第十九階層の空気には、石の匂いに交じって、どこか甘い薬品の匂いがした。
床の埃には、小さな足跡がついていた。
「足跡あり。細い靴底だ。人が歩いてる」
『映像で確認しています』
「先へ向かってる。追う」
『後続が十八へ入りました。東側から保守階段の確認を始めます』
透は振り返り、西の階段へ続く道を目で確かめた。
今いる場所から三つ目の角を曲がれば戻れる。壁際の突起に反射札を留め、足跡をたどった。
少し歩くと、足跡が乱れていた。
靴底の細い線とは別に、床を擦った跡がある。壁にも指の幅ほどの汚れがついていた。
何度か手をついたのだろう。ここを歩いた人間は、かなり疲れている。
「救助隊です。聞こえたら返事をしてください」
透の声が廊下を往復した。
返事はなかった。
代わりに、廊下の奥で硬いものが転がる音がした。
透はライトの向きを下げ、剣の柄へ指をかけた。
同じ方向から、爪が床を掻く音がした。骨猿の軽い足音ではない。低い場所から、石を砕くような音が近づいてくる。
透は逃げ道を探して、周囲の地形を把握した。すぐ左手の部屋には出入口が二つある。そこを通って隣の廊下へ抜ければ、ぐるりと回って今の廊下へ戻れる。
左手の部屋の入口に身を隠し、壁の陰から廊下の奥をのぞく。
黒い殻を背負った魔物が、壁に口をつけていた。
大型犬ほどの胴に、短い脚が六本。頭らしい出っ張りはなく、前端から細い触角が伸びている。殻と脚の隙間に、赤い肉がのぞいた。
そいつは一度壁を離れ、床へ触角を這わせた。
小さな足跡の上だった。
透は廊下へ出ず、壁を剣の鞘で叩いた。
魔物が向きを変える。
先ほどまでの鈍さが消えた。六本の脚が床を打ち、殻を左右に振りながら走ってくる。
「よし、こっち」
透は左の部屋へ入り、入口を離れた。
倒れた机を跨ぎ、もう一つの出口へ抜ける。振り返ると、石喰いが机にぶつかり、天板を持ち上げていた。
閉められる扉はない。煙幕筒を床へ落とし、隣の廊下を走る。
煙で止まる相手ではなかった。
脚が床を打つ音は、すぐに追ってきた。だが、曲がり角で壁に擦れたらしく、殻を引っかく音が一度だけ大きくなる。
その隙に、透は通り過ぎた防火扉を引き戻した。
床に錆の筋を残し、鉄板が動く。最後の数センチを肩で押した途端、反対側へ何かがぶつかった。
両足を踏ん張り、落とし棒を下ろす。
「重たいな、お前」
扉の向こうから、返事のように衝撃が来た。
蝶番を確認する。いま倒れることはなさそうだが、長く任せる気にはなれない。
透は廊下を一周し、足跡の残る場所へ戻った。
ここで戦っていたら、奥へ声をかけるどころではなかった。今のうちに距離を取る。
『水瀬さん、状況を』
「魔物一体を区画に残した。追跡なし。西の戻り道は、一部使えなくなった」
『場所を送ってください』
報告用の地図に印をつける。後続が知らずに扉を開けないよう、魔物の姿も送った。
足跡は、壁から外れた板の前で途切れていた。
脇の扉を開けると、狭い休憩室だった。
壁際に二つの椅子があり、片方の背へ上着がかかっている。紙の予定表には鉛筆で書き込みがあったが、ライトを当てても誰が使っていた部屋なのかはわからなかった。
「誰かいますか」
戸棚の陰まで確かめた。人はいない。
机の上には、中身が乾いたマグカップが置かれていた。埃をかぶった廃墟ではない。透は部屋の位置を記録し、廊下へ戻る。
『そこも台帳にはありません。待機室でしょうか』
「椅子はある。人はいない。映像を残しておいてくれ」
誰もいない部屋を調べ続ける時間はない。足跡は、この扉へ入らず先へ伸びている。
透は廊下の床を照らし直した。
板の奥に人の通れる隙間がある。背の高い透では屈まないと入れない。
