調査から戻った翌日の午後、
箱は作業台の上で開かれている。取り外した蓋とねじが、別の皿に並んでいた。
透明な仕切りの向こうで、技術者が読み出した記録の写しを確認していた。
「保存されている部分は読めました。ただ、事故のあとで電源が落ちています。全期間の記録ではありません」
隣の机にいた
透の隣には
昨日の六人全員が集まったわけではない。現場の担当者は、設置場所や配線を確かめた写真と報告を先に提出している。
「時計は、合っているんですか」
透が聞くと、技術者は二つの時刻を並べた。
「正常に通信していた最後の記録を、地上側と照合しました。その時点で差は数秒です。九分の前後関係が逆になるずれではありません」
画面の行が、ゆっくり送られた。
午後一時四十二分。外部指令を受信。
北三号隔壁、閉鎖。
透は椅子の縁を握った。
「その指令は、どこから」
「現場の操作盤ではありません。設備管理の回線からです。発信元の記録と照合する必要があります」
続いて表示された欄には、設備保全、とあった。
その時点の記録には、ガス流入の警報はない。
「温度計の位置は、昨日確かめたほうですね」
「はい。別系統の漏れまで否定するものではありません」
透はうなずいた。
技術者が、北三号の図面へ温度計の位置を重ねた。ここで何を測り、何を測れなかったか。昨日撮った札の写真が、その隣へ並ぶ。
「一時五十一分に、閉鎖理由の追記を受信しています。高温ガス流入のおそれ。この文面は、後の報告書と一致します」
最初の閉鎖から、九分あとだった。
透は自分の持ってきた通信記録へ目を落とした。
一時四十七分には、まだミカと無線で話していた。扉が閉じられたあとも、彼女は生きて、救助を待っていた。
*
技術者が、別の容器から小さな録音機を出した。
貸出番号は、ミカの装備記録と一致していた。事故後の回収表には未回収と残っている。筐体は壊れていたが、内部の記録媒体は読み出せたという。
「こちらは無線の録音とは別です。現場で本人が録音を続けていました」
再生するか聞かれ、透はうなずいた。
『十三時五十四分。北の退避場所。通信、返事なし。照明はついてます』
透は顔を上げた。
自分が最後に聞いた声より、息が浅かった。それでも、ミカだった。
『携帯計器、温度はさっきと変わらず。ガスの警報なし。蒸気も見えません。足は動かせないです』
何かを擦る音がした。
『脱出できる穴、なし。引き続き待機します』
明智が一度止めた。
「本人が読み上げた時刻です。時計のずれも確認します。ここでは、彼女が観察して報告した範囲の記録として扱います」
透はうなずいた。早く続きを聞きたかった。
再び流れた録音には、呼吸と、遠くで水の落ちる音があった。
『……先輩。これ、帰れたら消すんで』
堀江が透を見た。
明智が再生を止め、端末へイヤホンをつないだ。
「ご本人に宛てた言葉のようです。先に、一人で聞きますか」
透はうなずいた。
担当者たちが席を外し、堀江も廊下で待つと言った。扉が閉まってから、透は続きを再生した。
『ゼリーばっかりで昼飯、済ませないでくださいよ。コンビニの飯も、同じのばっかり買わないで。野菜、避けてるの知ってるんすから』
少し笑うような息が入った。
『あと、寝てください。私が言わないと、また無茶するでしょ』
透は返事をしそうになった。
画面の再生位置だけが進んでいく。
『もし駄目だったら、お供えは、いつものパンでいいです。高いの買わなくていいんで。浮いたお金で、先輩がちゃんと食べて』
長い間があった。
息を吸い直す音が、二度聞こえた。
『本当は、先輩と結婚したかったです』
透は端末を握った。
ミカは笑ってごまかさなかった。次の言葉が出るまで、透も息ができなかった。
『まだ付き合ってもないのに、何言ってんだって話っすよね。でも、したかった』
声が震えた。
『先輩は、ちゃんと好きな人と結婚してください。私のところには、老衰で来てください。それ以外は、怒るんで』
透は口元を手で覆った。
わかったとは言えなかった。まだ、そんな先の話を聞きたくなかった。
録音の向こうで、何かが落ちた。
『……北側、落石音。一回。入口は、変わりません』
仕事の声へ戻ろうとしていた。
『計器、警報なし。照明、ついてます。救助待機、続けます』
そこからは、間を置いて短い報告が入った。
入口。明かり。返事のない通信機。
途中から声が聞き取れなくなり、衣擦れのような雑音だけが続いた。透は音量を上げた。何か話しているのではないかと、イヤホンを耳へ押し当てた。
雑音の合間に、かすかな声が聞こえた。
『……先輩。愛して……います』
透は息を止めた。
また雑音だけになった。もう一度声が聞こえないかと待ったが、やがて、それも途切れた。
画面には再生終了とあった。
透はイヤホンを外せなかった。
録音が止まった理由も、そのあとどれだけ生きていたかも、これだけではわからない。最後まで待っていたことだけが、わかった。
扉が静かに叩かれた。
しばらくしてから返事をすると、堀江が入ってきた。透は画面を伏せ、同じ姿勢で座っていた。
