部屋を下見した三日後、
葵の部屋の窓にはカーテンが掛かり、扉には鍵がついていた。相談員に見守られながら、葵は鍵を自分で開け閉めし、持ってきた荷物を棚へ収めた。
それから二日後。透は葵の通院に付き添った帰りに、行きつけの装備整備工房へ車を回した。
仕事で使う中継機を借り、傷んだ手袋を修理に出すためだった。少し寄ってもいいかと病院を出る前に尋ねると、葵は「大丈夫です」と答えた。
工房へ入ると、奥で運搬車を整備していた女性が手を上げた。
整備士の
「いらっしゃい。頼まれてた貸出機、出してあるよ」
「助かる。あと、こっちも見てほしい」
透は作業台へ背嚢を置き、破れた手袋と空の中継機の収納袋を取り出した。葵は隣に立って、壁に並んだ工具を見ていた。
安江が収納袋をのぞき込んだ。
「二台とも置いてきた?」
作業台の向こうから声が飛んできた。
透は、空になった中継機の収納袋を畳んだ。
「場所は報告してある。回収できたら戻る」
「できたらね。で、明日の仕事に使う分は?」
「それを借りに来た」
安江は、額へずり落ちた保護眼鏡を上げた。
短くまとめた髪の先に、金属の切り粉が一つついている。指で払い落とすと、今度は透の手袋を裏返した。
「こっちは修理できる。予備も出す。中継機は貸出台帳に名前を書いて」
「助かる」
「壊していいって意味じゃないからね」
安江は言いながら、台の反対側へ視線を移した。
葵が、透から一歩離れて立っている。
「こんにちは。騒がしくしてごめん。座れる?」
葵はうなずいた。
安江は油のついた工具箱を椅子から下ろし、きれいな布で座面を拭いた。透が椅子を引こうとすると、先に安江が場所を空ける。
「その荷物、後ろへ。通れない」
「あ、悪い」
透は背嚢を足元へ寄せた。
葵が椅子へ座るのを待って、安江は名乗った。葵も小さく名前を返す。
「水瀬とは仕事の付き合い。壊したものを持ってくる人と、それを直す人」
「毎回壊してるみたいに言うなよ」
「今日は?」
透は台に置いた手袋を見た。
葵も見た。
「今回は壊した」
「はい」
安江が伝票を一枚抜いた。
工房の奥では、別の整備員が運搬車の車輪を外している。金属を叩く音が響くたび、葵の足が椅子の下へ引かれた。
安江は奥へ声をかけ、横の小部屋を開けた。
「こっちで待ってて。扉を閉めれば少し静かだから」
「ありがとうございます」
葵が立つと、透もついていきかけた。
「水瀬は検品。使った本数、合わない」
「煙幕なら、補充前の分もある」
「だから説明して」
透は足を戻した。小部屋の戸口で葵を見たが、彼女はもう椅子の位置を確かめていた。
*
手袋だけのつもりだったが、安江はほかの装備も作業台へ並べるように言った。透は背嚢を開き直し、安全帯を取り出した。
「防護布は替えたばっかりか」
「十八で。交換の記録もある」
「なら、こっちの縫い目を見せて。身体のほうは?」
「手の甲だけ。診てもらった」
「珍しく素直」
透は返さず、上着を裏返した。
安江が縫い目を指でなぞる。作業中は視線がほとんど上がらない。安全帯の金具も開閉を繰り返し、溝に入った砂を落としていた。
「小さい砂でも、噛むと閉まり切らないから。音だけで判断しないで」
「わかってる」
「知ってる。疲れてるときの話」
透は金具を受け取り、最後まで閉まったことを指で確かめた。
小部屋の扉が開いていた。葵が中から作業台を見ている。
「音、大丈夫?」
安江が尋ねると、葵はうなずいた。
「それ、どうやって洗うんですか」
「この帯? 泥を落として、指定の洗い方で。強い薬品は使えないんだ」
安江は洗浄待ちのかごと、検査を終えた棚を指した。
「あっちが使っていいもの。ここはまだ駄目なもの。似てるけど混ぜない」
「乾いていても?」
「乾いたあとに傷を調べるからね」
葵は棚を見比べた。
透は、その質問に少し驚いた。家では必要なことにも短く答えるだけだった。ここでは自分から聞いている。
安江は椅子を台の端へ寄せた。
「見たいならここ。手は出さないでね。今から小さい部品が出る」
葵が座り、膝に手を置いた。
安江は故障した照明器具を開ける。割れた樹脂の覆いを外し、細いねじを白い皿へ載せた。
