病院から電話が来たのは、昼食の片づけをしているときだった。
『地下資源省から、診療情報の提供と移送を求める文書が届きました。今朝、担当医からご本人にも電話で説明しましたが、不安が強くなられたので』
透は食卓を見た。
「移送って、どこへですか」
『省の関連施設です。病院としては応じていません。ご本人の了承なく手続きを進めることもありません』
透は返事をして、説明の続きを聞いた。
相手が何を根拠に照会したかも、病院で確認しているという。透からは、担当医と話す時間を取ってほしいと頼んだ。
電話を切ると、葵がこちらを見た。
「迎えが、来ますか」
透は食卓の向かいへ座った。
「病院は断ってる。今、どこかへ行く予定にはなってない」
「でも、知ってるなら」
葵の右手が左の袖をつかんだ。
透は端末を机へ置いた。画面を下にせず、病院から届いた説明を本人にも読める向きにする。
「何を言ってきたのか、一緒に聞こう。俺が勝手に返事はしない」
葵は画面を見ていた。
やがて首を縦に動かす。透は病院へ折り返した。
*
翌日の面談には、
病院の担当者が机の向こうに座り、届いた文書を見せる。透は葵の隣へ腰を下ろした。
文書には、専門施設での継続的な健康管理が望ましい、と書かれていた。
その下に、管理対象の返却について、という項目がある。
「返却?」
透が読むと、葵の指が膝の上で止まった。
鷹宮は文書を裏返さず、その行を明智へ示した。
「人について出す依頼に、これは使わない」
「資材管理の書式を流用したという説明です」
病院の担当者が答えた。
「訂正を求めています。診療情報も、照会が届いただけで渡したわけではありません」
透は紙の下を見た。
差出人は地下資源省の資源政策局。局長の名前は、
「この人が、出したんですか」
「局長名の文書だ。本人がどこまで確認したかも含めて、回答を求める」
明智が写しを自分の書類と重ねた。
鷹宮は葵へ向き直る。
「あなたは、その施設へ行きたいですか」
葵は首を横に振った。
それでも鷹宮は、すぐに次の話へ進まなかった。
「病院の方に、言葉でも伝えられますか。難しければ、紙でも構いません」
葵は机を見ていた。
透は膝に置いた手を動かさずに待った。
「行きたく、ありません」
病院の担当者がうなずき、記録した。
葵の息が短くなる。透は机の水を指し、飲むかどうかを目で尋ねた。葵がうなずいたので、蓋だけを緩めて渡す。
相手の施設には、身体の機構についての記録があるかもしれない。
だからといって、本人をそこへ送らなければ記録を出せない理由にはならない。担当医が必要な資料を指定して請求している、と病院側は説明した。
「届いた資料も、こちらで内容を確かめます。接続を勧める説明があっても、それだけで実施はしません」
葵は水を飲み終えた。
透は医師の説明を聞き、質問を一つだけした。
「連絡が俺に来たら、ここへ回していいですか」
「はい。直接交渉せず、記録を残して担当へお願いします」
明智からも同じことを言われた。
透は相手の局へ乗り込む道を考えかけていた。そこへ行っても、書類は出てこない。葵がここで待つ時間が増えるだけだ。
鷹宮が文書を封筒へ収めた。
「今日の帰りも、こちらで車を用意してある。住まいへの問い合わせには答えない。何か来たら私たちへ連絡してくれ」
透はうなずいた。
葵は何も言わなかったが、自分の端末へ担当の番号を登録し直していた。
面談を終える前に、病院の担当者が葵へ用紙を渡した。
今日、どの説明を受け、どう答えたかをまとめたものだった。葵は最後まで目を通し、返却という文字のところで指を止めた。
「これ、私が持っていてもいいですか」
