台所で湯が沸いた。
朝食を用意すると伝えたのは、二十分前だった。
「結城さん。起きられそう?」
扉の向こうで布の擦れる音がした。
「はい」
「急がなくていいよ。お湯が沸いたから」
透は台所へ戻った。
食卓には、透が前から使っているコップと、葵用に買ったコップが並んでいる。片方へ水を注ぎ、もう片方にも同じだけ入れかけて止めた。冷たいものを飲みたいとは限らない。
もう一度扉へ向かう。
「水とお茶、どっちがいい?」
「水で」
「冷たくても大丈夫?」
少し間が空いた。
「大丈夫です」
葵が扉を開けた。
寝間着の上に薄い上着を羽織っている。髪の左側だけが肩に引っかかっていた。透は直していいものか迷い、髪を示すだけにした。
「そこ、引っかかってる」
葵は自分で外した。
透は椅子を引く。葵はその椅子へ座り、食卓を見た。
「食べられそう? 量が多かったら残していいから」
卵とパンと、昨日買ったスープ。
葵の皿は小さくした。足りなければ足せるように、パンの袋は閉じずに置いてある。
「水瀬さん」
「うん」
「ちょっと、待ってください」
透はスープの袋を持ったまま止まった。
「熱かった?」
「まだ、飲んでないです」
葵は両手を膝へ下ろした。
透も袋を置く。
「どうした?」
聞いてから、また質問したことに気づいた。
葵はコップを見ていた。
「返事をする前に、次を聞かれるので」
透は黙った。
「考えてるだけのときも、あります」
「……うん」
「部屋でも」
葵の声が小さくなった。
透は椅子へ座った。立ったまま聞いていると、見下ろすことになる。
「何度も呼ぶの、嫌だった?」
葵はすぐには答えなかった。
透は待った。
「休んでいていいと言われたので。寝ようとしたら、呼ばれて」
昨日の午後を思い出した。
水は足りるか。窓を開けたいか。寒くないか。夕飯は何がいいか。
具合が悪くて返事ができないのではないかと、最後には扉を叩いた。
「ごめん。休ませてなかったな」
葵が顔を上げた。
「怒ってはいないです」
「うん。でも、気をつけるよ」
透は端末へ伸ばしかけた手を戻した。
聞く回数を記録するのも違う気がした。
「部屋にいるときは、急ぎじゃなければ呼ばない。食事は先に時間を決めよう。困ったら呼んでくれるかな」
「はい」
「返事を考えてるときも、ちゃんと待つよ」
葵はうなずき、コップへ手を伸ばした。
透は自分のパンを取った。スープが冷める、と言いかけたが飲み込む。
……今、言われたばっかりだろ。
世話を焼いているつもりで、朝から何度も急かしていた。透はパンをかじり、おとなしく待った。葵は水を一口飲んでから、スプーンを持った。
*
食器を洗ったあと、透は玄関で靴を履いた。
午前中は、地上の搬送訓練に参加する予定だった。数時間の留守番については生活相談員と話し、葵も了承している。
行ってくる、と声をかけると、葵が食卓から顔を上げた。
「何時ですか」
「戻るのは一時くらい。遅れるときは連絡する」
連絡用の端末は、食卓の端にある。
病院と支援窓口の番号が登録され、透に電話するボタンも一つ作った。使い方は知っていると言われたので、操作を何度も試してもらうのはやめた。
「鍵は持ってる?」
葵はポケットから鍵を出した。
透はうなずく。
「じゃ、行ってくる」
玄関を出て少し歩いたところで、換気扇の使い方はわかっただろうかと気になった。
振り返りかけて、やめる。昨日、一緒に動かして確かめたばかりだ。
また戻って声をかけるところだった。透はそのまま階段を下りた。
訓練場では、組んだ相手が透の肩を叩いた。
「今日はずいぶん時計を見るな」
「一時に帰る」
「なら早く持て。俺だって昼飯は食いたい」
透は担架の持ち手を握った。
段差を越える。足元を告げる。相手の返事を待ってから上げる。
