軍隊という組織は、銃の引き金を引く兵士たちだけで回るものではない。
極論を口にしてしまえば、前線に立って銃を撃つ役目など、極端な話、命令に従える者であれば誰にでも務まる。
だが――その前線を維持するための膨大な物資を滞りなく送り届ける「兵站」の後方支援だけは、決して凡庸な頭脳に務まる仕事ではなかった。
弾丸、燃料、食糧、そして医療用医薬品。
戦場において日々湯水の如く消費されるこれら戦略物資を、世界中から寸分の遅滞もなく掻き集め、必要な場所へ正確無比に分配・補給する兵站科の存在なくして、いかなる無敵の軍隊も三日で干からびて瓦解する。
「……はぁー、疲っかれた。リンちゃん、お茶~」
東京湾の潮風が吹き抜ける竜宮警備本社ビル、最上階の執務室。
分厚い革張りの椅子にだらしなく身体を沈め、天井を仰ぎながら情けない声を上げたのは、世界を相手に冷酷無比なチェスを仕掛け続けているはずの若きCEO――竜宮一士その人であった。
「はいはい。お疲れ様です、提督」
急須から湯呑みへ、鮮やかな緑茶を注ぎながら苦笑交じりに応じたのは、黒髪を二房の綺麗なおさげにして垂らし、知的な銀縁眼鏡をかけた一人の女性であった。
東山叡鈴(ひがしやま・えいりん)。
竜宮グループ全社の総務・法務・兵站を取り仕切る総務課のトップであり、そして――前世の令和において、竜宮がその歩みを始めた最初の一歩から彼を支え続けてきた、最も古く、最初の部下であった。
前世において、急遽赤紙一枚で民間から海軍へと強制徴用され、右も左も分からぬまま南海のタウイタウイ泊地へと送り込まれた若造の竜宮。
その彼のもとへ、事務方の面倒を見るために総務省から直々に配属されてきたエリート秘書官が、他でもない叡鈴であったのだ。
世界中から百戦錬磨の荒くれ者たちが集った第302哨戒警備中隊の中にあって、唯一、この怪物じみた竜宮を完全に「尻に敷く」ことができる女。
世間が恐れおののく「インテリヤクザ」の仮面を被る前の、しがない小市民であった頃の竜宮の素顔を最もよく知る人物であった。
戦場において、竜宮は西住に対して冷徹な指揮官たる「提督」として接する。
だが、この叡鈴に対してだけは、甘え腐った小市民の素を完全に晒け出すのが常であった。
どれほど提督としての威厳を繕おうと、どれほど裏社会のヤクザめいた凄みを利かせようと、叡鈴の前には爪の先ほども通用しないからである。
「現場裁量権を最大限に活用して部下に丸投げしている割には、随分と机の上が片付いていませんね?」
叡鈴は淹れたての茶を竜宮の前にコトリと置き、呆れたように手帳をめくった。
「しょうがないでしょお。いくら『餅は餅屋』で任せてるとはいえ、最終決裁の書類だけは全部俺のハンコが必要なんだからさぁ」
「自業自得です。誰がそんなに会社を増やせと頼みましたか。……ほら、冷めないうちに飲んで、残り十枚の決裁書にサインしてください。それが終わるまで、昼食のオムライスはお預けですよ」
「うぐっ……相変わらず手厳しい……」
竜宮は項垂れながらも、差し出された熱い茶を両手で包み込み、ふぅふぅと息を吹きかけて啜った。
周囲の隊員や幹部たちから「なんであの二人は結婚してないんだ?」と幾度となく囁かれるほど、その『女房役』としての立ち位置は完璧に板についていた。
領地や莫大な軍資金を競うようにして貢ぎ、戦場で背中を預け合う「戦友」たるクリームヒルトやアナスタシア。
彼女たちのような華々しい軍神令嬢たちとは、完全に別枠に存在する、唯一無二の絶対的な安息地。
激動の歴史の荒波に揉まれ、世界を騙し、国家を背負って神経をすり減らす竜宮にとって、叡鈴が淹れてくれるこの一杯の茶と、容赦のない小言こそが、己が「人間」であり続けるための最も大切な錨であった。
「……リンちゃん」
「何ですか、提督」
「いつも、ありがとう。貴女後ろを守ってくれてるから、俺は前だけを見て戦えるんだ」
