深層救助屋――帰還禁止の少女   作:病んでるくらいが一番

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第2章 地上の居場所
第9話 外せないもの


 処置室の扉が閉まると、受付の電子音は聞こえなくなった。

 

 それでも、結城葵(ゆうきあおい)は入口を見ていた。

 担架から診察台へ移るよう言われても、毛布を握ったまま動かない。水瀬透(みなせとおる)がそばに立っていると、医師は丸椅子を一つ持ってきた。

 

「座って待っていてください。付き添いがいてもいいですか」

 

 後半は葵への質問だった。

 葵は透を見て、小さくうなずいた。

 

 透は椅子へ腰を下ろした。膝が診察台の脚に当たり、少し後ろへ引く。医師が毛布をめくる前に声をかけると、葵の手がようやく緩んだ。

 手首に、細い傷痕があった。

 受付の読み取り器が反応したのは、そのあたりだ。医師は指で触る前に、痛むかどうかを聞いた。

 

「今は、痛くないです」

「触られると?」

「押さなければ」

 

 医師は押さずに、照明の向きだけを変えた。

 傷痕の中央に、爪の先ほどの灰色の部分が見えた。汚れではない。皮膚の下へ続いている。

 

「これはいつからありますか」

「前からです」

 

 葵の指が曲がった。

 透は何か言おうとして、口を閉じた。医師は同じ質問を繰り返さず、手首から照明を離した。

 

「わかりました。まず足を診ますね」

 

 医師が靴下とガーゼを外すと、葵の足先がわずかに動いた。痛くないかと聞きかけたところで、医師が先に声をかける。

 透は口を閉じた。葵は自分で答えられている。横から何度も聞かれても困るだろう。

 膝の上で両手を組み直し、処置が終わるのを待った。それでも、葵が返事をするたびに顔を見てしまった。

 

 *

 

 足の処置が終わるころ、鷹宮誠司(たかみやせいじ)が扉を叩いた。

 入室してよいか確かめてから、医師の横へ立つ。胸の身分証は外して上着のポケットへ入れていたが、葵の肩はまた固くなった。

 

「別の病院に受け入れを頼めました。地下資源省の施設ではありません」

 

 鷹宮は診察台から少し離れたところで止まった。

 

「こちらの先生から、先に説明してもらいます」

 

 医師が椅子を葵の正面へ寄せた。

 疲労が強く、歩いて帰すことはできない。水分や食事の様子を見ながら休み、身体に残っているものを専門の医師に調べてもらいたい、と言った。

 

「切りますか」

 

 葵が左手首を隠した。

 

「今日は、何が入っているか調べるところからです。いきなり取り除いたりはしません」

「つなぐのは」

「つなぐ?」

 

 医師はそこで説明を止めた。

 葵の視線が、壁の電源口へ向いていた。透もそちらを見る。診察器具のケーブルが一本、床の上を通っている。

 

「その線が嫌なのかな」

 

 葵はうなずかなかった。ただ、手首を隠したままだった。

 医師は使っていない器具を脇へ片づけた。

 

「あなたが心配している接続はしません。検査も、何をするか説明してから進めます」

 

 返事が出るまで、鷹宮も待っていた。

 やがて葵がうなずくと、看護師が搬送先の病院へ電話をかけた。

 

 透は膝の上で右手を開いた。手の甲の傷を覆うテープが引っ張られる。

 あの灰色のものさえ取れれば、帰還禁止という表示も消えるのではないか。

 考えたことを医師へ尋ねると、返答は早かった。

 

「表示を消すために身体を傷つけることはできません。何とつながっているかも、まだわかりませんから」

「……そうですね」

 

 地下なら、邪魔な扉を開き、通れない場所を避けてきた。

 同じように考えかけていた自分が、急に嫌になった。透は手首から目を離す。

 

「ごめん。勝手なことを言ったね」

 

 葵は毛布の上から左手を押さえていた。

 

「取れないです」

 

 透は顔を上げた。

 

「取ろうとしたことはある?」

 

 葵の口が閉じた。医師が透へ目を向ける。

 透はそれ以上聞かなかった。

 

 *

 

 搬送車には看護師が乗り、透は助手席に座った。

 後ろの葵から見えるかを確かめようと二度振り返り、二度目で看護師に「大丈夫です」と言われた。透は前を向いた。

 窓の外を、朝の街が流れる。

 鉱石運搬車の専用道路を離れると、交差点で通勤の車列に入った。食料品店の前では、店員が野菜の箱を並べていた。

 

「水瀬さん」

 

