葵が息を止めた。
肩が上がり、椅子の背からわずかに離れる。右手は机の上にあった。指が曲がり、また開いた。
「葵、ここにいるよ」
声をかけると、目だけがこちらへ動いた。
琥珀色の瞳の奥に、淡い金色の光が灯っていた。リングから漏れる青白い光とは違う。視線が動いても、その光は瞳の内側に残っていた。
透は続きを聞かなかった。返事のために力を使わせたくなかった。
『右側、動きます』
設備員の声がした。
廊下の向こうで、重い金属が擦れる。片側だけ浮いていた隔壁の下に、細い水平の隙間が生まれた。
「十秒」
安江が言った。
リングの内側を走る光が太くなり、手首との隙間から漏れ始めた。受け台に置いた左腕の輪郭が、青白く照らされる。
葵の右手が机の縁をつかんだ。左腕を引き寄せようとして、途中で止まる。額から汗が落ち、受け台の脇を濡らした。
扉の駆動音が途切れた。
透は右手でハンドルを握り直す。
空いている左手を、膝の上で固く握った。
『まだ作業位置にいます。下には入っていません』
設備員から報告が来る。
数値が再び動いた。葵の唇が開いたが、言葉にはならなかった。机の縁をつかむ右手に、いっそう力が入った。
「止めたいときは、叩いて」
透はもう一度だけ言った。
葵の指先が動いた。机の上へ手を戻し、手のひらを置く。
「二十秒」
隔壁が上がっていた。
葵は顔を伏せ、短い呼吸を繰り返していた。透は彼女の右手と調整器の表示から、視線を外さなかった。
『高さ、確保。支持具を伸ばします』
廊下でハンドルを回す音が重なった。
接続を切れば、扉は駆動力を失う。固定が済む前に止めることになっても、透がここを離れて支えに行くわけにはいかない。
「三十秒」
葵の顎が、胸元へ落ちた。
救護担当が彼女を呼び、目の動きを確かめる。安江が表示を指した。負荷が上がっていた。
光は机の上まで広がり、ハンドルを握る透の指も青白く染めていた。伏せた葵の頬に、汗の粒が光る。
『左、固定』
『右も固定。重さを受けています』
無線で、
透はハンドルを回し始めた。
机が、小さく鳴った。
一度。少し間が空いて、もう一度。
「切るよ」
透は言った。
ハンドルを最後まで回す。表示が下がり、安江がうなずいた。レバーを引くと、魔力の接続が切れ、リングの内側の光が消えた。
「三十八秒。切れた」
安江の声を聞くより先に、透は葵の肩を支えていた。
彼女は体を折り、椅子から滑りかけた。救護担当が反対側へ入り、呼吸を確かめる。
安江は接続が切れた表示を確かめ、設備へ延びるケーブルをリングの端子から抜いた。
葵が咳をした。
自分の膝をつかもうとする右手に、力が入っていなかった。
「終わった。もうつながってないよ」
透は繰り返した。
葵は目を開けた。瞳の奥に灯っていた金色の光は、もう消えていた。こちらを見ているかはわからなかった。救護担当に肩を預けられるまで、透はその体を支えていた。
*
隔壁は開いたままだった。
二本の支持具が、厚い扉の重さを受けている。設備員が留め具を確認し、剛田へ進入の合図を出した。
『入ります。保守室側の通路を空けてください』
救助員の足音が遠ざかった。
透は葵のそばに残った。手首を囲むリングは、まだ受け台に支えられていた。腕を動かす前に、救護担当が痛みの出ている場所を確かめている。調整器に残った熱が下がるのも待つ必要があった。
安江が彼女のヘルメットを外した。
髪が肩へ落ちる。
透は、左耳の後ろを見た。
来たときに残っていた黒い房が、なくなっていた。
襟足へ続く髪を見ても、白い。汗で束になったところまで、同じ色だった。
何かが顔に出たのか、葵が透を見上げた。
透は視線を戻した。
「先生と話せる? 無理なら、うなずくだけでいい」
救護担当が端末を近づけた。
葵は短く返事をした。息を吸うたびに眉が寄る。痛い場所を尋ねられ、左腕と胸元へ視線を落とした。
透はそのやり取りが済むまで待った。
『奥の五名、確認しました。歩ける四名を先に出します』
剛田から連絡が来た。
しばらくして、廊下に人影が現れる。救助員の肩につかまった男が一人。その後ろで、二人が互いの服を握っている。最後の男は歩いていたが、壁に手をつかないと足が前へ出なかった。
保守室の入口で、別の救護担当が受け取った。
透は道を空けたまま、四人が通り過ぎるのを見た。
男の一人が机のそばの葵へ顔を向けかけたが、隊員に促され、出口へ進んでいった。
残る一人は、担架で運ばれてきた。
脚を固定され、目を閉じている。剛田が頭側を持ち、曲がり角で一度止めた。先に出た作業員が名前を呼ぶと、担架の男が口を動かした。
『十名全員、崩落区画の外へ搬出しました』
剛田は管制へ報告した。
救護の引き継ぎはまだ続く。安全側へ出せたことと、全員が無事に治ることは別だった。
それでも、ホースを通した小さな穴の向こうに、呼びかける相手はもう残っていなかった。
葵が、透の袖をつかんだ。
「出ましたか」
「出たよ。五人とも」
右手の力が抜けた。
透は彼女の指を袖からそっと外し、膝の上へ戻した。
安江が表示とリングの温度を確かめ、もう取り外せると言った。
透は留め具へ手を伸ばした。