びながら、ゾンビのように雪を蹴って再び立ち上がり、突進を再開するのだ。
並の軍隊であればとっくに戦意を喪失している打撃を前にしても、大和魂という名の麻薬に侵された彼らの足は止まらない。
だが――竜宮の備えは、精神論で突破できるほど甘くはなかった。
「放水はじめッ!!」
ドォォォッ――!! という凄まじい水煙の咆哮とともに、陣地の後方に控えていた竜宮警備の大型高圧給水車から、極太の水流が放たれた。
消防用の超高圧放水銃が、突撃してくる兵士たちの胸元を直撃する。
数人の兵士がまとめて薙ぎ倒され、雪の上をごろごろと転がり落ちていく。
そして、真の地獄はそこからであった。
この夜の帝都は、牡丹雪が深々と降り積もる、氷点下の極寒である。
その氷の世界において、頭から足の先まで容赦ない冷水を浴びせられたのだ。
軍服は一瞬で水を吸って鉛のように重くなり、吹き抜ける寒風によって、濡れた布地は瞬く間にバリバリと凍りつき始めた。
「ぎ、ぎゃあああっ!?」
「さ、寒い……手足が、動か……っ!」
立ち上がろうとする兵士たちの歯がガチガチと激しく鳴り、全身の筋肉が急激な低体温症によって痙攣を起こす。
どれほど不撓不屈の大和魂を誇ろうと、どれほど皇国を憂う熱い血が滾っていようと、体温を奪われて凍結していく生体組織の物理法則に逆らえる人間など、この世に一人として存在しなかった。
銃を取り落とし、雪の上にへたり込んで震える兵士たち。
先頭で軍刀を振り上げていた青年将校もまた、ゴム弾を腹に受けて膝をつき、全身に浴びた水がツララのように凍りつく中で、紫の雷震を見上げながら絶望の涙を流していた。
「……な、何故だ……何故分かってくださらぬ……!」
その悲痛な叫びを、白の雷震のモニター越しに見つめながら、竜宮は銀縁眼鏡の奥で冷徹に目を伏せた。
惨い光景かもしれない。
だが、これが「戦(いくさ)」なのだ。
そして、実弾で撃ち抜いてミンチにすることなく、生きて罪を償わせる機会を残したこの防衛戦こそが、先に牙を剥かれた側として竜宮が払える、最大限にして唯一の慈悲であった。
降りしきる白雪の中、突撃の歓声は完全に消え去り、前庭を支配していたのは、凍えに震える無数の兵士たちの荒い息遣いだけであった。
凍え震えて動けなくなった皇道派の兵士たちへ向け、竜宮警備の隊員たちが駆け寄り、毛布を被せて応急手当と武装解除を進めていた、その時であった。
ズズズズ……と、牡丹雪を押し潰し、地底を揺るがすような重厚なキャタピラの軋み音が、雪の暗がりの向こうから響いてきた。
吹き荒れる地吹雪を切り裂いて現れた巨大な鉄塊のシルエットを、白の雷震のレールカメラが捉えた瞬間――操縦席の竜宮は、思わず素の声を漏らしていた。
「……マジか」
そこに姿を現したのは、この時代の日本陸軍において最も異様な巨躯を誇る、あの鉄の怪物――『九五式重戦車』であった。
全長およそ六・五メートル、全高二・九メートル、重量二十六トン。
主砲塔に七十ミリ戦車砲を備え、前後に三十七ミリ砲と機関銃を配した多砲塔戦車。前世の記憶をひっくり返しても、二・二六事件に重戦車が出動したなどという記録は影も形もない。
どこかの戦車学校か陸軍技術本部の実験場から、蹶起将校のシンパが力ずくで引っ張り出してきたのであろう。
だが、竜宮が呆れ果て、次いで冷酷な怒りを覚えたのは、その戦車の規格外の出現に対してではなかった。
ギギギ……と鈍い油圧音を軋ませながら、重戦車の主砲塔が旋回していた。
その太い七十ミリ砲の砲口は――明らかに、竜宮の駆る白の雷震、そして背後に控える紫の機体を正確に捉えていた。
(……よりにもよって、宮内に向かって砲を向けるか、あの狂信者どもがっ)
たとえ目の前に立ち塞がる雷震を狙っているのだとしても、実弾を発砲すれば、万が一の跳弾や貫通弾、あるいは外れた砲弾が、背後の宮内省庁舎や皇居の奥深くへ着弾する可能性など、初歩の弾道学を知る者なら小学生でも理解できることだ。