先にライトを差し入れた。
布が見えた。
「救助です。そこにいますか」
返事はない。
透は壁に片手をつき、肩を入れた。管の間に細い通路が続いている。足元に、水の入っていない小さな容器が転がっていた。
その先に、誰かが座り込んでいる。
白い髪だった。
顔を伏せた人影の肩から、髪が滑り落ちていた。薄い灰色の上着に、同じ色のズボン。踵を潰した履物から、細い足首が出ている。
透はライトを床へ向けた。
「聞こえるか。救助に来た」
肩が動いた。
髪の間から顔が上がり、透を見た。
琥珀色の目が、光を受けて細くなった。頬は血の気が薄く、眉まで白い。髪の白さと同じくらい、その目がはっきりしていることが意外だった。
綺麗だ、と思った。
こんな場所で、何を考えている。
透は一度口を閉じ、しゃがんだ。自分の肩が通路を塞いでいる。少し横へずれ、少女の前に空間を作る。
「眩しかったな。これでどうだ」
少女はわずかにうなずいた。
眠気の強い人のように瞼が下がる。透は慌てず、声をかけ続けた。
「どこか痛い? 触って確かめてもいいか」
「……足」
「足か。見せてくれ」
少女は膝を動かそうとして、顔をしかめた。
透が履物をのぞくと、薄い布が踵の内側に貼りついていた。ここまで歩いて擦れたのだろう。膝にも擦り傷がある。
大きな出血は見えない。首元や袖口を確かめる間、彼女の目が自分の手を追っていることに気づいた。
「上着をかけるよ。寒くない?」
答えを待って保温具を広げる。
少女はそれを、自分で肩まで引き上げた。
片方の端が背中へ落ちかけ、透は手を伸ばそうとした。
少女が先に取った。肩越しに手を回し、布を引き寄せる。透のほうを見ずに、端を膝の下へ挟んだ。
できることまで代わる必要はない。透は伸ばしかけた手を下げ、救急用品の袋を開いた。
「管制。女性一名を発見。意識あり、かなり消耗してる。今から状態を確認する」
無線へ顔を向けると、少女の指が止まった。
「……誰に」
「一緒に救助してる人だよ。外で待ってくれてる」
少女は何も言わず、透の肩についている小さな機器を見ていた。
透はカメラの向きを顔から外した。
『了解。搬送班へ伝えます。通話していた方ですか』
きなこの問いに、透は少女へ向き直った。
「さっき無線で話した? 女の人の声が聞こえたんだけど」
首が横に動く。
「ほかに誰かいるんだな。ここまで一緒だった?」
少女は、自分が歩いてきた通路の奥を見た。
透もそちらへライトを向ける。細い管が何本も重なり、光の届かないところで曲がっていた。
「その人も迎えに行く。場所を――」
「来ない」
掠れた声だったが、その言葉だけは聞き取れた。
少女は保温具を握っていた。指先に力が入り、すぐに緩む。
「もう、来ないです」
透は続きを聞こうとして、口をつぐんだ。
呼吸が浅い。答えるたびに、少女は息を整えている。今ここで全部話させる必要はない。
「わかった。少し休もう。水は飲めそうか」
ふたを開けた小さな容器を渡すと、少女は両手で持った。
口元へ運び、ほんの少し飲んだ。もう一度飲んでから、残った水を見ている。
「それは持ってていいよ」
少女が顔を上げた。
「地上に戻ったら、もっと飲める。ここから出よう」
すぐには返事がなかった。
透は急かさず待った。遠くで鉄板を叩く音がして、それきり静かになった。
「……外に」
「うん」
「行って、いいんですか」
透は少女の顔を見た。
冗談ではなかった。外へ出たいかと聞かれたのではなく、出ることが許されるのかを確かめている。
「俺は、連れて帰るために来たんだ」
少女は水の容器を胸元へ引き寄せた。
しばらくして、顔が小さく上下した。