かぶき町結婚相談所【土方十四郎編】 〜命を捨てた男の欠けたピース〜 作:Madocca
第3話をお届けします。
少しずつ距離が縮まり始める二人。
乙羽に迫り来る危機の深刻さに気づき、「俺が全て叩き斬る」と乙羽を守る宣言をする土方。
それは「副長」としてか「男」としてか…?
銀魂らしい賑やかな空気感の中で垣間見える、土方さんの男気と乙羽の健気な心理描写をじっくり描きました。
「挿絵(AIイラスト)」もあわせて、二人の世界観を一緒にお楽しみいただければ幸いです。
※今後は【ジャンプ発売日】に更新予定です!
気に入っていただけましたら、ぜひフォローやブクマで応援よろしくお願いいたします❣️
コホン!
境内を照らす街燈の灯りが、冷えた夜露に濡れる石畳を淡く浮かび上がらせている。手越神社の境内に、乙羽の小さな咳き込みと、静かな衣擦れの音だけが寂しく響いていた。
逃げ込むように身を寄せた境内。
だが、家を飛び出して数日、粗末な布団と寒暖差は着実に乙羽の体力を削り取っていた。
さらに重くのしかかるのは、境内の外を不気味にうろつく見合い相手の家の者たちの影だ。
神社の人々へ迷惑がかかるという罪悪感が、冷気とともに乙羽の胸を強く締め付ける。
その時――。
カツン、カツンと、静寂を切り裂く硬質な足音が参道の石段から響き渡った。
規則正しく、一切の迷いがない踏み込み。
そして、重厚な革靴の音。
「……こんな冷える夜に、境内で震えてんじゃねぇよ」
暗がりから姿を現したのは、黒い隊服を夜風にはためかせた土方十四郎だった。
口にくわえた煙草の火種が、橙色の小さな光となって暗闇に揺れている。
土方は参道をまっすぐ歩み寄ると、乙羽の前で足を止めた。その視線は、境内を取り囲む樹木の影――
そこから慌てて逃げ出していく不審な男たちの気配を鋭く射抜いた後、すぐに目の前の乙羽へと向けられる。
「ちっ……
妙な羽虫どもが群がってやがると思えば……
アンタ、こんなとこで何日過ごしてやがった」
土方は苦々しく眉をひそめると、身につけていた漆黒の隊服の羽織(着流し)をバサリと脱ぎ捨てた。
そのまま、寒さに肩をすくめる乙羽の華奢な身体へ、乱暴かつ丁寧にかぶせかける。
ズシリと重い真選組の隊服。
そこから立ち上るのは、凛とした刀の匂いと、微かな煙草の香気、そして土方自身のぬくもりだった。
「行くぞ」
「え……?」
「『え』じゃねぇ。神社の奴らにも、これ以上迷惑かけたくねぇんだろ」
土方は背を向けると、乙羽の手首をそっと、だが絶対に解けない強さで掴み引き寄せた。
「屯所の中に一つ、使ってねぇ離れがある。
近藤のバカが『いつでも使えるようにしておけ』ってうるさくてな……
そこを使え。
真選組の敷地に手を出すおめでてぇバカは、この江戸にはいねぇよ」
振り返りもせず、夜道を歩き出す土方。
掴まれた手首から伝わる熱と、羽織の温もりが、乙羽の冷え切った身体と心をじんわりと溶かしていく。
「……言っとくがな、俺は仕事で忙しい。
あんたの面倒をいちいち見てる暇はねぇ……
だから」
土方は少しだけ歩幅を緩め、夜空を見上げながら、ぶっきらぼうに言葉を繋いだ。
「……さっさと風邪治して、飯食って……
ちゃんと笑ってみせろ」
「土方さん……」
乙羽は、信じられないとばかりに目を見開いた。
色白の頬は赤く染まり、息が少し上がっている。
「土方さん……ご……」
そう言いかけた瞬間、ガタリと、乙羽の膝が崩れ落ちた。
「おい……ッ!?」
土方の身体が、思考より先に動いた。
掴んでいた手首を引き寄せると同時に、崩れ落ちる華奢な身体を咄嗟に抱きとめる。
腕の中に収まった乙羽の身体は、驚くほど軽かった。
重ね着された隊服の上からでもはっきりと伝わってくる、尋常ではない熱。
「……くそが、熱出してやがるじゃねぇか……!」
ハァ、ハァと荒い息を吐きながら、乙羽の長い睫毛が苦しそうに揺れている。
何度も「ごめんなさい」と言いかけ、最後まで自分の体を顧みずに我慢し続けていたのだ。
土方は奥歯を激しく噛み鳴らすと、横抱きにするようにして、乙羽をしっかりと腕の中に抱え上げた。
「おい! しっかりしろ! 乙羽……!」
己の腕の中で小さく震える命の重み。
土方は一刻の猶予もないと悟り、夜の境内に向けて激しく地を蹴った。
◇
数分後。真選組屯所――。
「医者を呼べぇぇぇ!!
