第9話 外せないもの
処置室の扉が閉まると、受付の電子音は聞こえなくなった。
それでも、
担架から診察台へ移るよう言われても、毛布を握ったまま動かない。
「座って待っていてください。付き添いがいてもいいですか」
後半は葵への質問だった。
葵は透を見て、小さくうなずいた。
透は椅子へ腰を下ろした。膝が診察台の脚に当たり、少し後ろへ引く。医師が毛布をめくる前に声をかけると、葵の手がようやく緩んだ。
手首に、細い傷痕があった。
受付の読み取り器が反応したのは、そのあたりだ。医師は指で触る前に、痛むかどうかを聞いた。
「今は、痛くないです」
「触られると?」
「押さなければ」
医師は押さずに、照明の向きだけを変えた。
傷痕の中央に、爪の先ほどの灰色の部分が見えた。汚れではない。皮膚の下へ続いている。
「これはいつからありますか」
「前からです」
葵の指が曲がった。
透は何か言おうとして、口を閉じた。医師は同じ質問を繰り返さず、手首から照明を離した。
「わかりました。まず足を診ますね」
医師が靴下とガーゼを外すと、葵の足先がわずかに動いた。痛くないかと聞きかけたところで、医師が先に声をかける。
透は口を閉じた。葵は自分で答えられている。横から何度も聞かれても困るだろう。
膝の上で両手を組み直し、処置が終わるのを待った。それでも、葵が返事をするたびに顔を見てしまった。
*
足の処置が終わるころ、
入室してよいか確かめてから、医師の横へ立つ。胸の身分証は外して上着のポケットへ入れていたが、葵の肩はまた固くなった。
「別の病院に受け入れを頼めました。地下資源省の施設ではありません」
鷹宮は診察台から少し離れたところで止まった。
「こちらの先生から、先に説明してもらいます」
医師が椅子を葵の正面へ寄せた。
疲労が強く、歩いて帰すことはできない。水分や食事の様子を見ながら休み、身体に残っているものを専門の医師に調べてもらいたい、と言った。
「切りますか」
葵が左手首を隠した。
「今日は、何が入っているか調べるところからです。いきなり取り除いたりはしません」
「つなぐのは」
「つなぐ?」
医師はそこで説明を止めた。
葵の視線が、壁の電源口へ向いていた。透もそちらを見る。診察器具のケーブルが一本、床の上を通っている。
「その線が嫌なのかな」
葵はうなずかなかった。ただ、手首を隠したままだった。
医師は使っていない器具を脇へ片づけた。
「あなたが心配している接続はしません。検査も、何をするか説明してから進めます」
返事が出るまで、鷹宮も待っていた。
やがて葵がうなずくと、看護師が搬送先の病院へ電話をかけた。
透は膝の上で右手を開いた。手の甲の傷を覆うテープが引っ張られる。
あの灰色のものさえ取れれば、帰還禁止という表示も消えるのではないか。
考えたことを医師へ尋ねると、返答は早かった。
「表示を消すために身体を傷つけることはできません。何とつながっているかも、まだわかりませんから」
「……そうですね」
地下なら、邪魔な扉を開き、通れない場所を避けてきた。
同じように考えかけていた自分が、急に嫌になった。透は手首から目を離す。
「ごめん。勝手なことを言ったね」
葵は毛布の上から左手を押さえていた。
「取れないです」
透は顔を上げた。
「取ろうとしたことはある?」
葵の口が閉じた。医師が透へ目を向ける。
透はそれ以上聞かなかった。
*
搬送車には看護師が乗り、透は助手席に座った。
後ろの葵から見えるかを確かめようと二度振り返り、二度目で看護師に「大丈夫です」と言われた。透は前を向いた。
窓の外を、朝の街が流れる。
鉱石運搬車の専用道路を離れると、交差点で通勤の車列に入った。食料品店の前では、店員が野菜の箱を並べていた。
「水瀬さん」
後ろから呼ばれて、透はすぐに振り返った。
「どうした。気持ち悪い?」
「違います。あれは、毎日ですか」
葵が窓のほうを指した。
