深層救助屋――帰還禁止の少女   作:病んでるくらいが一番

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第4章 閉ざされた道の記録
第25話 店で食べる約束


 退院から一週間後の昼前、水瀬透(みなせとおる)は玄関に二足の靴を並べていた。

 片方は自分のものだ。もう片方を揃え直していると、後ろで扉が開いた。

 

「それ、自分でできます」

 

 葵(あおい)が言った。

 薄い緑色のカーディガンを羽織り、白い髪を肩の後ろでまとめている。左の手首は袖に隠れていた。

 

「わかってる。俺のを出したついでだよ」

「私の靴まで、こっちを向いてました」

 

 透は靴から手を離した。

 退院の日に持ち帰ったオムライスを、今度は店で食べる。葵とそう約束していた。

 朝の通院で、近所への短い外出なら構わないと言われた。腕の痛みはまだ残るが、夜中に目が覚める回数は減ったという。昼食のあとも出歩く予定は入れていない。

 

「店まで歩いて十分くらい。帰りは車を呼んでもいいから」

「歩けなくなったら、言います」

「うん」

 

 葵が靴を履くのを待った。

 紐を結び終えた彼女は、立ち上がっても扉へ向かわなかった。

 

「変じゃないですか」

「靴?」

 

 上着の裾を、右手で少し持ち上げられた。

 透はようやく顔を上げた。カーディガンは丸い襟ぐりで、小さなボタンが並んでいる。腰にかかるくらいの丈が、小柄な彼女によく合っていた。色を選ぶとき、田中(たなか)きなこと相談していたはずだ。淡い緑に、白い髪がいつもより明るく見えた。

 

「似合ってる。すごく」

 

 言ってから、すごくは余分だったかと思った。

 葵は裾を離した。

 

「そうですか」

 

 声はいつもと同じだった。ただ、扉へ向かう足が、少しだけ早かった。

 

 *

 

 商店街の洋食屋は、開店したばかりで空いていた。

 窓際の四人席へ案内されると、透は葵が座るのを待った。彼女が窓側を選んだので向かいへ回ろうとしたが、隣の椅子を見られる。

 

「ここ、空いてます」

「そこだとメニュー、一緒に見ることになるけど」

「そのほうがいいです」

 

 透は隣へ座った。

 店員が水を置き、二人の前へメニューを一冊広げる。葵は左手を膝に置いたまま、右手でページを押さえた。

 顔を寄せれば読める距離だった。寄せなくても読めるはずなのに、文字が頭へ入ってこない。

 

「水瀬さんは、何にしますか」

「オムライスかな」

「この前と同じです」

「うまかったし」

 

 葵が隣の写真を指した。

 

「これは?」

「煮込みハンバーグ。ソースが違うんだな」

「食べたこと、ありますか」

「ここのはない。じゃあ、今日はこれにするか」

 

 注文を取りに来た店員へ、葵は自分でオムライスを頼んだ。透はハンバーグの皿を指す。

 店員が去ると、葵が窓の外を見た。

 買い物袋を持った人が通り、向かいの店では看板を出している。地下の作業灯とは違う日差しが、テーブルの端へ差していた。

 

「お店だと、待つんですね」

「注文してから作るからな。急いでないし、ゆっくり待とう」

 

 葵はうなずき、水を一口飲んだ。

 透の端末が震えたのは、そのときだった。

 反射的に画面へ手を伸ばしたが、緊急連絡の音ではなかった。

 差出人は明智信玄(あけちしんげん)。旧採掘区画で回収された点検票について、確認したいことがあるという。

 

「お仕事ですか」

「前の記録の件。あとで電話すれば大丈夫だよ」

 

 食事中なので一時過ぎに折り返す、と返した。端末を伏せると、葵はまだこちらを見ていた。

 

「出なくていいんですか」

「今は飯を食いに来たんだから」

 

 そこで少し迷い、言い足した。

 

「葵と約束しただろ」

 

 彼女はコップを持ち直した。

 口元が縁に隠れる。それでも目が少し細くなったのは見えた。

 透はメニューを畳んだ。こうして笑ってくれるのがうれしい。うれしいから、何でも都合よく考えそうになる。

 今は隣で食事をする。それだけで十分なはずだった。

 

 皿が運ばれてくると、葵はスプーンを取った。

 卵を少し崩して口へ運び、今度は中のご飯もすくう。

 

「家で食べたのと、違います」

「熱いからかな」

「卵も、柔らかいです」

 

 透もハンバーグを切った。葵の視線が、その断面へ動いた。

 

「ちょっと食べる?」

 

 言ってから、フォークを持つ手が止まった。

 そのまま口元へ持っていくようなことを、危うくしかけていた。

 小皿をもらおうと店員を見る。葵も気づき、テーブルの呼び鈴を押してくれた。

 

