このあとに「登場人物紹介(第4章まで)」を掲載しています。紹介には本話までの内容を含むため、先にこちらをお読みください。
翌朝、
通院の日程と、生活費についての説明。その下に、名前を確認するための紙が挟まっている。
結城葵。
自分で書いた文字だった。
昨夜、
好きだった、と聞いたとき、胸のあたりが少し固くなった。
何かを取られたわけではない。自分が来るより、ずっと前のことだ。
それでも、その人なら透が何を考えているのか、自分よりわかったのだろうと思った。
台所から皿の触れる音がした。
葵は紙を重ね、部屋の扉を開けた。
透が朝食の皿を食卓へ運んでいる。今朝は卵と、焼いたパンだった。
「おはよう。眠れた?」
「はい」
椅子を引くと、透はそれ以上聞かなかった。
向かいに座り、パンを取る。目の周りは少し赤かったが、昨日帰ってきたときほどではない。
葵は卵を一口食べた。
透が何か言いかけて、やめる。
「昨日は、遅くまで付き合わせたな」
「眠くなかったです」
「そうか」
透がコップを取った。
葵はパンを皿へ戻し、口の中のものを飲み込んでから聞いた。
「その人のこと、まだ聞いてもいいですか」
透は少し驚いた顔をした。
「ミカのこと?」
「はい。写真は、ありますか」
透は端末を取り、画面を何度か送った。
見せられた写真では、女の人がパンの袋を掲げて笑っていた。向かいには、今より少し若い透がいる。
口へパンを詰めすぎて、こちらを見ていた。
「そんなに、一度に食べるんですか」
「撮るなら先に言えって、あとで言った」
透が少し笑った。
葵は写真を見た。知らない二人の時間だった。けれど、昨日透が話していた、遠慮なく昼飯へ誘う人の姿が、少し浮かぶようになった。
「楽しそうです」
「うん。楽しかった」
そう答えた透の顔を、葵は見ていた。
無理に笑っているわけではなさそうだった。
写真を返して、残っていたパンを食べた。胸の固さは消えなかったが、見せてもらわなければよかったとは思わなかった。
*
食後、透が食卓を拭き終えるのを待って、葵は部屋から名前の紙を持ってきた。
透は片づけていた布巾を置いた。
「相談員さんに出すやつ?」
「はい。名前のことで、話したいです」
透が椅子へ戻った。
葵は向かいに座り、紙を自分の前へ置いた。
指で押さえていると、書いた文字が少し隠れた。
「この名前、私のものじゃなかったんです」
透は紙を見て、それから葵を見た。
「前に使ってた名前が、別にあるってこと?」
葵は首を振った。
どこから話せばいいのか、昨日から考えていた。それでも、言葉は順番どおりに出てこなかった。
「地下に残ってる人がいます。水瀬さんたちが、捜してくれてる人です」
「うん」
「その人の名前は、
名前を口にすると、声を思い出した。
設備の音が大きいときも、顔を近づけ、聞こえるまで同じことを言ってくれた。
「娘さんの話は、よくしてくれました。靴を左右逆に履いたとか、食べたくない野菜を皿の端へ集めるとか」
透は小さくうなずいた。
どれも、制御設備の操作を覚えるための話ではなかった。覚えなくても叱られない。正しく答える必要もなかった。
それがうれしくて、葵は何度も続きを聞いた。
「私も、同じ野菜が食べられなかったらどうするのか、聞いたことがあります」
「何て言ってた?」
「小さく切ってみようか、って」
葵は食卓の端を見た。
まだ食べていないものが、地上にはたくさんある。どれが好きで、どれが嫌いか、自分でも全部は知らない。
明美に作ってもらうことは、地下にいる間はできなかった。
その約束まで話すと声が変わりそうだったので、葵は紙へ指を戻した。
「向こうでは、二番って呼ばれてました。私は、三番です」
透の手が、机の上で止まった。
葵は左の袖を引いた。
