東の保守階段は、下の部分が水に沈んでいた。その上にある扉の前で、後続の救助隊三人がライトを動かしている。
壁に沿って迂回すれば、その真下まで行ける。途中の通路は細いが、幅は足りていた。
『そちらから右回りで、巻上機の下へ来られますか』
後続隊長が無線で尋ねた。
「行ける。上の機械は使えそう?」
『本体は点検しました。人を吊る用途の許可表示もあります。電動は止まっていますが、手動とブレーキは生きています。こちらで持ってきたロープを通して、空荷で試します』
「わかった。こっちは下の足場へ出る」
背中の
高いところにいる人間を見ている。
「迎えだよ」
透が言っても、返事はなかった。
上で一人が手を振る。葵はヘルメットの縁が目にかかるまで顔を伏せた。
透は歩き出した。
壁の配管に肩を擦りつけるようにして進む。左には手すりがあったが、途中で折れた部分も多い。水は足場のすぐ下を流れ、時折、壁にぶつかって跳ねた。
頭の中では、ここから上までの空間を捉えられている。
それでも足元を見る。錆びた板が体重に耐えられるかどうかは、形だけではわからない。
「少し狭い。手を外へ出さないで」
葵の指が、肩の防護布を握り直した。
巻上機の下には、人が二人並べるほどの台があった。
透はそこで立ち止まり、上から降りてくるロープを待った。水の音が大きく、頭上の声は無線を通さないと聞き取れない。
『まず傷病者を上げます。そちらで帯を確認できますか』
「できる。固定し直すから少し待って」
台の上にマットを広げ、葵を下ろした。
腰を浮かせていた少女の足が床につくと、膝が折れかけた。透は肩を支え、座れる位置までゆっくり下げる。
「ここからは一人ずつ上へ運んでもらうよ。結城さんから先に行こう」
葵は顔を上げた。
「一人で?」
「上に三人いる。受け取ってもらったら、すぐ俺も行く」
透は別の救助帯を出した。
体を起こしにくい人を運ぶためのものだ。地上の搬送で使う担架ほど大きくないが、支える面は広い。
葵はそれを見ると、右手で左の袖口を押さえた。
透の動きが止まる。
「これ、見たことある?」
葵は首を振った。
それでも、透が帯を近づけると体が壁へ寄った。
「……すぐ、外れますか」
何を怖がっているか、少しだけわかった気がした。
透は帯を自分の膝へ戻し、留め具を閉じてから開いた。
「ここを外せば取れるよ。上へ着いたらすぐ外してもらうから」
葵は透の手を見ていた。
透は開いたままの留め具を、彼女の前へ差し出す。
「触ってみるか」
細い指が伸びた。
金具を一度閉じる。うまく外せず、葵は顔を近づけた。透が横の部分を指さすと、彼女はそこへ指をかけて、ようやく外した。
「上にいる人にも、同じことを伝える。勝手にどこかへ連れていかないように」
葵は、開いた金具をしばらく持っていた。
上から隊員の声が届いた。
『こちら、準備ができました。結城さん、聞こえますか』
葵が顔を上げた。
『下の人と同じ帯を扱っています。途中で止まっても、位置を合わせているだけです。こっちへ着いたら、足をつける前に声をかけますね』
透は無線の受話部を少し近づけた。
「言っておきたいこと、ある?」
葵は首を振りかけ、止まった。
「足は、引っ張らないでほしいです」
透が伝えると、すぐに返事があった。
『わかりました。帯のほうを持ちます。足が当たらないようにするので、そのままでいてください』
葵は上の扉を見た。
手を振っていた隊員が、今は身を屈めてこちらを見ている。少女の顔が一度、ゆっくり上下した。
やがて手を離し、両腕を少し上げた。
透は急がず帯を当てた。圧迫される場所がないか、一つずつ確かめる。
