前原一征は、同志であり師とも仰ぐ高野五十六から極秘裏に届けられた青写真を見つめ、珍しく戦慄を露わにしていた。
前世の大戦においても潜水艦の艦長として苛烈な死線を幾度となく潜り抜けてきた前原にとって、「いかなる極限状況にあっても常に氷の如く冷静であること」こそが、深海を征く男に求められる絶対の資質であった。
何十発もの爆雷が頭上で炸裂し、艦内照明が消え、浸水の恐怖が迫ろうとも、彼の脈拍が乱れることはなかった。
だが――卓上に広げられた図面を追う前原の指先は、微かに震えていた。
そこに描かれていたのは、間違いなく潜水艦であった。
その長大な艦影、セイルと一体化した巨大な耐圧格納筒――それは、高野率いる「紺碧会」において基本方針が固まり、無用の長物たる大和型戦艦の建造計画を中止させて浮いた資材と熟練工を回し、いずれ建造が予定されている潜水艦隊の要――「潜水空母」の構想そのものであった。
だが、前原の背筋を凍らせたのは、その大枠のシルエットではない。
図面の隅々にまで記された、狂気じみた先進技術の数々であった。
敵のアクティブソナーが放つ探信音を無力化する「軟性護謨被膜」の全面被覆。
推進器のスクリュープロペラを完全に廃し、キャビテーションの発生を物理的に抑え込んで無音航走を可能にする「水流ポンプジェット推進」。
そして、シュノーケルを海面に突き出すことなく、深海において驚異的な水中高速力を叩き出す過酸化水素による「ワルター機関」の搭載――。
前世において日本海軍が誇った「伊400型」の仕様などでは断じてない。
それは、前原自身が前世の無念を晴らすべく、夜な夜な脳内で練り上げ、手元の極秘手帳にだけ書き留めていた次世代旗艦――『伊601』の仕様と、恐ろしいまでに寸分違わぬ一致を見せていたのだ。
(……馬鹿な。私の頭の中にしかなかったはずの構想が、なぜ完全に図面化されているのだ……!?)
冷たい汗が、前原の額を伝い落ちる。
しかも、よく見ればその図面は、前原の青写真をさらに一歩も二歩も飛び越えていた。
耐圧格納筒の内部寸法は、水上攻撃機だけでなく、あの垂直離着陸を行う「回転翼機」や、陸上を駆ける「人型機動兵器」の積載まで完璧に計算されたマルチロール・ドックとして完成されていたのである。
震える手で図面の余白に目をやると、そこには高野五十六の力強い直筆の添え書きが残されていた。
『――驚くことなかれ。この船は、海軍がこれから造るものではない。東京湾沿岸の秘密地下ドックにおいて、すでに竜骨が据えられ、艤装が進められている実在の船だ。設計者は、弱冠十七歳の民間人、竜宮一士。前原、貴様の求める深海の牙は、すでに民間の手によって産声を上げている』
「……竜宮、一士……」
前原はその名を、乾いた唇で反芻した。
回転翼機を飛ばし、静岡の震災で民衆を救い、二・二六事件の狂気を一刀両断したと噂される、帝都の怪童。
前世の潜水艦長としての誇りすら一瞬で吹き飛ぶほどの、圧倒的な現実。
だが、その戦慄の直後――前原の胸の奥底から猛烈に湧き上がってきたのは、深海を愛する一人の軍人としての、抗いがたい熱狂であった。
(この船が、本当に音もなく海を滑るというのか……!)
