時間跳躍の可能性と君に会える確率 作:暇人(暇ではない(´・ω・`))
目を開ける。
最初に感じたのは、冷たさだった。背中に触れている床は、石のように硬く、ひんやりとしている。けれど、不思議と寒くはない。見上げれば、そこには見覚えのない天井。白とも灰色ともつかない滑らかな材質でできていて、継ぎ目らしい継ぎ目すら見当たらない。
「ここは……どこだ? 僕は、どうしてこんな所にいるんだ……」
声は、思った以上に大きく響いた。返事はなく、仕方なく身体を起こして周囲を見渡す。
部屋──なのだろうか。
広さは学校の教室より少し狭いくらい。窓はなく、家具もない。壁の一面に、扉らしきものが一つだけある。そして、正面の壁に、黒い長方形の板が埋め込まれていた。テレビか、モニターのようにも見えるが、当然ながら、見覚えはない。
ポケットには、財布。スマートフォン。鍵。持ち物は残っている。スマートフォンの画面も点いた。しかし、表示は圏外。時刻は、21時58分で、日付は──2026年9月9日。
少なくとも、自分が知っている日付と大きく食い違ってはいない。その時だった。
──ピッ。
小さな電子音が鳴り、壁に埋め込まれていた黒い画面が、ひとりでに点灯した。
白い文字が、一文字ずつ浮かび上がる。
《覚醒を確認しました》
続いて、
《井元 光樹 様》
自分の名前だ。そして最後に、もう一行。
《お待ちしておりました》
同時に、背後で、ガチャリと鍵の外れる音がした。
その音を聞いて、ドキリと驚く。ドアの見た目からして自動で空いたようだが、未だにここがどこなのか分からない以上、突然の物音は心臓に悪かった。
この部屋には、モニターと、扉。それ以外には何もない。一体この部屋は何のための部屋なのだろうか? 疑問に思いつつも、状況を動かせる手は扉を開く、しかなかった。
僕は意を決してドアノブに手をかけ、押し開く。
扉は、ほとんど抵抗なく開いた。
その向こうにあったのは──廊下だった。
「……廊下?」
思わず、そんな言葉が漏れる。少なくとも、想像していたような異様な光景ではない。
白い壁。白い天井。等間隔に埋め込まれた照明。床は淡い灰色で、磨かれているのか僅かに光を反射している。
病院。最初に浮かんだのは、そんな印象だった。けれど、それにしては妙に生活感がない。
案内板もなければ、掲示物もない。消火器や非常口の表示すら見当たらない。そして何より──静かだった。人の話し声も、足音も、機械の駆動音すら聞こえない。
扉から顔だけ出して、左右を確認する。
右。まっすぐ伸びる廊下。少し先で左へ曲がっている。
左。こちらも同じような廊下。ただし、十数メートルほど先に扉が一つ見える。人影はない。
改めて、自分が出てきた部屋を振り返る。
扉には何の表示もない。部屋番号も、名前も、用途を示す文字もない。ただ、壁と同じ白色の扉がそこにあるだけだ。
誘拐、監禁。そんな単語が頭をよぎる。
けれど、それならスマートフォンや財布をそのまま持たせておく理由が分からない。そもそも、先ほどのモニターは自分の名前を知っていたし、『お待ちしておりました』という言葉も気になる。まるで、自分がここで目を覚ますことが最初から分かっていたような──。
そのときだった。
「──あ」
左側から、人の声がした。反射的にそちらを見る。
先ほどまで誰もいなかった廊下に、一人の人物が立っている。
女性──だろうか。こちらと同じように、向こうも突然人を見つけて驚いたらしい。
数秒。奇妙な沈黙の中で、互いに顔を見合わせる。
そして、その人物は明らかに困惑した表情で口を開いた。
「……あなたも、ここがどこか分からないんですか?」
「あなたは……?」
反射的に問い返す。
女性は、その警戒を感じ取ったらしい。こちらへ歩み寄ろうとしていた足を止めた。
「……すみません。驚かせましたよね」
両手を身体の前に見えるように出して、何も持っていないことを示す。
