内側では、同じ鍵を回せば開いた。
何度も試したので、それは知っている。外から閉めたあとも、自分で開けられることを確かめたかった。
階段を見下ろすと、一階の降り口に知らない女性が立っていた。
薄い青のシャツに、肩から小さな鞄を下げている。葵に気づくと、手を上げた。
「おはようございます。
声を聞いて、わかった。
地下で何度も、耳のそばから聞こえていた声だった。今日は雑音がない。
「おはようございます」
葵は階段をゆっくり下りた。
足の傷は塞がり始めている。長く歩かないよう言われていたので、手すりから手を離さなかった。
「顔を合わせるのは初めてですね。今日は私も買い物をしたくて。付き合ってもらえると助かります。帰りに寄りたいお店があったら、言ってくださいね」
きなこは葵の足元を一度見て、歩く速さを落とした。
同じ角を曲がるまで、具合はどうかと聞かれなかった。
階段でも聞き、道路へ出たら、靴が痛くないかも聞く。
今日はそれがないので、葵は自分の歩幅で歩けた。
*
店の中は、どの棚も明るかった。
靴下、タオル、肌着。品物の上に、値段と大きさが書いてある。何に使うものかは知っているが、同じ用途のものがこれほどあるとは思わなかった。
「この棚は、三つ買うと少し安くなるんです」
きなこが靴下を一つ手に取った。
葵は値札を見比べた。安いほうには派手な果物の絵がある。
「同じのを、三つでも?」
「大丈夫。でも一つで足りるなら、一つのほうが支払いは少ないですね」
葵は籠へ入れかけて止まった。
きなこが別の棚へ指を向ける。
「必要な数だけでいいですよ。迷ったら最後に戻ってきましょう」
財布には、生活支援の手続きをして受け取ったお金が入っていた。
自分で使っていいと言われた。何を買ったか透へ全部報告しなくてもよい、と相談員にも説明された。
葵は籠の底へ、薄い灰色の靴下を二つ置いた。
タオルの棚では、触ってよいのか迷った。
見本と書かれたものを、きなこが指で押している。葵も同じようにした。病院のタオルより柔らかい。
「こっちは、洗うと乾きにくいんですよね。私は薄いほうが好き」
きなこは安いほうを籠へ入れた。
葵は柔らかいものと、薄いものを一枚ずつ選んだ。
自分がどちらを好きなのか、まだわからなかった。
棚を移る途中で、壁際の大きな画面が切り替わった。
地下から運び出される鉱石と、夜の街を映した映像。安定した供給を、と太い文字が出る。
葵はその場で止まった。
画面の中では、明るい建物の間を人が歩いていた。買い物袋を提げた人が、店先で立ち止まる。自分も今日は、きなこと歩いてここまで来た。帰りに寄りたい店があったら言ってほしいと、きなこは言ってくれた。
「人が多くて疲れました?」
きなこが戻ってきた。
葵は画面から目を離した。
「あれも、地下のものですか」
「鉱石ですか? そうですね。いろいろな工場や発電に使っています」
きなこは画面を見た。
「昔より安定して採れるようになった、とよく宣伝してますね。私が小さい頃は、避難訓練も今より多かったです」
葵は籠の持ち手を握り直した。
地下では、制御設備の画面に並ぶ数値が下がると、担当者の声が険しくなった。供給という言葉を聞いて、その声を思い出した。
「今は、困らないんですか」
「事故もあります。だから私たちの仕事があるんですけど」
きなこは葵の顔を見て、話を止めた。
「ここの出口、向こうにもあります。静かなほうから出ましょうか」
葵はうなずいた。
画面は次の広告へ変わっていた。今度は大きな菓子の箱で、音楽も明るい。葵は振り返らず、きなこの隣を歩いた。
会計では、きなこが先に支払った。
葵はその手元を見てから財布を開いた。小銭を数えるあいだ、後ろに人が並ぶ。
急がなければと思うほど、硬貨が指から滑った。
「こちらに出していただいても大丈夫ですよ」
店員が皿を示した。
葵は硬貨を置いた。一枚足りないことを教えてもらい、財布から出す。
袋と釣り銭を受け取るまで、きなこは少し先で待っていた。
「できました?」
「はい」
「じゃあ、座りましょう。私、もう喉が渇いちゃった」
葵も足が痛くなり始めていた。
それを説明せずに座れるのが、ありがたかった。
*
窓際の席から、待ち合わせ場所の時計が見えた。
透が迎えに来るのは、三十分後だ。
きなこは冷たいお茶を飲み、鞄から小さな紙袋を出した。
「これ、工房へ寄ったら渡してもらえます?