不意に呟かれた素直な感謝の言葉に、叡鈴は眼鏡の奥の瞳を僅かに見開き、次いで、困ったように柔らかく微笑んだ。
「……柄にもないことを言わないでください。調子が狂います。ほら、早くペンを動かしてくださいな。私の優秀な提督殿」
世界を相手に回す巨大な帝国の片隅で、前世から続く変わらぬ絆の温もりが、張り詰めた司令官の心を静かに、そして確かに解きほぐしていた。
◇◇◇
机に向かい、山積みの決裁書類へリズミカルに判子を押し続ける竜宮。
その傍らに立ち、差し替えの書類を手際よく揃えながら、東山叡鈴は淹れたての緑茶を湯呑みへと静かに注ぎ分けていた。
湯気とともに立ち上る茶の香りに、ふと、叡鈴の脳裏をよぎるものがあった。
――遠い前世、泥と油にまみれながら始まった、二人の日々の記憶である。
前世の令和において、叡鈴は総務省に籍を置く若手キャリア官僚であった。
学生時代から青春のすべてを勉強に捧げ、浮ついた男っ気など爪の先ほどもなく、がむしゃらに努力を重ねて掴み取ったエリート街道。
「鉄の女」と周囲から囁かれながらも、彼女は自らの手腕で国家の行政を支えるという矜持を胸に、昼夜を問わず仕事に打ち込んでいた。
だが――突如として勃発した戦争が、彼女の人生設計を無慈悲に粉砕した。
下された辞令は、「民間徴用提督の専任秘書官」。
正規軍が壊滅する中、後方の戦力が再編されるまでの「時間稼ぎの使い捨て」として、赤紙一枚で全国から無作為に掻き集められた素人集団。
その事務処理のために、中央官庁のキャリア官僚を前線へ放り出すという、あまりにも非効率で愚劣な人員配置であった。
(軍の上層部は、事務方の苦労すら知らない無能の集まりなの……!?)
激しい頭痛と憤り、そして事実上の左遷に対する深い意気消沈を抱えたまま、叡鈴が送り込まれた先――それは、日本本土から遥か南、フィリピンの孤島「タウイタウイ泊地」であった。
現地に着任した叡鈴を待ち受けていたのは、想像を絶する劣悪な環境であった。
プレハブ小屋の一棟すら用意されておらず、軍部からの命令は「テントで寝泊まりしながら、自分たちで一から鎮守府を建設しろ」という、理不尽極まりない無茶振り。
泥濘とジャングルに囲まれ、誰もが途方に暮れる中、建築やDIYの心得がある民間人たちをまとめ上げ、泥まみれになりながら素早く建屋の図面を引いていた青年がいた。
それが――竜宮一士であった。
製材された木材など届くはずもないと見切りをつけ、切り倒したジャングルの樹木をそのまま組み上げる「ログハウス方式」を即座に提唱し、手際よく資材を割り振っていく。
その姿には、あの頃からすでに、正規軍の机上の空論をあざ笑うような「現場にあるもので何とかする知恵の回り」が、他者より頭一つ抜けて備わっていた。
さらに叡鈴を驚かせたのは、彼の書類仕事の確かさであった。
提出される報告書や資材申請書は、民間徴用の素人とは思えぬほど整然としており、行政側のツッコミどころを的確に塞ぐフォーマットが整っていたのだ。
「新卒数年で会社の一支部長をしていた」と聞き、若き敏腕ビジネスマンなのかと思いきや、本人の口から明かされた真相は実に脱力するものであった。
『入社した会社で最新の産業用ロボットが導入されたんだけど、そんなピコピコした機械を動かせるのが社内で俺一人しかいなくてね。周りはお爺さんやおじさんばかりだったから、「お前が一番詳しいから支部長な」って丸投げされただけだよ』
そんな間の抜けた理由であったが、結果として、彼には高度な機械への親和性と、現場を管理する確固たる実務能力が培われていたのだ。
他の過酷な前線部隊に派遣された総務省の同僚たちから、叡鈴の着任した「第302哨戒警備隊」は、喉から手が出るほど羨ましがられる『超・大当たり部隊』であった。
