完成した回転翼機「嵐凰」を前に、竜宮が下した販売戦略は極めて明快だった。
――軍部への売り込みを一切行わず、「民間向け輸送機」として市場へ解き放つこと。
硬直化した軍の官僚機構に持ち込めば、利権や派閥争い、果てしない審査の泥沼に巻き込まれ、貴重な時間は浪費される。
前世で正規軍の無能さに煮え湯を飲まされた竜宮は、その愚を犯すつもりは毛頭なかった。
まずは民間の現場で圧倒的な実績と利便性を示し、外堀から埋める。それが最も確実な道だった。
機体から機関砲ポッドは取り外され、両舷のパイロンアタッチメントには強力な電動ウィンチユニットが装着された。
滑走路を必要とせず、山間部の僻地や離島、港湾の狭小地であっても、垂直に降下して荷物を吊り上げ、そのまま空輸してみせる。
鉄道も道路も未整備な山岳地帯へ、数トンの資材を一瞬で届けるその異次元の輸送力は、日本の物流界に空前絶後の衝撃を与えた。
「泰山航空工業」の名は一躍、日本中に轟いた。
零細を脱したばかりの中規模企業に過ぎなかった町工場は、日本の空運産業に革命をもたらした時代の寵児として、怒涛の躍進を開始したのである。
さらに竜宮は、回転翼機の機構、実験室レベルから量産体制へ移行させたリチウムイオン二次電池、そして工場現場を救った空調服の特許を矢継ぎ早に出願・取得した。
少年実業家の名義で転がり込む特許使用料は、莫大な個人資産となって竜宮の手元に積み上がっていった。
だが、極東の怪童は己の足元だけを見ていたわけではない。
竜宮は取得した特許技術の全容、そして泰山航空工業の最奥で密かに完成させたタクティカルモジュール「雷震」の完全な構造青写真を一括して厳重に梱包すると、シベリア鉄道の特別便を通じて、一路バルト海の彼方へと送り出していた。
◇◇◇
西暦一九三二年――『照和』七年。 寒風が吹き抜ける東プロイセンの古都、ケーニヒスベルク。
プロイセン貴族の格式を今に残すヴィッテンフェルト家の重厚な本邸にて、届いたばかりの木箱の封を解く影があった。
艶やかなプラチナブロンドの長髪に、氷氷とした怜悧さを湛えたサファイアの瞳。
まだ十四歳という若年でありながら、その立ち振る舞いには歴戦の指揮官たる覇気が満ち満ちていた。
「――二年で形にして見せたか。流石だな、カズシ」
クリームヒルト・フォン・ヴィッテンフェルトは、机上に広げられた「雷震」の精緻な青写真を指先で弾き、微かに口元を緩めた。
そうでなくては、前世において己の生命も、その身のすべてをも預け合った男の仕事ではない。
空を制するヘリコプターの価値は重々理解している。
だが、前世の記憶を持つ彼女にとって、真に魂を揺さぶるのはこの「人型機動兵器」だった。
空を飛べぬがゆえに航空戦力の優位を揺るがすことはなかったが、前世の令和末期、日本がこのタクティカルモジュールを実戦投入した瞬間の衝撃を、彼女は今なお鮮烈に記憶していた。
不整地を縦横無尽に疾走し、建物の物陰から巨砲を叩き込む鉄の歩兵。
その圧倒的な生存性と対ドローン戦闘能力の前に、世界中の主力戦車、装甲戦闘車、自爆無人機のメーカーは軒並み存在意義を問われ、軍需産業の株価が歴史的な大暴落を引き起こしたのだ。
陸戦のドクトリンを根底から粉砕した悪魔の兵器――それがこの鉄塊だった。
(今から極秘裏に工廠を立ち上げ、数を揃えることができれば……)
クリームヒルトは部屋の壁に掛けられた欧州全図へと視線を移した。
前世のネット社会において、もはや「世界大戦の元凶」としてフリー素材の如く擦り倒されていた、あのチョビ髭伍長――ヒトラー。
彼が率いる国家社会主義ドイツ労働者党が、ベルリンで急速に不気味な台頭を見せ始めている。
あの狂信者たちがやがて創設するであろう機甲師団など、このタクティカルモジュールの前には張り子の虎に過ぎない。
バルト三国やポーランドの生産力を裏から買い叩き、数を揃えれば迎撃は十分に可能だ。
だが、彼女の慧眼はさらにその先にある「最悪の未来」を見据えていた。
(……だが、地政学的にこの土地は脆すぎる)
前世の歴史通りに進むならば、ポーランドはドイツによって電撃的に蹂躙され、バルト三国は東の赤色帝国――ソビエト連邦に呑み込まれる。
そうなれば、孤立した飛び地であるこの東プロイセン・ケーニヒスベルクは、逃げ場のない血みどろの最前線と化す。
(この街だけに拠点を置くのは自殺行為だ。……やはり、中立を維持し、良質な鉄鉱石と工作機械を持つスウェーデンに裏の拠点を築くしかないか)