屯医(とんい)を今すぐたたき起こせ!!」
静まり返っていた屯所の回廊に、土方の怒号が突き刺さった。
足音を荒立てて走り込んでくる副長の姿に、見張りの隊士たちが驚愕して腰を抜かす。
普段なら冷静沈着な男が、その腕の中に一人の女性を大事そうに抱え込み、血相を変えて叫んでいるのだ。
「ひいっ! ふ、副長!? その娘さんは……!?」
「いいから早くしろ!!
氷と水と手ぬぐい持ってこい!!
ぐずぐずしてたら叩き斬るぞコラァ!!」
騒ぎを聞きつけた近藤が、半纏(はんてん)を引っひっかけながら部屋から飛び出してきた。
「トシ! どうしたんだ急に……
って、乙羽ちゃん!?
おい、一体何があったんだ!」
「近藤さん……離れを開けろ!
こいつ、ずっと外で震えてやがった……
熱で倒れやがったんだ!」
土方は近藤の制止を聞く間もなく、離れへと通じる廊下を疾走した。
部屋へ駆け込むと、慌てて敷かれた布団の上に、割れ物を扱うかのような手つきで乙羽を静かに横たえる。
掛け布団を胸元までかけ直すと、土方はその場にドカリと膝をつき、肩を上下させて荒い息を吐いた。
「……たく、大バカ野郎が。……
どんだけ一人で無理重ねてやがったんだ……」
額にへばりついた汗をぬぐってやる土方の手が、微かに震えている。
部屋の入口では、近藤が真剣な眼差しで二人を見つめ、少し離れた廊下の闇からは、いつもと違う真面目な顔をした沖田が、静かに様子を窺っていた。
土方は乙羽の苦しそうな寝顔を見つめたまま、その小さく冷たい手を、己の大きな手で包み込むように固く握りしめた。
「……おい、乙羽。
聞こえてんなら……さっさと目ぇ覚ませ。
……俺がついててやるから……心配すんじゃねぇぞ」
その低い声には、この命を絶対に守り抜くという、鬼の副長ではない「一人の男」としての固い誓いが込められていた。
ハァ、ハァと荒く乱れる息。
高熱に冒された乙羽の色白の頬は赤く火照り、額には幾筋もの冷や汗が伝っていた。
掛け布団を握りしめる小さな手が、苦し紛れに空を掻く。
「……して……どう……して……」
何かにうなされ、掠れた声で途切れ途切れに漏れ出る言葉。
世間の冷たさや、一人で抱え込んできた孤独の影が、悪夢となって彼女を苛んでいるのは誰の目にも明らかだった。
「……くそっ、熱が上がり続けてやがるじゃねぇか……!」
土方は苦々しく歯噛みすると、たらいの水で絞った手ぬぐいを、乙羽の熱い額の上にそっと載せた。
冷たさに一瞬だけピクリと眉をひそめる乙羽。
屯医が処方した薬を飲ませ、手厚く看病しているにもかかわらず、うなされる声は止まらない。
土方は隊服の袖を捲り上げると、その場にどっかりと腰を据え直し、うなされる乙羽の手を再び包み込むようにギュッと握りしめた。
「……おい、乙羽。聞こえるか」
低い、どこまでも静かで力強い声。
土方は少しだけ身を乗り出すと、うなされる乙羽の耳元へ顔を寄せ、語りかけるように言葉を落とした。
「もう逃げなくていい。
誰も……あんたを妙な真似に巻き込ませやしねぇ。
金だの見合いだの、そんなくだらねぇもんであんたを縛ろうとする奴らは、俺が全部叩き斬ってやる」
ゴツゴツとした不器用な指先が、乙羽の手を優しく包み込み、握り返す。
「……だから、悪夢なんか見てんじゃねぇよ。
ここは真選組の屯所だ。
どんな悪党だろうが、俺の眼の前で手出しできる奴なんざ一人もいねぇ」
土方は空いた方の手で、乙羽の汗に濡れた前髪を優しく払い、額の手ぬぐいを取り替えた。
部屋の隅、行灯の柔らかな灯りに照らされた土方の横顔には、普段の刺々しさは微塵もない。
ただ目の前の命を守り抜こうとする、男の意地と不器用な情愛だけが満ちていた。
「……大丈夫だ。
俺がずっと側にいてやるから……
安心して眠れ」
