曙光の艦隊   作:星乃 望夢

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第八話 参集、企業戦士たち

西暦一九三三年――『照和』八年三月。 帝国政府による国際連盟脱退が正式に発表された翌朝、帝都・東京の街並みは一夜にしてその様相を一変させていた。

 

「号外! 号外ッ! 我が代表部、連盟総会より堂々の退場!」 「連盟脱退! 我が日本は孤立を恐れず!」

 

新聞売りの威勢のいい声が響き渡る銀座の目抜き通りを、竜宮は銀縁眼鏡の奥から冷ややかに見つめていた。

 

街頭には日の丸の小旗が溢れ、号外を握りしめた人々が「連盟に頼らぬ一国富強」を熱狂的に叫んでいる。

 

満州事変の電撃的勝利という麻薬に酔い痴れた国民は、世界からの孤立を危機として捉えるどころか、むしろ「大日本帝国の真の自立」と錯覚し、より一層の領土拡大を求めて拳を突き上げていた。

 

駅前広場では、辻立ちした弁士が声を枯らして演説をぶっていた。

 

「見よ! かつて日清、日露の国難を跳ね返した我が皇軍の威容を!今こそ暴虐なる支那を懲らしめ、満蒙の生命線をさらに押し広げるべき秋(とき)である!」 聴衆から地鳴りのような拍手と歓声が沸き起こる。

 

(……あの弁士の取り巻き、数人は陸軍のサクラだな)

 

群衆の端で腕組みをし、周囲の空気を煽り立てている数名の男たちの身のこなしを一瞥し、竜宮は内心で舌打ちした。短髪の剃り込み、背筋の伸び方、民衆を先導するタイミング。

 

どれをとっても軍の謀略工作員特有の臭いが隠せていない。

 

前世の令和において、歴史の授業や戦争ドキュメンタリー番組、あるいはネットの海をいくらググったところで、決して実感として掴めなかった「国全体が自ら戦争への階段を登っていく生々しい空気」。

 

それを肌で直視することで、竜宮は歴史の暗部がどうやって形成されていくのかを生々しく合点していた。

 

同時に、その浅ましさに眩暈を覚える。

 

日露戦争はともかく、日清戦争などいつの時代の話だと呆れ果てるしかなかった。

 

半世紀近く前の、複葉機すら飛んでいなかった牧歌的な時代の成功体験を、現代の近代総力戦にそのまま当てはめようとしているのだ。

 

確かに、耳当たりの良い精神論としては民衆に響くだろう。

 

だがそれは、「世界」という冷徹な力学を知らない無知な民草だからこそ通用する児戯に過ぎない。

 

近代化を成し遂げ、牙を研いできたのは日本だけではない。

 

もしこのまま大陸での戦端を開けば、中国の背後には大英帝国とアメリカ合衆国が、資金と近代兵器を湯水のように注ぎ込む強力なバックアップ体制を敷く。

 

日中戦争の本質とは、中国軍との一騎打ちなどではない。実質的には「日本 対 中・英・米連合」という、狂気の非対称戦なのだ。

 

広大無辺な泥沼の戦場へと引きずり込まれ、日本の国力と兵站はすり潰され、干からびて首が回らなくなったその瞬間を見計らって――最後通牒たる「ハル・ノート」が喉元に突きつけられる。

 

(まったく……アメリカのヘンリー・ルーズベルト大統領は、前世に輪をかけて相当な古狸だな)

 

竜宮はポケットの中で拳を握りしめた。

前世の記憶にある「ルーズベルト」とは、ファーストネームが微妙に異なっている。この世界における奇妙な歴史の歪みの一つだ。

 

だが、名が違えど、やっていることの悪辣さと狡猾さは前世の史実と寸分違わない。

 

経済封鎖によって日本をジリジリと追い詰め、暴発を誘って正当防衛の看板を掲げて叩き潰す――その謀略の構図は完全に一致していた。

 

ヘンリー・ルーズベルトもまた、大高弥三郎や高野五十六のような「後世復命者」なのか。

 

現時点ではその確証はない。

 