目の前の机には、何かを拭った跡があった。
「少し、待ってください」
「ああ」
堀江は向かいへ座った。
透が水を飲み、調査の話を続けられると言うまで、ほかの人を呼ばなかった。
明智たちが戻り、透は二つの記録を見比べた。設備が残した閉鎖の時刻と、ミカ自身の報告だった。
「閉じた時点で、本当に危険があったか。それは、まだわからないんですね」
「はい。録音でわかるのは、ミカさんのいた場所で、本人が警報や蒸気を確認していなかったことです。別の場所の危険まで否定はできません」
明智が答えた。
「ただ、救助中と知りながら、最初に設備保全を理由として閉鎖した記録は残っています。現場へは、その理由が届いていません。後から加えた説明だけでは、この判断の経緯を説明できません」
透は顔を上げた。
「誰が、設備を優先したのか」
「そこを、送信した側の記録と担当者の証言で確かめます」
鷹宮が机へ両手を置いた。
「私が危険情報を聞いたのは、この追記のあとだ。閉鎖から九分の間に何が起きていたか、当時は確かめきれなかった」
透は鷹宮を見た。
謝罪を受ければ終わる話ではなかった。助けてくれた人だからと、もういいですと言うこともできない。
「それも、記録に残してください」
「残す」
鷹宮は答えた。
明智が記録担当へ合図し、次に照会する項目を読み上げた。送信者、承認者、閉鎖前に受け取っていた危険情報。
透はその一つずつを聞いた。
自分が行けたはずだと繰り返すだけでは、ここまで来られなかった。
「この記録、今後なくなることはないですよね」
透が聞くと、明智は回収した箱を見た。
「原物は封をして保管します。読み出した記録も、確認用の写しを別に置きます。扱った担当者と作業内容を残します」
「俺にも、見たものの写しをもらえますか」
「関係者の情報を整理したうえで渡せます。今お渡しできるのは、今日確認した時刻の一覧です」
印刷された一枚を、透は受け取った。
九分間に起きたことが、数行で収まっている。録音の声も、扉の前で待った長さも、そこには書かれていなかった。
それでも、以前はこの数行さえ手元になかった。
堀江が一覧を見て、一つの時刻を指した。
「救助側が問い合わせた時刻も並べられますか。閉鎖した側に、人がいると届いていたかを確かめたい」
「そうします。受けた相手の通信記録も照会しています」
透は堀江を見た。
あのとき自分一人が叫んでいたように覚えているが、十八階層でも同じ問い合わせを繰り返していた人がいた。
堀江は一覧へ小さく印をつけ、紙を透へ戻した。
「持って帰ろう。続きも読むことになる」
*
解析室を出たあと、透は建物の裏のベンチへ座った。
堀江が隣へ来て、缶のコーヒーを置いた。
「甘いやつですか」
「文句があるなら、自分で買え」
透は缶を開けた。
一口飲むと、思ったより甘かった。
「あの道に入れてたら、って、まだ思います」
堀江は前を向いたまま聞いた。
「でも、入れたら必ず助けられたって言えるわけでもない。それが、嫌です」
「そうだな」
「あいつ、最後まで俺の飯の心配してた」
缶を持つ手が止まった。
堀江が何か言う前に、透は一度鼻をすすった。
「一緒に帰りたかったです」
言葉にすると、急に目の前がぼやけた。
堀江は肩へ手を置いた。強く叩かず、そのまま少し待っていた。
透はうつむいた。
ミカは戻らない。それでも、今は涙を止められなかった。
しばらくして、堀江が立ち上がった。
「次の確認も一緒に出る。連絡は俺にも回すよう頼んだ」
「ありがとうございます」
「お前の今の仕事まで、全部これに使うなよ」
透は顔を拭いて、うなずいた。
*
家へ帰ると、
透の顔を見て、一度火を弱めた。
「お茶、飲みますか」
「うん。頼む」
自分の椅子へ座り、上着を脱いだ。
葵は二つのコップを運び、向かいへ座った。何があったかとは、すぐに聞かなかった。
透は両手でコップを包んだ。
「前に話した、助けに行けなかった仲間のこと。昨日、録音機が見つかったんだ。俺の知らなかった声が、残ってた」
葵はうなずいた。
「桜井ミカっていう、攻略組の偵察をやってた後輩。よく飯に誘ってきて、俺が変な食い方すると怒るやつだった」
「変な食べ方ですか」
「飲むだけで済ませたり。お前も噛めって言われた」
葵はコップを見た。
透は少し笑い、すぐに笑えなくなった。
録音そのものを聞かせることはしなかった。今夜は、ミカがどんな人だったか、自分の言葉で話したかった。
「好きだったんだと思う。ちゃんと言う前に、ああなった」
言ってから、葵に何を答えさせようとしているのかと思った。
「ごめん。返事をしてほしいわけじゃないんだ。ただ、どういう人だったか、知っててほしくて」
葵は首を振った。
湯気の消えかけたコップへ視線を落とし、それから透を見た。
「聞いてます」
透は一口飲んだ。
助けられなかったときの話ばかりではなく、明日奢ってほしいと言われたことも話した。
葵は時々うなずき、透が言葉を探す間も席を立たなかった。