「分けるお皿を、一枚ください」

 

 頼み終えたあと、彼女が透のフォークを見た。

 透は切った一口分を、自分の皿の端へ置いた。

 

「ソース、辛くはないよ」

「まだ聞いてません」

 

 小さな声で返され、笑ってしまった。

 小皿が来ると、葵もオムライスを少し分けた。

 二つの味を比べながら食べたせいで、普段の昼食より長くかかった。透が先に食べ終えても、葵は慌てなかった。

 店員が空いた皿を下げに来ると、彼女はテーブルに立っていた小さなメニューを引き寄せた。

 

「食べ終わってからでも、頼めますか」

「デザート? 大丈夫だよ」

 

 写真にはプリンと、果物の載ったアイスがあった。

 葵は値段を見て、裏へ返した。そこにも飲み物が並んでいる。何か探しているようなので、透は口を開きかけたが、しばらく待った。

 

「プリン、食べてみたいです。でも、全部は食べられないかもしれません」

「残ったら俺が食べるよ」

「さっきも、私のご飯を食べました」

「あれくらいなら入るって」

 

 葵は透の空いた皿を見た。

 ハンバーグに添えられた野菜も、パンの最後のかけらも残っていない。

 

「お腹、いっぱいにならないんですか」

「なるよ。普段よりゆっくり食ってるから、まだ余裕があるだけ」

「いつも、もっと速いですか」

 

 透はうなずきかけ、仕事の合間なら味を覚えていないこともあると思い出した。

 

「仕事中はな。今日はちゃんと味、わかるよ」

 

 葵が呼び鈴へ手を伸ばした。

 プリンを一つ、スプーンを二本。店員へそう頼むのを、透は隣で聞いていた。

 料理を選ぶのを任せてほしいと言われたわけではない。けれど、ここで先回りしなければ、彼女が自分で決めるのを見ていられる。

 

 運ばれてきたプリンを、葵は真ん中から小さくすくった。

 口へ入れたあと、下にたまった茶色のソースを見て、今度はそこも一緒にすくう。

 

「苦いです。でも、ないより好きです」

 

 皿が少し、こちらへ押された。

 透も一口食べた。甘さのあとで、焦がした砂糖の味が残った。

 

「うまいな」

「はい」

 

 結局、葵は半分より少し多く食べた。

 空になった皿を見てから、葵はデザートのメニューへ目を戻した。

 

「次は、このアイスを食べたいです」

 

 果物の載った写真を指して言う。

 

「じゃあ、また来よう」

 

 透が答えると、葵はうなずいてメニューを元の位置へ立てた。

 

 *

 

 帰り道、透は商店街の端にあるベンチを指した。

 

「少し座っていこうか。電話だけ済ませたい」

 

 葵はうなずいた。

 並んで座り、透は明智へかけ直した。最初に今いる場所を伝えると、詳しい資料の話は後日にすると返ってきた。

 

『点検票の発行元が、二年前の封鎖文書と同じ課でした。ただ、同じ課だから同じ指示とは言えません』

「何を確かめればいいですか」

『当時、現場へ渡された書類です。あなたのいたクランにも、控えが残っていないでしょうか。こちらから正式に照会します』

 

 透はベンチの肘掛けを見た。

 旧クランへ戻ったことは、独立してからも何度かある。装備を借り、仕事を引き継ぎ、顔を合わせれば飯も食った。

 あの事故の記録を開くために行くのは、初めてだった。

 

「救助班長に連絡します。担当は変わってないので」

『お願いします。資料の持ち出し方はこちらで調整します。見つかったものを、あなた一人で抱えないでください』

 

 通話を終えると、葵は膝の上で鞄を押さえていた。

 

「昔、一緒に働いてた人に会うことになりそうだ」

「どんなことを調べるんですか」

 

 透は端末をしまった。

 

「二年前の救助で、入ろうとした通路を止められたんだ。奥には、まだ仲間がいた。そのときの判断がどう決まったのか、調べてる」

 

 葵の視線が、端末をしまったポケットへ動いた。

 今かけていた電話が、普段の出動の連絡とは違うことは伝わったらしい。

 

「その人には、会えなかったんですか」

「生きてるうちには、間に合わなかった」

 

 答えてから、昼食の帰りにする話ではなかったと思った。

 葵は何も言わず、膝の上の鞄へ目を戻した。透もすぐに話題を変えることはできなかった。

 

 葵は少し黙ったあと、鞄を持って立ち上がった。

 

「帰ったら、お茶を入れます」

「俺がやるよ」

「お湯を沸かすのは、できます」

 

 透は返しかけた言葉をやめた。

 

「じゃあ、頼もうかな」

 

 葵の手が、上着の袖へ触れた。

 店まで来たときよりゆっくり、二人で家へ歩いた。

 

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