北三号連絡路の調査を終えるころ、
十九階層の隔壁前で、設備担当が最後の点検蓋を閉めている。監察担当は撮影した番号を確認し、ケースの留め具へ新しい印をつけた。
透はその向こうの隙間から、目を離せなかった。
監視室で見つけた録音機は、保護容器に収まっている。持ち帰るべきものは増えた。それでも、ミカが最後にいた場所をもう一度、自分の目で見たいと思ってしまった。
「扉の向こう、右の壁沿いに通れそうな隙間があります」
「どこまで行くつもりだ」
「最初の曲がり角までです。一人なら通れる幅があります。そこから先の崩れ方を見ておけば、次に入る準備ができます」
堀江は透の端末をのぞいた。
透は能力で確かめた通路の形を地図に描き加え、最初の曲がり角を指した。そこまでは、岩と右の壁の間に人が通れる隙間がある。その先は崩れた岩で塞がれ、ミカがいた退避場所へは抜けられなかった。
「扉を支える物は持ってきてないぞ」
「この横です。壁と枠の間からなら、扉の下を通らなくていい」
透は隔壁の脇を照らした。
枠が壁から離れ、縦に細い口を開けていた。肩をひねれば体が入る。背嚢は外すことになるが、その先で立つ場所もあった。
「空間だけならあるんだな」
「はい」
「上の岩は?」
透は答える前に、もう一度集中した。
壁の上にいくつもの塊が重なっている。どこがどこへ触れているかはわかる。だが、角の向こうの岩は割れ目が多く、触れれば動くものもありそうだった。
「先にカメラを入れれば」
「人を入れる話は終わりだ」
堀江の声は大きくなかった。
それで、透は口を閉じた。
「枠も岩も固定していない。今の装備でお前を入れる気はない。カメラなら、手前から届く範囲で設備に見てもらう」
透は壁から手を離した。
誰かを連れていこうとは思っていなかった。自分が先に見て、駄目なら戻ればいい。そのつもりだった。
だが、戻れなければ、ここにいる人たちが自分を救助することになる。
そんなことは、誰に言われなくても知っているはずだった。
ミカがいた場所を見たい。その気持ちばかりが先に立っていた。
透は手袋を外し、自分の頬を一度、強く叩いた。息を吐き、堀江へ顔を向ける。
「すみません。カメラでお願いします」
設備担当が細い棒を組み立て始めた。
透は隙間の正面から退き、台車の横へしゃがんだ。
指の間にたまった汗を拭い、回収物の容器へ目を向けた。まずはこれを、全員で地上へ持ち帰る。
*
カメラの映像が映るまでの間に、十二時になった。
透は中継機の表示を確かめ、地上へ通話をつないだ。
『ちょっと待って。
椅子の脚が鳴り、端末を持ち替える音がした。
『水瀬さん?』
「約束の電話。今、休憩してる」
『調べるのは、終わりましたか』
「予定のところは、だいたい。設備の記録器と、昔の録音機を回収できた。中の記録は上で調べるよ」
壁に映るライトの輪を見ながら話した。
葵の後ろで、湯を注ぐような音がする。
「そっちは、昼飯は?」
『安江さんと食べました。水瀬さんは?』
「まだ。これから食う」
堀江が横から、未開封の携帯食を差し出した。
透は受け取り、袋を開けた。電話をしていても、目は離してくれないらしい。
『音、しました』
「今開けた。ちゃんと食うよ」
口へ入れようとして、食べながらでは声が出ないと思い直す。
少し黙っていると、葵が聞いた。
『いつごろ、帰れますか』
「このあと上がる。記録を引き渡してからだから、夕方になると思う」
『わかりました』
短い返事だった。
透は、奥の調査を少し続けるかもしれない、と言い足しかけた。
堀江が設備担当へ指示している。
「カメラが届かなければ、今日はそこまで。人は通さない」
通話の向こうが静かになった。
『まだ、どこかへ行くんですか』
聞こえていたらしい。
透は袋の端を折り、正直に答えた。
「昔通ろうとした道が少し残ってて、見ておきたくなった。でも、今日は入らない」
『危ないところですか』