もし彼が前世の記憶を持つ転生者であるならば、かつての戦勝国として同じ謀略の手順をなぞるだけで、アメリカにとって「最もコストの低いイージーゲーム」を再現できると知っているはずだ。

 

あるいは単に、大国アメリカの指導者としての冷徹な地政学的判断が、歴史の奔流を同じ結末へと押し流しているだけなのかもしれない。

 

どちらにせよ、敵にとって都合の良いシナリオが着々と進行している事実に変わりはなかった。

 

「万歳! 万歳ッ!」

 

狂乱の歓声が木霊する帝都の空を、春の冷たい突風が吹き抜けていく。

 

熱狂という名の集団催眠にかかった群衆に背を向け、竜宮は静かに歩き出した。

 

この国は、再び破滅の滑り台を滑り始めた。

 

だが、前世の令和で無念の死を遂げた元「提督」は、ただその転落を見届けるつもりなど微塵もなかった。

 

(好きに踊っていろ。……最後に盤面をひっくり返すのは、俺たちだ)

 

北の大地で芽吹く食糧、地下ドックで黒光りする無音の潜水母艦、そして空と陸を制する異形の鉄騎兵。

 

世界大戦という名の巨大な嵐が吹き荒れるその瞬間まで、竜宮の冷徹な手腕は、確実に歴史の裏側を侵食し続けていた。

 

国際連盟脱退の正式発表から、わずか二日後のことだった。

 

帝都の狂騒が冷めやらぬ中、竜宮警備本社の受付に、一人の客人が姿を現した。 年頃は社長の竜宮と同じく、十四、五歳ほど。

 

仕立ての良い洋装に身を包み、すっきりと背筋を伸ばしたその立ち振る舞いには、下町の雑踏にはおよそ似つかわしくない、底知れぬ高貴な気品が満ち満ちていた。

 

一見すれば誰もが、名門華族の深窓の令嬢が道に迷い込んだものと錯覚したことだろう。

 

その客人が「竜宮社長との面会」を求めてきた。

 

例によって隣の泰山航空工業の試作ハンガーから呼び戻された竜宮は、作業着の袖をまくりながら二階の応接室の扉を開けた。

 

ガチャリ、と金具が鳴った瞬間だった。

 

ソファーに腰掛けていた影が弾かれたように立ち上がるや否や、小走りに駆け寄り、真正面から竜宮の胸元へと飛び込んできたのだ。

 

「竜宮さんっ……!」

 

ぎゅっと抱き着いてくる柔らかな感触と、微かに鼻をくすぐる上品な白檀の香り。

 

竜宮は溜め息をつきながら、抱きついてきた頭をポンと軽く叩いた。

 

「……相変わらずだな。君はもう少し、男児としてシャキッと背筋を伸ばさなければ、皇室の御歴々が泣かれるぞ」

 

「だ、だって……っ! 僕、すごく心細くて……! 日本はあんなことになっていくし、連盟は脱退しちゃうし……! だけど、今の僕の立場じゃ、どうすることも出来なくてっ……」

 

胸元で華奢な肩を震わせ、大粒の涙を瞳に浮かべて縋り付いてくるその姿。

 

腰にまで届く見事な黒髪の艶やかさと、守ってやりたくなるような小動物じみた可憐さを漂わせているが――少女ではない。れっきとした「男児」であった。

 

鴻上昴(こうがみ すばる)。

 

かつて竜宮が、東プロイセン・ケーニヒスベルクのヴィッテンフェルト家へあの賭けの葉書を送った際、前世の記憶を辿って「令和の時代まで住所が変わらなかった二人」のうちの一人。

 

一介の平民が軽々しく手紙など出せば、不敬罪で一族郎党が消されかねないと接触を断念した、まさに「皇族に連なるやんごとなき家」の御方その人であった。

 

二人が前世で知り合ったきっかけもまた、あの凄絶な戦乱の海だった。

 

前世における竜宮の艦隊は、日本近海にとどまらなかった。

 

