囮の実力者になりたくて!Return15 作:ボルメテウスさん
鍵を回した。カチャリ。金属音が響き、ようやく扉が閉まった。
昨日は寮へ帰れなかった。一昨日はゼータがベッドにいた。その前はガンマと一緒に倉庫へ監禁されていた。
今日こそ、俺の部屋で、俺一人で、静かに過ごす。
「おかえりなさいませ、エロゲ様」
安堵は三秒で死んだ。
椅子に座っている。銀髪を短く整えた少女が、俺の机の前に、何食わぬ顔で。
「ベータ」
「はい」
「俺の部屋だよな」
「はい」
「お前がいるのはおかしくないか」
「おかしくありません」
即答だった。鋭利な即答だ。反論の隙がない。
「いやおかしいだろ。男子寮だぞここ」
「誰にも見られておりませんので問題ありません」
ゼータと同じ理論だ。見つからなければいいという理論。この組織の女子陣は全員同じ回路で動いているのではないか。
「入った経路は」
「窓です」
「窓から入れ」
「はい。留め具が補強されていましたので少し手間でしたが」
ゼータが補強した留め具をゼータ以外の人間が突破した。補強の意味がない。
「帰ってください」
「まだ相談が」
「相談より先に不法侵入を認めろ」
「不法ではありません。窓は物理的に開きましたので」
物理的に開けたら不法だ。
俺はため息を吐いた。今日三度目。朝起きてから三度目。多い。
「・・・何の用だ」
「原稿を見ていただきたくて」
ベータが持参した紙の束を机に置いた。手書きの文字がびっしりと詰まっている。鉛筆の書き込み、余白への書き足し、斜線で消された行。修正の跡が何層にも重なっている。
「またナツメの新作か」
「はい。ただ今回は少し変わっておりまして」
ベータが原稿の一番上をめくった。
「陰の叡智を使わずに書いた試作です」
俺の手が止まった。
陰の叡智。シドが語った物語。ベータはそれを記録し、物語として形にしてきた。ナツメ・カフカの名で出版された既刊はその叡智が土台だ。
だが俺は知っている。あれは叡智じゃない。前世の物語だ。シドの記憶にある、元の世界の創作物語をベータに語っただけだ。
その出所を俺は知っている。ベータは知らない。シドもベータには明かしていない。
「使わずに書いたというのは」
「はい。シャドウ様の叡智を参考にせず、私自身の着想だけで執筆いたしました」
ベータの声が少し硬い。自信がないのだ。
「読者は面白いと思うでしょうか」
問いが straightforward すぎた。俺は出所を知っている。知っているからこそ、簡単には答えられない。
「・・・読むよ」
俺は原稿を手に取った。
* * *
試作は短かった。十余枚。一人の少女が過去の過ちから救われ、救った相手に礼を言う代わりに怒る場面で終わっている。
文字は丁寧だ。ベータの筆跡はいつも整っている。だが余白の書き込みは焦りを示している。書き直した跡が三層、四層と重なっている箇所がある。
俺は一枚目を読み終えた。
「・・・この展開」
「はい」
「救われる少女が、恩人のもとへ向かう道中で追手に遭う。恩人が身代わりになって捕まる。少女が助けに戻る。解決後に恩人へ怒る」
「そうです」
「どこかで読んだことがある」
ベータの表情が曇った。
「やはり似ておりますか」
「似てる。似てるが」
俺は原稿をめくった。中盤にある会話の場面で目が止まった。
少女と恩人の会話だ。恩人が語る過去の話。そこで少女が「あなたは自分の犠牲を当たり前だと思っている」と言う。
この台詞。どこかで聞いたことがある。アルファが俺に言った言葉と似ている。
「名前だけ変えるなら俺にもできる」
俺は原稿を置いた。ベータの肩が少し沈んだ。
「でも」
俺は続けた。
「この人物をここで怒らせた理由はお前にしか聞けない」
ベータが顔を上げた。
「理由ですか」
「この少女が怒る理由。救われたことより先に怒る理由。そこがまだ薄い」
「薄いでしょうか」
「救われたら普通は感謝する。でもこの少女は感謝より先に怒ってる。なぜ怒るのか」
ベータが原稿の余白を見つめた。書き込みが三層重なっている箇所だ。
「・・・救われた時、自分の無力さを見せつけられたからです」
「それだけか」
「それだけではありません。自分が救われるために誰かが犠牲になったことを見た。その犠牲を自分のせいだと感じた。でも恩人は気にする素振りがない。気にしないのではなく、気にする必要がないと思っている。そこが許せなかったのです」
