デスゲーム運営組織のゲームマスターに就任されていた件 作:最高司祭アドミニストレータ
温かな目で見てくれると嬉しいです。
黒宮創という男は、極めて普通だ。
東京都内の私立高校に通う十七歳。二年生。
前髪は少し長め。視力は悪くない。
飛び抜けた運動神経もなければ、他者を惹きつけるカリスマ性もない。
平穏を好み、クラスでは常に目立たない立ち位置を維持している。
だが、彼には世界を見る独自のフィルターが存在した。
創は物事を、すべて「ゲーム」として解釈する。
現実という世界は、彼にとって非常にバランスの悪いクソゲーだ。
グラフィックだけはやたらとリアルだが、理不尽なランダムイベントが多すぎる。リセットボタンはなく、セーブデータは一つだけ。ステータスの初期値による格差が大きく、国家や社会のルールは常に矛盾を抱えている。
だから創は、自らの頭の中で完璧なゲームを設計する。
TRPGのシナリオを書き、インディーゲームのルールを構築する。
不確定要素を排除し、論理と確率に基づいた美しいシステムを作り上げる。それが彼にとって、この退屈な世界を生き抜くための唯一の娯楽だった。
『どこにでもいる普通って言うけどさ。顔は結構整ってる方だからね? 私が保証するわ』
放課後の街は、冷たい雨に沈んでいた。
灰色に濁った厚い雲。アスファルトを叩く重い雨音。
創はコンビニで買った透明なビニール傘を差し、一定の歩幅で歩いていた。
水たまりを避け、泥ハネのリスクを最小限に抑える最適なルートを選択する。靴の中が濡れるのは、著しく不快指数を上げるマイナスイベントだ。
静かな住宅街の路地裏を通りかかった時のことだった。
創の足が止まる。
シャッターの降りた古い商店。
その薄暗い軒下に、ひとつの段ボール箱が置かれていた。
雨の飛沫を浴びて、段ボールの端はすでにふやけ始めている。
箱の表面には、黒の油性マーカーで乱暴な文字が書かれていた。
『拾ってください』
ありふれた捨て犬のシチュエーションだ。
箱の中には、黒い毛並みをした仔犬がうずくまっている。
首をすくめ、ピクリとも動かない。
『お前も、ひとりぼっちか。私と同じ目してやがる。誰にも気づかれず、ただここに存在してるだけ。わかるよ。ツラいよな。私が撫でてあげるからね…』
創は傘の柄を握り直し、段ボール箱を冷徹に見下ろした。
思考を巡らせる。
生き物を拾うという行為の、費用対効果についてだ。
生物の飼育には莫大なコストがかかる。
餌代。予防接種。日々の散歩による時間的リソースの消費。
排泄物の処理。鳴き声による近隣トラブルのリスク。
何より、一つの命に対する継続的な責任という重圧。
リターンは「一時的な感情の癒やし」のみ。どう計算しても割に合わない。
創は小さく息を吐いた。
「家に連れて帰る気はないな」
独り言のように、淡々と事実だけを口にする。
『はあ!? ちょっと創、アンタ血も涙もないわけ!? こんな雨の日に捨てられてる仔犬を前にして、それはないでしょ! 見捨てたら死んじゃうよ!? 主人公ならここで連れて帰って「仕方ないな」とか言うところでしょーが!』
彼の意識はすでに別の違和感に向いていた。
箱の中の仔犬。
不自然だ。
雨の飛沫を浴びているにも関わらず、毛並みが皮膚に張り付いていない。水滴を均等に弾きすぎている。そして、生物特有の微細な呼吸の揺れが一切ない。
創は無表情のまま、ビニール傘を前に突き出した。
傘の先端を、仔犬の頭に軽く押し当てる。
ポコッ。
虚ろで硬い音が鳴った。
仔犬は動かない。
よく見れば、腹部の側面に小さなネジ穴と、電池ボックスのフタが見えた。毛並みに見えたものは、安っぽい合成繊維のフロッキー加工だ。
生き物ではない。
ただのプラスチック製の犬のオモチャだった。
『って、オモチャじゃん! 恥ずかしっ! めっちゃ恥ずかし!! なに「私と同じ目してやがる」とか語ってんの私!? オモチャ相手に!? 人に見られてたら死んでた! 誰にも見えてなくて良かったー!!』
創は傘を引き戻し、冷静に結論を出した。
ゴミの不法投棄だ。
あるいは、通りがかった人間の良心を試す悪趣味なイタズラ。
わざわざ悲劇的なメッセージを添えてオモチャを放置する心理。人間の悪意は興味深いが、関わるだけ時間の無駄だ。
彼は何事もなかったかのように歩き出した。
自宅は、最寄り駅から徒歩十分ほどの場所にある。
築年数の浅い、四階建ての綺麗なアパートだ。ボロアパートではない。
エントランスにはオートロックが完備されており、セキュリティは基準値を満たしている。