隠したいわけではなかった。ただ、話していると、手首の奥が冷たくなる気がした。
「明美さんには、娘さんがいたんです。もう亡くなってるって。その子の名前が、葵でした」
透は黙って聞いていた。
その目を見ていると、先を言えなくなりそうだった。葵は紙へ視線を落とした。
「その人が、私につけたわけじゃないです。私が、勝手に」
地下で名前を聞かれたとき、最初に浮かんだのがそれだった。
番号を答えたくなかった。透に三番と呼ばれたくなかった。
それ以外に、名乗れるものを知らなかった。
「あのとき、どうしても名前が欲しくて」
口にすると、ひどく自分勝手なことに聞こえた。
明美へ聞いてから名乗ったわけではない。自分の子どもの名前を使われて、嫌だと思うかもしれない。
透も、嘘をつかれたと思うかもしれなかった。
向かいで椅子が少し動いた。
葵は顔を上げた。
「その名前で、今も呼んでほしい?」
葵はうなずいた。
一度では足りない気がして、言葉にもした。
「呼んでほしいです。あとで別の名前にできるって言われました。でも、これがいいです」
「わかった」
透は紙へ手を伸ばさなかった。
「葵がそう呼んでほしいなら、俺はそう呼ぶよ」
返事が簡単だったので、葵は続きを待った。
けれど、訂正しようとも、他の名前を考えようとも言われなかった。
「明美さんには、まだ聞けてないです」
「そうだね。それは、俺が代わりにいいって言えることじゃない」
透は少し考えてから続けた。
「聞けるように、捜してる。名前もわかったから、調べられることが増えるかもしれない」
葵は紙の端を離した。
戻ってきたら、聞きたいことがある。名前のことだけではなかった。外で食べたものも、買った服も、見せたいものが増えていた。
それを考えると、喉の奥が詰まった。
「明美さんの名前を、捜索の担当にも伝えていい?」
透が聞いた。
「はい。お願いします」
透は端末へ名前を入れ、漢字が合っているか見せた。
結城明美。
葵がうなずくと、担当へ送る文を短く書いた。名前を聞いた相手が葵であること、捜索のために伝える了承を得たこと。
地下での呼ばれ方も、別に添えた。
「これで送るよ」
もう一度うなずいた。
送信の表示が消えるまで、葵は画面を見ていた。
*
紙を部屋へ戻したあと、葵は玄関へ行った。
昨日届いた荷物の箱が置かれている。透が自分の道具をまとめていた。
「今日は仕事ですか」
「午後に待機所へ顔を出す。明日の担当を確認してくるだけ」
透は留め具を閉じた。
葵は、予定を尋ねただけで、これからどうするか教えてもらえることを確かめた。
ミカなら、ここで帰りの食事へ誘ったのだろうかと思った。
真似をしたいわけではなかった。それでも、黙って待っているだけでは、言わないことは伝わらない。
「帰りに、お店に寄れますか」
「何が要る?」
「私も行きたいです。この前の洋食屋の向かいに、パンのお店がありました」
透は時計を見た。
「夕方なら一緒に行けるよ。そこで待ち合わせる?」
葵は少し迷った。
道はわかる。けれど、今日は一人で待っているより、ここから一緒に歩きたかった。
「家まで、戻ってきてほしいです」
透が顔を上げた。
葵は、遠回りになるかと考えた。取り消す前に、返事があった。
「わかった。四時には戻る。それから行こう」
葵はうなずいた。
玄関の脇に、自分の靴がある。透が向きを変えようと手を出しかけ、途中で道具の箱を持ち直した。
その手を見て、葵は少し笑った。
「何?」
「自分で、揃えておきます」
透も笑った。玄関を出る前に、四時に、ともう一度言った。葵はその時刻を覚え、出かけるときに着る服を考えた。
葵は靴先を玄関へ向け、二足の間を少し空けた。
名前の紙は、あとで相談員へ渡す。書き直すところはなかった。