作業机に広げた図面の右端を、
左端には工具箱が載っている。どちらも
「折り目が戻るんだって。手で押さえてると、何もできない」
「わかるけど、工具は向こうへ置いてくれ。図面が汚れる」
「それ複写」
「借り物」
安江は布を一枚挟んだ。
工房の休憩室には、点検予定の古い排水設備の図面が並んでいた。翌日の作業に先立ち、避難経路を確かめる仕事を透が請けたのだ。
場所は第十二階層。採掘に使っていない区画だが、隣の鉱区へ水が流れ込むのを防ぐ設備が残っている。
「最近の地形図は?」
「今日の夕方に届く。俺も明日入って確認する」
透は太い線を指でたどった。
「これは据えつけたときの図面だから、道が今もあるとは限らない」
安江が処分する器具から外した部品だ。手伝いたいと言われて、割れや尖ったところのないものだけ渡してある。
葵の手が止まった。
「その線は、道じゃないです」
透は指を離した。
「これ?」
「水を逃がす管です。人は通れません」
安江が図面の凡例を探した。
用紙の隅が薄くなっている。古い印刷の上から書き足された線もあり、同じ太さの線が何種類も重なっていた。
「こっちの点線が、人の通るところ?」
「はい。設備の裏を通る道です」
葵は布を置き、机へ寄った。
透は椅子を空けた。本人が座ってから、図面をそちらへ向ける。
「この形式、見たことあるの?」
「画面で。紙は、あまり」
葵の指が図面の中央で止まった。
「ここから水が増えたときに、この扉を閉めます。でも、閉めると点検する人も出られなくなるので」
薄い点線が、扉の手前から横へ折れていた。
隣の図面とつながる位置だ。透は二枚を寄せた。
「裏へ出るほうか」
「たぶん。先が切れているので」
葵はそれ以上指を進めなかった。
安江が図面番号を書き留め、設備会社へ電話をかけた。
透は、自分が引こうとしていた印を消した。
地形ならわかる。どれが配管で、どの扉が何を止めるかは別の知識だった。
「助かった。明日、現物を見るときに確かめる」
葵は椅子の背に触れないまま座っていた。
「違ったら」
「そのときは違うってわかる。今の話だけで誰かを通したりしないよ」
安江が電話口で礼を言い、端末を置いた。
「別紙があるって。送ってもらう。それと、この番号の設備、去年一部を交換してる」
「じゃあ、古いほうと照合だな」
葵は図面から手を引いた。
透は休憩室の時計を見た。来てから一時間近く経っている。
「今日はこのくらいにしようか」
葵は黙っていたが、安江が水を差し出すと受け取った。
図面はそのまま机に残した。葵の言った箇所には、透が青い鉛筆で確認待ち、と書き込んだ。
*
翌日の第十二階層は、ひどく蒸していた。
透は設備班の男二人と合流し、ヘルメットのライトをつけた。入口にある看板には、排水設備の点検中、と大きく書かれている。
「先に裏道を見る。閉める扉には触らないでくれ」
「了解。こっちは電源を確認する」
男たちと分かれ、透は意識を集中した。
同じ階層の坑道や空洞が、頭の中に広がる。目の前の設備を中心に範囲を絞り、紙に描かれていた経路と比べた。
通路はあった。
ただし、途中に角張ったものが二つ置かれている。
透は入口まで歩き、ライトを向けた。
空の金属箱だった。古いポンプから外した部品を入れていたらしい。向こうの扉を半分塞いでいる。
「裏道、生きてる。荷物で塞がってるから、先に動かそう」
呼び戻した男たちと箱を持った。
一人が押し、二人が引く。底が床の継ぎ目に引っかかったので、透が少し持ち上げる。
「そっち、指を挟むなよ。せーの」
箱が動いた。
扉を開けると、設備を回り込む細い通路が見えた。先は入口近くの廊下へつながっている。
