二日後の朝、第十八階層の待機所で、
骨猿に擦られた板は、点検のあと交換になった。先日の二十一階層に残した中継機も、二台とも戻ってきている。充電と動作確認を済ませ、背嚢へ収めてあった。
今日は遭難者を探す出動ではない。
二年前、救助へ入れなかった北三号連絡路を調べるために下りる。
「参加者、揃ったな」
透と堀江、灯路の救助員一人。設備担当が二人、記録の確認に監察担当が一人。六人で進む。
設備担当の一人が記録装置を扱う技術者で、もう一人は補強と空気の測定を担当する。
「十時に一度、状況を返す。そこで先へ進めるか判断する。予定外の区画へは入らない」
堀江の言葉に、全員が返事をした。
透も端末へ確認を入れた。
地上の
十九階層への階段を下りきると、透は意識を広げた。
頭の中へ、現在の通路が収まる。
二年前に描いた図面を端末へ出し、違いを見た。北三号へ向かう手前の廊下は、途中で横へ張り出している。
「右へ回る。古い道は狭くなってるけど、隣の資材置き場から抜けられる」
設備担当が計器を確認し、先へ進んでよいと合図した。
透はライトを低く向け、足を置く場所を示した。広く見えた通路でも、端には割れたタイルが浮いている。台車を通すなら片づける必要があった。
資材置き場を抜ける前に、透は台車を止めた。
床の見た目は平らだったが、その下には細い空洞が走っている。通路の中央を斜めに横切り、右の壁際だけで途切れていた。
「ここは壁に寄せて。真ん中に重さをかけたくない」
設備担当が、長い棒で床を押した。表面の薄い板が沈み、端から砂が落ちた。
透は台車の前を持ち上げ、堀江が後ろを押す。壁に沿って、車輪一つ分ずつ進めた。
「もう少し右。そこなら下まで詰まってる」
全員が渡り終えると、救助員が空洞の位置を床へ印した。
帰りは記録器も載せる。重くなった台車を引いて戻るとき、同じ穴を踏まないためだった。
透は振り返り、来た道の曲がり角を頭の中で確かめた。
小さな段差でも、荷を持つ手が塞がれば越えにくい。まだ荷物の軽い今のうちに、帰り道の石を脇へどけておく。
「お前がいると、帰りの準備が先に済むな」
堀江が言った。
「帰りにやると、疲れてますから」
「自分の休憩も、同じくらい先に考えろ」
透は聞こえなかったふりをしたが、次の広い場所で水を飲まされた。
ヘルメットの縁を上げて汗を拭くと、後ろの設備担当も腰を下ろした。全員が自分と同じ速さで歩けるわけではない。
予定表を確かめる。監視室の確認まで、まだ余裕があった。
資材置き場の奥で、扉が半開きになっていた。
その向こうに、赤い柵が見えた。
透は足を止めた。
柵は新しいものだった。封鎖の札の日付も違う。
それでも、そこから先へ行くなと言われた位置は、変わっていなかった。
「水瀬」
堀江に呼ばれ、振り返る。
「今の床を見てくれ」
透はうなずいた。
足元の空洞を調べ、柵の右側なら台車を置けると伝える。堀江が止まった理由を尋ねなかったので、そのまま仕事を続けられた。
*
北三号の手前にある監視室は、入口の上半分が岩で塞がれていた。
残る隙間へ体を入れるには、背嚢を外さなければならない。
透がしゃがむと、設備担当が先に細いカメラを差し入れた。人の姿はない。室内の空気にも、今すぐ退く値は出ていなかった。
「天井は?」
「入口の上に載ってる。奥は空いてるけど、この縁を崩すと落ちる」
透は入口の脇へ手を置いた。
能力でわかるのは、岩と壁の形だ。手を置いたすぐ下には、扉枠を壁に固定する金具が見えていた。岩に押され、少し曲がっている。
壁のつながりへ集中したとき、その金具の縁まで頭の中に浮かんだ。
透は指を止めた。
壁に付いているから、形が一緒に見えたのかと思った。
だが、床に落ちていた留め金も、細い線になっていた。
「どうした」
「少し待ってください」
透は一度、意識を緩めた。
階層の地図へ戻すと、細い線は消える。もう一度、目の前の床だけを確かめる。
輪になった留め金の形が、現れた。
小物の輪郭まで、こんなにはっきり捉えたことはなかった。
「これを、少し右へずらしてもらえますか」
透が示すと、設備担当は先の細いペンチで留め金を動かした。