とにかく時間を稼げれば誰でもいいと、無作為に赤紙で集められた民間提督たちの質は、あまりにも酷い乱高下を見せていたからだ。
下を見れば、学生時代から部屋に引きこもっていた生粋のニートたち。
中を見ても、平社員や窓際族といった、社会的に責任ある立場を経験したことのない者たちが大半を占めていた。
そんな混沌とした烏合の衆の中にあって、一定水準以上の事務仕事をこなし、現場の人間を統率できる竜宮の存在は、秘書官の視点から見ても奇跡のような「優良物件」であったのだ。
年齢が同世代であったことも幸いし、互いに無駄な気遣いをすることなく、阿吽の呼吸で業務を回すことができた。
何より――竜宮自身が根っからの善良な小市民であったため、当時の男社会にありがちだったセクハラやパワハラ、モラハラといった不快な雑音は一切存在しなかった。
過酷な戦場でありながら、そこには驚くほど風通しの良い、快適な職場環境が保たれていたのである。
「……ふふっ」
物思いに耽っていた叡鈴の口元から、思わず小さなくすくす笑いが漏れた。
「ん? 何笑ってんの、リンちゃん?」
最後の書類に判子を押し終えた竜宮が、不思議そうに眼鏡を押し上げて顔を上げた。
「いえ。……あのタウイタウイの泥まみれの掘っ立て小屋で、丸太を担ぎながら図面を引いていた頃の貴方を思い出していただけですよ」
「勘弁してよ。あの頃は生き残るのに必死で、毎日泥水を啜るような思いだったんだからさ」
竜宮は肩をすくめ、叡鈴の淹れてくれた温かい茶を喉へと流し込んだ。
「……そう言えば、西住さんたちがタウイタウイへやって来たのも、着任から半年ほど経った頃でしたね」
湯呑みの茶を一口啜った叡鈴が、懐かしむように目を細めた。
当時の記憶が、鮮明な情景となって竜宮の脳裏に蘇る。
泥まみれになりながら丸太を切り倒し、ようやく幾棟ものログハウスが立ち並んで、どうにか雨風を凌げるだけの兵舎が出来上がった頃合い。
陸上自衛隊からの「設営支援部隊」として派遣されてきたのが、他でもない、当時大尉であった西住阿保や自衛官の猛者たちであった。
民間徴用提督として、書類上は「少佐相当官」という身分を与えられていた竜宮。
だが、中身はつい数ヶ月前まで民間企業でロボットを弄っていただけの、ただの二十代前半の若造である。
「……あの頃は、毎日が胃薬の減る思いだったよ」
竜宮は頭を掻きながら、自嘲気味に苦笑した。
本職の自衛官たちを前にして、舐められて統率が崩壊するのを防ぐため、慣れない「上官口調」で威厳を取り繕い、無理に背筋を伸ばして指示を飛ばす。
だが、昼間の訓練や作業を終えて自分の粗末な個室へ戻るや否や、
『ひぃぃ……あんな偉そうな態度を取って、夜中に西住たちに後ろから撃たれたりしないだろうか……』
と、布団の中で一人ガクガクと震えていたのだから、今となっては笑い話のような青臭い記憶であった。
だが――そんな頼りない若造提督を、百戦錬磨の自衛官たちが「本物の親父」として命を預けるようになったのには、決定的な理由が存在していた。
それは他でもない、徹底的な「食糧の確保」であった。
戦況の悪化とともに、日本本土の正規軍からの補給は見るも無残に滞り、極限の飢餓が前線の泊地を襲い始めていた。
近隣に駐屯する他の民間徴用部隊など、配給された一個の魚の缶詰を三人の兵士で分け合い、一日一食か二食の粗食で飢えをしのぐという、生き地獄の様相を呈していたのだ。
だが――竜宮が率いる第302隊の将兵だけは、不思議なほど「食事」に困ることがなかった。
もちろん、手空きの時間に海へ釣り糸を垂らして魚を確保することなど、どこの部隊でもやっていた。
竜宮の真骨頂は、その遥か先――現地の「フィリピン政府」や地元の有力者たちに対する、前代未聞の『土下座交渉』にあった。
「頼みます! 我が国の軍上層部があまりにも無能でケチなせいで、ウチの若い連中が飢え死にしそうなんです!