北は流氷渦巻くアリューシャン列島から、東はハワイ沖、南はソロモン諸島の激戦区からオーストラリア北岸、西へ向かえばインド洋の哨戒線を駆け、夏になればバルト海の多国籍哨戒任務にまで部隊を派遣した。

 

正規軍が壊滅する中、世界の海を縦横無尽に駆けて現場の陣頭指揮を執り続けた竜宮は、その卓越した武功から、英国王室より直々に勲功爵の爵位と名誉ある大英帝国勲章とバス勲章を授与されるまでに至っていた。

 

だが、極東の島国の硬直した軍部と政府は、そんな「提督」の国際的台頭を極度に恐れた。

 

名声を高めすぎた竜宮が、いずれ大英帝国や連合軍側へ完全に引き抜かれ、自らの手綱を離れてしまうのではないか――その疑心暗鬼から、彼を日本へと縛り付けておくための「生きた楔(お目付役)」として宮内府から派遣されてきたのが、他ならぬ昴だったのだ。

 

政治の都合で過酷な前線泊地へ放り込まれ、名門の重圧に押し潰されそうになりながらも、懸命に役目を果たそうとしていた華奢な少年。

 

その健気でお労しい姿に、上層部の醜い思惑は百も承知でありながら、竜宮が絆されてしまったのは紛れもない事実だった。

 

互いに前世でも同い年であり、何より気兼ねのない男同士。打ち解けるのに時間はかからなかった。

 

もっとも、対等な友人というよりは、放っておけばどこかで泣いていそうな「手のかかる弟」として、竜宮が甲斐甲斐しく面倒を見ていたというのが実情であったが。

 

「……よくここが分かったな」

 

竜宮がそっと肩を押し戻すと、昴は涙の滲んだ大きな瞳を見上げ、鼻を啜りながら答えた。

 

「最初は……信じられなかったんだ。でも、新聞を見たら、泰山航空工業が『嵐凰』なんていうヘリコプターを売り出していて……おまけに、隣の警備会社の社長が『竜宮一士』だって宮内省の噂話で耳に入って……!僕の知ってる竜宮さんなら、絶対にこんなこと企むのは貴方しかいないって、居ても立ってもいられなくなって抜け出してきたんだ……!」

 

「抜け出してきたって……護衛はどうしたんだ」

 

「ま、撒いてきたよ……! 辻馬車を乗り継いで……」

 

冷や汗ものの告白に、竜宮は思わず頭を抱えた。

 

皇族に連なる身分でありながら、単身で監視を撒いて町工場の街へ潜り込んでくるとは、相変わらずこの少年も肝が据わっているのか抜けているのか分からない。

 

だが、前世の記憶を抱えたまま、狂気の軍国主義へと転がり落ちていく照和の日本を、皇族の宮様という籠の鳥の立場で見つめ続けることが、どれほどの孤立と恐怖であったかは想像に難くなかった。

 

「……もう大丈夫だ、昴」

 

竜宮は静かに、かつてのタウイタウイの司令室でそうしたように、少年を胸元に抱きしめてその頭を優しく撫でた。

 

「泣くな。お前が一人で背負い込む必要は何一つない。この国がどれほど狂気に傾こうと、海と空のすべてを敵に回そうと――俺がお前を、そしてこの国を、二度とあんな焦熱の地獄には落とさせはしない」

 

「竜宮さん……っ」

 

再び胸に飛び込んできた少年の温もりを受け止めながら、竜宮は応接室の窓の外を見据えた。

 

海の向こうのプロイセンには、鉄の意志を持つクリームヒルト。

 

陸軍の暗がりには、救国の大高弥三郎。

 

そしていま、宮中と皇室の最深部へと通じる、最大のピースが手元に揃った。

 

少年の柔らかい髪に触れながら、竜宮の銀縁眼鏡の奥で、冷徹無比な元「民大将」の野望が、静かにその輪郭を露わにしていた。

 

竜宮は涙を拭った昴の手を引き、泰山航空工業の最深部――竜宮警備の武装隊員たちが二十四時間体制で厳重な警戒網を敷く、第零試作格納庫へと案内した。

 

