翌日の午後、
入口の靴拭きは新しくなっていたが、傘立てには相変わらず誰のものかわからない長傘が詰まっている。受付の奥で、見覚えのある男が手を上げた。
「こっちだ。資料は会議室へ出してある」
幅のある肩に、紺の作業着。上着の胸には、洗濯で薄くなったクランの印が残っている。
「お久しぶりです」
「先月会っただろ。お前から借りた中継機、もう返したよな」
「それは返ってます」
「なら座れ。今度は取り立てじゃないんだな」
透は苦笑して椅子を引いた。
長机には三冊のファイルがあった。勤務表、出動記録、救助時の通信記録。監察から照会が届き、事務担当が出したものだという。
持ち帰る写しは後で担当者同士が確認する。今日は透の記憶と照らすところからだった。
「あの日の救助班は、お前を入れて四人だ。俺は十八階層で搬送を受けていた」
堀江が出動記録を開いた。
透は日付を見た。二年前の数字だ。
十九階層、北採掘区画。崩落により複数名が取り残され、救助班が出動した。
最後まで帰ってこなかった一人の欄に、
偵察役。二十一歳。
名前を指でなぞりそうになって、やめた。
紙を汚す。そんなことを考えた自分に、少し驚いた。
「少し待つか」
「大丈夫です」
堀江は次のページをめくらなかった。
代わりに、自分の椅子へ深く座り直した。
「あいつ、お前の昼飯をよく持ってきてたな」
透は机の向こうにある小さな流しを見た。
ここではない。前の事務所の、もっと狭い休憩室だった。
*
二年前、昼を少し過ぎたクランの休憩室で、透は栄養補助のゼリーを吸っていた。
次の救助待機まで、二十分ある。椅子を引いて座ったところへ、紙袋が落ちてきた。
「先輩、またそれっすか」
ミカが向かいに座った。
偵察から戻ったばかりで、短い弓のケースを足元へ立てかけている。指の保護具を外し、手首を振った。
「飯だよ。カロリーはある」
「噛むもの食べてください。顎、使わなくなりますよ」
「地下で結構食いしばってる」
「そういう話じゃないっす」
紙袋から肉の挟まったパンを一つ出し、透へ押しつける。
もう一つは自分の前へ置いた。
「いくら?」
「今日はいいです。次、奢ってください」
「高い店じゃなければ」
「覚えときますからね、それ」
笑うと、仕事中よりずっと幼く見えた。
透は袋を開けた。温かいうちに食べろ、と促されて一口かじる。
ミカは自分の端末を取り出し、画面を机の中央へ置いた。
「北三号の連絡路、今日見てきました。先週の図面と、ここが違います」
黄色い線が、壁の手前で折れていた。
「資材が積んであって、担架を回す幅がない。歩くなら通れますけど、寝かせて出すなら先にどかしたほうがいいっす」
「申告は?」
「設備に送りました。返事待ちです。だから先輩にも」
透はパンを置き、画面を拡大した。
ミカの写真には、通路の幅がわかるよう測定用の棒が立てかけてあった。反対側からの写真もある。
「助かる。帰りに現物を見てくる」
「今日じゃなくていいです。先輩、昨日も遅かったでしょ」
「近いところだから」
「そう言って遠くまで行くじゃないですか」
ミカは端末を引き戻した。
透が顔を上げると、彼女は笑っていなかった。
「寝てからにしてください」
返事を待つ目だった。
先輩だからと、何でも聞いてくれる後輩ではない。そのことを透は気に入っていた。
「わかった。明日にする」
「じゃあ明日、私も行きます。写真の場所、案内するんで」
「偵察の仕事は?」
「午前で終わります」
「終わらなかったら置いてくぞ」
「そこは待つって言ってくださいよ」
ミカはパンの袋を丸めた。
机を挟んで身を乗り出し、透がまだ食べているのを見て座り直す。
「で、帰りに飯っすね」
「今食ってるだろ」
「明日の話です。奢るって約束しました」
約束の範囲が、少しずつ広くなる。
透はもう一口パンをかじり、うなずいた。