自らの行動を「尊皇討奸」と称し、天皇親政の昭和維新を叫んで立ち上がった者たちが、自ら造り出した妄執の果てに、御座所のある宮城へ向けて重戦車の砲口を向けている。
大義名分などとうに吹き飛び、ただ目の前の障害を排除したいという短絡的な獣の凶暴性だけが剥き出しになっていた。
『竜宮さん……!』
通信機から、背後の紫の機体に座る昴の、悲痛と怒りに震える声が飛び込んでくる。
皇族たる己の存在すら踏み越え、宮城へ砲口を向けられた侮辱。
その事実は、この少年皇族にとっても決して許されざる最後の一線を越えていた。
「分かっている、昴。……下がっていろ」
竜宮の声は、氷点下の吹雪よりも冷たく澄み切っていた。
生身の同胞である兵士たちには、可能な限りの慈悲を以てゴム弾と放水で応じた。
生きて罪を償わせるための温情であった。
だが――宮城に向けて大砲の引き金を引こうとする装甲車両に対してまで、手加減をしてやる義理など爪の先ほども存在しない。
「――西住」
『ハッ! 外郭中隊、全車射撃準備完了しております!』
「外郭部隊は手を出すな。……コイツは、俺が直々に料理する」
白の雷震の油圧ポンプが、キィンと甲高い作動音を上げた。
右腕のマニピュレーターが、背部ウェポンラックに据え付けられた超硬特殊鋼の「近接戦闘長刀」の柄へと、滑らかに手を伸ばした。
雪烟を巻き上げながら、九五式重戦車の砲身が火を噴こうとする寸前――純白の巨人が、地を蹴った。
重戦車の砲塔がぎりぎりと旋回するのを認めた瞬間、展開していた斯衛軍の雷震の中から、二機の暗灰色の巨躯が電光石火の早さで前に躍り出た。
ズンッ!
と地響きを立てて雪原に突き立てられたのは、対戦車榴弾の直撃すら受け止める大型の多目的複合防盾であった。二枚の重装甲の盾が宮内省庁舎と皇居への射線を完全に遮断する防壁を形成する。
さらに、その後方からもう一機の雷震が前屈みの姿勢を取り、右肩に据え付けられた長大な「百二十ミリライフル砲」の砲身を、獲物を狙う猛禽の如く九五式重戦車へと真っ直ぐに指向した。
カシャリ、と装填された艦載徹甲榴弾の重い金属音が、凍てつく空気を震わせる。
『九五式重戦車、直ちに砲身を下げ、乗員はハッチを開けて投降せよ!』
白の雷震の外部スピーカーから、竜宮の怒号が叩きつけられた。
『天皇親政を叫びながら、御座所たる宮城へ向けて主砲を向けるとは何事か! 己の犯している大逆無道の沙汰が分からぬのか!』
だが、戦車のスリットの奥から返ってきたのは、もはや理性を失い、狂気に取り憑かれた青年将校の絶叫であった。
「問答無用ッ! 我らは皇国の為、君側の奸を討ち払わんと欲するのみ! 殿下を誑かす奸族どもめ、そこを退けッ!退かぬならば、その鉄の化け物もろとも吹き飛ばすまでだッ!」
ガタガタとキャタピラが雪を噛み、巨大な車体がさらに前進を始める。 もはや、言葉による説得の余地は完全に潰えていた。
『――通告は済んだ。これ以上の前進は、大逆の叛徒と見なし、直ちに撃破する』
冷酷な宣告とともに、竜宮は白の雷震の操縦ペダルを一気に踏み込んだ。
油圧ポンプが甲高い悲鳴を上げ、純白の巨人が白銀の雪原へと飛び出した。
人間の重心移動をトレースする足首のダンパーが、積もった牡丹雪を確実に捉え、凍結した路面であっても滑ることなく強靭な推進力を叩き出す。
竜宮は正面から突っ込みはしなかった。
敵の砲口が宮城の方角を向き続けるのを防ぐため、あえて道路の端――弧を描くような側方機動で全速疾走し、戦車の砲塔旋回を強制的に外側へと誘い込みながら、一気にその懐のデッドスペースへと間合いを詰めていく。
「撃てッ! 撃ち滅ぼせええぇぇッ!!」
戦車長が叫んだ瞬間、九五式重戦車の七十ミリ主砲が咆哮した。
夜の闇を真昼の如く引き裂くマズルフラッシュ。至近距離から撃ち出された直撃弾が、突進する白の雷震の胸部装甲を正確に捉えた。
ズドォォォンッ!