消音の護謨を纏い、水流を噴射し、ワルター機関で大洋を渡る無敵の潜水母艦。
もしこの艦が手に入るならば、米国の広大な太平洋防備網など、穴だらけのザルに等しい。
真珠湾の喉元であれ、アメリカ西海岸のドックであれ、何者にも探知されずに忍び寄り、致命的な一撃を叩き込んで講和のテーブルを引きずり出すことができる。
前原は深呼吸を一つし、乱れかけた脈拍を無理やりに押さえ込むと、机の上の受話器を握りしめた。 目指す先は、横須賀でも呉でもない。
東京湾の波打ち際に居る少年提督――竜宮の足元であった。
◇◇◇
波しぶきが堤防を洗う臨海の一角に佇む応接室にて、竜宮は前原一征と静かに対峙していた。
彫りの深い精悍な顔立ち、深海の水圧に耐え抜いてきた者特有の沈着冷静な双眸。
前世の大戦を潜水艦長として戦い抜いた前原が放つ気迫は、陸軍の将校たちのようなギラついた殺気とは異なり、氷山の下に隠された鋭い氷塊の如き冷徹さを帯びていた。
「……高野閣下からあの図面を受け取った時、我が目を疑いましたよ、竜宮提督」
前原は卓上に置かれた伊401の青写真に視線を落とし、低く唸るような声で切り出した。
それに対し、竜宮は銀縁眼鏡の奥で薄く微笑み、白手袋の指を組んだ。
「高野閣下から、海軍の『紺碧会』において次世代の潜水艦隊を組織するという方針を耳にしたものですからね。深海からこの国の運命を切り拓くというのなら、参考にしていただこうと、私が手元にあった設計案を高野閣下へお渡ししたのですよ」
「参考などという次元の話ではない……。あれは、私が頭の中で思い描き、手帳にだけ秘匿していた仕様と、ネジ一本に至るまで寸分違わぬ一致を見せていた」
前原の鋭利な視線が、少年の顔を射抜く。
なぜ水上部隊を率いていたはずの元「提督」が、潜水艦の最前線に立つ者と同じ境地の図面を描くことができたのか――その疑念に対する竜宮の返答は、極めて簡潔で論理的であった。
「私は水上艦隊の提督であり、貴方のような専門のサブマリナーではありません。……ですがね、前原艦長。水の上に浮かぶ船乗りにとって、海の下から音もなく忍び寄る潜水艦という存在が、どれほど厄介で恐ろしい悪夢であるか、私は骨の髄まで叩き込まれているのですよ」
竜宮は身を乗り出し、前世の歴史を紐解くように語りかけた。
「水面下に潜み、呼吸を殺してこちらの輸送船団を虎視眈々と狙う通商破壊戦。ひとたびこれに出られたならば、島国などひとたまりもなく首を絞め上げられ、目も当てられない壊滅的被害を被る。……前世の大西洋において、大英帝国の生命線をあと一歩のところまで締め上げた、あのドイツ海軍のUボートの脅威を思い起こせば、明白なことです」
前原が深く息を吸い、重々しく首肯する。
潜水艦の本質とは、正面からの艦隊決戦ではなく、見えざる手によって敵の国家動脈を切り裂く「非対称の刃」に他ならない。
海を渡る補給を命綱とする国にとって、これほど凶悪な天敵は存在しなかった。
「そして――手持ちの限られた戦力を以て、敵の懐深くへと潜入し、電撃的な奇襲打撃を加えて戦局を引っ繰り返すという作戦を突き詰めるならば、行き着く先は『潜水空母』しかあり得ない」
竜宮の言葉に、前原の瞳が微かに揺れた。
「あの図面は、潜水艦の真の恐ろしさと、その無限の可能性を知る者だからこそ描ける必然の青写真です。前原艦長、貴方と私が同じ危機感を抱き、同じ海を見据えているのならば――思考の果てに導き出される到達点が、寸分違わぬ同一の艦影となるのは、ある意味で当然の帰結ではありませんか」
その理路整然とした言霊に、前原は圧倒され、次いで深く息を吐き出した。
だが、少年の口から放たれた言葉は、それだけに留まらなかった。
「……もっとも、私がこれほど潜水艦の急所と使い道を弁えているのには、もう一つ理由がありましてね」
「理由?」
前原が問い返すと、竜宮は懐かしい記憶を手繰り寄せるように、窓の外の青い水平線へと目を細めた。
