第25話 店で食べる約束
退院から一週間後の昼前、
片方は自分のものだ。もう片方を揃え直していると、後ろで扉が開いた。
「それ、自分でできます」
薄い緑色のカーディガンを羽織り、白い髪を肩の後ろでまとめている。左の手首は袖に隠れていた。
「わかってる。俺のを出したついでだよ」
「私の靴まで、こっちを向いてました」
透は靴から手を離した。
退院の日に持ち帰ったオムライスを、今度は店で食べる。葵とそう約束していた。
朝の通院で、近所への短い外出なら構わないと言われた。腕の痛みはまだ残るが、夜中に目が覚める回数は減ったという。昼食のあとも出歩く予定は入れていない。
「店まで歩いて十分くらい。帰りは車を呼んでもいいから」
「歩けなくなったら、言います」
「うん」
葵が靴を履くのを待った。
紐を結び終えた彼女は、立ち上がっても扉へ向かわなかった。
「変じゃないですか」
「靴?」
上着の裾を、右手で少し持ち上げられた。
透はようやく顔を上げた。カーディガンは丸い襟ぐりで、小さなボタンが並んでいる。腰にかかるくらいの丈が、小柄な彼女によく合っていた。色を選ぶとき、
「似合ってる。すごく」
言ってから、すごくは余分だったかと思った。
葵は裾を離した。
「そうですか」
声はいつもと同じだった。ただ、扉へ向かう足が、少しだけ早かった。
*
商店街の洋食屋は、開店したばかりで空いていた。
窓際の四人席へ案内されると、透は葵が座るのを待った。彼女が窓側を選んだので向かいへ回ろうとしたが、隣の椅子を見られる。
「ここ、空いてます」
「そこだとメニュー、一緒に見ることになるけど」
「そのほうがいいです」
透は隣へ座った。
店員が水を置き、二人の前へメニューを一冊広げる。葵は左手を膝に置いたまま、右手でページを押さえた。
顔を寄せれば読める距離だった。寄せなくても読めるはずなのに、文字が頭へ入ってこない。
「水瀬さんは、何にしますか」
「オムライスかな」
「この前と同じです」
「うまかったし」
葵が隣の写真を指した。
「これは?」
「煮込みハンバーグ。ソースが違うんだな」
「食べたこと、ありますか」
「ここのはない。じゃあ、今日はこれにするか」
注文を取りに来た店員へ、葵は自分でオムライスを頼んだ。透はハンバーグの皿を指す。
店員が去ると、葵が窓の外を見た。
買い物袋を持った人が通り、向かいの店では看板を出している。地下の作業灯とは違う日差しが、テーブルの端へ差していた。
「お店だと、待つんですね」
「注文してから作るからな。急いでないし、ゆっくり待とう」
葵はうなずき、水を一口飲んだ。
透の端末が震えたのは、そのときだった。
反射的に画面へ手を伸ばしたが、緊急連絡の音ではなかった。
差出人は
「お仕事ですか」
「前の記録の件。あとで電話すれば大丈夫だよ」
食事中なので一時過ぎに折り返す、と返した。端末を伏せると、葵はまだこちらを見ていた。
「出なくていいんですか」
「今は飯を食いに来たんだから」
そこで少し迷い、言い足した。
「葵と約束しただろ」
彼女はコップを持ち直した。
口元が縁に隠れる。それでも目が少し細くなったのは見えた。
透はメニューを畳んだ。こうして笑ってくれるのがうれしい。うれしいから、何でも都合よく考えそうになる。
今は隣で食事をする。それだけで十分なはずだった。
皿が運ばれてくると、葵はスプーンを取った。
卵を少し崩して口へ運び、今度は中のご飯もすくう。
「家で食べたのと、違います」
「熱いからかな」
「卵も、柔らかいです」
透もハンバーグを切った。葵の視線が、その断面へ動いた。
「ちょっと食べる?」
言ってから、フォークを持つ手が止まった。
そのまま口元へ持っていくようなことを、危うくしかけていた。
小皿をもらおうと店員を見る。葵も気づき、テーブルの呼び鈴を押してくれた。
「分けるお皿を、一枚ください」
頼み終えたあと、彼女が透のフォークを見た。
透は切った一口分を、自分の皿の端へ置いた。
「ソース、辛くはないよ」
「まだ聞いてません」