 後ろから呼ばれて、透はすぐに振り返った。

 

「どうした。気持ち悪い?」

「違います。あれは、毎日ですか」

 

 葵が窓のほうを指した。

 信号が変わり、指の先にあった店は後ろへ遠ざかる。

 

「店を開けること?」

「外に、食べ物を」

「天気がよければな。あそこ、帰りに寄ると安いんだ」

 

 仕事帰りには閉まっている日のほうが多い。その話はしなかった。

 葵はしばらく窓を見ていた。やがて車が大きく曲がると、目を閉じた。

 

 病院では、別の医師が待っていた。

 透は付き添いとして説明を聞く許可をもらい、背嚢を椅子の足元へ置いて座った。葵が答えられない救出時の様子を補う。何時間歩いたかはわからない。見つけたときの場所、飲ませた水、途中で眠っていなかったこと。見たことだけを順に話した。

 

 検査のあと、医師は紙に簡単な図を描いた。

 

「手首のものは、皮膚の表面だけについているわけではありません。内部に細い構造が続いています。今わかるのはそこまでです」

 

 葵は紙を見なかった。

 

「地下の設備につないでいたのですか」

 

 長い間があった。

 窓際の時計の針が一つ進んだあとで、葵がうなずいた。

 

「それで、何が起きますか」

「道が、わかります。動かすところも」

「身体は?」

 

 葵は寝台の上で膝を少し曲げ、身体を縮めた。

 

「痛いです」

 

 透は背もたれから身体を起こした。

 医師が続ける。

 

「今は?」

「今は、大丈夫です」

 

 今だけなのか。

 透は聞けなかった。医師が検査の結果と葵の言葉を分けて記録するのを見ていた。

 

「当面は休養を優先します。接続機構を扱った記録が必要です。安全な外し方があるか、それを調べましょう」

 

 外せる、とまでは言わなかった。

 透はそれでもうなずいた。約束できないことを約束されるより、今何を待つのかがわかるほうがよかった。

 

 医師は、休止中の機構を無理に動かして調べることはしないと付け加えた。

 透はうなずきかけ、葵が医師を見ているのに気づいた。自分への説明ではない。膝に手を戻し、彼女の返事を待つ。

 

「ここにいるときも、動きますか」

「今の検査では、動いている様子はありません。ただ、何がきっかけになるかは、記録を調べる必要があります」

 

 葵は袖口を握った。

 

「触らなければ、いいですか」

「押したり、何かにつないだりはしないでください。痛みが出たら教えてくださいね。普通に手を動かすことまで、怖がらなくて大丈夫です」

 

 葵は右手でコップを取り、少し迷ってから左手も添えた。

 透はその動きを見ていた。診察が終わったから安心、というほど単純ではない。自分の手を使うことさえ、確かめながらなのだ。

 

 昼を過ぎ、葵の病室が決まった。

 看護師が着替えを手伝うあいだ、透は背嚢を病室の椅子の脇へ置き、廊下へ出た。鷹宮から着信があり、病室番号を言おうとして止まる。

 

『番号は今はいい。病院の責任者と話してある。患者情報への照会は、記録を残して担当者が受ける』

「あの帰還禁止の命令は、どうなりました?」

『根拠を調べている。医療側と警察にも、身体の機構と本人の話を伝える。私の判断だけで抱える件ではない』

「わかりました」

『透。お前も帰って寝ろ』

 

 透は病室の扉を見た。

 

「顔を見てからにします」

 

 通話を終えて待つうちに、扉が開いた。

 葵は枕へ頭を預けていた。新しい寝間着の袖が手首を覆っている。看護師は呼び出しボタンを右手のそばへ置き、押し方を説明した。

 

「具合が悪くなくても、呼んでいいんですか」

「はい。不安なときも押してください。様子を見に来ますから」

 

 葵はボタンを一度持ち上げ、元の場所へ戻した。

 透が帰ると告げると、目が扉へ動いた。

 

「明日、来てもいいかな。足りないものがあったら持ってくる」

 

 葵は少し考えた。

 

「靴を」

「新しいの?」

「袋に入れたほうです」

 

 透は背嚢の横から透明の袋を出した。

 繕われた室内履きが二つ。看護師に置き場所を確かめてから、葵の手の届く棚へ載せる。

 

「ここでいい?」

「はい」

 

 今度は扉を見なかった。

 透は椅子の脇に置いた背嚢を背負い直した。肩紐が食い込み、荷物の重さを思い出す。廊下へ出て、静かに扉を閉めた。

 

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