少女を座らせたまま運び出せる幅はなかった。
本人に少し動いてもらう必要があった。
「入口まで、俺につかまって歩けるか。そこを出れば休める」
少女は容器のふたを閉め、立ち上がろうとした。
膝が伸びきる前に体が傾く。透は脇を支え、壁にぶつかるのを防いだ。
「ゆっくりでいいよ。足をつけられそう?」
「はい」
返事に合わせて体を起こす。少女の手が透の腕をつかんだ。力は弱いが、離さずにいてくれる。
一歩進むたび、呼吸が近くで聞こえた。
入口を抜け、透は壁際に敷いた断熱のマットへ少女を座らせた。
余裕のある場所で見ると、ずいぶん小柄だった。保温具の下で、両脚が揃えられている。借りてきたものを汚さないようにしているようにも見えた。
「ここなら少し広いな。荷物を替えるから待ってて」
透は背嚢を下ろした。
肩を回すと、少女がこちらを見た。
「……重いですか」
「荷物のほうがな。詰めすぎた」
笑ってみたが、少女は視線を膝へ戻した。
冗談に付き合う余裕がないのはわかっている。それでも、黙っていると落ち着かず、つい話しかけてしまう。
予備のヘルメットを取り出し、内側の調節具を緩めた。
「そうだ、まだ名前を聞いてなかったね。教えてもらえるかな」
少女が口を開く。
何か言いかけて、閉じた。
透はヘルメットへ目を落とした。大きすぎないように、後ろのベルトを縮める。急いでいるように見せないため、留め具をもう一度確かめた。
「……あおい」
手が止まった。
「あおい?」
少女はうなずき、今度は顔を上げた。
「
「結城さんだな。俺は水瀬透。さっき無線で言ったけど、ちゃんと自己紹介してなかった」
葵は透の胸についた名札を見た。
擦れてはいるが、名前はまだ読める。読んだあと、透の顔へ視線が戻った。
「年はいくつ?」
「十八」
「わかった。かぶせてもいいか」
ヘルメットを示すと、葵が頭を下げた。
白い髪を挟まないように持ち上げる。左耳の後ろに、細い黒い房があった。白い髪の中で、そこだけが濡れたように濃い。
留め具に指を通し、きつさを尋ねた。
「痛くない? 横が当たってない?」
「大丈夫です」
「顎の下は」
「大丈夫です」
透は手を離した。
少し聞きすぎている。
首元の無線を押し、状態を伝えた。
葵は答えられることには答えたが、ここへ来た理由を尋ねると黙った。
「身元の話はあとにしよう。今は運ぶほうを先にする」
そう伝えると、きなこもそれ以上は求めなかった。
透は足元の履物を見た。
薄い室内履きだった。踵の潰れた部分を直そうとして、底の布が剥がれていることに気づく。これで石の上を歩いてきたのか。
「履物も替えたいけど、今は大きいのしかないな」
背嚢に入っているのは、泥水を避けるための靴の覆いだ。素足に合うものではない。
透は無線で、地上へ着いたら小さい履物を用意してほしいと頼んだ。
「捨てるんですか」
葵の声に、手を止める。
「これ? 血がついてるから、袋へ入れようと思ったんだけど」
少女は手を伸ばし、片方の履物を取った。
踵の内側に、小さな縫い目があった。破れたところを別の色の糸で繕っている。もう片方にも、同じ色の糸が使われていた。
「……持っていっても、いいですか」
「もちろん。落とさないよう、口を閉じられる袋に入れよう」
透は透明の袋を開き、少女が両方を入れるのを待った。
入口を閉じたあと、見えるように背嚢の横のポケットへ収める。葵はそれを確かめてから手を離した。
救急用品からガーゼを取り出し、足の擦れた部分に当ててテープで留める。その上から保温用の靴下を履かせた。
葵は途中で一度足を引いたが、透が手を止めると、自分からゆっくり差し出し直した。