肉厚な防爆鉄扉が重々しい油圧音を立てて開く。 ひんやりとした油と金属の匂いが漂う薄暗いドックの中央に足を踏み入れた瞬間、昴は思わず息を呑んだ。

 

「わぁ……っ!」

 

少年の大きな瞳が、眩いばかりの光を放った。

 

照明の光を鈍く跳ね返しながらそこに佇んでいたのは、全高三・五メートル。無骨に角張った寸胴の胴体に、幾重ものハニカム装甲を纏った――前世で見慣れた、あの鋼鉄の巨人であった。

 

「神雷(じんらい)……!」

 

前世におけるその名を叫んだ昴に対し、梯子に手をかけた竜宮は静かに首を横に振った。

 

「ここでは『雷震』と呼んでいる。……見ての通り、まだコイツは『跳べない』からな」

 

竜宮の言葉に、昴は機体の周囲をまじまじと見回し、すぐにその違いに気づいた。

 

前世において、敵のドローン群を空中で叩き落とし、立体的な跳躍機動を可能にしていた両腰の「姿勢制御用小型ターボジェットエンジン内蔵テールバインダー」。

 

それが、この機体の腰回りには見当たらない。背中に鎮座しているのは、小型化された高出力ターボディーゼル機関だけであった。

 

「そっか……まだ、小型のジェットバーニアがないんだね」

 

「ああ。照和の工業力でマッハ級の推進薬や耐熱ニッケル合金を揃えるのは、まだ先の話だ。だが――足回りの油圧サスペンションとモーションリンクの減速比は、徹底的に煮詰めてある。乗るか?操縦感覚は、前世の陸戦型『G型装備』と変わらないレスポンスに仕上げてあるぞ」

 

「う、うんっ! 乗る!」

 

華奢な肩を揺らし、さっきまで泣きじゃくっていた小動物のような姿は、綺麗さっぱり消え去っていた。

 

可憐な少女にしか見えない容貌をしていても、その魂は紛れもない日本男児だった。

 

人型機動兵器――男なら誰もが一度は夢見る巨大な鉄の巨体を前にして、血を滾らせないはずがない。

 

しかも、この鴻上昴という少年は、ただのロボット好きの子供ではなかった。

 

前世において、やんごとなき皇族の身分でありながら、政治の生贄として南海の激戦区・タウイタウイ泊地へ送り込まれた昴。

 

周囲の大人が過保護に遠ざけようとする中、彼は歯を食いしばって訓練教程を修了し、敵の無人機が泊地を襲撃した際には、自ら神雷のコックピットへ滑り込んで迎撃戦の先陣を切った。

 

華奢な肉体からは想像もつかないほどの精密なペダルワークと、類まれなる空間把握能力。激戦の海と島嶼部を駆け巡り、幾多の敵強襲目標をスクラップへと変えた――紛れもない、タクティカルモジュールの「トップエース」の一人だったのだ。

 

「ステップに乗れ。引き上げてやる」

 

竜宮が機体胸部のハッチを開け、上から手を差し伸べた。

 

昴は仕立ての良い洋装の裾を気にも留めず、慣れた足取りで整備用ステップを駆け上がり、竜宮の手を取って狭いコックピットへと滑り込んだ。

 

シートに収まり、操縦指に指を通した瞬間、少年の顔つきから幼さが完全に削ぎ落とされた。

 

銀縁眼鏡の奥で薄く笑う竜宮と、シートの上で引き締まった戦士の笑みを浮かべる昴。

 

空には「嵐凰」と「嵐征」。

 

海には建造中の潜水母艦。

 

そして陸には、百戦錬磨の操縦士を得た「雷震」。

 

かつて世界の海で背中を預け合った二人の戦士が、九十年の時を飛び越え、再び同じ鉄の巨人のもとで結びついた。

 

 

◇◇◇

 

 

北海道の沃野を切り拓く「竜宮農業」において、雇用されたのはこの照和の世を生きる一般の民草であった。東北の凶作に喘ぐ農民や、恐慌で職を失った者たちを広く受け入れるセーフティネットとして機能していたからだ。

