曙光の艦隊   作:星乃 望夢

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第二話 欧州からの便り

ユーラシア大陸を横断し、バルト海の彼方へと旅立った葉書の返信を待つ間――竜宮は、髪を伸ばし始めた。

 

照和五年において、それは明白な「反逆」に等しかった。

 

この時代の日本男児において、頭髪は丸刈りか、精々が襟足を刈り上げた極端な短髪が絶対の規範である。

 

成人の男子とて髪を伸ばすことなどなく、肩口や腰に届くような長髪を許されるのは、世捨て人の文士か、老い先短い老人の隠居道楽くらいのものだった。

 

ましてや、血気盛んな少年が長髪を揺らすなど、常識の枠外であった。

 

だが竜宮は、周囲の奇異の視線を気にも留めず、自らの意志で髪を伸ばし続けた。

 

前世の竜宮は、腰にまで達する豊かな髪に、緩やかなウェーブがかった癖毛の持ち主だった。

 

それは決して洒落気から始まったものではない。

 

熾烈を極めた大戦の初期、物資も人員も欠乏する中で「提督」として奔走し、髪を切る時間すら惜しんで机上の海図と睨み合い、現場を駆け回った結果に過ぎなかった。

 

やがて激務の果てに定着したその長髪と、冷徹に数字を弾き出す銀縁眼鏡の風貌から、仲間内では畏敬と半ばの呆れを込めて「インテリヤクザ」と渾名されていた。

 

実際、正規軍に見捨てられた部下たちを飢えさせぬため、裏社会の密輸ルートに顔を利かせ、時には脅し紛いの荒技で燃料や弾薬を強奪同然に掻き集めたのだから、ヤクザ呼ばわりされても弁解の余地はなかった。

 

泥を啜ってでも部隊を維持する――その執念の象徴が、あの長髪だったのだ。

 

幸いにも、転生したこの肉体も前世と同じく髪の伸びる速度が異様に早かった。

 

数ヶ月もすれば、少年の襟足は鬱陶しいほどに伸び、額には波打つ前髪がかかり始めた。

 

当然ながら、「出る杭」を放置するほど学校という組織は寛容ではない。

 

「竜宮! その見苦しい頭は何事だ!」

 

「大日本帝国の男子たる者が、女子のように髪を伸ばすとはたるんどる!」

 

幾度となく教員から苦言を呈され、ついには放課後の生徒指導室へと呼び出された。

 

竹刀を握りしめ、眉を吊り上げる指導教員たち。だが、竜宮は眉毛ひとつ動かさず、澄ました顔で言い放った。

 

「先生方が私の言葉を十全にご理解いただけたなら、潔くこの場で丸刈りにいたしましょう」

 

教師が怪訝な顔をした瞬間、竜宮の口から機関銃のような早口で言葉が溢れ出た。

 

「Ich fordere eine logische Erklärung dafür, warum diese Haare geschnitten werden

müssen――」

 

「――Furthermore, this arbitrary regulation lacks any rational

foundation under the principle of proportionality,」

 

「――и это является ничем иным, как грубым попранием естественного права!」

 

英語、ドイツ語、ロシア語、イタリア語、フランス語。

 

さらには古典ギリシャ語とラテン語の格言までもが、精緻な文法のもとに継ぎ目なく織り交ぜられた、言語のパッチワーク。

 

その内容は一貫して「私の髪を物理的に切断することの論理的正当性および法的根拠を要求する」というものだったが、地方の教員たちに理解できるはずもなかった。

 

彼らの耳には、まるで悪魔祓いの呪文か、精巧な暗号文のようにしか聞こえない。

 

しかも竜宮のたちの悪いところは、呼び出しを受けるたびに、気分次第で言語を繰り出す順番をランダムにシャッフルしたことだった。

 

最初はドイツ語から英語、次はロシア語からラテン語――完全に煙に巻かれた教師たちは、怒気よりも先に底知れぬ気味悪さを覚え、言葉を失うしかなかった。

 

だが、業を煮やした教練担当の教官が、ついに力尽くでバリカンを持ち出し、羽交い締めにして刈り取ろうとした時、竜宮は実力行使に出た。

 

教官の腕を最小限の力点移動で鮮やかに受け流すと、脱兎の如く指導室を脱出。

 

そのまま一直線に校長室の扉を押し破り、直談判の突撃を敢行したのである。

 

「校長先生! 貴校の教育方針に重大なる疑義の申し立てに参りました!」

 

茶を啜っていた校長の鼻先に仁王立ちし、竜宮は怜悧な舌鋒を振るった。

 

「明治の元勲たちが血の滲む思いで開国を断行し、欧米列強の先進文明を貪欲に取り入れて近代化を成し遂げたのは何のためですか!まさに旧弊なる因習を打破し、文明開化の光を天下に遍く行き渡らせるためではなかったのですか!?」

 

