深層救助屋――帰還禁止の少女   作:病んでるくらいが一番

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第6話 上で待っている

 東の保守階段は、下の部分が水に沈んでいた。その上にある扉の前で、後続の救助隊三人がライトを動かしている。

 

 水瀬透(みなせとおる)は水面から目を上げ、後続隊のいる場所を確かめた。排水槽を挟んで向かい側、今の足場より八メートルほど高い。

 壁に沿って迂回すれば、その真下まで行ける。途中の通路は細いが、幅は足りていた。

 

『そちらから右回りで、巻上機の下へ来られますか』

 

 後続隊長が無線で尋ねた。

 

「行ける。上の機械は使えそう?」

『本体は点検しました。人を吊る用途の許可表示もあります。電動は止まっていますが、手動とブレーキは生きています。こちらで持ってきたロープを通して、空荷で試します』

「わかった。こっちは下の足場へ出る」

 

 背中の結城葵(ゆうきあおい)が、首を動かした。

 高いところにいる人間を見ている。

 

「迎えだよ」

 

 透が言っても、返事はなかった。

 上で一人が手を振る。葵はヘルメットの縁が目にかかるまで顔を伏せた。

 

 透は歩き出した。

 壁の配管に肩を擦りつけるようにして進む。左には手すりがあったが、途中で折れた部分も多い。水は足場のすぐ下を流れ、時折、壁にぶつかって跳ねた。

 

 頭の中では、ここから上までの空間を捉えられている。

 それでも足元を見る。錆びた板が体重に耐えられるかどうかは、形だけではわからない。

 

「少し狭い。手を外へ出さないで」

 

 葵の指が、肩の防護布を握り直した。

 

 巻上機の下には、人が二人並べるほどの台があった。

 透はそこで立ち止まり、上から降りてくるロープを待った。水の音が大きく、頭上の声は無線を通さないと聞き取れない。

 

『まず傷病者を上げます。そちらで帯を確認できますか』

「できる。固定し直すから少し待って」

 

 台の上にマットを広げ、葵を下ろした。

 腰を浮かせていた少女の足が床につくと、膝が折れかけた。透は肩を支え、座れる位置までゆっくり下げる。

 

「ここからは一人ずつ上へ運んでもらうよ。結城さんから先に行こう」

 

 葵は顔を上げた。

 

「一人で?」

「上に三人いる。受け取ってもらったら、すぐ俺も行く」

 

 透は別の救助帯を出した。

 体を起こしにくい人を運ぶためのものだ。地上の搬送で使う担架ほど大きくないが、支える面は広い。

 葵はそれを見ると、右手で左の袖口を押さえた。

 

 透の動きが止まる。

 

「これ、見たことある?」

 

 葵は首を振った。

 それでも、透が帯を近づけると体が壁へ寄った。

 

「……すぐ、外れますか」

 

 何を怖がっているか、少しだけわかった気がした。

 透は帯を自分の膝へ戻し、留め具を閉じてから開いた。

 

「ここを外せば取れるよ。上へ着いたらすぐ外してもらうから」

 

 葵は透の手を見ていた。

 透は開いたままの留め具を、彼女の前へ差し出す。

 

「触ってみるか」

 

 細い指が伸びた。

 金具を一度閉じる。うまく外せず、葵は顔を近づけた。透が横の部分を指さすと、彼女はそこへ指をかけて、ようやく外した。

 

「上にいる人にも、同じことを伝える。勝手にどこかへ連れていかないように」

 

 葵は、開いた金具をしばらく持っていた。

 上から隊員の声が届いた。

 

『こちら、準備ができました。結城さん、聞こえますか』

 

 葵が顔を上げた。

 

『下の人と同じ帯を扱っています。途中で止まっても、位置を合わせているだけです。こっちへ着いたら、足をつける前に声をかけますね』

 

 透は無線の受話部を少し近づけた。

 

「言っておきたいこと、ある?」

 

 葵は首を振りかけ、止まった。

 

「足は、引っ張らないでほしいです」

 

 透が伝えると、すぐに返事があった。

 

『わかりました。帯のほうを持ちます。足が当たらないようにするので、そのままでいてください』

 

 葵は上の扉を見た。

 手を振っていた隊員が、今は身を屈めてこちらを見ている。少女の顔が一度、ゆっくり上下した。

 やがて手を離し、両腕を少し上げた。

 