中には小さな工具のケースが入っていた。
「知り合いなんですか」
「仕事で。私のヘッドセットも直してもらったことがあるんです」
葵は紙袋を自分の買い物袋の横へ置いた。
見えていなかったところで、人がつながっている。透を通さなくても、声をかけられる相手がいる。
「水瀬さんは、ダンジョンの救助にはいつも一人で行くんですか」
きなこはお茶を置いた。
「先に入ることは多いです。でも運ぶ人、道を確保する人、私みたいに連絡を受ける人もいます。全部一人ではできません」
葵は地下の高い扉を思い出した。
三つのライト。ゆっくり上がっていくロープ。足を引っ張らないと答えた男の声。
「ただ、頼むのが遅いときはありますね」
きなこは少し眉を寄せた。
「他の人には早く呼べって言うのに、自分のことになると後回しで」
「家でも、そうです」
口にしてから、葵は紙コップを見た。
透のことを悪く言っただろうか。
きなこは頬杖をつき、続きを待っている。
「私には座って食べるように言うのに、自分は立って食べます」
「ああ、やってそう」
「お皿があるのに」
きなこが笑った。
葵は少し安心して、飲み物を口にした。
「それ、水瀬さんにも言っていいと思いますよ。自分も同じことをしてるって、本人は気づいてないかもしれませんから」
透のことを悪く言ったと、気にしなくてもよかったらしい。本人にも言っていいのなら、今度また立ったまま食べていたら、声をかけてみよう。葵は紙袋の持ち手を揃えた。
時計が約束の時刻を過ぎた。
一分。それから、もう一分。
葵は店の入口を見る。黒い上着の大柄な男が入ってきて、思わず顔を上げた。透と同じくらい背が高く、肩幅も広い。けれど、顔を見ると別の人だった。
端末が鳴った。
『ごめん。装備の受け取りが延びた。あと十分くらいかかる』
葵は端末を両手で持った。
「わかりました」
『座って待ってて。田中さんにも伝えてくれる?』
隣のきなこが手を伸ばしかけて、葵が話しているのを見ると戻した。
「今、一緒にいます」
『よかった。急いで行くよ』
「走らなくて、いいです」
透が一瞬黙った。
『わかった。着いたら電話する』
通話が切れた。
葵は端末を机へ置く。来ないのではなかった。遅れているだけで、どのくらい待てばよいかもわかった。
きなこが自分のお茶を持ち上げた。
「もう少しここにいられますね。足、休めましょう」
葵はうなずいた。
入口を見続けるのをやめ、袋から買ったタオルを少し出した。明るい窓のそばで見ると、店の照明の下とは違う色に見えた。
やがて透がガラスの向こうを通った。
こちらに気づかず、待ち合わせの時計へ歩いていく。葵は椅子から少し身体を起こした。
「水瀬さん」
ガラス越しでは、声は届かなかった。
きなこが手を振ると、透が振り返った。目が合い、急に足が速くなる。
葵は買い物袋を足元へ戻した。
「ごめん。待ったよな」
入ってきた透は、少し息を切らしていた。
「走らなくていいと、言いました」
「最後のところだけ」
きなこが笑い、透が困ったように頭をかいた。
葵は立つ前に、残ったお茶を飲み終えた。