呆気にとられる校長を前に、竜宮は息をも継がずに言葉を畳みかける。

 

「それにもかかわらず、少々頭髪の長さを変えた程度で『風紀の乱れ』などと短絡的に断じ、個人の身体に暴力的矯正を加えるなど、近代法治国家の教育機関として言語道断!今や世界は協調と相互理解を旨とする国際連盟の時代――グローバルなインターナショナリズムの観点において、個人の容姿の自由は尊重されるべき基本的人権の一端であります!此度の蛮行は、大日本帝国憲法が保障する臣民の権利に対する不当なる侵害にあたると愚考いたしますが、校長先生はいかに見解をお持ちか!」

 

大正デモクラシーの自由主義的な気風と、近代憲政の法理を極限まで都合よく拡大解釈した詭弁の奔流。

 

十二、三歳の少年が、大学教授すら舌を巻くような語彙と圧倒的な気迫で迫ってくるのだ。

 

校長は額に脂汗を浮かべ、差し向けられた教官たちを押し留めるように手を振るのが精一杯だった。

 

「わ、分かった……竜宮君の言いたいことは……うむ、国際的な見識は誠に立派だ。学業において抜群の成績を修め続ける限りは……その、厳重注意に留め置く……」

 

こうして、竜宮は実力と舌先三寸で自らの「長髪」を勝ち取った。

 

周囲からは完全に「神童か狂人か」という腫れ物のような扱いを受けることになったが、竜宮にとってはどうでもいいことだった。

 

(くだらない同調圧力に屈していては、この先の激動を生き残れるはずもない)

 

放課後、夕日に染まる校庭を歩きながら、竜宮は肩口にかかり始めた髪を風に靡かせた。

 

腰まで届くにはまだ時間がかかる。

 

だが、自分という人間が「前の世界」の竜宮一士であり続けるための楔は、確かに打ち込まれつつあった。

 

 

◇◇◇

 

 

荒波を越え、片道でおよそ二ヶ月。 往復を考えれば四ヶ月。

 

待ち続けて五ヶ月目の初夏、竜宮のもとに「それ」は届いた。

 

郵便配達員が怪訝そうに差し出してきたのは、上質な羊皮紙を思わせる重厚な封筒だった。

 

宛名には流麗なドイツ文字。

 

そして裏面には、深い真紅の封蝋が施され、プロイセンの名門たるヴィッテンフェルト家の荘厳な家紋が刻印されていた。

 

(……届いたか)

 

四畳半の自室に戻り、竜宮は深く息を吐き出した。

 

手元にペーパーナイフなどという洒落た舶来品はない。

 

机の引き出しから裁縫用の鋏を取り出し、その片刃を慎重に差し込む。

 

あの誇り高い友人がわざわざ捺した蝋印を傷つけぬよう、ミリ単位の慎重さで封を切り開いた。

 

封筒を傾けると、中から滑り落ちてきたのは紙片だけではなかった。

 

「……相変わらず、趣味が良いな。彼女は」

 

机の上に並んだそれらを見て、竜宮は思わず苦笑を漏らした。

 

一枚の小切手。現代なら土地付きの豪邸が軽く一軒建つほどの金額が、揺るぎない筆跡で裏書きされている。

 

それだけではない。添えられていたのは、使い込まれた革張りの手帳――見開けば、普通に贅沢をして暮らしても生涯遊んで暮らせるだけの数字が印字された、スイス銀行の預金通帳だった。

 

極東の金融機関でも動かせるよう、特注の印鑑まで揃えられている周到さだ。

 

一介の極貧少年にとって、それは国家の一大事業すら動かしかねない天文学的な活動資金だった。

 

だが、竜宮の視線を最も強く惹きつけたのは、それらの富裕の証ではない。

 

同封されていた、手のひら大の厚紙――一枚のスケッチだった。

 

描かれていたのは、竜宮が送ったファントムへの、これ以上ない「返礼」だった。

 

独特の逆ガル翼と頑強な固定脚。そして、両翼の下に誇らしげに懸架された、異形としか言いようのない二門の巨大な砲身――37ミリ高初速機関砲。

 

急降下爆撃機Ju87スツーカの最終進化形態、『カノーネンフォーゲル』。

 

複葉機が空を飛び、戦車といえば豆戦車が主流の照和五年において、重装甲の陸上兵器を空から撃ち抜く「タンクバスター」の概念など影も形もない。

 

未来の泥臭くも凄絶な鉄の鳥が、寸分違わぬ精密さで描かれていた。

 

令和の空において、彼女の愛機はユーロファイター・タイフーンだった。

 

最新鋭のデルタ翼機を自在に操り、天空を切り裂くような空戦を見せていた女性将校。

 

だが、その本質はどこまでもプロイセン軍人の血を引く、質実剛健にして豪胆無比、真っ直ぐで豪快無敵な戦士だった。

 

彼女らしい。あまりにも彼女らしい回答だった。

 