『創にとっては一人暮らしでも、私にとってはルームシェアみたいなもんだけどね。さぁて、今日の夕飯は何かな〜』
ポケットから鍵を取り出し、二階の角部屋へと向かう。
ここがセーフエリアだ。
誰にも邪魔されず世界で最も理不尽な現実から隔離された、ゲームマスターのための絶対領域。
シリンダーに鍵を差し込み、回す。
ドアノブを引き、玄関に足を踏み入れた。
その瞬間、創の足がピタリと止まった。
空気が違う。
気圧の変動。微細な風の流れ。
本来なら密閉されているはずの室内から、冷たい風が吹き抜けてきたのだ。
廊下の匂いが塗り替えられていく。
雨の湿った匂い。
そして、微かな鉄の匂い。血液の臭気だ。
創の表情から一切の感情が消えた。
心拍数を意図的に抑え、重心を低く保つ。
思考が瞬時に室内の状況をマッピングし始める。
窓が開いている。
リビングのドアの隙間から、風が漏れている。
創は靴を脱がず、無音で廊下を進んだ。
ゆっくりとリビングのドアを押し開ける。
部屋の奥。
ベランダへ続く大きなガラス窓が、豪快に開け放たれていた。
網戸は外れかかり、吹き込む雨がフローリングを濡らしている。
そして、部屋の隅。
壁に背をあずけるようにして、一人の少女が座り込んでいた。
年齢は十六歳だろうか。
漆黒の長髪が、雨と汗で頬に張り付いている。
身につけている衣服は無残に引き裂かれ、泥と汚れにまみれていた。
荒い呼吸。手で押さえている左腹からは、今も鮮血がドクドクと溢れ出し、床に赤い染みを作っている。
侵入者の少女は部屋に入ってきた創に気づき、顔を上げた。
射殺さんばかりの鋭い眼光。
傷ついた野生動物が、最後の力を振り絞って外敵を威嚇するような、一触即発の殺気が放たれていた。
創は倒れ込む少女と開け放たれた窓、そして濡れて汚れたフローリングを交互に見た。
事態の把握は完了した。
見知らぬ美少女。
深刻な出血。
異常な警戒心。
漫画やゲームであれば、これは物語が始まる王道のイベントだ。「大丈夫か!?」と駆け寄り、彼女を匿うことで非日常の扉が開く。
だが、創の思考は現実的だった。
これは不法侵入である。
フローリングに付着した血液は、感染症のリスクを伴うバイオハザードだ。血液のシミは清掃費用も高くつく。
さらに、これほどの重傷を負う事件の当事者を部屋に置くことは、彼女を追跡しているであろう「加害者」の二次被害に巻き込まれる確率を劇的に跳ね上げる。
匿うメリットはゼロ。被るデメリットは計り知れない。
完全なるマイナスイベントだ。
創は、静かに頷いた。
やるべきことは一つしかない。
トラブルの処理は、この世界の公式モデレーターに任せるのが最適解だ。
創は背負っていた通学鞄を静かに床に下ろした。
ポケットから、愛用のスマートフォンを取り出す。
画面のロックを解除する。
一切の躊躇なく、素早い指つきでテンキーをタップした。
『1』。
『1』。
『0』。
通話ボタンへ一直線に向かう。
『いやいやいや!! なんで迷わず警察呼ぼうとしてんの!? そこは助ける流れでしょ! 110番押すの手早すぎ!!』
黒宮創は画面を見つめたまま、通話ボタンを正確に押し込んだ。
『えええええ!? ちょ、ちょっと! マジで押したしこの男! 迷いなさすぎでしょ! 血まみれのヒロインだぞ!?』
スピーカーから、無機質な発信音が響き始める。
トゥルルル。トゥルルル。
国家権力へのアクセス。
自身の平穏を脅かす不確定要素を外部へと委託し、最も安全かつ合理的にトラブルを処理するための正しい手順だ。
「待って…! 警察には、連絡しないで…!」
床に座り込んだ少女が、必死の形相で叫んだ。
腹部から流れる血を自身の衣服で押さえながら、震える手を創の方へ伸ばしてくる。
青ざめた顔。荒い息。
発信音は規則正しく鳴り続けている。
創は無表情のまま、その姿を見下ろした。
「奴らに居場所がバレる…! 警察の通信網はすでに掌握されているわ! 魔の波動を辿って、深淵の猟犬どもがここまで追ってくる…!」
創の指が動いた。
スマートフォンの画面をタップし、通話アプリのマイクを瞬時にミュートモードに切り替える。
オペレーターが応答するまでのわずかな猶予。
とりあえず、相手の話を聞く姿勢だけは見せてやる。
それにしても、先程から何を言っているのだろうか。
魔の波動。
深淵の猟犬。
警察通信網の掌握。
イタい。非常にイタい。
出血多量によるせん妄状態かと思ったが、彼女の瞳には確かな理性が宿っている。
