第17話 十人の現場
「それ、私のです」
透は持っていたバターナイフを置く。
「こっちだったか」
「水瀬さんのは、もう食べました」
「そうだった」
葵がこの家に来てから、一か月あまりが過ぎた。
初めは椅子に座って待っていた彼女も、今は自分のパンを焼く。透が横から火加減を確かめようとすると、先に手を出して止めることもあった。
今日の焼き色は、透のものより少し薄い。
食卓の端に伏せていた端末が震えた。
画面を見て、透は椅子を引いた。救難の出動通知ではない。十九階層の追加捜索についての報告だった。
「あの人のことですか」
葵の手が止まっていた。
透はうなずき、届いた文章を最後まで読んだ。
「崩れた天井を支えながら、少しずつ掘ってる。まだ、奥には着いてない」
「……そうですか」
あの女性がいたという区画へ向かう道は、広い範囲で崩れていた。
天井が落ちただけではなかった。廊下の床が横へずれ、その先では壁がせり出している。潰れた配管や設備が岩の間に挟まり、撤去しようとすると、上に載った岩まで動いた。
透も二度、調査に加わった。奥に空間が残っていることはわかる。だが、人と機材を通すには、崩れかけた天井を支え、岩と設備を少しずつ取り除く必要があった。
周辺では今も、ときおり地形変動が起きている。そのたびに作業を止め、補強した場所がずれていないか確かめなければならなかった。
急いで掘り進めれば、捜索している班まで巻き込まれかねない。
「連絡が来たら、また伝えるよ」
葵はうなずいた。
皿に視線を戻したが、すぐには食べ始めなかった。透も残りのパンへ手を伸ばさず、端末を伏せた。
台所の時計が八時を知らせた。
葵が、パンの端を小さくちぎった。
「今日は
「うん。昼は
「工房で食べます。田中さんは、今日は仕事なので」
「そっか。俺は十八の待機所。何もなければ夕方には戻る」
何もなければ、という部分を葵は聞き逃さなかった。
「遅れるときは、連絡してください」
「するよ」
透はようやく自分の皿を見た。パンはもうなかった。
葵が一瞬、口元を隠した。
*
第十八階層の救助待機所へ出動要請が入ったのは、九時を少し回ったころだった。
透は装備を入れた棚を閉め、壁の地図の前へ立った。
『二十一階層、旧採掘区画で落盤。申告上の入域者は六名です。正面通路が閉塞し、坑内に熱気が流入しています』
無線の向こうで、田中きなこが言った。
赤い印がついた区画には、立入禁止の日付が重なっていた。半年前のものだった。
「採掘を続けてたのか」
『現在確認中です。救難信号は作業用端末から。現場の通話が安定していません』
透は救助帯を背嚢へ押し込み、肩にかけた。
入口のほうで、金具を合わせる音がする。
「先走るなよ、水瀬」
別の民間救助隊を率いる男だ。透より四つ年上で、前に会ったときには、担架を抱えたまま一段飛ばしで階段を上がっていた。仕事が終わると、報告書の細かな誤りまで見つける。
今日は四人の隊員を連れていた。
「そっちこそ、俺より先に来てるじゃん」
「準備が終わっただけだ。走ってきたわけじゃない」
剛田は透の腰の剣を見たあと、背嚢の脇にある中継機を指した。
「二台、揃ってるな」
「揃ってる。返す場所もわかってる」
「返すところまで仕事だ」
十九階層へ置いてきた二台は、その後の経路調査で回収された。安江に借りていたものを返し、自分のものも点検を済ませてある。
透は背嚢の脇を叩いて見せ、胸の留め具を締めた。
昇降機が通るのは、ここまでだ。
十九階層から先は、物資搬送用に整えられた階段を下りる。常設灯が途切れると、隊員のライトが壁を順に照らした。補強された箇所の先には、剥き出しの岩が続いていた。
設備班は少し遅れて合流する。剛田が全体の指揮を執り、透は先頭で経路を見ることになった。
二十一階層へ下りたところで、透は足を止めた。
意識を広げ、今いる階層の形を頭の中へ収める。
旧採掘区画の正面通路は、途中から天井と床がつながっていた。西側に細い通路が残っている。人は通れるが、担架を横にしても曲がれない角があった。
「西からなら入れる。帰りは別に探す」
「人の声は?」
「まだ聞こえない」
透の能力でわかるのは地形だけで、人がいるかどうかはわからない。
剛田は無線で後続へ現在位置を伝え、隊員を二人、分岐に残した。空気の供給器材を運んでくる班が迷わないよう、進む先へ誘導灯を置いていく。
透は階段に近い分岐へ、一台目の中継機を留めた。動作表示を確かめ、管制へ設置位置を送ってから先へ進んだ。
旧採掘区画の入口で、温度計を持った隊員が首を振った。
「右は上がってます。風もこっちへ来る」
透にも、顔の横をなでる空気の熱さがわかった。
床には採掘用のホースが延びていた。使われなくなった坑道のはずなのに、表面に積もった埃が新しく擦れている。
奥から、何かを叩く音がした。
間を空けて三度。もう一度、三度。
「救助だ! 声を出せるか!」
返事が重なった。
角を曲がると、黄色い作業灯の下に男が三人いた。一人は壁に背をつけて座り、前腕を布で押さえている。もう一人が、岩に挟まった足を抜こうとしていた。
立っていた男が、透のヘルメットを見た。
「攻略の人は」
「魔物なら俺たちも対処する。まず、動けないやつから運ぶぞ」
剛田が横を抜け、座っている男の前へ膝をついた。
透は挟まった足を見た。靴の先ではなく、脛の上に平たい石が載っている。
「引っ張るな。そのままにしてろ」
小型の持ち上げ器具を石の下へ差し込み、荷重を確かめた。少しずつ隙間を作り、隊員が下へ支えを入れる。足が抜けたところで、剛田が男を引き受けた。
泣きそうな顔だった男が、息を吐く。
「すみません」
「あとで聞く。今は痛い場所を教えてくれ」
透は立ち上がった。
ここには三人。西へ通じる穴の向こうで、もう二人の声がした。隊員が呼びかけると、歩けるという返事がある。
六人なら、残りは一人だ。
立っていた男が、何か言いかけて唇をかんだ。
「奥にもいるのか」
透が尋ねた。
男は答えず、正面の潰れた通路を見た。剛田も顔を上げる。
「救助に必要だ。人数を教えてくれ」
遠くで岩が落ちた。
熱い風が一段強くなり、作業灯のそばに吊られた紙が揺れた。
「五人」
男は、ようやく言った。
「ここの五人とは、別に。奥の休憩所に、五人います」