手首に触れられる前から、
膝の上へ戻した右手で袖をつかみ、息を吐く。保守室の灯りが、目にしみた。
「まず、こっちの留め具を外すね」
受け台にリングを留めていた帯が、緩められる。取り外すのは、この調整器だけだ。腕に埋まっている機構には触れない。さっきも説明されたことだった。
それでも、指が近づくと肩が縮んだ。
透の手が止まった。
「少し待とうか」
葵は首を振った。
この器具をつけたままにしておくほうが、怖かった。
「外して、ください」
「うん」
大きな指が、今度はリングを閉じている留め具へ動く。
その先が、小さく震えていた。
葵は透の顔を見た。
彼は自分の手元だけを見ていた。留め具に指をかけ、外したところで、一度、手を握り直す。それからリングをゆっくり開いた。
装置が揺れているのではなかった。
「……水瀬さん」
「痛かった?」
すぐに顔が上がった。
葵は、何を聞こうとしたのかわからなくなった。
「手が」
透が左手を開くと、手のひらに爪の跡が並んでいた。一か所だけ皮膚が切れ、血がにじんでいる。
透は自分の手を見た。
笑おうとして、うまくいかなかったような顔をした。
「ごめん。ちょっと力が入ってた」
横から
手首の周りから余計なものがなくなった。
埋まっている金属は、まだあった。それでも腕を囲む装置がなくなったことを、葵は何度も目で確かめた。
叩いたら、止まった。
もう一度だけ。あと少しだけ。
そう言われると思っていた。
扉の向こうには、まだ人がいた。自分にもそれはわかっていたし、頼まれたら続けようとしたかもしれない。
透は頼まなかった。
合図が聞こえなかったふりも、しなかった。
「五人とも、出ましたか」
また聞いてしまった。
透は面倒そうな顔をしなかった。
「出たよ。今は向こうで診てもらってる」
葵はうなずいた。
喉が詰まって、返事が出なかった。
救護担当が透に場所を空けてもらい、葵の腕を見た。身体を少し起こされ、背中へ支えを入れられる。
透は一歩下がっていた。
離れたのは、それだけだった。
葵は膝に置いた右手を握った。
*
地上へ戻る準備が整うまで、葵は保守室で休んだ。
髪を顔から払ったとき、白い束が指に絡んだ。左耳の後ろから取ったはずなのに、黒いところが見えない。
もう一度、首元へ指を入れた。
「髪、白くなりましたか」
安江がこちらを見た。
少し迷ったあと、うなずいた。
「残ってたところも、白くなってる」
葵は髪から手を離した。
痛くなる前の身体へ戻ったわけではない。手首を曲げるだけで、腕の奥へ痛みが走った。
どうして髪の色まで変わるのかは、自分でも知らなかった。
「先生にも伝えてある。触っても大丈夫だけど、今は引っ張らないでおこう」
安江が言った。
葵は手を膝へ戻した。
透は安江から受け取った絆創膏を、左の手のひらに貼っていた。
そのあと、保守室の入口へ行き、別の隊員に声をかけた。
「ホースは、奥を確認してから抜いてくれ。まだ熱い空気が出てくるから」
「水瀬さんの中継機、回収は」
「場所はこの二か所。保守室側から頼む」
端末の画面を渡す手は、もう震えていなかった。
向こうから声をかけられれば振り返り、短く答える。その間も、担架の通る場所を塞いでいる箱を足元からどかした。
葵の知っている透は、パンが焦げないか横からのぞき込み、水を飲んだか聞いて、返事を待たずに次のことを心配する人だった。
ここでは、誰かの答えを待ってから動いていた。できないと言われると、別の人を呼んだ。自分で持つ荷物と、人に渡す荷物を迷わず分けていた。
大きな身体が扉の前から退くと、止まっていた人の列が動き出した。
ちょっと、かっこいいと思った。
思ってから、葵は視線を落とした。
透がこちらへ戻ってくる。
顔を上げるのが、さっきより難しかった。
「椅子で行く? 横になったほうが楽なら、担架も使えるよ」
「椅子で、大丈夫です」
透は救護担当にも確かめ、葵のそばへ椅子を寄せた。
立ち上がると足が頼りなく、差し出された腕へ手をかける。硬い服の下に、支えてくれる腕の太さがあった。
「ゆっくりでいいよ」
いつもと同じことを言われた。
いつもなら、わかっています、と返したくなる。
今日はその声を、もう少し近くで聞いていたかった。
椅子へ座ると、透の腕が離れた。
葵の右手だけが、一瞬、そこへ残った。
「水瀬さんは、まだ残るんですか」
「一緒に戻るよ。片付けは引き継いだから」
透が後ろを見た。
「さっきの防護板、上で点検に出しとけよ。自分で傷を塗って済ませるな」
「わかってるって」
「返事だけはいいんだ」
透が笑った。
葵は、その横顔を見ていた。
*
十八階層まで戻るころには、葵は何度か眠りかけていた。
椅子が揺れるたびに目が開く。階段の途中で止まると、前を持つ透が振り返った。
安江と救護担当も、一緒にいた。
地下の灯りが明るくなり、昇降機の前で担架へ移された。
「ここからは横になってていい」
透が言った。
葵は右手で服をつかんだ。今度は自分の服ではなかった。
透が足を止めた。
「どうした?」
わからないことが多すぎた。
助けてもらったから、なのか。怖いところから出られたから、なのか。それなら、前にも同じはずだった。
今日は、彼がほかの人へ顔を向けるだけで、こちらへ戻ってくるまで待ってしまう。
「病院にも、来てください」
やっと、それだけ言えた。
「行くよ。先生に止められなければ」
透は葵の手のそばへ、自分の右手を置いた。
葵は服から指を離し、その手を取った。
少し驚いた顔をされたが、今は見ないことにした。
彼の指は、もう震えていなかった。
代わりに自分の胸が落ち着かなくなった理由は、たぶん、痛みだけではなかった。