…なるほど。厨二病を発症しているのだろう。
設定に溺れ、現実と虚構の境界線が曖昧になる時期。
分かる。分かるぞ。
自分もかつて通った道だ。
『いやいやいやいや!? それ厨二病じゃないから! ガチのやつだから!』
独自のルールや壮大な世界観をノートに綴るクリエイターとして、彼女のイタい設定には強い親和性を感じる。
自らが作り上げた世界観を、血を流すといういかなる極限状況下でも保ち続ける。その執念と役作りの徹底ぶりは、むしろ評価に値する。
厨二病なんだね君、とは言わない。
それは表現者に対する最大の侮辱だ。
創は彼女のロールプレイを尊重し、ただ静かに心の中に留めておいた。
とはいえ、状況は極めて深刻だ。
他人の家のフローリングを血で汚し、深淵がどうのと叫び続ける少女。
もはや完全に異常者の部類である。
これ以上関われば、取り返しのつかない面倒なイベントに巻き込まれるのは確定だ。
特殊清掃の代金もバカにならない。
やはり通報して回収してもらうのがベストだ。
創はミュートモードを解除し、オペレーターに状況を丸投げしようと決断した。親指が再び画面に触れようとした瞬間だった。
「お願い…! 助けてくれたら、何でもするから…!」
床に赤い染みを広げながら、少女は叫んだ。
何でもする。
…ほお?
『ほお、じゃないから! なにその悪いプロデューサーみたいな顔! 完全に良からぬこと考えてる顔になってるよ!』
何でもする。
その言葉の費用対効果を瞬時に計算する。
家事全般のアウトソーシング。
掃除。洗濯。炊事。買い出し。
一人暮らしの高校生にとって、生命維持に必要なタスクはあまりにも多すぎる。
貴重なリソースが、日々の雑事に奪われているのが現状だ。
もしそれらをすべて、無償で代行する労働力が手に入るとしたら…ジュルリ。
『いや計算が現実的すぎる! なんで命がけで逃げてきた美少女を全自動お掃除ロボットと同列に扱ってんの!?』
『はい110番です。事件ですか、事故ですか』
創はスマートフォンを耳に当てたまま、流れるような動作で部屋のパソコンの前に移動した。
キーボードを叩き、ブラウザを立ち上げる。
あらかじめブックマークしておいた効果音サイトにアクセスし、特定の音源を再生する。
『ニャー。ミャァー』
パソコンのスピーカーから、子猫の愛らしい鳴き声が部屋に響き渡った。
創はミュートモードを解除し、スマートフォンを口元に近づけた。
「あ、すみません! うちの猫が勝手にスマホを踏んじゃって…! こら、タマ! ダメでしょ!」
声のトーンを一段階上げ、愛情のこもった飼い主を演じる。
見えない猫に向かって叱る姿は、我ながら完璧な演技だった。
『どんなサイコパス!? 息を吐くように嘘ついたよこの男! アドリブ力高すぎでしょ! ていうかタマってネーミングセンス昭和か!』
オペレーターの反応を待つ。
『あっ、猫ちゃんでしたか。お怪我などはありませんか?』
「はい、大丈夫です。お騒がせして本当に申し訳ありません」
『分かりました。気をつけてくださいね』
通話が切れる。
完璧な処理だ。
国家権力の介入を自然な形で回避した。
創はスマートフォンをポケットに仕舞い、ゆっくりと振り返った。
少女が目を点にして創を見ていた。
ぽかんと口を開け、呆然としている。
まるで理解不能な生き物を見るような目だ。
無理もない。たった今、存在しない猫を叱り飛ばし、警察を鮮やかに騙くらかしたのだから。
出血の痛みを忘れるほどの衝撃だったに違いない。
『ちがうよ! アンタのサイコパスムーブにドン引きしてるだけだよ! ほら見て、ガチで引いてるから!』
創は少女の視線を受け止めながら、静かに頷いた。
朝から夜まで、衣食住を完全にサポートしてくれる労働力は魅力的だ。
初期投資として出血の処理や後始末のコスト、あるいは追手とやらの不確定要素は加算されるが、長期的に見ればリターンが上回る。
なにより、彼女の厨二病的な設定はインスピレーションを大いに刺激するかもしれない。
よし。
飼おう。
『飼うな! 捨て犬拾うみたいなテンションで拾うな! それ犯罪だからね! あと私という先住人がいることお忘れなく!!』
創は無表情のまま、床に座り込む少女を見下ろした。
これより、黒宮創の平穏な一人暮らしは終わりを告げる。
新しいタスクが追加された。
まずはこの血だまりの清掃と、不法侵入者の傷の処理からだ。
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