「前世の南海――タウイタウイ泊地の第302哨戒警備中隊において、私の副官を務めていた生真面目な英国紳士の幕僚がおりましてね。名門海軍の血を引く男で、使い捨て同然の民間徴用の身であった若造の私を、一人前の『海の男』へと叩き直してくれた恩師であり、無二の戦友でした」
竜宮の低く落ち着いた声に、深い追憶の色が滲む。
「その恩師こそが――生粋のサブマリナーだったのです。泥沼の泊地で、奴から潜水艦の戦法、ソナーの盲点、水流の読み方、そして水上艦と潜水艦が如何に連動して敵を罠に嵌めるべきかを、耳にタコができるほど叩き込まれました。……ですから、私は潜水艦を操る専門職ではなくとも、艦隊司令として『潜水艦をどう使い倒し、どう殺すか』の運用術に関しては、熟知しているつもりですよ」
前世のタウイタウイを支えた、恩師の影。
その告白を聞き届けた瞬間、前原一征の胸の内にあった最後の警戒心は、完全に霧散していた。
この少年は、ただ未来の知識を弄んでいるだけの予言者ではない。
潜水艦の冷徹な本質を理解し、その刃の研ぎ方を知り尽くした、本物の「提督」なのだ。
「……完敗だな、竜宮提督」
前原は苦笑を漏らし、立ち上がると、少年提督へ向けて寸分の隙もない直立の敬礼を捧げた。
「貴殿のその深海の牙――我が紺碧会の艦隊が、しかと受け継ぎ、使いこなして見せましょう。……あのUボートをも凌駕する無音の怪物を、この手で指揮できる日を、心待ちにしておりますよ」
「ええ。存分に、海の底から世界の盤面を引っ繰り返してやりましょう」
竜宮が返した白手袋の答礼。
海軍の潜水艦長と、元「提督」。
深海の亡霊を操る二人の海の男が結んだ契りは、やがて来る未曾有の大戦において、太平洋の底を静かに、だが確実に支配するための絶対の同盟となった。
◇◇◇
西暦一九三七年――『照和』十二年。
帝都・霞が関の海軍省大会議室において、帝国海軍の歴史を根底から覆す激震が走った。
海軍航空本部長たる高野五十六が、水面下で進められてきた入念な根回しの末、ついに海軍中枢が心血を注いでいた「超巨大弩級戦艦建造計画」を、完全に中止・白紙撤回させることに成功したのである。
「大日本帝国海軍の伝統たる大艦巨砲を冒涜する気か!」
「四十六センチ巨砲を持つ不沈艦こそが、米太平洋艦隊を打ち破る唯一の鍵であるぞ!」
軍令部や艦政本部に巣食う主流派の長老や将校たちから、怒号と唾飛沫が飛び交ったのは当然のことであった。
日露戦争の日本海海戦の幻影に囚われ、戦艦決戦こそが海のすべてであると信じ込む者たちにとって、大和型の建造中止は信仰への冒涜に等しかった。
だが、高野は眉一つ動かさず、壇上から彼らを怜悧に見据えて熱弁を振るった。
「これからの時代において、戦局の優劣を決するのは大砲の口径ではありません。――水平線の遥か向こう側から飛来する航空機の空爆、そして海の底から音もなく忍び寄る潜水艦の魚雷である。数万トンの巨艦を何年もかけて一隻造ったところで、空と海中からの立体攻撃の前には、ただの巨大な浮かぶ標的に過ぎんのです!」
前世の太平洋において、自らが見届けることとなった大和や武蔵の悲惨極まる沈没の記憶。
その冷徹な真理を叩きつける高野の舌鋒は、旧態依然の精神論者を圧倒していた。
そして――この大激論に決定的な終止符を打ったのは、海軍内部の論理ではなく、「財界」からの冷徹な審判であった。
三井、三菱、住友といった日本の名門財閥の首脳陣が、揃って高野の主張を全面的に支持したのである。
一隻で小国の国家予算を呑み込み、資材と国庫を極限まで圧迫する巨大戦艦を数隻造るよりも、同じ予算と鉄鋼で航空母艦や潜水艦を十数隻量産し、艦の「数」と「分散」によって広大なシーレーンと太平洋全域の防衛網を固める――。
そのコストパフォーマンスの高さは、軍事に暗い財界人の素人目から見ても、火を見るよりも明らかであった。
何より、そのドクトリンの正しさを、いま現実に帝都の目の前で体現していたのが――竜宮警備の輸送船空母「仙鷹」であった。