 

しかし――機密の心臓部を守護する「竜宮警備」の人事は、その成り立ちからして根本的に異なっていた。

 

驚くべきことに、門を叩き、配属された社員・警備隊員の「すべて」が、前世の記憶を色濃く残した転生者たちで占められていたのだ。

 

これほど効率的な炙り出しが可能だった理由は、極めて単純明快であった。

 

竜宮が全国紙の求人欄に掲載させた「募集要項」が、照和初期の日本社会においては天地がひっくり返っても存在し得ない、狂気じみた文言だったからである。

 

『週休二日制・有給休暇あり。年2回ボーナス支給交通費全額支給、社宅寮完備。――アットホームな職場です』

 

当時の日本における労働観といえば、「月月火水木金金」に象徴される滅私奉公が美徳とされ、日曜日に半日の休みがあれば御の字、労働者の権利や休暇など甘えと切り捨てられた時代である。

 

有給休暇や交通費の支給などという近代的な労務管理の概念すら定着していない世において、この求人票は、照和の一般人から見れば「新興成金の法螺吹きか、新聞社の誤植」として眉をひそめられるのが関の山だった。

 

だが――前世の平成・令和の世をくぐり抜けてきた者たちにとって、それは暗闇の荒野に突如として灯った、眩いばかりの巨大な誘導標識であった。

 

週休二日、有給、ボーナス。

 

そして、現代の求人広告特有の、どこかブラック企業の気配すら漂わせる使い古された決まり文句――「アットホームな職場」。

 

それらの単語が当時の新聞に並んでいるという事実そのものが、『我ここに在り。前世の記憶を持つ同胞よ、直ちに集結せよ』という、これ以上ないほど露骨で確実なコールサインだったのだ。

 

結果、全国から竜宮警備の面接室へと吸い寄せられるようにやって来たのは、この時代の常識に馴染めず孤立していた「前世持ち」の猛者たちばかりであった。

 

前世において哨戒機や輸送機の整備を担当していた元自衛官。 無人ドローンや通信網の構築に携わっていた技術者。

 

過酷な前線で艦艇の機関科を預かっていた元船乗り。

 

彼らは履歴書を机に置くや否や、応接室の竜宮の顔と、その腰まで伸びた長髪、銀縁眼鏡を見て絶句し、次いで深い敬礼を捧げた。

 

「まさか……新聞の文面に釣られてやって来たら、あの『民大将』が陣頭指揮を執っていたとはな」

 

「求人票を見た瞬間、頭がおかしくなったのかと思いましたよ、提督」

 

苦笑まじりの報告を受けながら、竜宮は彼らの採用通知に次々と判を捺していった。

 

こうして、竜宮警備は純度百パーセントの「後世復命者・未来転生者部隊」として完成した。

 

彼らは全員が未来の悲劇と敗戦の結末を知っており、現在の軍国主義的な狂気の危うさを骨の髄まで理解している。

 

国家の歪んだ宣伝工作に惑わされる者はおらず、忠誠の矛先は国家の看板ではなく、目の前の竜宮一士という指揮官ただ一人に向けられていた。

 

泰山航空工業の最深部で「雷震」の装甲が組み上がり、隣の地下乾ドックで前代未聞の潜水母艦が無音で建造されながらも、憲兵や特高警察、列強のスパイ網にただの一片も情報が漏洩しなかった理由がここにあった。

 

作業に携わる全員が、自らの命を懸けて秘匿すべき「未来の兵器」の価値を完璧に把握していたからである。

 

「アットホームな職場、ですか」

 

新しく届いた制服に袖を通した元兵曹の隊員が、肩を竦めて笑った。

 

「ああ。前世と違って、飯と弾薬と休暇の支給だけは確実に保証するぞ。なんてたって今の俺は成金大金持ちだからな」

 

竜宮は書類から顔を上げ、不敵な笑みを返した。

 

鉄の絆で結ばれた異形の私設部隊。 狂乱の時代を覆すための「目に見えぬ軍団」が、帝都の一角に完全な陣形を整えつつあった。

 

