深層救助屋――帰還禁止の少女   作:病んでるくらいが一番

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第10話 一人分の部屋

 冷蔵庫を開けて、水瀬透(みなせとおる)はしばらく中を見ていた。

 水。スポーツ飲料。開けていない炭酸水。

 冷凍室には炒飯と、同じ味の弁当が四つある。どれも自分一人なら困らない量だった。

 

 病院へ持っていけるものはない。

 扉を閉め、携帯端末に買うものを入力した。途中で眠くなり、椅子に座ったまま目を閉じかける。先に寝ろと自分に言い、浴室へ向かった。

 

 服を洗濯機へ放り込んだところで、ポケットから小さな石が落ちた。

 十九階層のものか、十一階層のものかはわからない。床から拾ってごみ箱へ入れる。

 シャワーを浴び、寝台へ倒れると、部屋の明かりを消す前に眠った。

 

 *

 

 救出から五日目、結城葵(ゆうきあおい)は病棟の廊下を歩いていた。

 看護師が隣につき、透は少し離れて後ろを歩く。足には病院で用意された柔らかい靴を履いていた。一度に長くは歩けないが、角まで行って戻れるようになっていた。

 

「あそこの椅子が空いてるよ」

 

 透が声をかけると、葵は椅子を見てから首を横に振った。

 

「病室まで行きます」

「そっか」

 

 看護師にちらりと見られ、透は黙ってついていった。

 入院した日は、寝台を起こすだけで疲れていた。今は窓の外に何があるか聞く余裕もある。だからといって、退院した途端に一人で暮らせるわけではなかった。

 

 午後、小さな相談室で退院後の話をした。

 病院の生活相談員が、机に三枚の用紙を並べる。透は付き添いとして葵の隣に座った。

 

「入院はあと数日を予定しています。そのあとの滞在先を、一緒に考えたいんです」

 

 相談員は、まず職員が常駐する療養用の住まいについて説明した。

 次に病院の近くで短期間借りられる部屋。そこなら訪問の支援を受けられるが、夜は一人になる。

 

「鍵は」

 

 葵が聞いた。

 

「どちらも、ご自分で持ちます」

「外から、閉めますか」

 

 相談員は用紙を置いた。

 

「閉じ込めるための場所ではありません。部屋も、見てから決められます」

 

 葵は職員常駐と書かれた紙を、指先で少し遠ざけた。

 透はそこを見ていた。施設のほうが安心だろうと、来るまでは考えていた。

 

「知っている人の近くがよければ、その方法も相談できます。ただ、相手が仕事に出ている時間の支援は必要です」

 

 葵の目が透へ向いた。

 透は背筋を伸ばす。

 

「俺のところは空いてる部屋がある。今は物置みたいになってるけど、片づければ使えるよ」

 

 家賃の安さと装備置き場で選んだ、古い二部屋の賃貸だった。仕事場に近い以外に、誰かへ勧める理由はない。

 

「でも、俺は夜も呼ばれるから。ずっといるとは言えない」

 

 言ってから、相談員を見た。

 勢いだけで連れて帰れないのは、診察室で思い知ったばかりだった。

 

「まずお部屋を確認させてください。支援者が訪ねられるか、休める環境があるかも含めて」

「はい。片づけます」

 

 葵はまだ紙を見ていた。

 

「見てからでも、いいですか」

「もちろん」

 

 透の声が大きくなった。

 相談員が微笑み、葵は椅子をわずかに引いた。透は咳払いをして座り直した。

 

 *

 

 翌日、透は葵に使ってもらう予定の部屋の扉を開けたまま、折り畳みの椅子を廊下へ出していた。

 装備棚を動かし、床を拭き、寝具を借りる手続きを済ませた。剣と危険な消耗品は、玄関脇の鍵付き保管庫へ移してある。

 生活相談員が部屋を見て、窓の開閉を確かめた。

 

「この部屋の鍵は、交換できますか」

「大家さんには頼みました。内側から掛けられるのをつけてもらいます」

「では、ついてから利用を始めましょう」

 

 透はうなずいた。

 葵は入口から部屋を見ていた。椅子へ座るよう勧めると、壁際の一脚を選んだ。ベッドを置く予定の場所を見て、それから窓へ目を向ける。

 

「カーテンは」

「買います」

 