 透は急がず帯を当てた。圧迫される場所がないか、一つずつ確かめる。

 上から届いたロープに接続するとき、葵が床のほうを見た。

 

「水が、増えます」

 

 透は排水槽へ目を向けた。

 流れが変わっていた。先ほどまで右へ流れていた泡が、その場で渦を巻いている。

 壁の灯りが明滅した。

 

「どれくらい?」

「止まってたほうが、動くから……」

 

 葵が台の端を指した。

 膝の高さに、蓋の閉まった操作箱がある。透が開けると、丸いハンドルと、上下に動かすレバーが並んでいた。

 

「これで止められる?」

「全部は。ここに来る水は、減らせます」

 

 透は表示を読んだ。

 手動切替。分流弁。下の銘板に刻まれた文字は、錆で半分見えない。

 装置を壊してしまえば、かえって危険になる。

 

「上の人、こちらの箱が見えるか。型番を読む」

 

 映像を向け、銘板を指で拭った。

 後続の一人が古い手順書を確認する。その間にも、足場を洗う飛沫が増えていた。

 

『型式は一致しています。下側の弁です。上の圧も見ながらやります』

 

 葵が透を見た。

 信じなかったと思われただろうか。透は箱へ視線を戻し、彼女に言った。

 

「教えてくれて助かった。動かすから、何か変だったら言って」

 

 レバーを切り替え、ハンドルへ手をかける。

 重かった。片腕では回らず、両手で力をかけた。錆びた軸が鳴り、少しずつ回り始める。

 

 足場の下で、鈍い音がした。

 水面が一度盛り上がり、別の出口へ引かれていく。飛沫が弱まった。

 

『こちらでも変化を確認。その位置で固定してください』

 

 透はロックをかけた。

 息を吐く。少女に機械へ触らせる必要はなかった。彼女は座ったまま、動いたものを目で追っている。

 

「上げよう」

 

 透は無線へ告げ、葵の帯を最後に確かめた。

 

「床から離れる。怖かったら、上じゃなくて壁を見てて」

 

 葵は透を見た。

 何か言いかけたが、声になる前にロープが張った。

 透は体が回らないよう支え、ゆっくり手を離した。

 

 ヘルメットが、自分の目の高さを越える。

 保温具がずれないよう留めた端だけが、水面を渡る風に揺れた。葵は壁を見ていた。透が見上げていることには気づかない。

 

 途中でロープが止まった。

 

「どうした」

『受け取り位置を合わせています。待ってください』

 

 透は台の端へ足を出した。

 下から押せる高さではない。わかっているのに、体が勝手に近づこうとする。

 

『下の人、端へ寄らないで。そこの板、支えが傷んでいます』

 

 透は足を戻した。

 上では一人が身を伏せ、葵の帯へ腕を伸ばしていた。もう一人が、その隊員を後ろから支えている。

 手が届いた。

 少女の体が扉の内側へ入り、姿が見えなくなった。

 

『傷病者を収容。帯を外します』

 

 透は、それを聞いて初めて背嚢へ手を伸ばした。

 

「頼む。つけたままだと怖がるから」

『聞いています。大丈夫。次、そちらを上げます』

 

 自分用の帯を身につける。

 水の近くに長くいたせいで、指が動かしにくかった。手袋の破れたところから、冷たい雫が入っている。

 

 葵と違って、自分は途中の足場へ足をつけながら上がれる。背嚢を邪魔にならない位置に固定し、ロープをつなぐ。

 体が持ち上がると、膝がようやく楽になった。

 

 上部の扉から隊員の顔がのぞいた。

 

「お疲れ。あと少し」

 

 差し出された腕をつかみ、透は体を引き上げた。

 床へ両膝をつく。乾いた場所にいるだけで、ずいぶん違った。

 

 葵は壁際の担架に座っていた。

 約束どおり帯は外され、隊員が足元に毛布をかけている。白い髪が肩に落ち、黒い房が襟へ挟まっていた。

 

「お待たせ」

 

 透が声をかけると、葵は顔を上げた。

 まず透の後ろを見て、それから顔へ視線を戻す。

 

「……来たんですね」

「うん。待たせちゃったね」

 

 葵はうなずき、担架の脇に置かれた救助帯を遠くへ押した。

 透はそれを拾って、自分の背嚢にしまった。

 

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