言葉など多くはいらない。この途方もない資金と、紙の上に描かれた大砲鳥の姿こそが、「我もまた此処に在り」という力強い咆哮に他ならなかった。

 

厚紙を裏返すと、そこには見覚えのある鋭利なドイツ語の筆跡で、たった一行だけが記されていた。

 

『――次は、どの空で会う?』

 

「……まったく」

 

眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、竜宮は低く笑った。

 

少年の顔筋の奥から、かつて絶望の焦熱地獄を統率した「提督」の不敵な笑みが滲み出る。

 

手元には、莫大な裏資金。

 

海の向こうには、前世の修羅場を共にした無二の戦友。

 

そして、これから狂気の濁流へと呑まれゆく、歪んだ『照和』の日本。

 

盤上の駒は、最悪の配置から一変した。 16歳までのモラトリアム――残された3年半で、仕掛けるべき手札は揃いつつあった。

 

 

◇◇◇

 

 

手元に転がり込んだ途方もない富によって、竜宮は一躍、名うての「小金持ち」――いや、紙切れ一枚で地方都市の有力者を買い叩けるほどの資産家となった。

 

だが、豪遊して浮かれ騒ぐ気など毛頭なかった。

 

スイス銀行の通帳に並ぶ天文学的な桁数も、ヴィッテンフェルトの家紋が刻まれた小切手も、贅沢三昧で安寧を貪るための退職金ではない。海の向こうの友が、己の覚悟を試すように叩きつけてきた『軍資金』なのだ。

 

ならば、その使い道は自ずと定まっていた。

 

(この時代の技術基盤を、何年先まで引き上げられるか……)

 

竜宮が向かったのは、地元で名を馳せる民間航空機メーカー「泰山航空工業株式会社」だった。

 

未来の焦熱地獄において、竜宮は空を統べる者が戦場を支配するという冷酷な真理を骨の髄まで思い知らされていた。

 

もちろん、最新鋭の第五世代戦闘機F-35や、可変翼の怪物F-14の設計図を脳内に丸暗記しているわけではない。

 

だが、極限の戦時下、補給も整備員も足りぬ中で己の命を預け、連日レンチを握って油まみれでオーバーホールし続けた愛機――F-4EJファントムの構造なら、配線の一本、リベットの一列に至るまで頭の中に焼き付いていた。

 

日本のジェットエンジンといえば、旧軍の後期に試作された「ネ式エンジン」が後世の軍事史では有名だ。

だが、竜宮の記憶にあるのは、それを玩具同然に追いやるJ79ターボジェットエンジンの精緻な流体力学と耐熱設計、そしてマッハ二の衝撃波を切り裂くアスペクト比の機体構造そのものだった。

 

もっとも、照和五年の工業力でいきなりファントムを飛ばすなど、狂気の沙汰であることも弁えていた。

 

耐熱ニッケル合金もなければ、精密なチタン加工技術も、高アスペクト比の翼を削り出す大型油圧プレスもない。

 

材料工学と工作精度の土台が欠落している段階でジェット機の図面を叩きつけたところで、ただの奇想天外な絵空事として灰燼に帰すだけだ。

 

技術には、順序というものがある。

 

だからこそ、竜宮はもう一つの切り札を懐に忍ばせていた。

 

単座型の小型ヘリコプターの基礎設計図である。

 

この一九三〇年代初頭、オートジャイロといえばスペインのシエルバが開発した黎明期の代物がようやく欧米で実用化され始めたばかりの、極めて先鋭的な技術だった。垂直離着陸など夢のまた夢とされていた時代である。

 

だが竜宮の頭の中には、未来の成熟したスワッシュプレート機構、コレクティブ・ピッチ・コントロール、そしてトルクを打ち消すテールローターの幾何学的連動の全てが存在していた。

 

既存のレシプロエンジンと木金混合の機体構造を流用しつつ、半世紀以上先を行く運動性と信頼性を備えた回転翼機を、今この時代に現出させる。

 

それが実現すれば、航空産業の技術的底上げはもちろんのこと、観測、連絡、対潜哨戒、さらには艦載運用に至るまで、軍の戦術思想そのものを根底から塗り替える起爆剤となるはずだった。

 

「ごめんください」

 

泰山航空工業の重厚な門をくぐり、竜宮は事務所の引き戸を開けた。 油と金属粉が混じり合う、懐かしい機械の匂いが鼻腔をくすぐる。

 

腰まで伸びかけた波打つ長髪。少年のものとは思えぬ冷徹な光を宿した瞳。

 

そして懐には、地方財閥を丸ごと動かせるスイス銀行の小切手と、一九三〇年代の航空工学を半世紀分飛び越えさせる、悪魔の如き設計図束。

 

世界の破滅を阻止するための、最初の一歩。 怪童と化した元「提督」は、静かに、だが確固たる足取りで、狂乱の時代の扉を押し開けた。

 

 

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