アングルド・デッキに回転翼機を並べ、大量の輸送船団を護衛しながら、帝都と北海道の間を頻繁に無傷で往復し続けるその雄姿。
「空母と航空機が頭上にあれば、船団は絶対に守られる」という生きた動かぬ証拠を、日本の経済人たちは日々その目で目撃していたのだ。
財布の紐を握る財閥が「大艦巨砲など時代遅れだ、空母と潜水艦に金を出せ」と引導を渡した瞬間、戦艦派の命運は尽きた。
だが、大手を振って空母と潜水艦の量産へ舵を切れる環境を勝ち取りながらも、高野は決して「空母至上主義」の傲慢に溺れはしなかった。
空母の脆さ、夜間戦闘における水上艦の必要性、そして何より――空母だけで戦争に勝てるわけではないという限界を、前世の山本五十六として誰よりも骨の髄まで弁えていたからである。
高野は、大和型の建造中止を呑ませる代わりに、現存する戦艦群――長門型、伊勢型、扶桑型、そして高速戦艦たる金剛型に対する、「徹底的な近代化大改修計画」を同時に提示してみせたのだ。
機関の換装による劇的な速力向上。 無数の対空機関砲と防弾鋼板の追加装備。
そして、泰山航空工業の電信技術を応用した最新鋭の「対空・対水上電探」の早期配備――。
「旧式戦艦をそのまま浮かべるのではない。航空母艦を守る不沈の防空浮き砲台として、最新鋭の高速戦艦へと生まれ変わらせるのです」
この老獪極まる妥協案により、面子を潰されかけていた戦艦派の主流派たちも、「これならば戦艦の威信は保たれる」と留飲を下げ、海軍の亀裂はすんでのところで回避された。
大和型のために確保されていた呉や横須賀の大ドック、そして膨大な高品質の厚板装甲鋼は、直ちに新型航空母艦と、前原一征が率いることになる潜水艦隊の量産ラインへと振り向けられた。
海軍省の決定を知らせる電報を読み終えた竜宮は、銀縁眼鏡を指先で押し上げ、不敵に口元を緩めた。
「……流石だな、高野閣下。巨艦巨砲の棺桶を葬り去り、海軍の背骨を綺麗にへし折って見せた」
海軍の暴走は止まり、空と海中の防備は整いつつある。 陸の大高、海の高野、そして民の竜宮。
異なる未来を知る者たちの歯車が完全に噛み合わさった日本は、世界大戦の足音が近づく荒波の中へ向け、かつての歴史とはまるで異なる「不沈の進路」を取り始めていた。
◇◇◇
遥かユーラシアの西端――欧州の空は、ベルリンから広がるどす黒い狂気の暗雲に覆われつつあった。
国家社会主義ドイツ労働者党が制定した「ニュルンベルク法」。
法の名のもとにユダヤ人から市民権を強奪し、公職から追放し、人種差別を国家の最高法規へと引き上げる狂気の暴挙。
だが、その破滅的な結末を前世の歴史から知り尽くしているクリームヒルトが、ただ指をくわえて見過ごしているはずもなかった。
漆黒の詰襟軍服に身を包み、純白の上着を颯爽と肩に羽織った軍神令嬢は、遠く極東・日本の竜宮警備の執務室にあっても、バルト海を挟んだ欧州の盤面を完全に掌握していた。
実家たる東プロイセンの名門・ヴィッテンフェルト家を動かし、自らの戦略的価値を長老たちに認めさせた彼女の手腕は、まさに冷徹無比であった。
領地であるケーニヒスベルクに迫害を受けるユダヤ人たちを公然と庇い込み、そこから密かに中立国スウェーデンへと大量の亡命ルートを敷設。
彼らを安全圏――遠く北海道へと送り出すと同時に、彼らが持っていた膨大な個人資産や国際金融ネットワークを自らの傘下へと吸収したのだ。
それは人道的な救済であると同時に、ナチス政権から貴重な頭脳と外貨を根こそぎ奪い去り、経済的に干上がらせるための極めて悪辣な「兵糧攻め」でもあった。
どれほどベルリンでチョビ髭の伍長が絶叫しようとも、旧ドイツ帝国以来の格式と伝統を誇るプロイセンユンカーの筆頭たるヴィッテンフェルト家が、あからさまな人権無視の悪法を拒絶してみせた効果は絶大であった。
「成り上がりの伍長風情が、プロイセンの騎士道を踏みにじるか」
古い軍人貴族や保守層はクリームヒルトの動きに同調し、あの扇動者の危険性を再認識して、水面下で反ナチの結びつきを急速に強め始めていた。
