深層救助屋――帰還禁止の少女   作:病んでるくらいが一番

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本日は2話投稿です。こちらは1話目、第4章の最終話です。
このあとに「登場人物紹介(第4章まで)」を掲載しています。紹介には本話までの内容を含むため、先にこちらをお読みください。



第32話 私が選んだ名前

 翌朝、葵(あおい)は自分の部屋で、相談員から渡された書類を広げていた。

 通院の日程と、生活費についての説明。その下に、名前を確認するための紙が挟まっている。

 結城葵。

 自分で書いた文字だった。

 

 昨夜、水瀬透(みなせとおる)は、亡くなった後輩の話をした。

 桜井ミカ(さくらいみか)という人。透の食事を気にして、仕事が終わったあとも一緒に出かけていた人。

 好きだった、と聞いたとき、胸のあたりが少し固くなった。

 何かを取られたわけではない。自分が来るより、ずっと前のことだ。

 それでも、その人なら透が何を考えているのか、自分よりわかったのだろうと思った。

 

 台所から皿の触れる音がした。

 葵は紙を重ね、部屋の扉を開けた。

 透が朝食の皿を食卓へ運んでいる。今朝は卵と、焼いたパンだった。

 

「おはよう。眠れた?」

「はい」

 

 椅子を引くと、透はそれ以上聞かなかった。

 向かいに座り、パンを取る。目の周りは少し赤かったが、昨日帰ってきたときほどではない。

 葵は卵を一口食べた。

 透が何か言いかけて、やめる。

 

「昨日は、遅くまで付き合わせたな」

「眠くなかったです」

「そうか」

 

 透がコップを取った。

 葵はパンを皿へ戻し、口の中のものを飲み込んでから聞いた。

 

「その人のこと、まだ聞いてもいいですか」

 

 透は少し驚いた顔をした。

 

「ミカのこと?」

「はい。写真は、ありますか」

 

 透は端末を取り、画面を何度か送った。

 見せられた写真では、女の人がパンの袋を掲げて笑っていた。向かいには、今より少し若い透がいる。

 口へパンを詰めすぎて、こちらを見ていた。

 

「そんなに、一度に食べるんですか」

「撮るなら先に言えって、あとで言った」

 

 透が少し笑った。

 葵は写真を見た。知らない二人の時間だった。けれど、昨日透が話していた、遠慮なく昼飯へ誘う人の姿が、少し浮かぶようになった。

 

「楽しそうです」

「うん。楽しかった」

 

 そう答えた透の顔を、葵は見ていた。

 無理に笑っているわけではなさそうだった。

 写真を返して、残っていたパンを食べた。胸の固さは消えなかったが、見せてもらわなければよかったとは思わなかった。

 

 *

 

 食後、透が食卓を拭き終えるのを待って、葵は部屋から名前の紙を持ってきた。

 透は片づけていた布巾を置いた。

 

「相談員さんに出すやつ?」

「はい。名前のことで、話したいです」

 

 透が椅子へ戻った。

 葵は向かいに座り、紙を自分の前へ置いた。

 指で押さえていると、書いた文字が少し隠れた。

 

「この名前、私のものじゃなかったんです」

 

 透は紙を見て、それから葵を見た。

 

「前に使ってた名前が、別にあるってこと?」

 

 葵は首を振った。

 どこから話せばいいのか、昨日から考えていた。それでも、言葉は順番どおりに出てこなかった。

 

「地下に残ってる人がいます。水瀬さんたちが、捜してくれてる人です」

「うん」

「その人の名前は、結城明美(ゆうきあけみ)さんです」

 

 名前を口にすると、声を思い出した。

 設備の音が大きいときも、顔を近づけ、聞こえるまで同じことを言ってくれた。

 

「娘さんの話は、よくしてくれました。靴を左右逆に履いたとか、食べたくない野菜を皿の端へ集めるとか」

 

 透は小さくうなずいた。

 どれも、制御設備の操作を覚えるための話ではなかった。覚えなくても叱られない。正しく答える必要もなかった。

 それがうれしくて、葵は何度も続きを聞いた。

 

「私も、同じ野菜が食べられなかったらどうするのか、聞いたことがあります」

「何て言ってた?」

「小さく切ってみようか、って」

 

 葵は食卓の端を見た。

 まだ食べていないものが、地上にはたくさんある。どれが好きで、どれが嫌いか、自分でも全部は知らない。

 明美に作ってもらうことは、地下にいる間はできなかった。

 その約束まで話すと声が変わりそうだったので、葵は紙へ指を戻した。

 