ベータの言葉が速くなっていた。ペンを取り、余白へ何かを書き始めた。
「許せなかった。気にする必要がないと、なぜ思えるのか。自分の命を軽く見ているのか。他人の命を重く見ているのか。どちらも許せない」
ペンが走る。余白に文字が埋まっていく。
「この怒りは感謝の裏返しではないでしょうか」
俺は聞いた。
「裏返し?」
「感謝したいけど、感謝で終わらせたくない。感謝だけで終わらせたら、また誰かが犠牲になる。だから怒る。怒ることで止めようとしている」
ベータの手が止まった。ペン先が紙の上で静止する。
「・・・止める」
「ああ」
「恩人がまた自分を犠牲にするのを、怒ることで止める」
ベータが原稿を見返した。余白の書き込みを読み直している。
「それなら怒る意味が変わります。感情的な怒りではなく、意図的な怒り」
「意図的かどうかは分からないけどな。本人も気づいてないかもしれない」
「本人も気づいていない怒り。それは」
ベータがペンを走らせた。今度は余白ではなく、本文の脇へ。矢印が引かれ、台詞の順序が書き換えられる。
俺は黙って見ていた。筋書きを提案するつもりはない。ベータが書きたいものをベータ自身の言葉で書き直している。俺が手を出すべき場所ではない。
ペンが止まった。
「エロゲ様」
「うん」
「一つ聞いてもよろしいですか」
「いいよ」
「元ネタがあるだけで、腕がなくなるわけではないのでしょうか」
難しい問いだった。元ネタがある。ベータはそれを知らない。俺は知っている。
「なくならないと思う」
「なぜ」
「元ネタがあるまま書き直しても、お前の言葉が混じってる時は面白いからだ。さっき書き足した部分もそうだ」
ベータが書き足した余白を見た。矢印と台詞と書き込み。
「ただそっくりなままなら、それを自分だけの手柄とも言いにくい」
俺は正直に言った。出所は明かせない。だって嘘は言いたくない。
ベータは既刊を弁護しなかった。今書いている一頁を見直した。
「・・・そっくりではないものを書く」
「そう」
「少しずつ変えて、いつか全部自分のものにする」
「なれるかどうかは分からないけどな」
「なれます」
ベータの声が硬くない。初めて確信が混じった声だった。
俺は椅子に寄りかかった。
「相談料として一つ頼みがある」
「なんでしょうか」
「次は俺を誘枴される役にするな」
ベータのペンが一瞬止まった。
「・・・誘枴される役」
「原稿の中でだ。主人公の周りに誘枴されるばかりの奴がいたら読者が疲れる」
「そういう意味でしたか」
「他にどんな意味があるんだよ」
ベータが少しだけ目を伏せた。
「いえ。何でもありません」
何でもないという顔ではなかった。だが追及する気力はない。
* * *
ベータが書き直した一頁を差し出した。
俺は受け取って読んだ。少女が恩人へ怒る場面。台詞の順序が変わっている。怒りの理由が一行加わっている。
「続きは読みたい」
俺はそれだけ答えた。
ベータが原稿を大切にしまった。紙の束を布で包み、持参した鞄へ収める。
「また読んでもらえますか」
「いいよ」
「ありがとうございます」
ベータが立ち上がり窓の方へ向かった。
扉から帰れ。
言おうとした。
「次は普通に扉から来てくれ」
ベータが振り返った。
「・・・扉ですか」
「扉だ。正面からノックして入ってくるのが普通だろ」
ベータが男子寮の廊下の方を見た。廊下へ出れば誰かに見られる可能性がある。窓なら見られない。
「・・・善処します」
信用できない返事だ。善処すると言った人間は善処しない。シドもそうだった。
ベータが窓から出ていった。静かな音もなく消える。
俺は残された椅子に座った。机には原稿の角が擦れた跡が残っている。
(ようやく寮へ帰れたと思ったのに)
自分の部屋だ。自分の椅子だ。自分の机だ。
だがあるのは安堵だけではなかった。
机の上に、原稿の切れ端が一枚残っていた。ベータが書き直している時に切り取ったものだ。
「意図的な怒り」
その文字だけが目に入った。
俺は切れ端を拾い上げ、机の引き出しに入れた。
(明日も授業がある)
寝よう。
静かな夜だ。壁は壊れていない。天井も落ちていない。ベッドには俺以外誰もいない。
平和だ。
平和なはずだ。
窓の留め具が軋んだ気がしたが、見ないことにした。