仕事以外で誘われるのを、待っていたのかもしれない。
休憩室の扉が開き、攻略班の男が顔を出した。
「ミカ、午後の道案内、代われるか」
「どこのですか」
「南の資材通路。図面は出てる」
「そこ、昨日から上の梁が下がってますよ。荷物の高さ、確認しました?」
男は端末を見下ろし、首を振った。
ミカは立ち上がると、自分の画面を持ってそちらへ行った。明るい声のまま、荷を積み直すなら通れること、別の道だと階段があることを順に話す。
男は二度うなずき、車両の担当へ連絡し始めた。
「わかった。背の低い台車に替える。お前、先に見てくれるか」
「了解っす。十分後に下で」
扉が閉まると、ミカは残ったパンを急いで口へ入れた。
「お前も結構、忙しいじゃないか」
「先輩と違って、午前にちゃんと休みました」
透が口を閉じると、勝ったように笑った。
弓のケースを拾う前に、食べかすの落ちた机を拭いていく。最後に透のパンを指し、全部食べるよう念を押した。
「明日、忘れないでくださいよ」
返事をすると、ようやく出ていった。
翌日は二人で北三号を歩いた。ミカの申告した資材は壁際へ寄せられ、担架を回せる幅ができていた。
透が幅を測る間、彼女は来た道を見ていた。魔物に背後を取られないための見張りだった。
帰りの食事では、肉料理を二人分頼んだ。ミカは皿が来るまで、今日撮った写真の話をしなかった。
「ここまで仕事の話をしたら、経費で落とせそうっすね」
「飯を経費にできたら、とっくにやってるよ」
そう言うと笑われた。
事故は、その翌日ではない。そんな食事を何度か重ねた先にあった。
*
現在の会議室で、堀江が紙コップへ水を注いだ。
透は受け取り、少し飲んだ。
「結局、何度か奢らされました」
「楽しそうに行ってたじゃないか」
否定はできなかった。
ミカとは付き合っていなかった。仕事のあとに食事へ行き、次に何を食べるか話す。まだ、そういうところだった。
「俺、あいつが戻ったら聞こうと思ってたんです」
堀江は何を、と聞かなかった。
透も先を言わず、コップを机へ戻した。
「記録を見ます」
堀江がファイルをこちらへ寄せた。
最初に搬送した三人の名前がある。透は負傷した攻略担当を安全側まで運び、他の隊員へ引き渡している。
そのあとで、奥に残ったミカから通信が入った。
「北三号から回れば行けると、お前は報告してる。場所は覚えてるな」
「はい」
現在地からでは、二年前の地形を能力で呼び戻すことはできない。
それでも、当時描いた図は残っていた。透は自分の線を見た。細い廊下が採掘区画の裏へ回り、ミカのいた退避場所へ続いている。
その入口に、封鎖の印が重なっていた。
「ここで止められました。保安の人間が二人いて、通すなという指示が出てると」
堀江が別の紙を開いた。
当日、現場へ渡された封鎖通知の控えだった。裏面には、受け取った隊員の署名がある。
停止の理由は、設備事故による二次災害の防止。
詳細は別紙参照。
「この別紙が、うちにもない」
「最初から?」
「そこを確かめた。受け取った隊員は、一枚だけだったと言ってる。当日の引き継ぎにもそう残していた」
机の上で、透の指が止まった。
なくしたのではない。現場には、説明そのものが渡っていなかった可能性がある。
「受領した時刻を、監察へ伝えてください」
「もう照合してる。俺も次の説明に出る」
堀江はファイルを閉じた。
「ミカは、その五日後に見つかった。お前も一緒に迎えに行った」
透はうなずいた。
あの日のように、今すぐ走れば追いつくわけではない。
「調べよう。何があったのか。ただ、今度はお前まで置いて帰る気はないぞ」
堀江は私物の手帳から写真を一枚出し、机に置いた。以前の休憩室で撮ったものだった。
透は返事をして、写真へ目を落とした。
ミカはカメラへ笑い、自分は口いっぱいにパンを詰めていた。