凄まじい爆煙と火花が散り、衝撃波が雪を吹き飛ばす。
だが――白の巨人は、立ち止まるどころか、速度を落とすことすらしていなかった。
トラス・ハニカム構造による多層複合装甲。
前世において最新鋭戦車の徹甲弾すら想定して鍛え上げられたその装甲の前には、低初速の七十ミリ砲弾など、小石を投げつけられたに等しかった。
着弾した砲弾は装甲表面を貫くことすら敵わず、自らの運動エネルギーに耐えかねて粉々に破砕され、無力な破片となって雪原へと弾け飛んだのだ。
「な……ば、馬鹿なッ!?」
戦車兵が絶望に目を見開いたその刹那、白の雷震はすでに重戦車の右側面――死角の真横へと滑り込んでいた。
右手のマニピュレーターが、背部から引き抜かれた超硬特殊鋼の「近接戦闘長刀」を、音もなく水平に構える。
(終わりだ)
竜宮が雷震の腕を一閃させた。
数トンの油圧トルクと、刃物鋼の極限の硬度。
リベット留めで組まれた九五式重戦車の薄い側部装甲、旋回ターレットリング、そして内部の鋼鉄フレームに至るまで、巨大な刃は何の抵抗もなく、まるで熱したナイフがバターを切り裂くかのように滑らかに両断して駆け抜けた。
ザザッ! と雪烟を上げて戦車の後方へと滑り止まった白の雷震。
竜宮が刀身を一振りし、まるで血払いのように切っ先を地面へ向けた、その瞬間であった。
ゴキィィン……と鈍い金属の断裂音が響き、二十六トンの重戦車が、砲塔を含めた車体上部と、キャタピラのある下部へと、上下真っ二つにズレ落ちた。
切断面から高熱の摩擦火花が噴き出し、切断された燃料パイプからガソリンが引火する。
ドォォォッ!!
夜空を焦がす激しい爆炎とともに、二つに裂けた重戦車が炎上した。
その紅蓮の炎を背に受け、長刀を構えて静かに佇む純白の巨人の姿は、まさに神罰を下す武神そのものであった。
「……ひ、ひいぃぃっ……!」
遠巻きに見守っていた叛乱部隊の生き残りたちが、腰を抜かして雪の中にへたり込んだ。
大日本帝国陸軍が誇る最大の重戦車が、主砲を跳ね返された挙句、たった一刀のもとに両断されて炎上したのだ。
精神論と大和魂で埋められるような戦力差では断じてない。
神話の怪物を前にした人間のような絶対の恐怖が、兵士たちの戦意を根底から粉砕していた。
「武装を解除し、雪の上に伏せろ」
炎の前で、竜宮の冷徹な声が再び響き渡った。
「これ以上の抵抗は、貴様らの信ずる皇国そのものを滅ぼす利敵行為に他ならん。――武器を捨てよ」
パタリ、パタリと、雪の上に小銃が投げ捨てられていく。
牡丹雪が激しく降りしきる帝都の夜明け前。
皇道派の狂気を打ち砕いた一閃は、この国の歪んだ歴史の歯車を、不可逆の力ずくでへし折っていた。
九五式重戦車が突如として雪の暗がりから現れるという想定外のアクシデントはあったものの、宮内省――そして地下に匿われた重臣たちと宮城の結界は、完全に守り切られた。
前世の史実における二・二六事件は、戒厳令の布告から「下士官兵ニ告グ」のラジオ放送、投降を促す飛行機からのビラ撒きに至るまで、実に数日間にわたる緊迫した睨み合いの末、部隊が次々と脱落していくという長期戦を辿った。
だが、この後世世界において、事態の推移はまるで異なっていた。
宮内前庭で竜宮の駆る白の雷震が一刀のもとに重戦車を両断し、斯衛軍が叛乱軍の先鋒を完全に無力化したその瞬間――竜宮の凄絶な覚悟を買い、すでに腹を括っていた大高弥三郎が、電光石火の早さで動いたのだ。