その声に応えるように、乙羽の荒かった息遣いが、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻し始めていた。
静まり返った離れ。
行灯の橙色の灯りが、すやすやと規則正しい寝息を立て始めた乙羽の寝顔を優しく照らしている。
屯医が「これで峠は越えました。あとは体力を戻すだけです」と一礼して去り、ドタバタとしていた部屋にようやく静寂が戻ってきた。
何日もまともに眠れず、極限まで緊張の糸を張り詰めていた身体が、土方のぬくもりに包まれてようやく安らぎを得たのだろう。
土方は固く握っていた手をゆっくりと解くと、安堵の溜息を深く、深く吐き出した。
「……たく、肝を冷やさせやがって」
ぽつりと呟き、畳の上に腰を投げ出す。
自分の両手を見つめると、まだ微かに震えていた。
刀を握り、幾度となく死線を潜り抜けてきたこの手が、一人の女の熱にこれほどまで動揺させられるとは思いもしなかった。
ふっと脇を見れば、開け放たれた障子の隙間から、月明かりが差し込んでいる。
土方は懐から煙草を取り出し、口にくわえたが、火をつけることなくそのまま挟み続けた。病人のいる部屋で煙を吐くわけにはいかない。
膝を立て、腕を組んだまま、土方は横たわる乙羽の寝顔をじっと見つめた。
額の濡れ手ぬぐいをそっと取り替え、掛け布団を首元まで引き上げる。その動作の端々に、己でも驚くほどの丁寧さが宿っていた。
「……好きな人としか、結婚できねぇ、か」
暗闇の中で、静かに呟く。
江戸の喧騒からも、世間の冷たい目からも遮断されたこの小さな部屋で、土方はただ静かに、乙羽の穏やかな寝息に耳を澄ませていた。
夜が明けるまで、この命の側を片時も離れないという無言の誓いを立てるように。
夜が明け、障子越しに差し込む朝の光が、部屋の空気を優しく包み込んでいく。
小鳥のさえずりと、遠くから聞こえる隊士たちの朝稽古の威勢の良い掛け声。
まぶたをくすぐる温かな光線に導かれるように、乙羽の長い睫毛が小さく揺れ、そっと開かれた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れぬ高い天井と、使い込まれた木の梁(はり)。
「……あ……」
掠れた声を出そうとした瞬間、すぐ側に気配を感じて視線を巡らせる。
そこには、畳の上にドカリと座り込んだまま、壁にもたれて眠っている土方の姿があった。
漆黒の隊服は少し乱れ、緑がかった黒髪が額に力なく落ちている。
腕を組んだまま浅い息を繰り返し、その目の下にはうっすらとクマが浮かんでいた。
乙羽の体調の変化をひとときも見逃すまいと、一眠りもせずに一晩中側で見守り続けていたのは明らかだった。
土方の右手の指先は、今もなお、乙羽の掛け布団の端をすぐ側に手繰り寄せたまま固まっている。
乙羽がわずかに身動ぎをすると、そのかすかな気配に反応して、土方の鋭い眉がぴくりと動いた。
「……ん……っ」
薄っすらと開かれた紺瑠璃色の瞳。
土方はまだ夢心地のまま、寝ぼけた手つきで前髪をかき上げると、ゆっくりと視線を落とした。
そして、乙羽の目が開き、穏やかな表情を取り戻しているのを捉えた瞬間――
土方の瞳にハッと明晰な光が戻る。
「……おい。目ぇ、覚めたか」
少し掠れた、朝の低い声。
土方は体の硬さをほぐすように首をひとつ鳴らすと、ゆっくりと乙羽の方へ身を乗り出し、そのおでこに自分のゴツゴツとした手のひらをそっと当てた。
「……よし。熱は下がったみたいだな」
大きな掌から伝わる安心感。
土方は安堵したように小さく息を吐き出すと、気まずそうに視線を逸らしながら、ぶっきらぼうに言葉を付け加えた。
「……腹、減ってんだろ。重粥でも作らせてくる。じっとしてろよ」