上から届いたロープに接続するとき、葵が床のほうを見た。
「水が、増えます」
透は排水槽へ目を向けた。
流れが変わっていた。先ほどまで右へ流れていた泡が、その場で渦を巻いている。
壁の灯りが明滅した。
「どれくらい?」
「止まってたほうが、動くから……」
葵が台の端を指した。
膝の高さに、蓋の閉まった操作箱がある。透が開けると、丸いハンドルと、上下に動かすレバーが並んでいた。
「これで止められる?」
「全部は。ここに来る水は、減らせます」
透は表示を読んだ。
手動切替。分流弁。下の銘板に刻まれた文字は、錆で半分見えない。
装置を壊してしまえば、かえって危険になる。
「上の人、こちらの箱が見えるか。型番を読む」
映像を向け、銘板を指で拭った。
後続の一人が古い手順書を確認する。その間にも、足場を洗う飛沫が増えていた。
『型式は一致しています。下側の弁です。上の圧も見ながらやります』
葵が透を見た。
信じなかったと思われただろうか。透は箱へ視線を戻し、彼女に言った。
「教えてくれて助かった。動かすから、何か変だったら言って」
レバーを切り替え、ハンドルへ手をかける。
重かった。片腕では回らず、両手で力をかけた。錆びた軸が鳴り、少しずつ回り始める。
足場の下で、鈍い音がした。
水面が一度盛り上がり、別の出口へ引かれていく。飛沫が弱まった。
『こちらでも変化を確認。その位置で固定してください』
透はロックをかけた。
息を吐く。少女に機械へ触らせる必要はなかった。彼女は座ったまま、動いたものを目で追っている。
「上げよう」
透は無線へ告げ、葵の帯を最後に確かめた。
「床から離れる。怖かったら、上じゃなくて壁を見てて」
葵は透を見た。
何か言いかけたが、声になる前にロープが張った。
透は体が回らないよう支え、ゆっくり手を離した。
ヘルメットが、自分の目の高さを越える。
保温具がずれないよう留めた端だけが、水面を渡る風に揺れた。葵は壁を見ていた。透が見上げていることには気づかない。
途中でロープが止まった。
「どうした」
『受け取り位置を合わせています。待ってください』
透は台の端へ足を出した。
下から押せる高さではない。わかっているのに、体が勝手に近づこうとする。
『下の人、端へ寄らないで。そこの板、支えが傷んでいます』
透は足を戻した。
上では一人が身を伏せ、葵の帯へ腕を伸ばしていた。もう一人が、その隊員を後ろから支えている。
手が届いた。
少女の体が扉の内側へ入り、姿が見えなくなった。
『傷病者を収容。帯を外します』
透は、それを聞いて初めて背嚢へ手を伸ばした。
「頼む。つけたままだと怖がるから」
『聞いています。大丈夫。次、そちらを上げます』
自分用の帯を身につける。
水の近くに長くいたせいで、指が動かしにくかった。手袋の破れたところから、冷たい雫が入っている。
葵と違って、自分は途中の足場へ足をつけながら上がれる。背嚢を邪魔にならない位置に固定し、ロープをつなぐ。
体が持ち上がると、膝がようやく楽になった。
上部の扉から隊員の顔がのぞいた。
「お疲れ。あと少し」
差し出された腕をつかみ、透は体を引き上げた。
床へ両膝をつく。乾いた場所にいるだけで、ずいぶん違った。
葵は壁際の担架に座っていた。
約束どおり帯は外され、隊員が足元に毛布をかけている。白い髪が肩に落ち、黒い房が襟へ挟まっていた。
「お待たせ」
透が声をかけると、葵は顔を上げた。
まず透の後ろを見て、それから顔へ視線を戻す。
「……来たんですね」
「うん。待たせちゃったね」
葵はうなずき、担架の脇に置かれた救助帯を遠くへ押した。
透はそれを拾って、自分の背嚢にしまった。