頭の中でも、同じ形が動く。
拾い上げられると床から離れた。目で動きを追いながら、透はその形を保っていた。
「今、道具の形までわかりました」
「今までは?」
「廊下とか壁は見えます。こんな小さいものを、床から離しても追えたことはないです」
設備担当は留め金を元の場所へ戻した。透は見えている形と、頭の中の輪郭をもう一度照らした。
輪郭に色はない。砂の汚れも、金属の光り方も出ない。形だけが、床の少し上にある。
何か別のものを感じ始めたというより、今まで大まかにしか捉えていなかった形が、近くだけ細かくなったようだった。
堀江が透の顔をのぞいた。
「頭は痛くないか」
「今は平気です」
「なら記録に残そう。試すのは安全なところでだ」
透はうなずき、地形の把握へ戻した。
細かなものへ注意を向けている間、遠い廊下の変化までは追えなかった。全部が同時に詳しく見えるようになったわけではない。
設備担当が入口へ支えを入れた。
透は横から岩の形を確かめ、支柱の頭が当たる位置を少し変えてもらった。上に載った岩を受けられたところで、監視室へ入った。
床に倒れていた棚を避け、壁の装置へライトを向ける。
「ありました」
四角い箱が、壁へ固定されていた。
表面は砂に汚れている。用途も中身も、能力ではわからない。透は銘板を拭き、写真を外へ送った。
『記録器です。端子には触らず、そのまま待ってください』
技術者の返事を聞き、透は手を引いた。
自分が下がって場所を空けてから、技術者が入口を通ってくる。
*
九時四十分、監視室の前で透は水を飲んだ。
堀江は、取り外した記録器を監察担当が撮影するのを見ていた。設置位置、配線、取り外す前の状態。順に記録し、箱へ収めていく。
まだ、何が読めるかもわからない。
「ほかに持って出るものはありますか」
「室内の配管の銘板を頼む。番号が読めればいい」
透は写真を見直し、一枚だけ撮り直した。
ライトが反射して文字を潰していた。角度を変えると、製造番号と取り付け日が読める。
さっきの金具の形が頭に残っていても、その番号は目で読むしかなかった。
撮影を終えて戻ると、堀江が折れたボルトを机代わりの箱へ置いた。
「記録器を外すときに落ちた。これもわかるか」
透は、顔から腕一本分ほど離れたボルトを見た。
足を止め、そこだけへ意識を絞る。ねじ山の細部まではわからないが、途中で曲がった軸と頭が、床とは別の形として現れた。
「見えます。少し遠くに置いてもらっていいですか」
一歩、二歩。
離されると、輪郭を保つのが難しくなった。
透は追うのをやめた。目ではまだ見えている。見えているものなら何でも、同じように把握できるわけではないらしい。
「まず、近くだけだな」
堀江が言った。
「人も見つけられるようになった、なんて期待するなよ」
「そこは、変わってないです」
透は堀江の袖を見た。厚い服の下にいる人の身体は、地図の中にはいなかった。
生きているものがいるかどうかは、声を聞き、目で確かめる。救助のやり方を変えてよいだけの根拠は、まだない。
監察担当が、箱を閉じた。
堀江が通話をつなぎ、最初の報告を始める。
「監視室へ入れた。記録器を一台、取り外した。人員は全員無事。これから北三号の入口を、予定の位置まで確認する」
透は背嚢を持ち上げかけ、監視室の奥を見た。
ミカが最後にいた退避場所は、図面ではこの裏側だった。壁一枚を隔てて近くても、入口へは北三号から回らなければならなかった。
五日後の収容では、別の作業通路を補強して入った。その道も、今は地形変動で潰れている。
透は奥の壁へ近づいた。
あの日、ここから声をかけられていたら。考えても仕方のないことを考えながら、壁の厚みをたどった。
何かが、引っかかった。
目の前の壁の下部は割れ、裏から押し出された岩が食い込んでいる。その間に、平らな面と丸い角を持つ、小さな形があった。
留め金を確かめたときのように、そこだけへ意識を絞る。
壁の表面から、腕が届くほどの奥だった。
「待ってください」
透は背嚢を下ろした。
「この岩の間に、何かあります。手のひらくらいの、箱みたいなものが」