信号が変わり、指の先にあった店は後ろへ遠ざかる。
「店を開けること?」
「外に、食べ物を」
「天気がよければな。あそこ、帰りに寄ると安いんだ」
仕事帰りには閉まっている日のほうが多い。その話はしなかった。
葵はしばらく窓を見ていた。やがて車が大きく曲がると、目を閉じた。
病院では、別の医師が待っていた。
透は付き添いとして説明を聞く許可をもらい、背嚢を椅子の足元へ置いて座った。葵が答えられない救出時の様子を補う。何時間歩いたかはわからない。見つけたときの場所、飲ませた水、途中で眠っていなかったこと。見たことだけを順に話した。
検査のあと、医師は紙に簡単な図を描いた。
「手首のものは、皮膚の表面だけについているわけではありません。内部に細い構造が続いています。今わかるのはそこまでです」
葵は紙を見なかった。
「地下の設備につないでいたのですか」
長い間があった。
窓際の時計の針が一つ進んだあとで、葵がうなずいた。
「それで、何が起きますか」
「道が、わかります。動かすところも」
「身体は?」
葵は寝台の上で膝を少し曲げ、身体を縮めた。
「痛いです」
透は背もたれから身体を起こした。
医師が続ける。
「今は?」
「今は、大丈夫です」
今だけなのか。
透は聞けなかった。医師が検査の結果と葵の言葉を分けて記録するのを見ていた。
「当面は休養を優先します。接続機構を扱った記録が必要です。安全な外し方があるか、それを調べましょう」
外せる、とまでは言わなかった。
透はそれでもうなずいた。約束できないことを約束されるより、今何を待つのかがわかるほうがよかった。
医師は、休止中の機構を無理に動かして調べることはしないと付け加えた。
透はうなずきかけ、葵が医師を見ているのに気づいた。自分への説明ではない。膝に手を戻し、彼女の返事を待つ。
「ここにいるときも、動きますか」
「今の検査では、動いている様子はありません。ただ、何がきっかけになるかは、記録を調べる必要があります」
葵は袖口を握った。
「触らなければ、いいですか」
「押したり、何かにつないだりはしないでください。痛みが出たら教えてくださいね。普通に手を動かすことまで、怖がらなくて大丈夫です」
葵は右手でコップを取り、少し迷ってから左手も添えた。
透はその動きを見ていた。診察が終わったから安心、というほど単純ではない。自分の手を使うことさえ、確かめながらなのだ。
昼を過ぎ、葵の病室が決まった。
看護師が着替えを手伝うあいだ、透は背嚢を病室の椅子の脇へ置き、廊下へ出た。鷹宮から着信があり、病室番号を言おうとして止まる。
『番号は今はいい。病院の責任者と話してある。患者情報への照会は、記録を残して担当者が受ける』
「あの帰還禁止の命令は、どうなりました?」
『根拠を調べている。医療側と警察にも、身体の機構と本人の話を伝える。私の判断だけで抱える件ではない』
「わかりました」
『透。お前も帰って寝ろ』
透は病室の扉を見た。
「顔を見てからにします」
通話を終えて待つうちに、扉が開いた。
葵は枕へ頭を預けていた。新しい寝間着の袖が手首を覆っている。看護師は呼び出しボタンを右手のそばへ置き、押し方を説明した。
「具合が悪くなくても、呼んでいいんですか」
「はい。不安なときも押してください。様子を見に来ますから」
葵はボタンを一度持ち上げ、元の場所へ戻した。
透が帰ると告げると、目が扉へ動いた。
「明日、来てもいいかな。足りないものがあったら持ってくる」
葵は少し考えた。
「靴を」
「新しいの?」
「袋に入れたほうです」
透は背嚢の横から透明の袋を出した。
繕われた室内履きが二つ。看護師に置き場所を確かめてから、葵の手の届く棚へ載せる。
「ここでいい?」
「はい」
今度は扉を見なかった。
透は椅子の脇に置いた背嚢を背負い直した。肩紐が食い込み、荷物の重さを思い出す。廊下へ出て、静かに扉を閉めた。