「ここ、避難路だったのか」
箱の陰になっていた扉の下のほうに、小さな看板がついていた。若い設備員が表面の埃を拭うと、退避路の文字が現れた。
「ここじゃ箱を置くと隠れるな。人の目の高さにつけ直してくれ」
「つけ直します」
もう一人が図面と扉の番号を照合した。
葵が説明した通り、扉は増水時に水を区切るものだった。ただ、閉鎖を知らせる警報器が交換されている。古い図面だけで判断せず、今の設備での操作手順も確かめる必要があった。
透は現物の写真を撮り、経路図に添付した。
設備員が、壁に打たれた細い金属板を見上げていた。
板には間隔を測る目盛りがあり、二本の線が揃っている。
「こっちは、まだずれてないな」
「地形変動の監視か」
「ああ。この区画は落ち着いてるけど、配管は隣まで延びてるからな。向こうの地形が動くと、管が引っ張られて継ぎ目が外れることがある」
男は記録用紙へ値を書き込んだ。
ダンジョンの地形は、自然に変わることがある。
昇降機や常設の設備は、地形の変化が少ない場所を選んで造られる。それでも、周囲まで永久に動かなくなるわけではない。採掘で負担がかかれば、今まで使えた通路も点検が必要になる。
「十九は大変だったそうだな」
「壁が動いた。あっちは設備で切り替わる場所もあるみたいだけど、俺には仕組みまではわからん」
「図面と一緒に見ないと、壁なのか扉なのかも間違えるからな」
男が、隣の壁を覆う大きな金属板を叩いた。
壁に見えたが、床に細いレールが続いていた。透は開閉範囲の表示を撮り足した。
「今の形だけじゃ足りない、ってことか」
「そういうこと。だから、こいつの前にも箱を置くなよ」
若い設備員が、先ほどの箱へ手をかけた。
透も反対側を持つ。図面に線を引くだけで終わらせず、実際に通れる状態へ戻してから、設備班へ作業を引き継いだ。
大きな事故は起きなかった。
点検は予定より少し遅れて始まり、終わったあと、三人で退避路をもう一度歩いた。箱は別の保管場所へ移され、扉の前には物を置かない範囲を示す黄色い線が引かれた。
透は地上へ戻る昇降機で、葵へ連絡を入れた。
「仕事が終わったよ。教えてくれたところも確認できた」
端末の向こうで、小さく息を吸う音がした。
『道、ありましたか』
「あった。ちゃんと通ってきた」
『そうですか』
それだけだった。
透は続けようとして、帰ってから写真を見せようと思った。
「夕飯までには戻る」
『はい』
通話を終えると、隣の設備員が昼食のパンを差し出した。
「余った。食うか」
「食う」
透は受け取って袋を開けた。
今日は顔を洗い、装備を返し、帰る時間も残っていた。
*
家の食卓で写真を見せると、葵は扉の看板を拡大した。
その横に、透の描いた矢印がある。
「これは、今の地図ですか」
「今日見てきたところを描いたんだ。次に行く人にも渡すよ」
葵は写真を一枚戻した。
壁についた新しい警報器を見ている。
「これ、知らないです」
「去年替えたんだって。設備の人に教わった」
葵はうなずいた。
透は端末を机に置き、その隣に工房でもらった菓子の袋を出した。
「安江さんがくれたんだ。図面を手伝ってくれたお礼だって」
葵は袋を取らなかった。
「あれだけで?」
「あれがなかったら、確認するのにもっと時間がかかってた。俺からも、ありがとう」
ようやく葵の手が伸びた。
袋の裏を読み、一枚だけ取り出す。甘い匂いがした。
「残りは、置いといていいですか」
「好きなときに食べて」
葵は袋の口を二度折った。
透は自分の仕事用端末を引き寄せ、今日の点検を完了にした。
向かいでは、菓子を噛む小さな音がしていた。