陸軍が内部分裂を起こし、泥沼の内戦へと発展しかねない極限の危険を冒してまで、大高は自らの息のかかった「清風会」の部隊を全面動員。近衛師団の良識派将校や憲兵司令部を迅速に掌握し、首相官邸や陸軍省、警視庁を占拠していた叛乱部隊の拠点へ向けて電撃的な包囲網を敷いた。
「これ以上の抵抗は、大元帥陛下に対する明白なる大逆である! 直ちに銃を置き、原隊へ復帰せよ!」
圧倒的な包囲戦力と、宮内省前庭での先鋒部隊の完全惨敗の報せを受け、浮き足立った叛乱将兵たちは、発災からわずか半日足らずで戦意を完全に喪失。
首謀者の青年将校たちも次々と拘束され、帝都を震撼させたクーデター劇は、前代未聞の早さでその幕を下ろしたのである。
だが――雪解けの泥濘にまみれた帝都の路上で、鎮圧の陣頭指揮を執り続ける大高の胸中は、決して晴れやかなものではなかった。
軍用車の幌の下、煙草の煙を深く吸い込みながら、大高は自らの分厚い掌を見つめていた。
(……明日は、我が身だな)
自嘲の混じった暗い吐息が、紫煙とともに白く凍りつく。
この国の破滅を阻止し、狂気の軍閥と腐敗した政治機構を根底から叩き折るためには、いずれ自らの手で国家の背骨をへし折る「救国クーデター」を断行せねばならない――そう心に誓い、準備を進めてきたのは他ならぬ大高自身であった。
憂国の情に駆られ、国家の行く末を案じるあまりに銃を取った青年将校たち。
手段と方向性は違えど、その魂の根底にある衝動において、彼らと自分との間にどれほどの違いがあるというのか。
「他者のクーデターは反逆として断罪し、自分たちのクーデターは救国として正当化する……か。傲慢も極まれり、だな」
苦い毒を飲み下すような自責の念が、大高の肺腑を締め上げる。
どれほど崇高な大義名分を掲げようと、法秩序を破り、力によって国家を塗り替える行為が罪であることに変わりはない。
自分もまた、いずれ歴史の裁断を受け、果ては無間地獄へと堕ちる身なのだ。
だが――大高の瞳の奥に灯る炎は、その罪業の重さに怯んで消えることはなかった。
「それでも……やらねばならんのだ」
国と軍の構造をその根底から作り替えなければ、百年後、この国は再び頭上から業火を浴びて滅び去る。
あの少年――一世紀先の焦熱地獄から舞い戻ってきた元「民大将」が叩きつけてきた未来の警鐘は、大高の魂に消えぬ烙印を押していた。
他者を裁き、己もまた地獄へ堕ちる覚悟。
その血塗られた泥水を啜ってでも、この国を生かすという一点において、大高弥三郎の覚悟は竜宮一士のそれと完全に軌を一にしていた。
遠く、宮内省の正門前。
降り積もる雪の中、白の雷震の中から冷徹な眼差しで帝都を見据える竜宮の姿が、大高の双眸に映った。
二人の視線が、凍てつく空気を越えて無言のうちに交錯する。
そこには慰めも、勝利の美酒も存在しない。
あるのは、時代の汚泥をすべて被り、歴史の裏街道を突き進む「共犯者」同士の、静かな誓いだけであった。
皇道派の電撃的な粛清。
それは、暴走する軍閥の一角を力ずくで切り落とすと同時に、大高率いる「清風会」が、陸軍の暗がりの中で真の主導権を握るための決定的な号砲となった。
雪の二・二六は終わった。
だが、国家を真に作り変えるための本当の戦いは、まさにこの瞬間から始まろうとしていた。
◇◇◇
宮内省の前庭において、竜宮と昴がゴム弾と高圧放水という最大限の温情を以て叛乱部隊を制圧していたその裏で――。
