深層救助屋――帰還禁止の少女   作:病んでるくらいが一番

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第22話 三十八秒

 安江(やすえ)が調整器の接続を入れ、保守室の机に置いた時計を押した。

 葵(あおい)の左手首を囲むリングの内側に、細い光が走る。

 水瀬透(みなせとおる)は、負荷を逃がすハンドルへ手をかけた。

 

 葵が息を止めた。

 肩が上がり、椅子の背からわずかに離れる。右手は机の上にあった。指が曲がり、また開いた。

 

「葵、ここにいるよ」

 

 声をかけると、目だけがこちらへ動いた。

 琥珀色の瞳の奥に、淡い金色の光が灯っていた。リングから漏れる青白い光とは違う。視線が動いても、その光は瞳の内側に残っていた。

 透は続きを聞かなかった。返事のために力を使わせたくなかった。

 

『右側、動きます』

 

 設備員の声がした。

 廊下の向こうで、重い金属が擦れる。片側だけ浮いていた隔壁の下に、細い水平の隙間が生まれた。

 

「十秒」

 

 安江が言った。

 リングの内側を走る光が太くなり、手首との隙間から漏れ始めた。受け台に置いた左腕の輪郭が、青白く照らされる。

 葵の右手が机の縁をつかんだ。左腕を引き寄せようとして、途中で止まる。額から汗が落ち、受け台の脇を濡らした。

 

 扉の駆動音が途切れた。

 透は右手でハンドルを握り直す。

 空いている左手を、膝の上で固く握った。

 

『まだ作業位置にいます。下には入っていません』

 

 設備員から報告が来る。

 数値が再び動いた。葵の唇が開いたが、言葉にはならなかった。机の縁をつかむ右手に、いっそう力が入った。

 

「止めたいときは、叩いて」

 

 透はもう一度だけ言った。

 葵の指先が動いた。机の上へ手を戻し、手のひらを置く。

 

「二十秒」

 

 隔壁が上がっていた。

 葵は顔を伏せ、短い呼吸を繰り返していた。透は彼女の右手と調整器の表示から、視線を外さなかった。

 

『高さ、確保。支持具を伸ばします』

 

 廊下でハンドルを回す音が重なった。

 接続を切れば、扉は駆動力を失う。固定が済む前に止めることになっても、透がここを離れて支えに行くわけにはいかない。

 

「三十秒」

 

 葵の顎が、胸元へ落ちた。

 救護担当が彼女を呼び、目の動きを確かめる。安江が表示を指した。負荷が上がっていた。

 光は机の上まで広がり、ハンドルを握る透の指も青白く染めていた。伏せた葵の頬に、汗の粒が光る。

 

『左、固定』

『右も固定。重さを受けています』

 

 無線で、剛田(ごうだ)が確認を返した。

 透はハンドルを回し始めた。

 

 机が、小さく鳴った。

 一度。少し間が空いて、もう一度。

 

「切るよ」

 

 透は言った。

 ハンドルを最後まで回す。表示が下がり、安江がうなずいた。レバーを引くと、魔力の接続が切れ、リングの内側の光が消えた。

 

「三十八秒。切れた」

 

 安江の声を聞くより先に、透は葵の肩を支えていた。

 彼女は体を折り、椅子から滑りかけた。救護担当が反対側へ入り、呼吸を確かめる。

 安江は接続が切れた表示を確かめ、設備へ延びるケーブルをリングの端子から抜いた。

 

 葵が咳をした。

 自分の膝をつかもうとする右手に、力が入っていなかった。

 

「終わった。もうつながってないよ」

 

 透は繰り返した。

 葵は目を開けた。瞳の奥に灯っていた金色の光は、もう消えていた。こちらを見ているかはわからなかった。救護担当に肩を預けられるまで、透はその体を支えていた。

 

 *

 

 隔壁は開いたままだった。

 二本の支持具が、厚い扉の重さを受けている。設備員が留め具を確認し、剛田へ進入の合図を出した。

 

『入ります。保守室側の通路を空けてください』

 

 救助員の足音が遠ざかった。

 透は葵のそばに残った。手首を囲むリングは、まだ受け台に支えられていた。腕を動かす前に、救護担当が痛みの出ている場所を確かめている。調整器に残った熱が下がるのも待つ必要があった。

 

 安江が彼女のヘルメットを外した。

 髪が肩へ落ちる。

 透は、左耳の後ろを見た。

 

 来たときに残っていた黒い房が、なくなっていた。

 襟足へ続く髪を見ても、白い。汗で束になったところまで、同じ色だった。

 何かが顔に出たのか、葵が透を見上げた。

 透は視線を戻した。

 

「先生と話せる? 無理なら、うなずくだけでいい」

 

 救護担当が端末を近づけた。

 葵は短く返事をした。息を吸うたびに眉が寄る。痛い場所を尋ねられ、左腕と胸元へ視線を落とした。

 透はそのやり取りが済むまで待った。

 

『奥の五名、確認しました。歩ける四名を先に出します』

 

 剛田から連絡が来た。

 しばらくして、廊下に人影が現れる。救助員の肩につかまった男が一人。その後ろで、二人が互いの服を握っている。最後の男は歩いていたが、壁に手をつかないと足が前へ出なかった。

 保守室の入口で、別の救護担当が受け取った。

 

 透は道を空けたまま、四人が通り過ぎるのを見た。

 男の一人が机のそばの葵へ顔を向けかけたが、隊員に促され、出口へ進んでいった。

 

 残る一人は、担架で運ばれてきた。

 脚を固定され、目を閉じている。剛田が頭側を持ち、曲がり角で一度止めた。先に出た作業員が名前を呼ぶと、担架の男が口を動かした。

 

『十名全員、崩落区画の外へ搬出しました』

 

 剛田は管制へ報告した。

 救護の引き継ぎはまだ続く。安全側へ出せたことと、全員が無事に治ることは別だった。

 それでも、ホースを通した小さな穴の向こうに、呼びかける相手はもう残っていなかった。

 

 葵が、透の袖をつかんだ。

 

「出ましたか」

「出たよ。五人とも」

 

 右手の力が抜けた。

 透は彼女の指を袖からそっと外し、膝の上へ戻した。

 

 安江が表示とリングの温度を確かめ、もう取り外せると言った。

 透は留め具へ手を伸ばした。

 

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