深層救助屋――帰還禁止の少女   作:病んでるくらいが一番

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第5話 閉じる通路

 壁が動いたのは、一か所だけではなかった。

 

 水瀬透(みなせとおる)は、十九階層の通路を頭の中でたどり直した。少し前まで四つあった東への経路は、二つになっている。その一つも、途中の床が大きく沈んでいた。

 

 背中の結城葵(ゆうきあおい)は静かだった。

 眠ったのかと思い、肩越しに声をかける。

 

「結城さん、起きてる?」

「はい」

「少し遠回りになる。気分が悪かったら言ってくれ」

 

 背中で顔が動いた。

 目を合わせようとしても、ヘルメットが邪魔をする。透は前を向いた。

 

「……わかりました」

 

 先ほどから、返事をさせてばかりいる。

 呼吸の様子は確かめたいが、返事をするのもつらそうだ。あまり話しかけずに休ませようと思ったそばから、水を飲みたいか聞きかけた。

 口を閉じ、先へ進む。

 

 無線に呼びかけても、管制の声は途切れたままだった。

 階段に置いた一台目との間に、壁が増えたせいだろう。透は二台目の中継機を取り出し、一台目からの電波を拾える場所を探して廊下を戻った。

 曲がり角の手前で、細い接続表示が一本つく。

 

「ここならどうだ」

 

『……聞こえます。水瀬さん、今どちらですか』

 

 田中きなこ(たなかきなこ)の声に、透は息を吐いた。

 

「西の制御区画を出たところ。壁が変わって、最初の東行きは使えない。排水設備を回る」

『排水設備は下へ降りる道しか図面にありません』

「上へ抜ける空間もある。そこから引き上げてもらえないか確認したい。東の扉を確認してくれてる人につないで」

 

 二台目を柱へ留め、中継を始める。この角で電波を受けて送り直せば、東へ進んでも、もうしばらくは管制と話せる。

 これで手持ちはなくなる。次に届かなくなったら、自分からここまで戻らなければいけない。

 

 別の男の声が入った。

 

『後続隊です。十八の東保守扉、開きました。下への階段も途中まで確認済みです』

「ありがとう。今、上り口はそっちから見える?」

『十九側の踊り場で浸水しています。通常の階段へは下りられません。点検足場のほうなら近づけます』

 

 透は葵の脚を支え直した。

 水の深さも流れも、地形を読むだけでは判断できない。

 

「そっちへ出る。人を引き上げられる設備がないか、調べておいてほしい」

『足場の上に巻き上げ機があります。ただ、古い設備なので、人を吊れるものか、荷重表示と状態を確認します』

 

 透は頭の中で、西階段までの道をたどった。

 階段までは戻れる。だが、崩落の隙間は葵を背負って通れる幅ではない。後続のいる東側から引き上げてもらうほうが、彼女を運び出せる見込みがある。

 

「搬送先を東へ変更。到達見込みは二十五分。遅れるなら途中で知らせる」

 

 連絡を終え、透は中継機から離れた。

 葵が、首元の無線を見ている気配がした。

 

「迎えの人たちが、上まで来てくれた」

「……何人ですか」

「三人。誰か苦手な人がいるなら、会う前に言って」

 

 返事はなかった。

 誰かを思い出しているようにも見えたが、透にはわからない。

 

 廊下の先で、空気が流れていた。

 頬に当たる風が冷たい。壁の下に、水の筋が走っている。透は一度立ち止まり、頭の中の地図を更新した。

 左の通路が閉じた。今いる場所の後ろも、狭まり始めている。

 

 こめかみが痛んだ。

 一つずつ見ていたのでは追いつかない。動く場所をまとめて捉えようとした途端、目の前の床が遠のくように感じた。次の一歩を踏み出せず、足を止める。

 

 透は壁へ手をついた。

 

「……ちょっと待って」

 

 葵の腕に力が入った。

 

「落ちないから。大丈夫」

 

 自分の足元を見て、靴先と床の継ぎ目を確かめる。実際に見えるものへ意識を戻すと、壁が迫るような感覚は薄れた。

 また歩き出したところで、葵が言った。

 

「右です」

「東は左なんだけど」

「左は、下がります。水が来ます」

 

 透は足を止め、左へライトを向けた。

 床の継ぎ目から、水が滲んでいる。正面の壁には、彼女がさっき教えたものに似た灯りがついていた。

 