年齢は、自分とそう変わらないように見える。少なくとも、見るからに怪しい人物というわけではない。けれど──それで信用できるかどうかは、まったく別の話だ。女性もまた、こちらを窺っていた。
「私は──」
名乗りかけて、一瞬だけ言葉を止める。
「……いえ。その前に確認してもいいですか?」
「何を?」
「あなたも、気がついたらここにいたんですよね?」
「……」
即答はしなかった。女性は慌てたように付け加える。
「あっ、答えたくなければ大丈夫です。ただ……私もそうだったので」
「あなたも?」
「はい」
女性が指さしたのは、少し先にある開いた扉。
「目が覚めたら、あの部屋にいました。中には何もなくて……扉と、壁にモニターだけ」
同じだ。
「モニターには?」
「私の名前が出ました」
そこまで聞いて、警戒心とは別のところで心臓が跳ねる。女性は続けた。
「『覚醒を確認しました』って。それから私の名前が表示されて……」
一度、息を呑む。
「『お待ちしておりました』って」
完全に同じだ。偶然とは考えにくい。
「それで扉の鍵が開いて、外に出たら……あなたがいたんです」
「……なるほど」
少なくとも、話に矛盾はない。もちろん、こちらの体験を知ったうえで合わせている可能性はある。ただ、もし本当に彼女も同じ状況なら──ここにいる人間は、自分一人ではないことになる。
「……あの」
女性が遠慮がちにこちらを見る。
「私も、あなたのことを聞いていいですか?」
少しだけ迷ってから、
「名前……教えてもらえますか?」
「……井ノ本、と呼んでください」
一瞬の間を置いて、そう答えた。彼女が何も知らないと断定する材料が何もない以上、何かしらの手は打ちたかった。その苦し紛れの一手が、偽名。嘘ではない。少なくとも、呼び名としては。
女性は少しだけこちらの顔を見つめていたが、それ以上追及することはなかった。
「井ノ本さん、ですね」
そう確認してから、彼女は小さく頭を下げる。
「私は、佐倉美月です。佐倉でも、美月でも。呼びやすい方で呼んでください」
「……佐倉さん」
「はい」
ひとまず、それだけを交わした。互いに名乗ったところで、この奇妙な場所について何か分かるわけではない。それでも、先ほどまでの張り詰めた空気がほんの少しだけ和らいだような気はした。佐倉さんが周囲を見回す。
「私、あっちから来たんです」
左側の廊下を指す。
「何かありました?」
「いえ。私がいた部屋以外にも、同じような扉がいくつかありました。でも、全部開かなかったです」
「……人がいる気配は?」
「分かりません。呼びかけてみようかとも思ったんですけど……」
そこで彼女は苦笑する。
「ちょっと、怖くて」
それはそうだろう。むしろ、この状況で一人で廊下を歩いてきただけでも十分に勇気がある。
「井ノ本さんの方は?」
「僕は今、部屋から出てきたところです」
「あ……そうだったんですね」
佐倉さんは納得したように頷いた。となれば、選択肢は二つだ。佐倉さんが来た方向を改めて調べるか、それとも、まだ誰も確認していない右側へ進むか。
ふと、スマートフォンを見ると、相変わらずの圏外。試しにWi-Fiの画面を開いてみる。
「……ん?」
ネットワークが、一つだけ表示されている。鍵のマークはない。名前は──『WELCOME』。
「井ノ本さん?」
画面を見つめたまま黙ったこちらを、不思議に思ったらしい。
「何かありました?」
その問いに答えようとした──その瞬間。
──ピンポーン。
廊下全体に、柔らかな電子音が響いた。二人揃って顔を上げる。
『──覚醒された皆様へ』
天井のどこかから、女性の声が聞こえてくる。感情の起伏に乏しい、機械音声のような声。
『現在、二名の覚醒を確認しております』
佐倉さんと目が合う。
『全員の覚醒が完了するまで、今しばらくお待ちください』
──全員。その言葉だけが、妙に耳に残った。
「つまり、この扉の数だけ、人がいるということ?」