この通りです、どうか余っている米と豚肉を分けてください!」
本国の正規軍が物資をくれないのならば、自国の軍部の情けなさと恥部をあえて自虐のネタにし、現地の役人の同情をこれでもかと買い叩く。
時には泣き落とし、時には将来の便宜をチラつかせ、合法と非合法のギリギリの境界線を綱渡りしながら、現地の市場から新鮮な野菜、肉、果物を山のように調達して部隊へ持ち帰ってきたのだ。
面子など犬にでも食わせておけ。
頭を下げて泥水を啜ってでも、自分の部下たちに温かい飯を食わせ、一人残らず生かして帰す――。
のちに「インテリヤクザ」と恐れられることになる、あの強かでえげつない交渉術の片鱗は、すでにこの泥まみれのタウイタウイの浜辺において、確かにその産声を上げていたのである。
「……あの時、貴方が泣きついて手に入れてきた豚肉で作った角煮の味、私はいまだに覚えていますよ」
叡鈴がくすりと笑い、冷めかけた茶に湯を足した。
「泥棒呼ばわりされようと、情けないと罵られようと、部下のために頭を下げられる男だからこそ……あいつらは、貴方を『民大将』と呼んで命を預けたんです」
「……ただ、腹を空かせた部下に恨まれるのが怖かっただけさ」
照れ隠しのように呟きながら、竜宮は湯呑みを両手で包み込んだ。
過去の泥臭い執念と、必死の足掻き。
その泥の記憶があるからこそ、いま、この照和の世に築き上げた「不沈の帝国」は、誰にも引き裂くことのできぬ鋼の絆で結ばれていたのである。
◇◇◇
前世において、南海のタウイタウイ泊地で産声を上げた「第302哨戒警備隊」という組織――その実態は、軍の帳簿を管理する官僚たちが見れば「書類の誤記か悪質な冗談」としか思えぬほど、異常極まりない膨張を遂げた怪物集団であった。
発足当初こそ、竜宮の手足となる中核メンバー数十名による一個「中隊」に過ぎなかった。
だが、世界各地の激戦区で正規軍の尻拭いを引き受け、泥水を啜りながら生き残る過程で、実働の戦闘部隊だけでも千名を数える「一個大隊」へと急成長。
さらに、前線へ物資を送り届ける兵站部、兵器を改修する整備廠、そして補給線を維持するための事務・調達部門までを含めれば、その総員は優に「一個師団」――一万人規模にすら達していたのである。
しかも、その陣容の異常さは数だけに留まらなかった。
前線で銃を握る陸海空のスペシャリストたちに加え、部隊の裏側を支えていたのは、世界各国の名立たる情報機関から集まった本物のエージェントたちであった。
英国のMI6、フランスのDGSE、米国のFBIとCIA、ロシアのKGBとスペツナズを母体としたSVR、ドイツのBND、イタリアのAISE、そして日本の公安警察――。
さらには、霞が関の総務省、財務省、法務省といった中央官庁の官僚たちまでもが名を連ねていたのだ。
軍事、諜報、兵站、財務、法務。
つまるところ第302部隊とは、ただの軍隊ではなく、一個師団そのものが「独立した国家」としての機能を完膚なきまでに内包した、類を見ない超複合組織であった。
その組織の恐るべきノウハウを叩き込むべく、大高と高野の肝煎りで房総半島の秘密演習場へと集められた陸海軍の選抜兵たち――。
彼らを待ち受けていた「入門編」の訓練は、前世のミリタリー映画の金字塔――あの『フルメタル・ジャケット』そのものであった。
「――整列ッ! 貴様らウジ虫ども、耳の穴をかっぽじってよく聞けッ!!」
演習場の宿舎前、円錐形のキャンペーンハットを目深に被った第302中隊の古参隊員――先任鬼軍曹役の元海兵隊員が、仁王立ちして凄まじい怒号を張り上げた。