「ちゃんと支えてからじゃないと、入れないところだよ」
葵はすぐには返さなかった。
透も、大丈夫だと言い直さなかった。
『じゃあ、今日は帰ってきてください』
端末を持つ手へ、力が入った。
「うん。帰るよ」
『夕方、家にいます』
誰かに叱られるより、その言葉のほうが残った。
透は通話を終え、携帯食を食べた。水で流し込まず、最後まで噛んだ。
堀江が隣へしゃがむ。
「帰る時間、言ったんだな」
「夕方には」
「なら、余計な寄り道はなしだ」
透はうなずいた。
別の用事ができたから諦める、ということではなかった。最初に決めた範囲へ、ようやく自分も戻ってこられた気がした。
*
カメラは最初の角まで届いた。
画面には、倒れた案内板と、砂に埋もれた黄色い矢印が映っている。その先は天井から落ちた岩で塞がれていた。
「ここまで撮れれば、次の補強を考えられます」
設備担当が言った。
透は地図へ岩の位置を書き込んだ。今の形と、映像の撮影位置を一緒に残す。次に来る人が古い図面だけを見て判断しないよう、時刻も入れた。
帰りは透が台車の前へついた。
資材置き場まで戻ると、来るときに印をつけた床の空洞が広がっていた。
見えていた薄い板が一枚、下へ落ちている。
「止まって」
透が手を上げた。
右の壁際に残っていた通り道が、車輪一つ分ほど狭くなっていた。台車を傾ければ通せるかもしれないが、記録器の入ったケースを落としたくなかった。
頭の中で隣の部屋をたどる。
往路では長くなるので使わなかった通路が、資材置き場の裏へ回っていた。
「左の部屋から回ろう。段差が二つあるけど、床はつながってる」
堀江がうなずき、後ろの四人へ伝えた。
透は先に部屋へ入り、扉を押さえる。救助員がライトを向け、設備担当が空気を測った。
狭い段差では台車を止め、ケースだけを二人で持ち上げることになった。
「俺が下を持ちます。そっちは傾かないように」
重さを受け、透は一段ずつ足を進めた。
空の台車が後から上がってくる。平らな場所へケースを戻すと、監察担当が留め具を確かめた。
上へ運ぶために残しておく力が、今は役に立った。
階段の手前で最後の人数を数えた。
六人。台車一台。回収したケースと、使った機材。
透は誰も遅れていないことを目で確かめ、中継機を回収した。
「地上へ戻ります」
堀江へ声をかけると、階段へ向かいかけていた彼が足を止めた。
「今日は、それでいい」
透は十九階層の通路を振り返った。
奥の地形はまだ頭の中に残っている。けれど、知っているから今すぐ行かなければならないわけではない。
背嚢をかけ直し、先に上がった仲間を追った。
*
地上で記録器を引き渡し、装備を返し終えるころには、午後四時を回っていた。
透は家へ戻る前に、葵へ短い連絡を入れた。もう地下にはいないこと、三十分ほどで着くこと。
返事は、わかりました、だった。
玄関を開けると、葵は食卓にいた。
前には店の案内が広がっている。透を見ると紙を重ね、椅子から立ち上がった。
「おかえりなさい」
「ただいま。遅くならずに済んだ」
背嚢を床へ置くと、葵の目もそこへ動いた。
「怪我は?」
「今日はしてないよ」
いつも自分がしている質問だった。
笑いそうになったが、葵が袖口まで見ているので、上着を脱いで腕を動かして見せた。
「帰り道を変えたけど、全員ちゃんと上がれた。持って帰るものも渡してきた」
「そうですか」
葵は少し息を吐いた。
透は靴を揃え、部屋へ上がった。手を洗って戻ると、自分の席にコップが置かれていた。
礼を言って座る。自分で選んだ帰り道の地図を、ここまで確かめ続ける必要はもうなかった。透はようやく肩の力を抜いた。
地下で何があったか、まだ全部を話せる気はしなかった。それでも、帰ると言った日に、この椅子へ座れたことは確かだった。
「お茶、もう少しある?」
「あります」
葵が立ち上がる前に、自分で急須を取った。
向かいのコップにも少し足すと、彼女は両手で持ち、透が飲むのを待っていた。