「右からでも排水の部屋へ出られる?」

「出られます。階段が、少しあります」

 

 地形のつながりは確認できた。右の道は途中で上がり、部屋の高い位置へ出る。

 

「そっちにしよう」

 

 透は無線へ変更を伝えた。

 今度は返事が届いた。中継機はまだ働いている。

 

「ここ、何度も通った?」

 

 歩き出してから透が聞くと、葵は少し考えた。

 

「通ってないです。向こうは、見るところがあったから」

「窓?」

「画面です。道とか、水の流れとか」

 

 透は足を止めずに聞いた。

 設備の画面を見たことがあれば、機械の動作を知っていてもおかしくない。だが、それを知る少女が、室内履きで倒れるまで歩いていた理由は残る。

 

「水瀬さんは、ここを通ったことがあるんですか」

「いや、ここは初めてだよ」

 

 肩に添えられた手が動いた。

 

「じゃあ、どうして道が」

「場所の形がわかるんだ。見えないところも、通路ならつながりをたどれる。ただ、誰がいるかまではわからない」

「……そういうのも、あるんですね」

 

 スキルのことを答えると、それ以上は聞かれなかった。葵の知るものと自分の知るものは、ずいぶん違うらしい。

 その違いについて考えるのは、地上へ出てからにした。

 

 右の通路には、低い天井と浅い水溜まりが続いていた。管から落ちる雫が、ヘルメットを小さく叩く。

 葵の靴下を濡らさないよう、脚を少し持ち上げた。

 

 そのとき、左側の格子の奥で、何かが走った。

 

 透は体を壁へ寄せる。

 骨猿だった。格子へ指をかけ、顔を隙間に押し込んでくる。細い歯がむき出しになり、腕が届きそうなところまで伸びた。

 

「顔、伏せて」

 

 葵のヘルメットが肩に触れた。

 透は距離を取り、格子と並行して歩く。魔物も追った。数メートル先では、格子が途中で折れている。

 

 走れば間に合うか。

 葵の脚が脇腹へ触れ、透はその考えを捨てた。角を曲がった先が乾いている保証はない。

 

 手の届く高さに、仕切り戸の取っ手があった。

 古いが、戸は壁の中へ収まっている。透は近づく前に葵へ言った。

 

「一度屈む。しっかりつかまって」

 

 格子越しに煙幕を投げた。

 目の前の骨猿が腕を引っ込める。白く膨らんだ煙へ顔を突っ込み、こちらを探して横へ走った。

 透は取っ手をつかみ、体重をかけた。

 

 戸は半分まで動いて止まった。

 

 足元を見る。床の溝に、小さな石が噛んでいた。

 煙の向こうで、爪が格子を鳴らす。透は膝をつき、指で石をかき出した。手袋が引っかかり、引きちぎるように抜く。

 もう一度引いた戸が、勢いよく閉まった。

 

 向こうで格子が大きく軋んだ。

 透は戸を押さえ、頭上の掛け金を落とす。それからようやく背中へ声をかけた。

 

「もう通れたよ。顔を上げていいからね」

 

 葵は何も言わなかった。

 肩を握る手が固まっている。透は自分の手の甲を確かめ、破れた手袋の上から指を曲げた。擦れただけだ。

 

「あと何分……ですか」

 

 葵の声は、耳元でも小さかった。

 

「排水の部屋までなら、五分くらい」

「外まで」

 

 透はすぐに答えられなかった。

 地上への昇降機が動いていて、後続が待っていて、今度こそ道が閉じなければ。そんな条件を並べても、彼女を疲れさせるだけだ。

 

「まだ、はっきり言えない。上へ出るところを、先に確認してもらってる」

 

 葵の指が少し動いた。

 

「そう、ですか」

 

 責める声ではなかった。

 透は、早く着くと言わなかった自分を、今だけは褒めてやりたくなった。

 

 階段を上がると、風の音が大きくなった。

 廊下が終わり、目の前に広い空間が開ける。

 ライトの下で、黒い水面が動いていた。

 

 向こう側の壁には、上へ続く階段があった。その下半分は水に沈んでいる。高いところに扉があり、小さな白い光が点滅した。

 

『こちら後続。下に見えるのが先行ですか』

 

 透はライトを二度振った。

 

「そう。二人いる。迎えを頼む」

 

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