口に出してみる。佐倉さんはすぐには答えなかった。先ほど自分が出てきた扉、それから彼女が来た方向に並ぶ扉へと順番に視線を向ける。
「……私も、そう思います」
やがて、ゆっくりと頷いた。
「少なくとも、私たちの部屋が同じ造りだったなら。他の扉も同じ部屋に繋がっている可能性は高いですよね」
「佐倉さんが見た扉はいくつありました?」
「えっと……」
彼女は記憶を辿るように視線を上げる。
「私の部屋を入れずに、四つです」
「四つ」
自分の部屋を含めれば五つ。さらに、右側の廊下にも扉があるかもしれない。
「……全員、か」
先ほどの放送を思い返す。
現在、二名の覚醒を確認。全員の覚醒が完了するまで待て。ならば少なくとも、この場所には自分たち以外の誰かがおり、そして──まだ目を覚ましていない。
「でも……」
佐倉が呟く。
「それなら、どうして起きる時間が違うんでしょう」
「……確かに」
言われてみればそうだ。同時にここへ連れてこられたのなら、同時に目を覚ましてもおかしくない。睡眠薬か何かを使われたのなら個人差もあるだろうが──そもそも、自分には眠らされた記憶すらない。
「井ノ本さんは……」
佐倉がこちらを見る。
「ここに来る前のこと、覚えてます?」
「来る前?」
「はい。最後に何をしていたとか、どこにいたとか」
その問いを受けて、記憶を探る。
今日は、九月九日。自分は──。
記憶そのものがないわけではない。昨日のことも分かる。自分が誰なのかも分かる。家族のことも、仕事のことも思い出せる。なのに、ここで目を覚ます直前だけが、妙に曖昧だった。
「私は……駄目なんです」
佐倉が先に答えた。
「家にいたところまでは覚えてるんです。夜だったと思います。それで……」
眉間に皺を寄せる。
「その後が、ないんです。眠ったのかどうかも分からなくて。次に覚えてるのが、あの部屋の天井で」
誘拐だとするなら。犯人はどうやって彼女をここまで運んだ? そんなことを考えていると──
ガチャリ、と音がした。また、あの音が。
二人の会話が止まった。今度は自分たちの背後ではなく、佐倉が来た方向。つまり、十数メートル先にある、一つの扉。恐らくあの音が鳴ったと言うことは、鍵が開いたということか。
佐倉さんがこちらへ一歩近づいてきた。扉は、まだ開かない。
けれど、その向こうから。
──ドサッ。
何かが落ちて、床にぶつかるような音がした。やはり、誰かがいる。
──ドサッ。
もう一度似た音が聞こえた。今度は、先ほどより小さい。
「……井ノ本さん」
背後から、佐倉の声がする。さっきまでより明らかに声量が落ちていた。
「今の、何だと思います?」
「分かり、ません」
答えながら、頭の中では可能性を探す。自分の部屋には何もなかった。佐倉も同じだと言っていた。なら、あの部屋だけ何かが置かれている? あるいは──中にいる誰かが、何かを持っている。そう考えたところで、扉の向こうから音がした。
「…………っ」
声だ。確かに、人の声だった。それも──苦しそうな。佐倉さんが息を呑む。
「今……」
「聞こえました」
助けを求めているのか。それとも……。
頭では警戒しろと言っている。けれど、人が苦しんでいるかもしれないと分かって、そのまま突っ立っているというのも難しい。扉へ近づくと、後ろから足音がついてきた。振り返ると、佐倉さんがすぐ後ろに立っている。
「……来るんですか?」
「一人になる方が怖いです」
即答だった。なるほど。それは分かる。
二人でゆっくりと距離を詰めると、近づくにつれて、扉の向こうの気配が鮮明になってくる。荒い呼吸。それから時折、衣服が擦れるような音。間違いなく、人がいる。
そうして扉の前まで来たが、開けるべきか、声をかけるべきか。
迷っていると、
「……たす……」
聞こえた。
「……助け……」
若い男の声。その瞬間。
「助けてくれ……!」
明瞭な声と同時に、
バンッ!