帝都や前線から「帝国軍の精鋭」として選抜され、プライドを鼻にかけてやってきた陸海軍の若き将校や下士官たちの鼻先数センチへ、唾飛沫を撒き散らしながら機関銃の如き罵声が浴びせられる。
「我が訓練施設にようこそ、このママのおっぱいが恋しい泣き虫の糞袋どもが!貴様らがこれまで誇ってきたその大和魂とやらは、我が部隊の基準からすればただの生ゴミ以下だ! ここでは貴様らは人間ではない! 両生類の糞だ!地球上で最も下等な生命体だ! 貴様らは貴様ら自身を犬の糞以下だと思え! 私の命令なしには息を吸うことも、便所へ行くことも、死ぬことすら許されん!」
「な、貴様……我らは栄えある皇軍の――」
思わず反論しようと顎を突き出した陸軍歩兵中尉の腹膜へ、間髪を入れずに鬼軍曹の剛拳が突き刺さる。
「口答えをするな、糞垂れカカシ野郎! 貴様のその薄っぺらい階級章は、ここではトイレットペーパーの代わりにもならん!貴様らが神聖視する精神論で、機関銃の弾が避けられるとでも思っていたのか!? 今すぐ泥水を啜り、己の無能を地球の重力に謝罪しろッ!!」
帝国陸軍特有の「無言の鉄拳制裁」にしか慣れていなかった選抜兵たちは、未知の語彙力による猛烈な罵倒芸と、人権を粉砕する徹底的なフィジカルのシゴキを前にして、初日の午前中にして白目を剥いて泡を吹きかけていた。
これでも、前世の記憶を持つ隊員たちからすれば、「旧態依然とした帝国精神を解体するための初級リセット教育」に過ぎなかったのだが。
だが――竜宮たちがこの訓練にあの伝説の「ハートマン軍曹」を完全再現させた理由は、単なるシゴキや趣味のためだけではなかった。
頭を空っぽにしていても脳裏に焼き付いているほど有名な、映画史に残るブートキャンプの罵声。
それは、転生者たちにしか通じない、極めて高度で悪戯めいた「コールサイン」であったのだ。
演習場を見下ろす指揮管制塔のバルコニーで、腕を組みながら眼下の阿鼻叫喚を見つめる竜宮の銀縁眼鏡が、冷徹に光っていた。
転生者たちの覚醒パターンは、実に千差万別であった。
クリームヒルトやマスタングのように、生まれた赤ん坊の瞬間から前世の記憶を完全に保っていた「先天的覚醒タイプ」。
竜宮のように、ある日ふと目を覚ましたら照和の少年の肉体に宿っていた「突発的タイプ」。
そして――何気ない日常の中で前世の記憶を眠らせたまま、強い精神的ショックや特定の合言葉に触れることで、突如として記憶がフラッシュバックする「遅発的覚醒タイプ」が存在していた。
もしも、罵声を浴びせられる数百名の帝国兵の中に前世の仲間が紛れ込んでいれば――あのハートマン軍曹の名台詞を聞いた瞬間、恐怖ではなく「おいおい、マジでこれやるのかよ」と反射的に口角を歪めるか、吹き出しそうになって目を泳がせるはずであった。
あるいは、極限の負荷と罵倒の嵐の中で、脳の奥底に眠る前世の記憶の鍵がガチャリと音を立てて外れることも十分にあり得た。
「……提督。第三小隊の二列目、左から四番目の海軍兵曹です」
双眼鏡を覗いていた西住が、低く囁いた。
「軍曹が『微笑みデブ』のくだりを怒鳴り散らした瞬間、必死に笑いを噛み殺して下唇を噛んでおりました」
「よし、連れ出して別室で『尋問』だ。……美味いコーヒーと煙草を用意してやれ」
竜宮は口角を吊り上げ、白手袋の手で小さく合図を送った。
帝国精神の徹底的な解体と、近代戦士への再構築。
そして、泥の中から前世の同胞を一人ずつ釣り上げるための、ブラックユーモアに満ちた地獄のブートキャンプ。
房総の砂塵の中で、旧弊な帝国軍人たちの魂は、猛烈な勢いで「現代の兵器」へと作り変えられつつあった。