小さな声で返され、笑ってしまった。
小皿が来ると、葵もオムライスを少し分けた。
二つの味を比べながら食べたせいで、普段の昼食より長くかかった。透が先に食べ終えても、葵は慌てなかった。
店員が空いた皿を下げに来ると、彼女はテーブルに立っていた小さなメニューを引き寄せた。
「食べ終わってからでも、頼めますか」
「デザート? 大丈夫だよ」
写真にはプリンと、果物の載ったアイスがあった。
葵は値段を見て、裏へ返した。そこにも飲み物が並んでいる。何か探しているようなので、透は口を開きかけたが、しばらく待った。
「プリン、食べてみたいです。でも、全部は食べられないかもしれません」
「残ったら俺が食べるよ」
「さっきも、私のご飯を食べました」
「あれくらいなら入るって」
葵は透の空いた皿を見た。
ハンバーグに添えられた野菜も、パンの最後のかけらも残っていない。
「お腹、いっぱいにならないんですか」
「なるよ。普段よりゆっくり食ってるから、まだ余裕があるだけ」
「いつも、もっと速いですか」
透はうなずきかけ、仕事の合間なら味を覚えていないこともあると思い出した。
「仕事中はな。今日はちゃんと味、わかるよ」
葵が呼び鈴へ手を伸ばした。
プリンを一つ、スプーンを二本。店員へそう頼むのを、透は隣で聞いていた。
料理を選ぶのを任せてほしいと言われたわけではない。けれど、ここで先回りしなければ、彼女が自分で決めるのを見ていられる。
運ばれてきたプリンを、葵は真ん中から小さくすくった。
口へ入れたあと、下にたまった茶色のソースを見て、今度はそこも一緒にすくう。
「苦いです。でも、ないより好きです」
皿が少し、こちらへ押された。
透も一口食べた。甘さのあとで、焦がした砂糖の味が残った。
「うまいな」
「はい」
結局、葵は半分より少し多く食べた。
空になった皿を見てから、葵はデザートのメニューへ目を戻した。
「次は、このアイスを食べたいです」
果物の載った写真を指して言う。
「じゃあ、また来よう」
透が答えると、葵はうなずいてメニューを元の位置へ立てた。
*
帰り道、透は商店街の端にあるベンチを指した。
「少し座っていこうか。電話だけ済ませたい」
葵はうなずいた。
並んで座り、透は明智へかけ直した。最初に今いる場所を伝えると、詳しい資料の話は後日にすると返ってきた。
『点検票の発行元が、二年前の封鎖文書と同じ課でした。ただ、同じ課だから同じ指示とは言えません』
「何を確かめればいいですか」
『当時、現場へ渡された書類です。あなたのいたクランにも、控えが残っていないでしょうか。こちらから正式に照会します』
透はベンチの肘掛けを見た。
旧クランへ戻ったことは、独立してからも何度かある。装備を借り、仕事を引き継ぎ、顔を合わせれば飯も食った。
あの事故の記録を開くために行くのは、初めてだった。
「救助班長に連絡します。担当は変わってないので」
『お願いします。資料の持ち出し方はこちらで調整します。見つかったものを、あなた一人で抱えないでください』
通話を終えると、葵は膝の上で鞄を押さえていた。
「昔、一緒に働いてた人に会うことになりそうだ」
「どんなことを調べるんですか」
透は端末をしまった。
「二年前の救助で、入ろうとした通路を止められたんだ。奥には、まだ仲間がいた。そのときの判断がどう決まったのか、調べてる」
葵の視線が、端末をしまったポケットへ動いた。
今かけていた電話が、普段の出動の連絡とは違うことは伝わったらしい。
「その人には、会えなかったんですか」
「生きてるうちには、間に合わなかった」
答えてから、昼食の帰りにする話ではなかったと思った。
葵は何も言わず、膝の上の鞄へ目を戻した。透もすぐに話題を変えることはできなかった。
葵は少し黙ったあと、鞄を持って立ち上がった。
「帰ったら、お茶を入れます」
「俺がやるよ」
「お湯を沸かすのは、できます」
透は返しかけた言葉をやめた。
「じゃあ、頼もうかな」
葵の手が、上着の袖へ触れた。
店まで来たときよりゆっくり、二人で家へ歩いた。