その奇妙で徹底した人材採用の網は、前線の警備員や元軍人、技術者たちだけに向けられたものではなかった。

 

会社という巨大な組織の背骨を支える「事務職」においても、まったく同じ現象が起きていた。

 

照和初期の日本社会において、女性を取り巻く環境は過酷を極めていた。

 

「女は家を守るべし」「良妻賢母たれ」という家父長制の旧弊が絶対の美徳とされ、社会に出て自立したキャリアを築く道など事実上閉ざされていた時代である。

 

世界恐慌の余波が残る貧困層にあっては、製糸工場の過酷な労働で使い潰されるか、最悪の場合は家族を救うために前借金と引き換えに身売りを余儀なくされる悲劇が日常茶飯事であった。

 

そんな絶望的な世相のただ中に投じられたのが、あの求人広告だった。

 

『週休二日制・有給あり・年2回ボーナス・交通費支給・社宅寮完備・アットホームな職場』

 

照和の一般男性ですら眉唾物と疑ったその文面を見て、各地で息を潜めていた「前世の記憶を持つ女性たち」が、どれほどの衝撃を受け、どれほどの救いを見出したかは想像に難くなかった。

 

結果として、竜宮警備の総務・経理・法務部門の面接室には、この時代には絶対に存在し得ない規格外の「精鋭」たちが雪崩を打って集結した。

 

前世の大手商社で数千億円の資金決済を回していた元キャリアウーマン。 百戦錬磨の税理士や公認会計士。 ベンチャー企業を立ち上げて荒波を潜り抜けてきた女性実業家。

 

果ては、過酷な物流センターやオフィスで驚異的な処理能力を発揮していたベテランの元パートタイマーまで――。

 

彼女たちが竜宮警備の事務室に着任した瞬間、オフィスの光景は一九三〇年代のそれから完全に隔絶された。

 

大福帳と算盤が主流の時代にあって、精密極まる複式簿記と現代的な原価計算が即座に導入された。

 

特許庁や官公庁に提出する難解な申請書類は、官僚の突っ込みどころを完璧に先回りして封殺する洗練された書式で次々と仕上げられ、契約書の一行一行には相手の足元を合法的に縛る緻密な法務トラップが仕掛けられた。

 

営業を任せれば、前世の営業ノウハウと心理戦を駆使し、頑迷な地方の地主や取引先を手玉に取って有利な条件を勝ち取ってくる。

 

「……恐れ入りましたね。官憲の査察対策から北海道開拓の物資輸送台帳まで、寸分の狂いもありません」

 

東野源一郎が、竜宮警備から提出された分厚い資材調達計画書をめくりながら舌を巻いた。

 

昭和二十年の技術将校であった東野にとっても、これほど無駄がなく、かつ将来のインフレや資材高騰を先読みした兵站・会計帳簿など見たこともなかった。

 

「現場が血を流さずに勝つための要は、いつの時代も兵站と書類仕事ですよ」

 

竜宮は、机の上に整然と積み上げられた決裁書類に目を通しながら淡々と返した。

 

前世の令和において、正規軍が無能な官僚主義で自滅していく様を見てきた竜宮にとって、正確無比なバックオフィスの存在は、戦車や戦闘機よりも遥かに重要な戦略兵器だった。

 

「女だてらに」「男尊女卑」と嘯く外の社会がどれほど侮留の目を向けようと、竜宮警備の内部において性別などという前近代的な記号は何の意味も持たない。

 

ここにあるのは、現代水準の圧倒的な実務能力と、来るべき破滅を阻止するという共通の意志だけだった。

 

莫大な特許料を無駄なく運用する鉄壁の財務。

 

泰山航空工業や竜宮農業を陰から統制する完璧なロジスティクス管理。

 

そして、いかなる官憲の追及も寄せ付けぬ堅牢な法務防壁。

 

前世の記憶を抱く逞しい女性たちの手によって、竜宮の帝国は、外側だけでなくその内側までもが、何者にも揺るがせぬ強固な城塞へと仕立て上げられつつあった。

 

 

 

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