深層救助屋――帰還禁止の少女   作:病んでるくらいが一番

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第23話 その手が震えていた

 手首に触れられる前から、葵(あおい)の左腕は痛かった。

 膝の上へ戻した右手で袖をつかみ、息を吐く。保守室の灯りが、目にしみた。

 

「まず、こっちの留め具を外すね」

 

 水瀬透(みなせとおる)が言った。

 受け台にリングを留めていた帯が、緩められる。取り外すのは、この調整器だけだ。腕に埋まっている機構には触れない。さっきも説明されたことだった。

 それでも、指が近づくと肩が縮んだ。

 

 透の手が止まった。

 

「少し待とうか」

 

 葵は首を振った。

 この器具をつけたままにしておくほうが、怖かった。

 

「外して、ください」

「うん」

 

 大きな指が、今度はリングを閉じている留め具へ動く。

 その先が、小さく震えていた。

 

 葵は透の顔を見た。

 彼は自分の手元だけを見ていた。留め具に指をかけ、外したところで、一度、手を握り直す。それからリングをゆっくり開いた。

 装置が揺れているのではなかった。

 

「……水瀬さん」

「痛かった?」

 

 すぐに顔が上がった。

 葵は、何を聞こうとしたのかわからなくなった。

 

「手が」

 

 透が左手を開くと、手のひらに爪の跡が並んでいた。一か所だけ皮膚が切れ、血がにじんでいる。

 透は自分の手を見た。

 笑おうとして、うまくいかなかったような顔をした。

 

「ごめん。ちょっと力が入ってた」

 

 横から安江(やすえ)が、開いたリングを受け台から持ち上げた。透は右手で葵の腕を支え、金属の縁が皮膚に当たらないよう、装置が離れるのを待つ。

 手首の周りから余計なものがなくなった。

 埋まっている金属は、まだあった。それでも腕を囲む装置がなくなったことを、葵は何度も目で確かめた。

 

 叩いたら、止まった。

 もう一度だけ。あと少しだけ。

 そう言われると思っていた。

 

 扉の向こうには、まだ人がいた。自分にもそれはわかっていたし、頼まれたら続けようとしたかもしれない。

 透は頼まなかった。

 合図が聞こえなかったふりも、しなかった。

 

「五人とも、出ましたか」

 

 また聞いてしまった。

 透は面倒そうな顔をしなかった。

 

「出たよ。今は向こうで診てもらってる」

 

 葵はうなずいた。

 喉が詰まって、返事が出なかった。

 

 救護担当が透に場所を空けてもらい、葵の腕を見た。身体を少し起こされ、背中へ支えを入れられる。

 透は一歩下がっていた。

 離れたのは、それだけだった。

 葵は膝に置いた右手を握った。

 

 *

 

 地上へ戻る準備が整うまで、葵は保守室で休んだ。

 髪を顔から払ったとき、白い束が指に絡んだ。左耳の後ろから取ったはずなのに、黒いところが見えない。

 もう一度、首元へ指を入れた。

 

「髪、白くなりましたか」

 

 安江がこちらを見た。

 少し迷ったあと、うなずいた。

 

「残ってたところも、白くなってる」

 

 葵は髪から手を離した。

 痛くなる前の身体へ戻ったわけではない。手首を曲げるだけで、腕の奥へ痛みが走った。

 どうして髪の色まで変わるのかは、自分でも知らなかった。

 

「先生にも伝えてある。触っても大丈夫だけど、今は引っ張らないでおこう」

 

 安江が言った。

 葵は手を膝へ戻した。

 

 透は安江から受け取った絆創膏を、左の手のひらに貼っていた。

 そのあと、保守室の入口へ行き、別の隊員に声をかけた。

 

「ホースは、奥を確認してから抜いてくれ。まだ熱い空気が出てくるから」

「水瀬さんの中継機、回収は」

「場所はこの二か所。保守室側から頼む」

 

 端末の画面を渡す手は、もう震えていなかった。

 向こうから声をかけられれば振り返り、短く答える。その間も、担架の通る場所を塞いでいる箱を足元からどかした。

 

 葵の知っている透は、パンが焦げないか横からのぞき込み、水を飲んだか聞いて、返事を待たずに次のことを心配する人だった。

 ここでは、誰かの答えを待ってから動いていた。できないと言われると、別の人を呼んだ。自分で持つ荷物と、人に渡す荷物を迷わず分けていた。

 大きな身体が扉の前から退くと、止まっていた人の列が動き出した。

 

 ちょっと、かっこいいと思った。

 思ってから、葵は視線を落とした。

 

 透がこちらへ戻ってくる。

 顔を上げるのが、さっきより難しかった。

 

「椅子で行く? 横になったほうが楽なら、担架も使えるよ」

「椅子で、大丈夫です」

 

 透は救護担当にも確かめ、葵のそばへ椅子を寄せた。

 立ち上がると足が頼りなく、差し出された腕へ手をかける。硬い服の下に、支えてくれる腕の太さがあった。

 

「ゆっくりでいいよ」

 

 いつもと同じことを言われた。

 いつもなら、わかっています、と返したくなる。

 今日はその声を、もう少し近くで聞いていたかった。

 

 椅子へ座ると、透の腕が離れた。

 葵の右手だけが、一瞬、そこへ残った。

 

「水瀬さんは、まだ残るんですか」

「一緒に戻るよ。片付けは引き継いだから」

 

 透が後ろを見た。

 剛田(ごうだ)が、手を振った。

 

「さっきの防護板、上で点検に出しとけよ。自分で傷を塗って済ませるな」

「わかってるって」

「返事だけはいいんだ」

 

 透が笑った。

 葵は、その横顔を見ていた。

 

 *

 

 十八階層まで戻るころには、葵は何度か眠りかけていた。

 椅子が揺れるたびに目が開く。階段の途中で止まると、前を持つ透が振り返った。

 安江と救護担当も、一緒にいた。

 地下の灯りが明るくなり、昇降機の前で担架へ移された。

 

「ここからは横になってていい」

 

 透が言った。

 葵は右手で服をつかんだ。今度は自分の服ではなかった。

 

 透が足を止めた。

 

「どうした?」

 

 わからないことが多すぎた。

 助けてもらったから、なのか。怖いところから出られたから、なのか。それなら、前にも同じはずだった。

 今日は、彼がほかの人へ顔を向けるだけで、こちらへ戻ってくるまで待ってしまう。

 

「病院にも、来てください」

 

 やっと、それだけ言えた。

 

「行くよ。先生に止められなければ」

 

 透は葵の手のそばへ、自分の右手を置いた。

 葵は服から指を離し、その手を取った。

 少し驚いた顔をされたが、今は見ないことにした。

 

 彼の指は、もう震えていなかった。

 代わりに自分の胸が落ち着かなくなった理由は、たぶん、痛みだけではなかった。

 

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