旧採掘区画から戻って三日目、
診察室の扉が開き、
白い髪が、肩のところで緩く結ばれていた。袖は左の手首を覆っている。
「どうだった?」
「今日は、帰っていいそうです」
透は端末をしまい、立ち上がった。
救助の当日はそのまま入院になった。翌日も、葵は腕の痛みを訴えていた。面会に行くと起きていたが、少し話すうちに目が閉じてしまう。
昨日になって食事を取れる量が戻り、今日、ようやく自宅へ帰れることになった。
医師に呼ばれ、透も説明を聞いた。
しばらくは休養と通院を続ける。調整器の記録は病院と設備側で調べ、痛みや心臓への影響を改めて確かめることになっていた。
葵は説明の紙を、自分の鞄へ入れた。
待合室へ戻ると、透は昼食の画面を開いた。
「帰りに何か買おうと思うんだけど、食べたいものある?」
「水瀬さんは?」
「俺は何でも。いつもの弁当でもいいし」
葵が画面をのぞき込んだ。
透は端末を見やすい角度へ向けたが、彼女はそのまま隣の椅子へ座った。
近かった。
透は肘を引き、鞄を反対側へ移した。
「これがいいです」
指されたのは、商店街の洋食屋だった。料理の写真に、大きなオムライスが載っている。
「持ち帰れるみたいだな。電話しておこうか」
「今度は、お店で食べたいです」
「元気になったらな」
「水瀬さんと」
透は返事をし損ねた。
葵はこちらを見ていた。画面の写真ではなく、透の顔を。
「……うん。行こう」
ようやく言うと、葵はうなずいた。
透は店の電話番号を二度押しかけ、一度、指を画面から離した。
*
車が来るまでの間に、
透は葵へ一言断り、少し離れた窓際で通話を取った。
『退院できそうか』
「ああ、今日帰れることになった。しばらくは通院が必要だけどな」
『そうか。こっちの十人も、全員生きてる。もう退院した人もいる。脚の骨折と熱で入院が続いてる人はいるが』
透は窓の外を見た。
道路の信号が変わり、車がゆっくり進み始める。
「よかった」
『班長が礼を言いたいそうだ。まず休ませてやれとは伝えてある』
「ありがとう」
救助の翌日、採掘会社は人数の誤りを現場の責任にしたらしい。
だが、班長の日誌には実際の出勤人数が残っていた。管理局と警察が別々に話を聞き、会社の指示も含めて確認しているという。
その場で仕事や寮の問題まで片付いたわけではない。作業員たちは、生活の相談を受けながら事情を話していた。
『あと、保守室に残ってた書類の件だ』
剛田の声が変わった。
『設備班が、昔の点検票を回収してる。あんたが問い合わせてた、封鎖記録の別紙と似た書式があったらしい』
二年前の事故の記録には、別紙だけが欠けていた。
「同じ番号なのか」
『そこまでは聞いてない。発行元の欄が同じだそうだ。写しの確認を頼まれたが、先に監察へ渡しておいた』
「助かる。俺にも連絡が来たら見る」
閉じた通路の手前で止められたことを、透は忘れていなかった。
あの事故と今回の採掘に、何か関係があるのかはわからない。古い用紙を使い回しているだけかもしれなかった。
それでも、別紙に何が書かれていたのかを確かめる手掛かりにはなる。
『今日は帰れよ』
剛田が言った。
「帰るよ」
『その返事、信用していいやつか』
「今日はいいやつ」
笑い声が返ってきた。
通話を終えると、葵が待合室からこちらを見ていた。透は手を上げ、戻った。
「十人とも、生きてるって」
葵は息を吐いた。
鞄の持ち手を握っていた指が、少し緩んだ。
「退院した人も?」
「いる。まだ入院してる人もいるけど、治療を受けてる」
葵はうなずき、椅子から立った。
透が荷物を持とうとすると、小さな鞄だけは自分の肩へかけ直した。病院から渡された大きな袋を、代わりに差し出される。
「こっちは、お願いします」
「了解」
透は袋を受け取り、玄関へ向かった。
葵が右側を歩いている。こちらが歩幅を緩める前に、服の袖を少し引かれた。
「ゆっくりで、お願いします」
「ごめん」
透は速度を落とした。
袖をつかむ指は、そのあとも離れなかった。
*
家へ戻ると、葵は自分の部屋へ鞄を置きに行った。
透は買ってきたオムライスを食卓へ並べた。片方のソースの容器を開け、勢いよくこぼしかけて持ち直す。
背後で、小さく笑う声がした。
「お皿に移さなくていいです」
「いや、せっかくだから」
「食べる前に落としそうです」
透は容器を置いた。
葵が自分のコップを取り、透の古いコップも隣へ置く。来客用の一つは、棚に残った。
「今日は座ってていいよ」
「コップくらい持てます」
叱られたような気がして、透は口を閉じた。
葵は向かいへ座り、スプーンを取った。
「いただきます」
二人で蓋を開けた。
葵は最初の一口を食べ、もう一口すくう前に卵の切れ目を見た。普段の弁当より、ゆっくり食べていた。
「これ、好きかも」
「じゃあ、また買ってくるよ」
言ってから、透は先ほどの約束を思い出した。
「今度は店で、だったな」
葵が笑った。
透は自分のスプーンを見下ろした。
入院してから、彼女は面会の終わりに、次はいつ来るか聞くようになった。今日も、隣に座り、袖をつかんだ。
うれしかった。そのことは誤魔化せなかった。
だからといって、つらい思いをした直後の彼女が頼る手を、自分に都合よく受け取るわけにはいかない。
葵がこちらを見ていた。
「仕事の連絡ですか」
「いや。来てない」
「今日はもう、行かないんですよね」
「行かないよ。夕飯も一緒に食べる」
葵は少し考えた。
「夜は、魚以外がいいです」
透は冷蔵庫を見た。買い足そうとしていたものを、言う前に当てられた気がした。
「肉にしようか」
「はい」
端末に、監察から資料を受け取ったという通知が届いた。
透は表示だけ確かめ、返信は食事のあとにすることにした。
買い物のメモを開き、肉、と書く。
「何の肉がいい?」
葵がスプーンを置いた。
「水瀬さんが、作るんですか」
「焼くくらいなら」
葵はテーブルの端にあるソースの容器を見た。
透もつられて見てしまった。
「まず、お惣菜にしましょう」
言い返せずにうなずくと、葵がまた笑った。