だが土方は、起き上がろうとした動きを止め、不審そうに眉をひそめた。
自分の掌を離れた乙羽の視線が、どこか怯えたように障子や窓の隙間、そして外の気配を恐る恐る探っている。
その身体は、布団の中で小さく身を縮めていた。
(……屯所に運ばれてまで、
まだ何かを警戒してやがる。
あいつら……どんだけこの女を追い詰めやがった)
土方は苦々しく口の端を歪めると、身をかがめて乙羽の視線を遮るように、その正面にどっかと座り直した。
「おい、何をビクビクしてんだ」
低く、けれどどこか落ち着いた声。
土方は己の胸元に手をやると、着崩れていた隊服の襟を正し、バサリと金ボタンのついた上着の裾を払ってみせた。
朝の光の中に浮かび上がる漆黒の隊服。
それは江戸の市井において、誰もが畏怖する真選組の象徴だった。
「ここは真選組屯所のど真ん中だ。
庭にゃ物好きな隊士どもが百人はうろついてるし、門の外に妙な真似する奴が来りゃ、速攻で切腹ものだ」
土方は組んだ腕の上に顎を乗せ、まっすぐに乙羽の瞳を覗き込む。その鋭い目元には、怯える少女を安心させようとする不器用な情愛が宿っていた。
「誰も入ってこられやしねぇよ。
あんたを追ってきた羽虫どもだろうが、実家の奴らだろうが……
ここに入り込もうとした瞬間に、俺が全員叩き斬る」
トントンと、
自分の胸を親指で叩いてみせる。
「俺がいる。……だから、もう何にも怯えなくていい」
乙羽の目から、大粒の涙が溢れ出た。
色白の頬を伝って、掛け布団の上に小さなしみを作っていく。
記憶は途切れていても、追いつめられていた恐怖や孤独の冷たさは、身体の奥底にしっかりと刻み込まれていた。
土方の言葉によって「ここは安全なのだ」と理解した瞬間、張り詰めていた心の糸がぷつりと切れ、溜め込んでいた感情が一気に涙となって溢れ出したのだ。
声もなく、ただボロボロと溢れ落ちる涙。
土方は一瞬目を見開いたが、慌てることなく、静かに溜息を一つ吐き出した。
「……たく。起きて早々、また泣きやがって」
文句を言いながらも、その声はどこまでも優しい。
土方は腰を浮かせると、乙羽の枕元へ膝立ちで近づいた。
そして、隊服のポケットから真新しい手ぬぐいを取り出すと、不器用な手つきで乙羽の頬をそっと拭った。
武士のゴツゴツとした手が、繊細な肌を傷つけないよう、慎重に、ゆっくりと。
「怖かったのは分かったから……
もう泣くな。熱がまた上がっちまうだろ」
拭っても拭っても溢れてくる涙に苦笑しながら、土方は手ぬぐいを乙羽の手元に持たせると、そのまま彼女の頭の上にぽんと手を乗せた。
ぬくもりのある、重み。
「全部忘れていい。
あんたを脅かすもんは、
俺が全部叩き潰してやる。
……だから、もう大丈夫だ」
ポンポンと、昨日の夕暮れと同じ不器用なリズムで髪を撫でてやる。
朝の清らかな光が差し込む離れの中で、土方は乙羽の震えが収まるまで、その頭を優しく撫で続けていた。
「……どうして……」
やっと絞り出した声は、これまでの心の叫びを微かに放ち始めた。
「……どうして……私なの……
あんな資産家の方なら……
もっと相応しい女性がいるはず……
どうして……私……」
掠れ、震える声。
それは単なる疑問ではなく、断っても断っても背後にまとわりついていた、底知れぬ執着に対する切実な恐怖の吐露だった。
土方は撫でていた手をぴたりと止め、一瞬だけ瞳の奥に冷徹な刃のような光を宿した。
(……大蛇、か。弱り切った綺麗な鳥を、じわじわと追い詰めて呑み込もうとしてやがったんだな)
市井の闇で、金と権力に物を言わせ、逆らえぬ弱者を追い詰める外道ども。
土方はそんな奴らを、これまで腐るほど叩き斬ってきた。乙羽を追い詰めていたものの正体が、いかに気持ちの悪い、逃げ場のない泥沼であったかを土方は瞬時に理解した。