帝都の一角、泰山航空工業および竜宮警備の本社敷地において展開されたもう一つの戦いは、決してそのような「綺麗な決着」には終わらなかった。
むしろそこにあったのは、一片の容赦も、一滴の慈悲すらも存在しない、完全なる殺戮と殲滅の鉄槌であった。
「工場を制圧し、あの鉄の巨人を奪取せよ! 昭和維新の完遂のために!」
軍刀を抜いた青年将校に率いられ、工場の正門を叩き壊して雪崩れ込んできたのは、皇道派の一個中隊規模の別動隊であった。
彼らは宮内省での本隊の突入に呼応し、竜宮警備の兵器廠を強襲して「雷震」や先進兵器を奪い、自らの軍事力として組み込もうと画策していたのだ。
だが、この狂信者たちは致命的に失念していた。
彼らが奪わんと手を伸ばした「雷震」は、宮内直轄の帝国斯衛軍が奉戴し、皇族たる鴻上昴が自ら「護国の剣」と天下に布告した至高の神器である。
それを軍閥の私闘のために力ずくで強奪せんとするなど、大日本帝国の国法に照らし合わせるまでもなく、その場で即座に首を刎ねられても文句の言えぬ「大逆不敬の獄門罪」に他ならなかった。
さらに言えば――彼らが軍靴で踏みにじったその地面は、竜宮が巨額の私財を投じて買い上げた、紛れもない「完全なる私有地」であった。
軍の敷地でもなければ、公道でもない。
一民間企業の敷地内に、銃火器を構えた武装集団が無断で押し入ったのだ。
近代社会の法秩序と一般常識に照らし合わせれば、彼らは「尊皇の志士」などでは断じてなく、ただの凶悪な「武装強盗」であり「テロリスト」に過ぎなかった。
私有財産を武力で脅かす強盗に対し、所有者が実力を行使して排除することは、万国共通の正当防衛である。
そして何より――彼らは「鉄火」を携え、人を殺す覚悟を持って踏み込んできたのだ。
ならば、敷地を守る側として、その無礼千万な訪問者に対し、寸分違わぬ「鉄火」の礼儀を以て返答してやるのは、軍事屋としての最低限の義務というものであった。
「……身の程知らずの泥棒猫どもが。プロイセンの領地に土足で踏み込んだ代償を、骨の髄まで教えてやる」
暗闇に閉ざされた第零試作ハンガーの扉が、地鳴りを上げて開いた。
雪煙の向こうから姿を現したのは、右肩に漆黒のバルケンクロイツ、左肩に東プロイセンの黒鷲を掲げた、二機の漆黒のタクティカルモジュール――クリームヒルトとマスタングが駆る「シュツルムフォーゲル」であった。
「撃ち方始め! ――害虫を一匹残らず叩き潰せ!」
マスタングの冷徹な号令が、敷地内に張り巡らされた有線スピーカーから轟いた。
その瞬間、侵入してきた皇道派の兵士たちを襲ったのは、前世の近代戦を知る者たちが仕掛けた「悪魔の十字砲火」であった。
夜空を切り裂いて放たれたのは、工場の屋上に据え付けられた『MG42』――毎分千二百発という異常な発射速度を誇る機関銃の掃射であった。「ヒトラーの電気ノコギリ」の異名をとる銃声が轟いた刹那、敷地に踏み込んでいた先頭の兵士十数名が、三八式歩兵銃を構える間もなくまとめて薙ぎ倒され、雪の上に赤い血飛沫を撒き散らした。
「ぎゃあああっ!? 機関銃だ、伏せ――」
叫び声すら、次なる暴力の前に掻き消された。
夜空から降り注いだのは、東京湾の空母「仙鷹」から飛来し、ホバリングしながら超低空で滞空していた重攻撃ヘリ「嵐颯」の三十七ミリ機関砲であった。
ズドン! ズドン! ズドン!