欧州を再び焦熱の業火へと投げ込もうとする愚か者たちへの冷徹な殺意を滾らせながら、十四歳の貴族令嬢は静かにペンを走らせ始めた。
極東の日本で歴史を揺るがす竜宮一士。
そして、欧州の心臓部で静かに牙を研ぐクリームヒルト。
二つの魂が放った不可視の奔流は、やがて来る世界大戦を、誰にも予測できぬ深淵へと引きずり込もうとしていた。
◇◇◇
西暦一九三二年――『照和』七年。
関東軍の独走によって引き起こされた満州事変は、傀儡国家「満州国」の建国という形で結実し、日本国内は戦勝の熱狂に沸き立っていた。新聞各紙は勇ましい活字を躍らせ、民衆は提灯行列で万歳を叫ぶ。
だが、その熱狂の裏で、破滅へのカウントダウンが確実に刻まれていることを、竜宮は冷めた目で見つめていた。
国際連盟から派遣されたリットン調査団が大陸を巡り、満州国の正当性を否認するのはもはや時間の問題だった。
そして翌一九三三年、国際社会からの孤立を決定づける「国際連盟脱退」という歴史の激流が控えている。
狂瀾の時代は、着実にその歩みを速めていた。
そんな世相をよそに、泰山航空工業が世に放った回転翼機「嵐凰」の民間需要は、爆発的な伸びを見せていた。
滑走路を持たない辺境の離島――小笠原諸島や北方千島の荒波に囲まれた島々、多島海が広がる瀬戸内海、そして九州・沖縄の僻地に至るまで、嵐凰は急患輸送や重要物資の空輸において絶対的な守護神として君臨していた。
日本の空輸体系は、軍が気づかぬうちに根本から塗り替えられつつあったのだ。
一方、極秘裏に開発が進められたタクティカルモジュール「雷震」も、密かにその数を増やしていた。 自ら手綱を握る竜宮所有の「初号機」。
泰山航空工業の社用機として試験運用を続ける「弐号機」。
そして、部品取りと万一のバックアップを兼ねて、厳重に施錠された奥の格納庫に静かに横たわる予備機の「参号機」。
わずか三機とはいえ、この時代のあらゆる陸上兵器を凌駕する「鉄の騎兵」は、いつでも実戦へ投入できる即応態勢を整えていた。
だが、空と陸の駒を揃えた竜宮の野心は、そこにとどまらなかった。
彼の手元には、特許料とスイス銀行からの莫大な資金が、未だ唸りを上げて眠っている。
竜宮はその巨額の資金を惜しげもなく注ぎ込み、日本最大の財閥造船所――三菱へと、前代未聞の「船」を発注した。
提示された設計図面を目にした三菱の造船技師たちは、一様に息を呑み、そして我が目を疑った。
全長およそ百五十メートル。
排水量は一万トンにも満たない小型船の規模でありながら、船体の上部は端から端まで平らな板で覆い尽くされた「全通甲板」を採用している。そして艦橋構造物は、甲板の邪魔にならぬよう右舷側に極限まで寄せられていた。
どこからどう見ても、海軍が血道を上げている「航空母艦」そのもののシルエットだった。
だが、三菱の老練な船楼設計者たちを真に絶句させたのは、その先にあった。
ただの平甲板ではない。船体の左舷側、その前方に向けて、まるで甲板を斜めに切り裂いて増築したかのような、もう一枚の張り出し甲板が異様に張り出していたのだ。
――アングルド・デッキ。
前世の現代空母においては常識中の常識である、発艦と着艦を同時にこなすための画期的なレイアウト。
しかし、複葉機を真っ直ぐ飛ばして真っ直ぐ降ろすことしか知らぬ照和初期の造船技師たちにとって、それは物理法則と美意識を真っ向から冒涜する「奇妙奇天烈、摩訶不思議」な怪物じみた構造にしか見えなかった。
「……竜宮様、これは本当に、我が社でお造りしてよろしい船なのですか?」
三菱の設計部長が、脂汗をハンカチで拭いながら尋ねてきたのも無理はなかった。
海軍省に睨まれれば、国家反逆を疑われかねない異形の威容である。
だが、竜宮は澄ました顔で、平然と言い放った。
「ええ、問題ありません。これは軍艦ではなく、あくまで泰山航空工業が販売する『嵐凰』の海上輸送、および洋上展示デモンストレーションを目的とした特殊貨物船です。船籍も運行権も、私個人の名義で所有いたします」
巨額の前渡金と、法的に寸分の隙もない契約書を突きつけられ、三菱側も最後には首を縦に振るしかなかった。
もちろん、竜宮とて陸海軍の耳目を引きつけることは百も承知だった。
いずれ特高や憲兵、あるいは海軍の査察が嗅ぎ回りに来るだろう。
だが、それでも構わなかった。
前世において、組織のしがらみに縛られ、最後には軍上層部の無能と保身によって切り捨てられた苦い記憶。