仕事なら、返事を待つことができる。
家では何をあんなに焦っているのだろう。
訓練が終わったあと、連絡用の端末を確かめた。
葵からの着信はなかった。
何もなかっただけだ。そう思い、昼食を買って帰った。
玄関の扉を開けると、食卓に紙が置かれていた。
休んでいます。具合は悪くないです。
文字は一字ずつ丁寧に書かれていた。
透は袋を静かに置く。葵の部屋の扉には近づかず、自分の弁当を開けた。
食べ終わっても、扉は開かなかった。
普段なら、具合を確かめに行っていた。
透は借りた中継機の説明書を読み、仕事の記録を整理した。椅子が鳴らないよう、足を引くときに持ち上げる。
四十分ほどして、葵の部屋の扉が開き、彼女が顔を出した。
「帰ってたんですか」
「うん。お昼も買ってきたよ」
葵は壁の時計を見た。午後一時五十分だった。
「一時に?」
「一時の五分前には帰ってたよ」
透は袋を指した。
「温めようか」
葵が答えるまで、待った。
「先に、顔を洗います」
「わかった」
洗面所の戸が閉まった。
透は弁当を袋から出すだけにした。
*
午後、透は玄関で仕事の電話を受けた。
夜間の救助要員に欠員が出たという。救助要請に備えて待機する仕事だ。時間と集合場所を聞き、引き受ける返事をしそうになった。
食卓には、葵の昼食の容器が残っていた。
「今夜は入れない。明日の日中なら空いてる」
通話の向こうで、相手が予定表をめくった。
ほかを当たる、と言われて電話が切れる。
戻ると、葵が空の容器を重ねていた。
「仕事ですか」
「夜の救助待機を頼まれたんだ。別の人を探してくれるって」
「私がいるから?」
透は椅子の背へ手を置いた。
そうだと言えば、自分で選んだ滞在先のせいで仕事を奪ったと考えるかもしれない。違うとだけ言うのも嘘になる。
「今は日中の仕事を受けるって、先に決めたから。急に変えると、留守の間の連絡も組み直しになるだろ」
葵は容器の蓋を見ていた。
「寝ていれば」
「仕事はほかにもあるよ。夜に戻すときは、相談してからにする」
透は容器を受け取り、ごみを分けた。
相手に気を遣わせたくなくて、口数を増やす癖がまた出そうだった。話を終えることにして、手を洗った。
葵は部屋へ戻らず、棚から小さな本を持ってきた。
相談員が貸してくれた、近所の地図と店の案内だった。透が向かいの椅子へ座ると、葵はページを一枚めくった。
しばらく、紙の音だけがしていた。
同じ食卓についているからといって、話し続けなくてもよかった。
夕方、葵が食卓にあった紙を折り畳んでいた。
透は向かいで、救助帯の貸出伝票を確認している。
「これ、また使ってもいいですか」
「寝るときの紙?」
「はい」
「もちろん。毎回書かなくても、それ置いてくれたらわかる」
葵は紙を広げ直した。
端を揃えて折り、台所からも読める向きに立てる。
透はペンを置いた。
「連絡がないと、心配になるんだよな」
言ってから、言い訳に聞こえたかもしれないと思った。
「でも、だからって毎回返事させるのは違うな。今日はよく寝られた?」
葵は紙を見たままうなずいた。
「呼ばれなかったので」
透は額へ手を当てた。
「効くな、それ」
葵がこちらを見る。
「嫌な言い方でしたか」
「違う違う。俺がちゃんと聞くべき話だったってこと」
葵の肩から少し力が抜けた。
透は立ち上がり、夕飯の準備へ向かった。聞きたいことは何個も浮かんだが、まず自分が何を作れるかを考えた。
「卵焼きと、焼いた魚ならどっちがいい?」
葵は少し考えた。
透は冷蔵庫を開けずに待った。
「魚を。焦げてないのがいいです」
昨日の卵焼きは、端が黒かった。
透は振り返ったが、葵は真面目な顔をしていた。
「努力する」
今度こそ、ほんの少し笑ったように見えた。