土方はゆっくりと手をおろし、乙羽の前に深く腰を据え直すと、逃げ場を塞ぐようにその小さく震える両肩をガシッと掴んだ。
「答えは簡単だ」
低い、だが腹の底に落ちるような強い声。
「あんたが……
自分を安売りしねぇ、
綺麗で頑固な真っ直ぐな奴だからだ」
土方は真っ直ぐに乙羽の目を見つめ返した。
「金や権力に目が眩んで群がる女なんざ、
あいつらの周りにはいくらでもいる。
だがな、どれだけ脅されようが、
どれだけ変な奴と言われようが……
自分の『心』だけは絶対に渡さねぇって踏ん張ってきたあんたの価値を、
その汚ぇ大蛇どもだけじゃなく、
この世の誰もが知ってんだよ」
土方は肩から手を離すと、親指で己の胸元を強く指し示した。
「……だから、俺もここに来た。
近藤さんも、あんたを助けようとした。
あんたが命がけで自分の意志を通してきたから、
今、俺がここに立ってんだ」
土方は小さく鼻で笑うと、少しだけ表情を和らげ、不敵な笑みを口元に浮かべた。
「蛇だか資産家だか知らねぇがな……
俺の前じゃただの脱皮中のドブネズミだ。
真選組の副長に刃向かって、
無事でいられる奴なんざこの江戸にはいねぇよ。
あんたを狙う大蛇なんぞ……
俺が丸ごと切り刻んで、酒の肴にしてやる」
力強い宣言。そこには一切の迷いも、揺らぎもなかった。
「だから……
もう二度と『どうして私なんか』なんて言うな。
あんたは、守られる価値のある女だ。
俺がそれを証明してやる」
「土方さん……」
乙羽は手で顔を覆いながら、続けた。
「あの方と母が……結納の話まで……
私……お受けしてない……
お断りしたのに……!」
手で顔を覆い、堰を切ったように吐き出された真実。
「お受けしてない……お断りしたのに……!」
親と相手の男が、本人の意思を完全に無視して結納の話を進めていた――
逃げ場を失い、追い詰められていった乙羽の絶望が、その一言に凝縮されていた。
(……本人の断りを無視して、母親ごと取り込んで外堀埋めてやがったか)
土方の眼光が、冷ややかな殺気へと変わる。
金と権力で親を言いくるめ、抵抗できない娘を力ずくで引きずり降ろす。
真選組副長として、そんな理不尽な汚い真似を土方が許すはずもなかった。
「……なるほどな。
親ぐるみで外堀埋めて、
逃げられなくしてやがったわけだ」
土方は低い声で吐き捨てると、膝の上に置いた己の愛刀――村麻紗の柄にそっと手をかけた。
カチリ、と鍔(つば)が鳴る小さな音が、静かな離れに響く。
「乙羽、よく聞け」
土方は身を乗り出し、顔を覆う乙羽の両手の上から、そっと自分の大きな手を重ねた。
強引に奪うのではなく、その震えを包み込むように。
「あんたが『嫌だ』と言ったんだ。断ったんだ。
……だったら、
その結納だか何だかは最初から成立してねぇ。
ただの不法侵入と誘拐の企みだ」
ゆっくりと乙羽の手を引き下ろさせると、土方はその澄んだ瞳を正面から見据えた。
「母親だろうが、資産家だろうが関係ねぇ。
あんたの人生を無理やり買い取ろうとする奴らに、
一文の価値も渡す必要はねぇんだよ」
土方は立ち上がると、隊服の裾をバサリと翻した。
その背中には、江戸中の悪党を震え上がらせてきた「鬼の副長」としての、絶対的な強さと覚悟が満ちていた。
「大丈夫だ。
あんたが『嫌だ』と叫んだその意志は、
俺が絶対に叩き折らせねぇ。
……そいつらが屯所に殴り込んできたら、
公務執行妨害と威嚇罪で
全員まとめて突っ込んでやる」
振り返った土方の口元に、不敵で、けれど最高に頼もしい笑みが浮かぶ。
「あんたはここで、安心して重粥でも食ってろ。
……俺が全部、ケリをつけてきてやるからよ」
へなへなと力が抜け、乙羽の身体からすべての緊迫感が失われていく。