「向こうでは、二番って呼ばれてました。私は、三番です」

 

 透の手が、机の上で止まった。

 葵は左の袖を引いた。

 隠したいわけではなかった。ただ、話していると、手首の奥が冷たくなる気がした。

 

「明美さんには、娘さんがいたんです。もう亡くなってるって。その子の名前が、葵でした」

 

 透は黙って聞いていた。

 その目を見ていると、先を言えなくなりそうだった。葵は紙へ視線を落とした。

 

「その人が、私につけたわけじゃないです。私が、勝手に」

 

 地下で名前を聞かれたとき、最初に浮かんだのがそれだった。

 番号を答えたくなかった。透に三番と呼ばれたくなかった。

 それ以外に、名乗れるものを知らなかった。

 

「あのとき、どうしても名前が欲しくて」

 

 口にすると、ひどく自分勝手なことに聞こえた。

 明美へ聞いてから名乗ったわけではない。自分の子どもの名前を使われて、嫌だと思うかもしれない。

 透も、嘘をつかれたと思うかもしれなかった。

 

 向かいで椅子が少し動いた。

 葵は顔を上げた。

 

「その名前で、今も呼んでほしい?」

 

 葵はうなずいた。

 一度では足りない気がして、言葉にもした。

 

「呼んでほしいです。あとで別の名前にできるって言われました。でも、これがいいです」

「わかった」

 

 透は紙へ手を伸ばさなかった。

 

「葵がそう呼んでほしいなら、俺はそう呼ぶよ」

 

 返事が簡単だったので、葵は続きを待った。

 けれど、訂正しようとも、他の名前を考えようとも言われなかった。

 

「明美さんには、まだ聞けてないです」

「そうだね。それは、俺が代わりにいいって言えることじゃない」

 

 透は少し考えてから続けた。

 

「聞けるように、捜してる。名前もわかったから、調べられることが増えるかもしれない」

 

 葵は紙の端を離した。

 戻ってきたら、聞きたいことがある。名前のことだけではなかった。外で食べたものも、買った服も、見せたいものが増えていた。

 それを考えると、喉の奥が詰まった。

 

「明美さんの名前を、捜索の担当にも伝えていい?」

 

 透が聞いた。

 

「はい。お願いします」

 

 透は端末へ名前を入れ、漢字が合っているか見せた。

 結城明美。

 葵がうなずくと、担当へ送る文を短く書いた。名前を聞いた相手が葵であること、捜索のために伝える了承を得たこと。

 地下での呼ばれ方も、別に添えた。

 

「これで送るよ」

 

 もう一度うなずいた。

 送信の表示が消えるまで、葵は画面を見ていた。

 

 *

 

 紙を部屋へ戻したあと、葵は玄関へ行った。

 昨日届いた荷物の箱が置かれている。透が自分の道具をまとめていた。

 

「今日は仕事ですか」

「午後に待機所へ顔を出す。明日の担当を確認してくるだけ」

 

 透は留め具を閉じた。

 葵は、予定を尋ねただけで、これからどうするか教えてもらえることを確かめた。

 ミカなら、ここで帰りの食事へ誘ったのだろうかと思った。

 真似をしたいわけではなかった。それでも、黙って待っているだけでは、言わないことは伝わらない。

 

「帰りに、お店に寄れますか」

「何が要る?」

「私も行きたいです。この前の洋食屋の向かいに、パンのお店がありました」

 

 透は時計を見た。

 

「夕方なら一緒に行けるよ。そこで待ち合わせる?」

 

 葵は少し迷った。

 道はわかる。けれど、今日は一人で待っているより、ここから一緒に歩きたかった。

 

「家まで、戻ってきてほしいです」

 

 透が顔を上げた。

 葵は、遠回りになるかと考えた。取り消す前に、返事があった。

 

「わかった。四時には戻る。それから行こう」

 

 葵はうなずいた。

 玄関の脇に、自分の靴がある。透が向きを変えようと手を出しかけ、途中で道具の箱を持ち直した。

 その手を見て、葵は少し笑った。

 

「何?」

「自分で、揃えておきます」

 

 透も笑った。玄関を出る前に、四時に、ともう一度言った。葵はその時刻を覚え、出かけるときに着る服を考えた。

 葵は靴先を玄関へ向け、二足の間を少し空けた。

 名前の紙は、あとで相談員へ渡す。書き直すところはなかった。

 

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