「はい。お渡しする分です」
葵は紙を二つに折った。
透は書類入れを出しかけたが、彼女が自分の袋へしまったので手を戻した。
「わからない言葉があったら、あとから聞いても大丈夫ですよ」
担当者の言葉に、葵は小さくうなずいた。
葵があとから説明を読み返し、自分の答えがどう記録されたか確かめられるよう、病院はこの一枚を渡してくれた。透が代わりに預かる必要はなかった。
透は椅子を戻し、葵が立ち上がるのを待った。
*
資源政策局長室では、黒瀬が昼食の皿を脇へ寄せていた。
机へ置かれた回答書に手を伸ばすと、仕立てのよい上着の腹が机の縁に触れる。黒瀬は椅子を少し引き、最後の行まで読んだ。
「病院は、本人が拒否していると言っているのか」
「はい。医療上の移送の必要も認めていません」
報告に来た課長は、両手を身体の前で重ねていた。
黒瀬は紙を机へ置いた。
「では、資料をそろえよう。向こうの医師が判断できるものを」
「設備の記録まで出しますか」
「健康管理に必要な範囲だよ。関係のない機密まで広げなくていい」
声は穏やかだった。
課長はうなずいたが、その場を動かなかった。
「帰還の通知は、いまだに復旧していません。今回の所在確認も、救難の精算記録からです」
黒瀬は眉を動かした。
「説明して」
課長が別紙を差し出す。
十九階層から一名を搬送した救難記録。地上の救護棟が負担した処置費用と、外部病院への搬送先。設備の復旧担当が、当日の救難一覧から見つけたものだった。
氏名は管理記録と一致しない。それでも、同じ出動の救助映像を設備担当者に確認させると、
「受付の照会は止まったのに、普通の伝票は残ったわけだ」
「はい」
黒瀬は息を吐いた。
「鷹宮君も、ずいぶん手が早い」
机の端には採掘量の見通しが置かれていた。
一部の鉱区に制限がかかっている。数字を維持するための調整は、まだ終わっていなかった。
「移送の依頼は撤回する。今の形ではね」
課長が顔を上げる。
「書式の誤りについても詫びておいてくれ。返却はまずかった。先方には不安を与えただろう」
「承知しました」
「ただ、彼女の身体に残っている接続装置を扱える人間は限られている。そこは、よく説明しないと」
黒瀬は回答書を裏返し、指で机を一度叩いた。
「治療に協力する、と伝えなさい」
*
帰宅すると、葵はしばらく靴を脱がなかった。
透は廊下の奥へ荷物を置き、玄関へ戻った。
「座って脱ごうか」
葵は首を横に振った。
ゆっくり片足ずつ靴を脱ぎ、二つの爪先を揃える。そのあと、葵の部屋の鍵をポケットから出した。
「ここも、出ないといけませんか」
「今、そういう話にはなってない」
透は言った。
絶対に何も起きないとは言えなかった。代わりに、今日決まったことを思い返す。
「病院にも相談員さんにも連絡できる。何か言ってきたら、一緒に確かめよう」
葵は鍵を握ったままうなずいた。
洗面所へ行き、買ってきた灰色のタオルを棚へ入れる。自分で選んだ場所だった。
透は冷蔵庫を開けた。
食材が少しずつ増えたせいで、飲み物の置き場所が狭くなっている。卵を取り出し、食卓へ目を向けた。
「夕飯は昨日の魚が残ってるけど、温めてもいい?」
葵が洗面所から台所へ戻ってきた。
「私の分も?」
「あるよ」
葵は自分のコップを出した。
透の分も出しかけて、食卓にあるのを見つける。ひとつだけ持って、いつもの椅子へ座った。
透は魚を温め、二人分の皿を並べた。
葵が箸を取ってから、自分も腰を下ろす。
食べ終わると、葵は箸を置いた。
「ごちそうさまでした」
透がうなずくと、葵は席を立ち、自分の部屋へ戻った。扉の向こうで鍵が回る音がして、透は流しへ皿を運んだ。