映画館がなくなると聞いて、最初に気になったのは、回数券の残りだった。
四枚ある。閉館までに一人で四回通うのは難しい。
さっちゃんにそう言うと、「二人なら二回だね」と返された。
なるほど、と思ったあと、それを自分から言えなかったことが少し情けなくなった。
彼女と知り合ったのは、区民センターの上映会だった。交際を始めてからも、私たちはよく映画を見た。ただ、仕事を終えて待ち合わせ、暗い場所で二時間黙って座り、感想を言って別れるというのは、付き合う前からしていたことだった。
十一月十八日の火曜日、最後の二枚を使った。
いつもの柱の前で、さっちゃんはコートの襟を押さえていた。
「それ、新しい?」
「これ?」
銀色の小さな鳥だった。片方の翼に白い点がある。
「誕生日にもらったんだ」
「似合ってる」
「ありがとう。留め具だけ、妙にぴかぴかなんだけどね」
彼女は裏を見せようとして、やめた。
「落としそう。あとで」
私が贈った手袋はまだ必要ない気温だった。もっと薄いものにすればよかったかもしれない。でも彼女は、来月になったら使うと言ってくれていた。
上映まで七分あった。
売店には欲しい飲み物がなく、私は水、彼女は温かい紅茶を買った。最後だからと特別なことをしようとしても、結局いつもと変わらなかった。
映画は、昔読んだ小説が原作だった。
主人公が子供の頃に住んでいた町へ帰り、ずっと嫌っていた父親の家を片づける話だ。小説では何頁もかけていた場面が、窓を開ける動作ひとつで終わった。
少し惜しい気もしたし、これでよかった気もした。
エンドロールが始まったとき、隣で彼女が息をついた。
場内が明るくなるまで、私は何も聞かなかった。
外に出ると、さっちゃんはバッグから文庫本を出した。
「これ、ありがとう」
先月貸した本だった。
「読み終わった?」
「日曜に。映画の前に読んでおきたくて」
受け取った拍子に後ろの見返しが開いた。
「まだ消してないんだ、それ」
彼女に言われて、鉛筆の字を見た。
火を止めてから、レモン。
十年以上前、母から電話でジャムの作り方を聞いたときに書いたものだ。台所で読んでいた本に、そのままメモをした。
「消すほどでもなくて」
「途中の分量は?」
「別の紙に書いた」
「そっちは?」
「ない」
さっちゃんは笑った。
「じゃあ作れないね」
「最後だけは分かる」
私たちは駅と反対の方向へ歩いた。映画のあとに寄っていた喫茶店は、もう閉まっていた。
近くのファミリーレストランで、彼女はドリアを、私はハンバーグを頼んだ。映画の父親が本当はどういう人だったのか、意見が分かれた。
彼女は、息子に謝りたかったのだと言った。
私は、謝る気があれば生きているうちにできたはずだと言った。
「言えないこともあるよ」
「それはあるけど」
「うん」
さっちゃんはスプーンでドリアの表面を割った。湯気が上がった。
「映画館、なくなったらどうしようか」
私が聞くと、彼女は少し考えた。
「隣の駅にもあるよ」
「大きいところか」
「嫌?」
「嫌じゃない」
ドリンクバーの製氷機が、遠くで音を立てた。
私は紙ナプキンを一枚取り、必要もないのに折った。
「映画じゃなくてもいいんだけど」
彼女が顔を上げた。
「何か見たいものがあるときしか、誘ってない気がして」
さっちゃんはスプーンを置いた。
「今日は、見たい映画があったから誘ったの?」
回数券が余っていたから、と言いかけた。それはきっかけで、答えではなかった。
「会いたかったから」
「じゃあ、次もそう言って」
私は折ったナプキンを開いた。
店を出ると、思っていたより冷えていた。彼女が私のポケットに手を入れてきたので、その中で繋いだ。
「うち、寄る?」
「明日の仕事、大丈夫?」
「いつもどおり起きれば」
さっちゃんは頷いた。
その晩、彼女の髪を乾かすあいだ、私はもう少し大きなドライヤーを買おうと思った。自分一人なら気にならなかった風の弱さが、急に不便になった。
朝、目覚ましが鳴る前に起きると、彼女の指が私の寝間着の袖を掴んでいた。
起こさないように外し、台所へ行った。湯を沸かしながら、冷凍したパンを二枚出した。
木曜の夜は空いていたはずだ。
今度は映画の時間を調べずに、誘おうと思った。