 透は即答した。

 相談員が窓に掛かった短い布を見た。以前、昼間に寝るために留めた遮光布だ。窓を開けるたびに片側を外していた。

 

「今までこれで?」

「眠れればよかったんで」

 

 葵が透を見た。

 その目を見て、なぜか弁解したくなった。

 

「ちゃんとしたのを買うから。嫌な色があったら言ってね」

「閉まるのであれば」

「閉まるやつにする」

 

 それくらいは選べる。

 透は買うものの一覧にカーテンを足した。

 

 台所でお茶を出そうとして、また手が止まった。

 コップが一つしかない。

 湯飲みもない。普段は水筒かペットボトルから飲む。戸棚を開けても、皿が二枚と丼が一つ、箸が一膳しか出てこなかった。

 

「紙コップ、買ってきます」

「今日は持ってきた飲み物で大丈夫ですよ」

 

 相談員が自分の袋から水を出した。

 透は戸棚を閉めた。葵が台所の入口に立っていた。

 

「いつも、ここで食べるんですか」

「座って食べるときは、ここだね」

「座らないときも?」

「急いでると、つい立ったまま食べちゃうんだ」

 

 葵は何も言わず、空の食卓を見た。

 透は椅子を引いた。

 

「今日は座ろう。足を休めてね」

 

 葵が座ると、透も向かいへ座った。

 普段は仕事の書類を広げる机だった。先ほど片づけたばかりで、木目が思ったより明るい。

 

 相談員は、入居を決める前に費用の話をした。

 当面の生活費と医療費は、病院を通じて申請している支援から出る。透に全部を払ってもらう必要はない。連絡先と居場所は、本人の了承なく外部の問い合わせへ答えない。

 

「合わなければ、別の場所へ移れます。ここを選んだらずっと住まないといけない、ということではありません」

 

 葵は膝の上で指を重ねていた。

 透は返事を待った。自分が待っているせいで答えづらいのかもしれないと思い、台所へ立った。

 水のペットボトルを手に取り、キャップをひねった。ぱき、と開く音がやけに大きく聞こえた。

 

「ここに、いてもいいですか」

 

 振り返ると、葵は相談員ではなく透を見ていた。

 

「うん。この部屋を使っていいよ」

 

 それだけ言うのに、喉が詰まりそうになった。

 葵が求めているのは、知っている人のいる場所だ。わかっている。わかっているのに、嬉しいと思ってしまった。

 透は水の蓋を閉めた。

 

 相談員が翌週の訪問日を決め、仕事で留守にする際の連絡先を書いた。夜間の出動時には別の支援者へ連絡する。葵自身も、透を通さず相談できる番号を受け取った。

 

 帰り支度を始めたとき、葵が玄関脇の保管庫を指した。

 

「あれは、開けないほうがいいですか」

「仕事の道具が入ってる。刃物もあるから、鍵は掛けておく」

 

 透は自分の腰についた鍵を見せた。

 葵は、使うことになった部屋の扉へ目を戻した。

 

「私の部屋も、水瀬さんが持ちますか」

 

 透は返事を急がなかった。交換する鍵のことは大家と話したが、誰が予備を持つかまで本人へ説明していない。

 

「そこも決めよう。俺が勝手に開けるための鍵にはしない」

 

 相談員が、管理用の予備鍵の保管先と緊急時の連絡について説明した。葵が使う鍵は葵が持つ。普段の出入りに、透へ許可を求める必要はない。

 葵は玄関を見た。

 

「外へ出るときも?」

「うん。ただ、帰りが遅れるなら連絡はほしい。俺もするから」

 

 透は自分の端末を示した。

 葵はうなずいたが、まだ鍵のない扉へもう一度目を向けた。

 実際に使えるようになってからのほうが、わかりやすいだろう。透は翌日の工事時刻を確かめ、取りつけた鍵を自分で試してもらうことにした。

 

 病院へ戻る車を見送ってから、透はもう一度空いた部屋へ入った。

 カーテンの幅を測る。寝具の置き場所を確かめる。収納の下から、使っていない靴の箱が出てきた。

 葵の室内履きは、病室の棚にある。

 この棚なら、袋を入れたままでも見えるだろうか。

 そう考えてから、置く場所は本人に決めてもらえばいいと思い直した。

 

 透は棚を拭くだけにして、買い物へ出た。

 一覧の一番上に、葵用と来客用のコップを一つずつ、と書き足した。

 

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