表面的にはナチ党が一党独裁を敷いているように見えようとも、その内情は決して一枚岩ではなかったのである。
さらに、クリームヒルトの先手は防諜の領域にまで及んでいた。
国家保安本部長官たるラインハルト・ハイドリヒが率いるゲシュタポ――その冷酷非情な暗殺と拷問の手口を知る彼女は、軍内部で結びついた反ヒトラー派の将校や抵抗分子たちを、事前に安全地帯へと逃がしていた。
「せっかく芽吹いた反乱の麦芽を、地下に潜らせたままゲシュタポに摘み取られてたまるものか。……いっそのこと、反乱分子の根拠地と罵られようとも、堂々と軍靴を鳴らして立て籠もる方が余程強固な共同体になるさ」
クリームヒルトが選んだ抵抗の拠点は、実家が君臨する「ケーニヒスベルク」、そしてその南に隣接する司教領「ヴァルミア」であった。
ドイツ本土からポーランド回廊によって物理的に切り離された「飛び地」である東プロイセン。
間に他国が挟まっているからこそ、ベルリンの親衛隊も安易に大軍を送り込めないという、地政学上の絶妙な空白地帯を利用したのだ。
だが――地図を広げるクリームヒルトのサファイアの瞳には、厳しい憂慮の色が浮かんでいた。
「……とはいえ、39年になれば、その天然の防壁も消え去る」
隣で珈琲を淹れていた竜宮が、銀縁眼鏡の奥から静かに頷いた。
史実通りに進むならば、1939年9月のポーランド侵攻によって、緩衝地帯であったポーランドは地上から消滅する。
そして独ソ不可侵条約の密約に基づき、背後のバルト三国は赤色帝国――ソビエト連邦の軍門に降るのだ。
そうなれば、東プロイセンはナチス・ドイツと赤軍という、二大狂気国家の挟撃を受ける逃げ場のない孤島と化す。
しかも、この後世世界において、ベルリンの総統の名は「アドルフ」ではなく――『ハインリッヒ・フォン・ヒトラー』という、前世の記憶とは微妙に異なる名を名乗っていた。
この世界の歪みが、あの独裁者の行動パターンにどれほどの変異をもたらすかは依然として未知数であった。
(名門貴族の牙城たるケーニヒスベルクを力ずくで攻撃すれば、ドイツ国内の全貴族層を敵に回すことになる。並の指導者ならそんな軽挙妄動は冒さないはずだが……)
だが、「相手があのナチスである」という一点において、常識的な損得勘定など何の当てにもならないという「負の信頼」を、前世の歴史を知る二人は嫌というほど共有していた。
ヒトラーならば、国内の反発を押し潰してでも東プロイセンへ装甲師団を差し向けてくる可能性は極めて高かった。
「バルト海を挟んだスウェーデンからの海上補給線さえ維持できれば、防衛戦を戦い抜くことは十分に可能だ。……だが、防壁から打って出るとなった場合、最大の懸念はやはり東のあの怪物だな」
クリームヒルトの呟きに、竜宮もまた冷徹に視線を落とした。
スターリン率いるソビエト連邦。
もしケーニヒスベルクとベルリンが衝突した時、その期に乗じて赤軍がどちらを攻撃するのか。
それとも、消耗した双方をまとめてユーラシアの泥濘へ踏み潰しに来るのか――。
大粛清の嵐を乗り越え、膨大な人命を湯水のようにすり潰して無限の戦車を繰り出すあの赤色巨人は、単独で欧州を呑み込みかねない底知れぬ国力を秘めていた。
「日本もやがて、英米によるABCD包囲網で干殺しにされかけるだろうが……敵の喉元に巣食う獅子身中の虫たるケーニヒスベルクも、綱渡りの危険さにおいては大差ないな、カズシ」
自嘲気味に笑うクリームヒルトに対し、竜宮は淹れたての珈琲を差し出しながら、不敵に口元を吊り上げた。
「背水の陣こそ、我々の本領発揮だろう、クリームヒルト。……お前が欧州の心臓部にその鋭利なクサビを打ち込み続けてくれる限り、世界大戦のシナリオは奴らの思い通りには進ませないさ」
極東の島国で「不沈の方舟」を固める竜宮一士。
そして、欧州の孤塁で「反逆の黒鷲」を育てるクリームヒルト。
二つの魂が放つ冷徹な布石は、やがて来る未曾有の大火に向け、独裁者たちの足元に確実に火薬を敷き詰めつつあった。