扉が内側から激しく叩かれた。佐倉さんが小さな悲鳴を上げ、僕の服を掴む。
「開かない……! なんでだよ……!」
扉の向こうから、焦りきった声が続く。
「誰かいるんだろ!? さっき声が聞こえた! 頼む、開けてくれ!」
「……鍵は?」
僕は扉越しに問いかけた。一瞬、向こうの声が止まる。
「鍵!? 知らない! 目が覚めたらここにいて、画面に変な文字が出て──でも扉が開かないんだ!」
画面。やはり、自分たちと同じだ。
「何かが床に落ちる音がしました。中に何かあるんですか?」
「は……?」
「さっき、二回」
「…………ああ」
男は息を整えながら答える。
「俺だよ」
「え?」
「立とうとしたら……足に力が入らなくて。二回転んだ」
あまりにも単純な答え。思わず佐倉を見ると、彼女もこちらを見ていた。少なくとも、何か得体の知れない物が潜んでいる、という想像は外れたらしい。しかし──。
「どうして、扉が開かないんでしょう」
佐倉の呟きに答えるように、
──ピッ。
廊下に電子音が鳴った。
『第三被験者の覚醒を確認しました』
被験者? 先ほどまでは使われなかった言葉だった。
『生体状態に異常を検知』
『安全確保のため、第三室の解錠を一時保留します』
男が扉を叩く。
「ふざけんな! ここから出せ! 出せよ!」
『医療処置が必要と判断された場合、対応を開始します』
「医療……?」
佐倉が呟いた、その直後。廊下の照明が、一瞬だけ明滅した。そして、
『なお──』
機械音声が続ける。
『覚醒済みの被験者による第三室への接触を確認』
わずかな間。
『井ノ本様。佐倉様』
僕たちの呼び名が、廊下に響いた。
『第三室から離れてください』
その声は、妙に僕らに緊張感を与えた。事実のみを淡々と述べるその声は、離れなければどうなっても知らないぞ、と暗に示しているようだった。
一歩、後ずさると、それに合わせるように、服を掴んでいた佐倉の手が離れた。彼女も二歩、三歩と扉から距離を取る。
「おい!」
足音を感じ取ったのか、扉の向こうの男が叫ぶ。
「待ってくれ! 行くな!」
足が止まりそうになる。
「頼むって! 俺、本当に何も分かんねえんだよ! 身体もおかしいし……一人にしないでくれ!」
声には、先ほどまでの苛立ちよりも恐怖が滲んでいた。それでも。
「……すみません」
佐倉が小さく呟く。届いたかどうかは分からない。僕らが扉から五メートルほど離れた、そのときだった。
『規定距離への退避を確認』
機械音声が告げた直後。扉の上部に、今まで気づかなかった細いランプが点灯した。
そして──
シュウウウウウ……
「……何の音?」
佐倉が身構える。扉の向こうからだ。
「お、おい……何だこれ」
男にも聞こえている。
「何か……出てきた」
「何がですか?」
「分かんねえ! 天井から……白い……霧みたいな──」
男の声が途切れる。返事がない。
「だ、大丈夫ですか?」
そう声をかけた佐倉さんが、不安そうにこちらを見る。そして数秒後。
「……なんか」
男の声がした。先ほどより、少しぼんやりしている。
「身体……楽になってきた」
薬剤か。鎮静剤? あるいは、何か別の──。
「足は?」
「まだ……分かんねえ。でも……さっきより……」
そこで言葉が切れる。
「眠……」
──ドサッ。
今度は、はっきりと身体が床へ倒れる音だった。
「……!」
佐倉が一歩踏み出しかける。しかし、
『第三被験者の鎮静を確認』
その声に、ぴたりと止まった。
『生命活動、正常』
『処置を開始します』
「処置って……」
問いかけても、機械音声は答えない。代わりに、扉の向こうから微かな駆動音が聞こえ始める。何をしているのかは分からない。ただ、少なくとも男は生きている。……そのはずだ。そう考えることで、必死で脳内の想像を打ち払った。
「……井ノ本さん」
佐倉がこちらを見る。
「私たち……『被験者』なんですね」
先ほどの放送で述べられた、第三被験者。そして覚醒済みの被験者という言葉。
「何かの実験……なんでしょうか」
佐倉の表情が曇る。それな、目覚める時間が違うことも、全員を別々の部屋に入れていることも、こちらの状態を把握していることも、すべて説明はつく。
しかし、一つだけ妙なことがある。
「……井ノ本?」
ふと、気づく。佐倉さんがこちらを見た。
「どうしました?」
先ほどの機械音声は、確かに言った。
『井ノ本様。佐倉様』
佐倉は自分の本名を名乗った。けれど僕は──。
モニターに表示された名前とは違う呼び名を、彼女に伝えたはずだ。
それなのに、この施設は。僕が彼女に名乗った「井ノ本」という呼び名を使った。