旅行の予約をしたのは、俺だった。
十一月八日から一泊。宿も列車も夕飯の時間も、全部取った。橘は確認画面を見て「できるじゃん」と言い、俺は、できるに決まってるだろ、と答えた。
本当は予約サイトを三つ見比べ、部屋の写真を十回くらい拡大した。
付き合って八か月、泊まりに来るたび橘に「次はどこ行く?」と聞いていた。答えてもらうことに慣れすぎていたのだと思う。
宿の最寄り駅に着くと、雨が降っていた。
「海、見えないね」
「明日は晴れる」
「調べた?」
「たぶん」
橘は笑った。駅の売店で買った傘は骨が六本しかなく、二人で入ると俺の肩が濡れた。
部屋の窓の向こうは一面灰色だった。写真にあった海は、窓枠に説明をつけないと分からないくらい暗かった。
「こんな感じじゃなかったんだけどな」
「晴れてる日の写真でしょ」
橘は靴下を脱ぎ、畳に両足をつけた。
「あったかい」
暖房はまだ入れていなかった。
夕飯は思っていたより量が多く、最後の炊き込みご飯を二杯食べたら動けなくなった。
「俺、明日の朝飯いらないかも」
「七時半って自分で決めたのに」
「七時半には減ってるか」
橘は空いた小鉢を端に寄せ、箸袋を折っていた。出来上がったものは、くちばしの長い何かだった。
「鶴?」
「途中で分かんなくなった」
「新種か」
湯呑みの横に置いて、写真を撮っていた。
部屋に戻ると布団が敷かれていた。二組の間に、畳の縁が一本通っていた。
俺がテレビをつけると、橘はバッグから文庫本を出した。ずいぶん古い本で、頁の角が柔らかくなっている。
「面白い?」
「まだ途中」
「それ、どうしたの」
「家にあったやつ」
後ろの見返しに何か書いてあったので、覗いた。
「火を止めてから、レモン」
「レシピかな」
「小説に?」
「紙がなかったんじゃない」
俺にもそういうことはあった。
橘は少し読んでから、本を伏せた。
「ちょっと電話してくる」
「ここでいいのに」
「テレビ見てていいよ」
俺はチャンネルを替えた。見たいものはなかったが、替えていれば何かある気がした。
戻ってきた橘は、売店の小さな紙袋を持っていた。八時五十分になるところだった。
「お土産?」
「のど飴。さっき一個落としたから、ついでに」
袋を差し出されたので、一つ取った。知らない果物の味がした。
窓の下で雨樋が鳴っていた。明日の予報を確かめると、昼まで雨だった。俺はスマートフォンを伏せた。
「ごめんな」
「何が?」
「景色とか、いろいろ」
橘は俺を見てから、窓を見た。
「海、なくなったわけじゃないよ」
「そうだけど」
「明日見えたら見よう。見えなかったら、また来ればいいし」
畳の上を膝で進み、俺の横に来た。
「今日はもう、出かけなくていいんでしょ」
俺は頷いた。
布団を寄せると、間にあった畳の縁が見えなくなった。電気を消したあと、橘が俺の冷たい足を蹴った。それで二人とも笑ってしまった。
夜中に一度、雨音で目が覚めた。彼女は俺の腕に頭を乗せていた。少し痺れていたが、動かさなかった。
朝食には間に合った。
橘は魚をきれいに食べ、俺は昨夜の心配を忘れてご飯をおかわりした。
「減ってたね」
「減るもんだな」
窓際の席には誰も座っていなかった。海はまだ見えなかった。
チェックアウトして駅まで歩く途中、橘が立ち止まった。
建物の隙間に、細く青いところがあった。
「あそこ」
海なのか空なのか、俺にはすぐ分からなかった。彼女に指を引かれ、傘の縁を上げると、灰色の下に波の白い線が見えた。
「見えた」
「見えたね」
写真を撮ろうとしたが、レンズについた水滴でぼやけた。
消そうとすると、橘が言った。
「送って。それ」
帰りの列車で送った。彼女は隣で写真を開き、少し拡大してから保存した。
俺も消さずに残した。