第十八階層へ上がる階段で、
「そっちはもう休んで。階段の上だけ見てくれ」
後続隊長が、空いた手で先を示した。
透は荷物を持ち直し、先へ上がった。頭の中にあった十九階層の形を退け、十八の構造を確かめる。
業務用昇降機までの道はつながっていた。
「上、問題なし。次の踊り場で一度曲がる」
振り返ると、三人の隊員が息を合わせて担架を上げていた。
担架が踊り場へ着き、隊員の一人が持ち手を替える。
透は壁へ寄って場所を空けた。自分の腕も空いているのに、と思ったところで、右手の甲がひりついた。
破れた手袋を脱ぐと、皮が少しめくれていた。
「その手も、上で見てもらえよ」
「これくらい、洗えば済むだろ」
「どうせ救護棟まで行くんだ。ついでに診てもらえ」
隊長はそう言い、担架を持ち上げた。
透も歩き出す。
十八階層の保守通路に出ると、照明がついていた。
白い光が床へ均等に落ちている。葵が目を細めたので、隊員がヘルメットのライトを消した。透も自分のライトを落とす。
「ここからは明るい。眩しければ目を閉じてていいよ」
葵は返事をしなかった。
少しして、毛布が鼻まで上がった。
無線が鳴った。
『位置、確認できました。お帰りなさい』
「まだ地下だけどな」
『ずっと点が動かなくなるより、ずっといいです』
透は何も返せず、端末を見た。
さっきまで通信中継機を経由していた表示が、十八階層の通常回線へ切り替わっている。後続隊長の端末にも、同じ帰還経路が出ていた。
「十九の中継機は二つとも残した。回収は今じゃなくていい」
『回収の人にも、安全を確かめてもらいます。先ほどの女性の件は、旧区画担当へ照会中です』
透は担架を見た。
葵は目を閉じていた。眠っているのか、聞かないようにしているのかはわからない。
「奥の扉、閉じていた場所も地図に入れてある。返答が来たら教えてくれ」
『はい』
先を歩く隊長に聞こえる程度の声で、追加の捜索が必要かもしれないことを伝えた。隊長は端末へ記録し、後で引き継ぐと答えた。
透は口を閉じた。
置いてきた場所へ戻る道を、頭の中で探すのをやめる。
昇降機の前には、採掘用の運搬車が列を作っていた。
荷台の箱には、蓋と箱本体にまたがるように「検査済み」のシールが貼られていた。運転手たちが車を脇へ寄せ、担架の通る場所を空けた。
「怪我人だって。先に通して」
誰かが後ろへ声をかけた。
一台の車がゆっくり下がる。警告音が鳴った途端、葵の肩が跳ねた。
透は担架の横へ戻った。
「車が下がってる音だ。大丈夫、こっちには来ない」
葵は車と、運転席の男を交互に見た。
男が気づいて手を上げた。彼女は目を伏せる。
列の後ろから、二人の若い探索者が顔を出した。
一人は端末を手にしていた。画面を横へ向け、担架に気づいたところでその動きが止まる。
「撮影はやめて。搬送中です」
隊長が声をかけると、若者は慌てて端末を下ろした。
「あ、すみません。配信は、まだしてないです」
隣の仲間に肘をつつかれ、二人とも運搬車の後ろへ下がった。
透は担架と人の列の間を歩いた。葵の顔が見えないように体で隠すと、前へ進むたび、自分の影が毛布の上を動いた。
「……何を、してたんですか」
「カメラを向けてたんだ。もう下ろしてもらったよ」
葵は自分の顔へ手をやった。
透はそれ以上説明せず、昇降機の入口まで横にいた。
昇降機の係員が、大きな扉を押さえて待っていた。
車両も載せる籠の中へ入ると、急に天井が高くなった。床には泥の乾いた跡があり、壁際には簡易の椅子が折り畳まれている。
担架を固定した隊員が、透のためにその一つを下ろした。
「座って」
透は素直に座った。
もう何度目かの腰を下ろす動作で、太腿がわずかに震えた。