国家が狂気へと傾斜していくこの世界において、既存の軍組織に隷属することなく、己の判断と意志だけで動かせる「独立した洋上基地」を持つこと――それこそが、来るべき破滅の嵐を生き抜くための絶対条件だったのだ。
陸の「雷震」を腹に収め、空の「嵐凰」を甲板に並べ、海を自在に駆ける鋼鉄の母艦。
照和の造船史に刻まれるはずのなかった異形の艨艏が、三菱の船台の上で、静かにその竜骨を据えようとしていた。
◇◇◇
三菱の船台で異形の輸送船が竜骨を据えるのを待つ間、竜宮は休むことなく次なる布石を打った。
――民間警備会社の設立である。
一九三〇年代の欧米諸国においては、鉄道警備や夜警、要人警護などを担う民間企業が小規模ながら萌芽を見せつつあった。
しかし、この時代の日本には「水と安全はタダ」という牧歌的な信仰が根深く、金を払って民間に警護を委ねるという発想そのものが存在しない。
故に、竜宮が立ち上げた「竜宮警備」は、名実ともに日本初の民間警備会社となった。
もちろん、真の狙いは単なる夜警業ではない。
社内にはすでに「嵐凰」の設計室があり、格納庫の奥には極秘のタクティカルモジュール「雷震」が鎮座している。いずれ三菱から引き渡されるアングルド・デッキ空母も含め、それらの重要機密と特殊装備を法的に武装防衛し、独自の兵員を公然と組織・訓練するための隠れ蓑――いわば日本初の前近代的な民間軍事会社PMCの基盤づくりであった。
その最初の契約先が、隣接する泰山航空工業であることは言うまでもなかった。
西暦一九三二年――『照和』七年の冬。
泰山航空工業の真隣に買い取った広大な敷地に、周囲の目を引く異様な建物が姿を現した。
大型の杭打機で地中深くまで強固な基礎ボルトを打ち込み、鉄骨フレームと規格化されたパネルを現場で一気に組み上げる。
前世の日本の英知である「免震構造」と「プレハブ工法」を融合させ、わずか数ヶ月の突貫工事で完成させた地上三階建ての竜宮警備本社ビルである。
その出来立ての社屋に、奇妙な客人が現れた。
羽織袴の堂々たる和服姿に、顔の半分を覆うような真っ黒い丸サングラス。
時代錯誤とハイカラが奇妙に同居したチグハグな装いでありながら、その恰幅の良い体躯からは、隠しようもない威風が滲み出ていた。
男は受付窓口に立つと、周囲を憚るように声を潜め、「社長の竜宮氏に取り次いでもらいたい」と告げた。
設立されたばかりの新興企業ゆえ、階層的な官僚主義などない。
特許料と泰山航空工業という強固な資金源はあるものの、新ビジネスの種を無下にする理由もなかった。
隣の工場区画で雷震の油圧ダンパーのグリスアップをしていた竜宮は、作業服から着替えて呼び戻され、二階の応接室の扉を開けた。
「お待たせして申し訳ありません」
「いえいえ。いきなり不躾な訪問をしたのはこちらの方ですから、どうぞお気になさらず」
恰幅の良い男は、丸サングラスを外すこともなく、気安く鷹揚に手を振った。
長髪の少年が社長として現れたことに対しても、眉一つ動かさない。待ち時間の長さに機嫌を損ねるような神経質な俗物ではなく、器量の大きい、極めて度量の広い人物であることがその柔らかな物腰から伝わってきた。
男はゆったりと名刺を差し出した。
「大高弥三郎と申します」
差し出された白紙の墨文字を一瞥した瞬間、竜宮の背筋が冷たく張り詰めた。 少年は銀縁眼鏡の奥の瞳を僅かに細め、深々と頭を下げて居住まいを正した。
「竜宮警備代表、竜宮一士と申します。……しかし、まさか陸軍少将閣下自ら、このような場にお越しいただけるとは思いも寄りませんでした」
大高弥三郎。 その名を聞いて、竜宮の脳裏に前世で学んだ戦史の記憶が瞬時に蘇っていた。
狂気じみた精神主義と大陸進出の熱に浮かされるこの時代の日本陸軍において、極めて異端にして唯一無二の慧眼を持つ男。
兵站の軽視は軍の自殺であると説き、中国大陸の底なし沼のような広大さに足を踏み入れることの破滅を予見し、国際社会からの孤立は国家の死と同義であると公然と唱える――陸軍内部において、もっとも開明的なリアリストとして知られる大物将官であった。
(なぜ、この怪物がここにいる……?)
竜宮の頭の中で、冷徹な計算が猛烈な速度で回り始めた。
ただの警備会社の立ち上げに、陸軍の現役少将が身分を隠して単身で乗り込んでくるはずがない。
「嵐凰」の超絶的な航空機動か。
三菱に発注した異形の「斜め甲板空母」か。
それとも、厳重に隠蔽しているはずの「雷震」の存在を嗅ぎつけたのか――。
丸サングラスの奥の双眸と、少年の冷徹な視線が、静まり返った応接室の中で音もなく火花を散らした。