「これも、水瀬さんが?」
「これは別の人。水瀬のは、その破れた手袋」
「俺の仕事、だいぶ悪く伝わってない?」
安江は笑った。
葵は手袋から透へ目を移した。何か言いそうだったが、結局、照明の中へ視線を戻した。
「クランの頃は、月末に経理に捕まってたんだっけ」
「煙幕代でな。毎回三体相手に剣振ってたら、それこそ時間が足りない」
「使うなとは言ってないよ。補充する時間も予定に入れて。前日の閉店間際に駆け込むなって話」
安江は伝票の受取予定時刻を丸で囲んだ。
透はその下へ署名した。
「今日は間に合っただろ」
「今日はね」
小さな音がした。
葵が息を漏らしたのだと気づくまでに、一拍かかった。笑ったのか確かめたくなったが、見るともう真面目な顔でねじの皿を見ていた。
*
安江は最後に、葵の履いている靴へ目を向けた。
「踵、浮いてない?」
「少し」
「借りたもの?」
葵がうなずくと、安江は棚から薄い中敷きを出した。
透は財布を出しかけたが、安江に手で止められた。
「まず合うか見てから。買えばいいってもんでもない」
葵は片足を椅子の下へ引いた。
安江はその足へ手を伸ばさず、中敷きを机へ置いた。
「自分で靴を脱げる? 難しければ今日はやめよう」
葵は少し待ってから、靴を脱いだ。
透は横に立っていたが、安江の作業する場所を空けて一歩下がる。中敷きを入れた靴へ、葵が足を戻した。
「さっきと比べてどう?」
「抜けないです。でも、ここが」
葵が足の甲を指した。
「じゃあ厚すぎるね。別のを試そう」
安江は中敷きを替え、葵が数歩歩くのを見た。足を置くたびに靴が鳴っていたが、二度目にはその音が小さくなった。
葵は自分の足元を見下ろした。
「こっちがいいです」
「じゃ、こっち。痛くなったら戻してね」
透はそれを聞いてから財布を開けた。
安江は葵に値段を伝えた。葵が自分のお金で払うと言うと、透の財布は出番がなくなった。
「見てから払え、って言ったでしょ」
「見てたよ」
「うん。じゃあしまって」
透は財布を戻し、貸出機の箱を持ち上げた。
安江に家で履くものもあるかと聞かれ、葵は首を横に振った。出してもらった室内履きを試し、底に滑り止めがついた一足を選ぶ。中敷きとは別に代金を払い、袋へ入れてもらった。
受け取った装備を車へ運び、透が戻ると、葵は安江と話していた。
机に携帯端末が置かれている。葵のものではなく、工房の貸出用だ。
「番号を書いた紙でもいいよ。連絡の手段、まだ決まってないなら」
安江が名刺を裏返し、直通番号を書いた。
「服の留め具とか、靴が合わないとかも相談して。何でもここで直せるわけじゃないけど、扱ってる店は知ってる」
葵は名刺の角をつまんだ。
「水瀬さんに、言えば」
「私に直接でいいよ。服のこととか、男の人には話しにくいこともあるでしょ。休みの日は電話に出られないけど、あとで折り返すから」
透は戸口で靴の泥を落としていた。
呼ばれていない会話へ入るのも変だと思い、背嚢の肩紐を直す。
「また来ても?」
「うん。次は水瀬の修理代、本人に払わせよう」
「いつも払ってるだろ」
つい返すと、安江がこちらを向いた。
「いたの。じゃあ、貸出機の説明を聞いて。前のとボタンの位置が違う」
帰り際、葵は工房の入口で立ち止まった。
安江が奥から手を上げると、葵も胸のあたりまで手を上げた。
透は車の扉を開けて待った。座席へ乗り込む葵の指には、名刺が挟まれていた。
「預かろうか。なくさないように」
「持っています」
「うん」
葵は服のポケットへ名刺を入れた。
透は扉を閉め、運転席へ回った。
家へ戻る途中、工事中の道路で止まった。窓の外を作業員が横切り、透の車へ頭を下げる。
葵はその人を見送ってから、膝の上の袋を開いた。工房で選んだ滑り止めつきの室内履きが入っている。
「前の靴は、そのまま持ってていいからな」
「わかっています」
少しだけ、返事が早かった。
透は前を向く。先回りしすぎたかもしれない。
誘導員が進むよう合図を出し、前の車から順に動き始めた。
葵は袋を閉じたあと、もう一度ポケットの名刺を確かめていた。