壁が動いたのは、一か所だけではなかった。
背中の
眠ったのかと思い、肩越しに声をかける。
「結城さん、起きてる?」
「はい」
「少し遠回りになる。気分が悪かったら言ってくれ」
背中で顔が動いた。
目を合わせようとしても、ヘルメットが邪魔をする。透は前を向いた。
「……わかりました」
先ほどから、返事をさせてばかりいる。
呼吸の様子は確かめたいが、返事をするのもつらそうだ。あまり話しかけずに休ませようと思ったそばから、水を飲みたいか聞きかけた。
口を閉じ、先へ進む。
無線に呼びかけても、管制の声は途切れたままだった。
階段に置いた一台目との間に、壁が増えたせいだろう。透は二台目の中継機を取り出し、一台目からの電波を拾える場所を探して廊下を戻った。
曲がり角の手前で、細い接続表示が一本つく。
「ここならどうだ」
『……聞こえます。水瀬さん、今どちらですか』
「西の制御区画を出たところ。壁が変わって、最初の東行きは使えない。排水設備を回る」
『排水設備は下へ降りる道しか図面にありません』
「上へ抜ける空間もある。そこから引き上げてもらえないか確認したい。東の扉を確認してくれてる人につないで」
二台目を柱へ留め、中継を始める。この角で電波を受けて送り直せば、東へ進んでも、もうしばらくは管制と話せる。
これで手持ちはなくなる。次に届かなくなったら、自分からここまで戻らなければいけない。
別の男の声が入った。
『後続隊です。十八の東保守扉、開きました。下への階段も途中まで確認済みです』
「ありがとう。今、上り口はそっちから見える?」
『十九側の踊り場で浸水しています。通常の階段へは下りられません。点検足場のほうなら近づけます』
透は葵の脚を支え直した。
水の深さも流れも、地形を読むだけでは判断できない。
「そっちへ出る。人を引き上げられる設備がないか、調べておいてほしい」
『足場の上に巻き上げ機があります。ただ、古い設備なので、人を吊れるものか、荷重表示と状態を確認します』
透は頭の中で、西階段までの道をたどった。
階段までは戻れる。だが、崩落の隙間は葵を背負って通れる幅ではない。後続のいる東側から引き上げてもらうほうが、彼女を運び出せる見込みがある。
「搬送先を東へ変更。到達見込みは二十五分。遅れるなら途中で知らせる」
連絡を終え、透は中継機から離れた。
葵が、首元の無線を見ている気配がした。
「迎えの人たちが、上まで来てくれた」
「……何人ですか」
「三人。誰か苦手な人がいるなら、会う前に言って」
返事はなかった。
誰かを思い出しているようにも見えたが、透にはわからない。
廊下の先で、空気が流れていた。
頬に当たる風が冷たい。壁の下に、水の筋が走っている。透は一度立ち止まり、頭の中の地図を更新した。
左の通路が閉じた。今いる場所の後ろも、狭まり始めている。
こめかみが痛んだ。
一つずつ見ていたのでは追いつかない。動く場所をまとめて捉えようとした途端、目の前の床が遠のくように感じた。次の一歩を踏み出せず、足を止める。
透は壁へ手をついた。
「……ちょっと待って」
葵の腕に力が入った。
「落ちないから。大丈夫」
自分の足元を見て、靴先と床の継ぎ目を確かめる。実際に見えるものへ意識を戻すと、壁が迫るような感覚は薄れた。
また歩き出したところで、葵が言った。
「右です」
「東は左なんだけど」
「左は、下がります。水が来ます」
透は足を止め、左へライトを向けた。
床の継ぎ目から、水が滲んでいる。正面の壁には、彼女がさっき教えたものに似た灯りがついていた。
「右からでも排水の部屋へ出られる?」
「出られます。階段が、少しあります」
地形のつながりは確認できた。右の道は途中で上がり、部屋の高い位置へ出る。
「そっちにしよう」
透は無線へ変更を伝えた。
今度は返事が届いた。中継機はまだ働いている。
「ここ、何度も通った?」
歩き出してから透が聞くと、葵は少し考えた。
「通ってないです。向こうは、見るところがあったから」
「窓?」
「画面です。道とか、水の流れとか」
透は足を止めずに聞いた。
設備の画面を見たことがあれば、機械の動作を知っていてもおかしくない。だが、それを知る少女が、室内履きで倒れるまで歩いていた理由は残る。
「水瀬さんは、ここを通ったことがあるんですか」
「いや、ここは初めてだよ」
肩に添えられた手が動いた。
「じゃあ、どうして道が」
「場所の形がわかるんだ。見えないところも、通路ならつながりをたどれる。ただ、誰がいるかまではわからない」
「……そういうのも、あるんですね」
スキルのことを答えると、それ以上は聞かれなかった。葵の知るものと自分の知るものは、ずいぶん違うらしい。
その違いについて考えるのは、地上へ出てからにした。
右の通路には、低い天井と浅い水溜まりが続いていた。管から落ちる雫が、ヘルメットを小さく叩く。
葵の靴下を濡らさないよう、脚を少し持ち上げた。
そのとき、左側の格子の奥で、何かが走った。
透は体を壁へ寄せる。
骨猿だった。格子へ指をかけ、顔を隙間に押し込んでくる。細い歯がむき出しになり、腕が届きそうなところまで伸びた。
「顔、伏せて」
葵のヘルメットが肩に触れた。
透は距離を取り、格子と並行して歩く。魔物も追った。数メートル先では、格子が途中で折れている。
走れば間に合うか。
葵の脚が脇腹へ触れ、透はその考えを捨てた。角を曲がった先が乾いている保証はない。
手の届く高さに、仕切り戸の取っ手があった。
古いが、戸は壁の中へ収まっている。透は近づく前に葵へ言った。
「一度屈む。しっかりつかまって」
格子越しに煙幕を投げた。
目の前の骨猿が腕を引っ込める。白く膨らんだ煙へ顔を突っ込み、こちらを探して横へ走った。
透は取っ手をつかみ、体重をかけた。
戸は半分まで動いて止まった。
足元を見る。床の溝に、小さな石が噛んでいた。
煙の向こうで、爪が格子を鳴らす。透は膝をつき、指で石をかき出した。手袋が引っかかり、引きちぎるように抜く。
もう一度引いた戸が、勢いよく閉まった。
向こうで格子が大きく軋んだ。
透は戸を押さえ、頭上の掛け金を落とす。それからようやく背中へ声をかけた。
「もう通れたよ。顔を上げていいからね」
葵は何も言わなかった。
肩を握る手が固まっている。透は自分の手の甲を確かめ、破れた手袋の上から指を曲げた。擦れただけだ。
「あと何分……ですか」
葵の声は、耳元でも小さかった。
「排水の部屋までなら、五分くらい」
「外まで」
透はすぐに答えられなかった。
地上への昇降機が動いていて、後続が待っていて、今度こそ道が閉じなければ。そんな条件を並べても、彼女を疲れさせるだけだ。
「まだ、はっきり言えない。上へ出るところを、先に確認してもらってる」
葵の指が少し動いた。
「そう、ですか」
責める声ではなかった。
透は、早く着くと言わなかった自分を、今だけは褒めてやりたくなった。
階段を上がると、風の音が大きくなった。
廊下が終わり、目の前に広い空間が開ける。
ライトの下で、黒い水面が動いていた。
向こう側の壁には、上へ続く階段があった。その下半分は水に沈んでいる。高いところに扉があり、小さな白い光が点滅した。
『こちら後続。下に見えるのが先行ですか』
透はライトを二度振った。
「そう。二人いる。迎えを頼む」