「痛いときは、我慢しなくていいから」
返事はなかった。それでも今度は、布が踵に触れたところで彼女の指が上がった。
透は力を緩めた。
『十九の東側、上の扉には後続が到達しました。鍵の照会中です。西階段へは担架が入りません』
「こっちもそのつもり。東へ出られるか見る」
透は葵を見た。彼女が歩いてきた狭い通路の先が、どうしても気になった。
「結城さん。無線をかけてくれた人の場所、わかる?」
葵の手が保温具をつかんだ。
「戻れません」
「どうして戻れないんだ?」
「扉を閉めたから。あの人が」
透は頭の中の地形を確かめた。
狭い通路は、奥で分厚い仕切りに突き当たっている。その向こうにも空間はあるが、人を探せるわけではない。
「向こうへ行く別の道はある?」
葵が首を振った。
容器を持つ指が震え始めていた。透は質問を止める。
生存者がいるかもしれない場所を、見なかったことにはできない。
だが、目の前の少女を置いて一人で戻るわけにもいかなかった。
「田中さん。発信者は未確認。奥の区画が閉鎖されてる。場所を送るので、別の入口がないか調べてほしい」
『受けました。こちらで追います』
葵の呼吸が落ち着くのを待ち、透は救助帯を広げた。
「ここからは俺が背負う。背負ったまま通れないところだけ、自分で歩いてくれるかな?」
「歩けます」
「さっきより先は長い。足も傷めてるし、途中で歩けなくなるより今乗ってほしい」
葵は通路の先を見ていた。
その視線につられ、透も見る。何も動いていない。返事を待つうちに、彼女が小さくうなずいた。
背嚢を前へ回し、少女を背に乗せる。
誰かに背負われる姿勢に慣れていないらしい。腕をどこへ置くか迷っていたので、肩を示した。
「ここにつかまって。首は、できれば締めないでくれると助かる」
指が防護布の縁をつかんだ。
透は帯の留め具を確かめ、立った。
軽かった。
さっき運んだ探索者と比べるまでもない。少女の体温が背中に触れ、透は無意味に視線を壁へ向けた。
今、余計なことを考えるな。
「揺らすけど、痛かったら言って」
肩のそばで返事があった。
透はまず、自分が入ってきた廊下へ足を向けた。そこを戻れば、東へ渡る幅の広い通路に出る。
葵が防護布を引いた。
「そっちは」
「どうした?」
「閉まります」
透は立ち止まった。
廊下はまだつながっている。壁の奥で、小さく金属が鳴った。
「何が閉まる?」
「向こうの、四角いところ。床に黄色い線があるところです」
ライトを伸ばす。
確かに、床にかすれた黄色の線が二本あった。壁の切れ目を挟んで、同じ幅で引かれている。
透が二歩下がると、線の内側へ壁が張り出した。
石の板が動いている。
機械の扉ほど滑らかではない。砂がこぼれ、低い音とともに廊下の幅が狭まっていく。向こうに見えていた曲がり角が、やがて消えた。
透は、閉じた壁を見つめた。
通る直前だった。
「……よくわかったな」
背中から返事はない。
透は少し待ってから、聞き方を変えた。
「音でわかった?」
「音と、上の灯り」
壁際の管に、小さな表示灯がついていた。赤と白が交互についていたものが、白だけになっている。
透には、機械の点検灯にしか見えなかった。
「ありがとう。見落としてた」
葵がつかんでいた防護布から、少しだけ力が抜けた。
透は意識を集中し、頭の中の地図を更新した。閉じた場所を避けると、帰路は長くなる。さらに別の壁も動いている。
端末の図面へ新しい線を引く。
さっきまでの道を信じて進んだら、いずれ行き止まりになる。
「田中さん。予定変更。区画の壁が動いてる。帰り道を取り直す」
無線の返事は、ひどく遠く聞こえた。