重戦車の装甲をも粉砕する大口径の榴弾が、工場の前庭に着弾する。
砲弾が炸裂するたび、土砂と雪とともに兵士の四肢が空へと跳ね飛ばされ、着剣小銃などマッチ棒のようにへし折られて吹き飛んだ。
さらに、二機のシュツルムフォーゲルが滑るように突進した。
避弾経始を施された傾斜装甲が、兵士たちが放つ小銃弾をキンキンと甲高く弾き飛ばす。腕部の二十ミリ機関砲が火を噴き、物陰に隠れようとした将校を土嚢ごと粉々に粉砕した。
一方的な蹂躙であった。
三八式歩兵銃を握りしめ、「昭和維新」のスローガンを叫んで突入してきた皇道派の中隊は、わずか五分と経たぬうちに、その戦力の八割を失って壊滅していた。
武器を取り落とし、血まみれの雪の上にへたり込んで震える、数名の生き残りたち。
その目の前へ、ズゥゥン……と地響きを立てて歩み寄ってきたのは、クリームヒルトの駆る漆黒のシュツルムフォーゲルであった。
『……言っておくが、貴様らを殺したのは国家でも軍隊でもない』
スピーカーから響く十四歳の貴族令嬢の声は、冬の吹雪よりも冷徹に研ぎ澄まされていた。
『他人の家の庭に押し入り、宝を盗もうとした不法侵入者を、家主の意向で駆除しただけだ。――恥を知り、雪の泥水を啜って生き延びるがいい』
マニピュレーターが払った風圧に吹き飛ばされ、生き残りの将兵たちは恐怖のあまり腰を抜かし、泣き叫びながら正門の向こうへと逃げ惑っていった。
夜明けの光が、血に染まった工場の敷地を薄青く照らし出していた。
宮内省での政治的・儀礼的な鎮圧とは対照的に、ここ泰山航空と竜宮警備の防衛線において、皇道派の別動隊は一握の灰へと叩き潰されていた。
手出し無用。
侵す者には死を。
元「提督」が築き上げた絶対の私有地は、その冷酷な防衛力の証明を、鮮血の教訓とともに帝都の歴史に刻みつけていた。
◇◇◇
帝都を震撼させた二・二六の凶行を、電光石火の早さで収拾させた功績により、大高弥三郎は陸軍中将へと親補された。
皇道派の領袖たちが一網打尽に失脚した陸軍省および参謀本部において、秩序の回復者たる大高と、彼が率いる「清風会」の存在感は一躍、中枢の決定権を握るほどの巨大なものへと跳ね上がっていた。
軍閥の暗闘に風穴を開け、国家の舵を正道へ引き戻すための足場は、この昇進によっていよいよ確固たるものとなったのだ。
だが――事態を裏から操り、宮内省の防壁を守り抜いた竜宮の胸中にあったのは、勝利の美酒の味ではなかった。
(……まだまだ、足りていなかったということだな)
社長室の椅子に深く身を沈め、竜宮は自らの掌を見つめていた。
北海道の大開拓を押し進め、「竜宮農業」を通じて数万の貧しい民草に衣食住と安定した賃金を与えてきたつもりでいた。
しかし、それでもなお、青年将校たちの狂気じみた蜂起を未然に防ぐことはできなかったのだ。
史実における二・二六事件の根底にあったのは、東北地方を中心とする農村部の凄惨極まる窮状であった。
冷害による大凶作、世界恐慌の直撃、娘の身売り、そして欠食児童――故郷の家族が飢えに喘ぎ、生き地獄に叩き落とされている現実を目の当たりにした地方出身の兵士や下士官たちのやり場のない怨嗟と義憤が、あの凶行の引き金となったのだ。
どれほど兵器を近代化し、一部の人間を救おうと、国土の根底に巣食う「絶対的貧困」の泥沼を干上がらせない限り、第二、第三の狂信者は必ず現れる。
竜宮はその冷酷な現実を、改めて痛感させられていた。
その反省と善後策を共有していた大高の手腕は、極めて老獪であった。