葵がそれを見ていたので、靴紐へ手を伸ばすふりをした。
「救護棟には連絡済み。あと、
隊長が言った。
「まだいたんですか」
「お前を待つって言ってるそうだよ」
透は椅子の背へ頭を預けた。
上がるまでに少し顔を洗いたい。頬の砂を払っても、汗で貼りついた分は落ちなかった。
葵が、小さく身を起こした。
「誰が、待ってるんですか」
「俺の知り合いだよ。迎えの人たちを手配してくれたんだ」
葵は毛布を握り直した。
「何を、聞かれますか」
透は答える前に少し考えた。
どこにいたのか。なぜそこにいたのか。あの回線は誰が使ったのか。自分にも聞きたいことはある。
けれど、最初にそれを並べる人ではない。
「まず具合を聞かれると思う。話せないことは、あとでいいって俺から伝える」
葵はうなずいたが、体を横に戻さなかった。
隊員が声をかけ、背中のクッションを少し高くした。それでようやく肩の力が抜ける。
籠が動き始めた。
足元の振動に、透は見慣れた壁の注意書きを眺めた。
最大積載量、緊急停止、移動中の扉への接近禁止。黄色い枠の中で、作業服を着た人の絵が転んでいる。
隣から、毛布の擦れる音がした。
葵も同じ絵を見ていた。
「気になる?」
聞いてから、また余計な質問をしたと思った。
葵は透を見ずに、扉のほうを指した。
「全部、閉まってても……上に行くんですね」
「そう。中に乗ったまま、この部屋ごと上がる」
「それは、わかります」
透は口を閉じた。
葵も何か言おうとして、目を伏せる。
「すみません」
「いや、俺のほうこそ。余計な説明だったね」
隊長が手元の端末を見たまま、口元だけ少し動かした。
透は気づかないふりをした。
そのあとは、機械の音が続いた。
葵の指は毛布を握っていたが、先ほどほど強くはない。扉が開くのを待っているようだった。
しばらくして、籠がゆっくり揺れた。
止まる直前の重さが足元から抜ける。
地上、と表示が変わった。
扉が開くと、外は明るかった。
昇降機の出入口には屋根があり、その先の道路を救急車がゆっくり進んでいた。濡れたタイヤの音が聞こえる。夜の間に、雨が降ったらしい。
空気の匂いが変わった。
雨と、車と、遠くで何かを焼いている匂い。
透にはいつもの地上だった。
葵は、ヘルメットの顎紐をつかんだ。
「外していいよ。もう上から石は落ちてこない」
隊員が手伝い、ヘルメットを外した。
白い髪が頬へ落ちる。葵はそれを払わず、屋根の先を見ていた。
透もそちらを見た。
建物と建物の間に、薄い青空が覗いている。雲は低く、その端が朝の光を受けて白くなっていた。
担架を押す隊員が、ほんの少し足を緩めた。
葵はその間、ずっと顔を上げていた。
「寒くないか」
透が聞くと、葵はゆっくり首を横に振った。
目の下に、水の筋が一本あった。
雨の雫ではなかったが、透は何も言わなかった。
救護棟の前で、スーツ姿の男がこちらへ歩いてきた。
鷹宮だった。手には紙袋を持っている。
透を見つけると、その歩幅が大きくなった。
「遅かったな」
「すみません。西が塞がって」
「聞いてる。二人とも戻ったな」
鷹宮は透の肩に手を置き、すぐに担架の横へ回った。
腰を屈め、葵と目の高さを合わせる。
「はじめまして。鷹宮です。中で休めるようにしてある。まず、体を診てもらおう」
葵の視線が、鷹宮の顔からスーツへ下がった。
襟についた徽章で止まる。
毛布を握る手に、また力が入った。
鷹宮はそれに気づいたようだった。
手を伸ばさず、扉の横へ退く。
「水瀬君も一緒に入る。大丈夫かな」
葵は透を見た。
透が担架の横へ並ぶと、ようやく小さくうなずいた。
救護棟の自動扉が開いた。
透は白い廊下を見て、初めて腹が鳴るのを聞いた。