涙を拭うことすらできず、溢れ出る温かい雫が頬を伝い落ち続けた。
――もう、戦わなくていい。
頭では理解できても、「安心する」という感覚そのものを、彼女の心が思い出せずにいた。
後ろだてなど誰もいない世界。
実の母親すら味方になってくれず、孤立無援のなかで自分の尊厳と意志を守るためだけに、常に警戒し、息を潜めるようにして生きてきた日々。
変人だと嘲笑され、外道どもに追い詰められながらも、決して譲らなかった気高さ。
その糸が切れた瞬間、今まで麻痺させていた「たった一人で耐え抜いてきた激痛」が、津波となって乙羽の胸を刺し貫いた。
痛くて、寂しくて、恐ろしかった過去の自分が、今更のように胸の奥で悲鳴を上げて泣きじゃくっている。
ぽろぽろと零れ落ちる涙と、しゃくりあげる小さな声。
部屋を出ようと背を向けていた土方は、その殺気立った気配をスッと消し、静かに足を止めた。
(……ずっと、一人で戦ってきたんだな)
折れそうな細い身体で、誰の助けもなく、どれほどの恐怖と戦ってきたのか。
その傷の深さを察した土方は、静かに振り返ると、畳を鳴らさずに乙羽の前へと戻ってきた。
「……安心の仕方が分からねぇなら、無理に分かろうとしなくていい」
土方はゆっくりと腰を下ろすと、乙羽の華奢な身体を、包み込むようにそっと引き寄せた。
固く、逞しい胸板。
隊服越しに伝わってくる熱と、トックン、トックンと深く一定のリズムを刻む心臓の鼓動。
土方は乙羽の頭を自分の肩に預けさせると、大きな手でその背中をぽん、ぽんと優しく叩いた。
小さな子供をあやすような、どこまでも不器用で、けれど温かい手つき。
「今までよく一人で踏ん張ったな。
……もう誰もあんたを傷つけさせねぇ。
だから……
泣きたいだけ泣いて、
痛かったもん全部吐き出せ」
耳元で囁かれる、低い声。
土方はじっと動かず、乙羽が抱え込んできた長年の痛みと孤独が、涙とともにすべて溶け去るまで、ただ静かに彼女の体温を受け止め続けていた。
「うぅぅ……っ、うあぁぁぁ……っ!」
わーっと、堰を切ったように
部屋中に響き渡る哭声(こくせい)。
これまで「大人の女性」として、気高く、美しく、そして孤高に踏ん張ってきた乙羽の鎧が、音を立てて木端微塵に砕け散っていた。
土方の胸に顔を押し当て、小さな拳で彼の隊服をぎゅっと握りしめながら、まるで迷子になった5歳の幼子のように、しゃくりあげて泣きじゃくる。
「怖かった……っ、ずっと……ずっと……っ!
誰も……信じられなくて……っ!」
途切れ途切れに吐き出される、幼いほどの裸の感情。
土方は、自分の胸元を濡らしていく温かい涙と、
必死に自分にしがみついてくる小さな手の力強さを、
そのままじっと受け止めた。
「……おう。怖かったな」
言葉数は少ない。
だが、土方は抱きしめる腕にほんの少しだけ力を込め、乙羽の背中を、包み込むように大きな掌でゆっくりと撫で続けた。
「よく耐えたな。……偉かったよ」
ポロポロと落ちる涙も、鼻をすする音も、感情のすべてを土方は嫌な顔一つせず包み込む。
かつて自分も、武州の泥の中で、己の無力さに血涙を流した夜があった。
一人で背負う痛みの重さを知っているからこそ、この小さな背中がどれほどの激痛に耐えてきたかが痛いほど伝わってきた。
「……もう大丈夫だ。
俺が全部、受け止めてやるから……
思う存分泣け」
朝の陽光が、壊れた障子の隙間から二人の影を優しく照らし出す。
屯所の外からは、相変わらず賑やかな隊士たちの声や、近藤の豪快な笑い声が聞こえてくる。
だが、この離れの時間だけは静かに、ゆっくりと流れていた。
乙羽が長年抱え込んできた冷たい孤独と痛みが、土方十四郎という男の胸の中で、朝の熱を帯びながら少しずつ、確実に溶け去っていった。