第33話 迎えの車
病院の窓から、白い車が見えた。
救急車ではない。後部の扉に地下資源省の標章があり、運転手が玄関の庇の下に立っている。
三日前、約束どおり四時に家へ戻り、二人でパン屋へ行った。葵は棚の前で長く迷い、結局、自分の分を二つ買った。一つは翌朝に食べると言って、大事に袋を閉じていた。
今日はその店の前を通って病院へ来た。帰りにも寄ろうかと話していた。
迎えを頼んだ覚えはない。
診察室の扉が開いた。葵の後ろから看護師が出てきて、透にも中へ入るよう促した。
担当医の机には、診察の記録とは別に、数枚の書類が置かれていた。
「専門施設での検査を勧める文書が届きました。地下資源省の資源政策局からです」
医師は、まず葵を見て話した。
「こちらが紹介したものではありません。今日、そのまま移る必要はありません」
「外の車は、それですか」
透が聞くと、医師はうなずいた。
「先方には、受け入れを決めていないと伝えています。移送の日程まで一方的に記載されていました」
文書には、二十一階層で起きた接続時の負担が挙げられていた。資源政策局が設備の点検で得た作動記録によれば、既存の検査では把握しきれない危険があるという。
その下に、施設名と本日の日付があった。
葵は左手を机の下の膝へ引いた。
「そこへ行ったら、何をするんですか」
「私も、それを聞いています」
医師が別の紙を出した。
検査の内容。機構へ接続するかどうか。担当する医師。途中で帰りたいと言ったときの対応。病院から送った質問だった。
回答欄は空いていた。
「手首の検査結果から、急いでこの施設へ移さなければならない状態とは判断していません。検査を追加するなら、内容を確かめてから相談しましょう」
葵は文書を見たまま、短く息を吐いた。
透は車のところへ行くのを思いとどまった。ここで運転手に詰め寄っても、検査の説明が返ってくるわけではない。
「管理局にも連絡していいですか」
「私からも連絡を入れました。先に、ご本人のお考えを聞いてほしいと言われています」
医師が言葉を切った。
葵は膝の上で右手を開いた。
「行きたくないです。今は、ここで診てもらいたいです」
「わかりました。そのように返します」
透はうなずいてから、ようやく番号札を机へ置いた。掌に角の跡がついていた。
*
病院の相談室に、
透は葵に、この場にいるかどうかを先に尋ねた。彼女は椅子を引き、透の隣へ座った。
『送付元には私から返答する。あの車を出した手続きも確認する』
「今までの、情報をよこせって話とは違いますよね」
『ああ。検査先の提案に見せて、もう移送の段取りを組んでいる』
透は紙を見た。
同意する欄には葵の名前だけが印刷されていて、署名はなかった。それでも出発予定時刻は決まっていた。
「迎えが来たら、決まったことだと思ってしまいます」
葵が言った。
明智はその言葉をメモしてから、文書を鞄へ入れた。
「原本は病院で保管してもらいます。こちらは写しです。車が来た時刻と、受付で先方が何を言ったかも確認します」
「この施設、二年前のところと同じですか」
透の問いに、明智は首を振った。
「住所は別です。ただ、検査の根拠を作成した部署は、北三号連絡路の封鎖理由を出した部署と重なります」
それだけで全て同じ企てだとは言えない。明智は続けて、今確かめられることを挙げた。
二年前の現場では、説明の根拠になった別紙が救助側へ渡されていなかった。今回も、必要だとする検査の内容が来ていない。
送られてきた結論だけで動かないために、作成者と根拠資料を尋ねる。
『病院は診療上の判断をする。管理局は設備の危険情報を調べる』
鷹宮の声に、透は肩の力を抜いた。
透は車の標章と時刻を端末へ記録した。
「葵。帰りは車を呼ぶよ。玄関が嫌なら、別の出口も聞ける」
「玄関でいいです」
葵は少し間を置いた。
「水瀬さんと帰ります」
明智が受付へ確認に出たあと、透は窓際に立った。白い車はまだ動いていない。
隣へ来た葵が、同じものを見た。
「私が乗るまで、待ってるんでしょうか」
「乗らないって返事を、病院から渡してくれる」
「はい」
「帰り、パン屋へ寄る?」
言ってから、今それを聞くのは早かったかと思った。
葵は窓から目を離した。
「今日は、甘いのにします」
彼女が鞄の持ち手を直す間、透は自分の端末をしまった。呼ぶ車の乗り場を、受付で確かめることにした。
玄関へ下りると、白い車の運転手が立ち上がった。
こちらへ来ようとしたが、受付の職員が先に声をかけた。
「本日の移送はありません。お渡しした返答をご確認ください」
「私は、迎えに来るように言われただけですので」
「手配した方へ、そのようにお伝えください」
職員は葵の名前を呼ばなかった。
透も車の行き先を問い詰めず、病院が呼んだ車を待った。葵は透の少し後ろに立ち、鞄を両手で持っている。
迎えの車が玄関へ着くと、透は先に車体の番号を確かめた。
「こっちだよ」
葵が乗り込むまで、扉の端を押さえた。
発車してから振り返ると、彼女はようやく鞄を膝へ下ろした。窓の外を見ているが、病院のほうへ顔を戻そうとはしない。
「パン屋の前で、降りてもいいですか」
「うん。そこから歩いて帰ろう」
透が運転手へ行き先を伝えると、葵は膝の上で、きつく握っていた持ち手を伸ばした。
*
「車は戻せ」
机の前に立つ部下が、端末を操作した。
「再調整の日程は」
「今は戻せと言った。玄関で待たせれば、向こうの記録が一つ増えるだけだ」
窓の外では、採掘会社の役員を乗せた車が庁舎へ入ってきていた。三十分後には、供給の回復見通しを説明しなければならない。
地下の実績を示す資料には、停止中の区画が赤く塗られていた。
「検査の根拠まで求められています」
「医療用に出せる範囲を整理しろ。設備側の説明をそのまま送るな」
「それと、監察から部品の納入記録へ照会が来ています」
黒瀬の手が止まった。
「どの部品だ」
「接続用生体ユニットの固定器と、測定用の基板です。旧施設へ納めたものを、請求書の番号で追っています」
部下は画面を差し出した。
閲覧対象には、廃止済みの契約まで含まれていた。
「納入業者には、こちらで説明すると伝えろ」
「既に記録の保全を求められています。元の保守担当も、監察側の窓口を通すとのことで」
「誰が先に話した」
声が大きくなった。部下の指が止まり、黒瀬は背もたれへ身を預けた。
名前を聞いても、その人物が今どこにいるかを自由に調べられるわけではない。監察が間に入った以上、不用意な連絡は残る。
「聞いているのは、誰が、何を出したかだ。まとめて『調査中』で済ませるな」
「確認します」
「確認してから持ってこい」
黒瀬は机の資料を裏返した。
部品の納入記録だけなら、設備試験の範囲で説明できる。だが、使用された場所と対象まで結びつけられれば、言い方を変えるだけでは足りない。
予定されている次の適性検査についても、書類が別々に残っていた。
「来週の移送予定を、担当ごとに出させろ」
「延期ですか」
「まだ決めていない。誰に何を説明するか、先に揃えろ」
部下が退室すると、黒瀬は裏返していた供給計画を表向きに戻した。
今日も採掘量を上げる約束はできない。それを告げる相手は、病院の医師よりずっと長く、この机の前に座るだろう。
呼び出しの音が鳴った。
黒瀬は紙の赤い区画を指で押さえたまま、応答した。