軍法会議の結審後、首謀者たる一部の青年将校には厳罰が下されたものの、処刑を免れた多くの将校や、上官の命令に従って決起に巻き込まれた下士官・兵卒たち。
軍籍を剥奪され、行き場を失った彼らの処遇について、大高は陸軍省へ向けて一つの「特務編成案」を叩きつけたのだ。
――不穏分子の一括監視および隔離を名目とした、極北への「懲罰部隊」の編成。
表向きは、逆賊の汚名を着せられた罪人たちを極寒の地へと放逐する過酷な「島流し」であった。
だが、その行き先は他でもない――竜宮が支配する「北海道再開拓地」であった。
実情は、有り余る体力と軍隊の規律を持つ彼らを、そのまま「北海道再開拓支援部隊」として現地へ組み込むための、大高による計算された救済策であった。
北海の大地へ送り込まれた元叛乱将兵たちは、西住阿保率いる第302中隊の監視のもと、銃剣の代わりにスコップとチェーンソーを握らされ、泥にまみれて原生林を切り拓く重労働へと従事させられることとなった。
空虚な「昭和維新」のスローガンを叫ぶ暇など微塵もない、肉体の極限作業。
だがそこには、前世の自衛隊仕込みの温かい食事があり、暖かい宿舎があり、自らの流した汗が確実に北の大地を沃野へと変えていくという、生きた手応えがあった。
狂信に侵されていた若者たちの魂を治療するには、精神訓話などよりも、泥を啜って大地を耕すことこそが何よりの特効薬であった。
そして――竜宮自身もまた、己の内にあった「ある偏見」を捨て去る決断を下していた。
実は竜宮には、前世における「東日本大震災」の記憶が強烈なトラウマとして焼き付いていた。
大津波によって数万の命が一瞬で呑み込まれたあの地獄を知る身として、無意識のうちに、東北――とりわけ三陸をはじめとする太平洋沿岸部に大規模な投資を行い、人を集めて集落を築くことに強い忌避感を抱いていたのだ。
だが、津波を恐れるあまり東北への救済の手を緩め、結果として農村の貧困を放置して二・二六の火種を助長してしまったのだとすれば、それは指揮官として恥ずべき手落ちであった。
沿岸部に無理に都市を造る必要はない。
ならば――貧困に喘ぐ東北の内陸部や農村の人々に、別の新天地を用意してやればいいのだ。
竜宮は直ちに「竜宮グループ」の求人窓口を東北全域へ向けて大規模に開放した。
「求む、開拓と工業の担い手」
東北の貧村に張り出された募集要項は、飢えに震えていた無数の農民や若者たちにとって、まさに天から垂らされた蜘蛛の糸であった。
ある者は、無尽蔵の食糧を生み出す北のメガファーム――北海道へ。
またある者は、巨大造船所と国際メガエアポート、そして標準軌の新幹線鉄道が建設されている――房総半島へ。
渡航費と生活基盤を丸ごと保障し、一族郎党を引き連れての移住を歓迎する竜宮グループの支援策により、東北の寒村から、何万という人々が新たな生きる場を求めて移動を開始した。
無論、全国規模での一般募集も継続して行われていたため、特定の地域だけを贔屓するという不公平感も生じない。
「……人を飢えさせない。それが、全ての国防富国強兵への第一歩だ」
房総の臨海プラントから、次々と敷設されていく標準軌のレールを見つめながら、竜宮は呟いた。
大高が陸軍中枢を固め、北海道の原野で元叛乱兵たちが汗を流し、そして東北の困窮者たちが、房総と北の大地を支える強靭な生産力へと化していく。
雪の二・二六という歴史の傷跡を呑み込み、それを自らの血肉へと変えた竜宮の帝国は、破滅の足音を掻き消すほどの凄まじい地鳴りを上げながら、その版図をさらに拡大させていた。